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ソラスの尖塔  作者: るる
4/12

ちゃんと帰ってきた

 寂寥の詩を口ずさみながら、ソラスは村を後にした。背中に誰かの視線が残っている気がしたが、振り返りはしなかった。振り返ったところで、そこにあるのは白い息を吐く人々と、雪に埋もれかけた屋根と、冷たい沈黙だけであると、彼女は知っていたからである。

 村を抜けて針葉樹の森へ入る頃には、風の態度がはっきりと変わっていた。頬を刺す冷たさが、先程までとは違う。雪はまだ穏やかに降っているが、空の奥に、何か重たいものが溜まっているのが分かる。

「早く帰らなきゃ」

 自分に言い聞かせるようなか細い独り言は、白い息となってすぐに消えた。台車の車輪が雪に取られて時折止まる。ソラスは細い腕に力を込め、身体ごと前に傾けて、また歩き出す。森は静かだった。鳥の声も獣の気配もなく、ただ、風が枝を揺らす音だけが一定の間隔で耳に触れる。

 不意に、ソラスは足を止めた。

 ーー見られている。

 理由は分からない。だが、確信だけが少女の全身を押さえつけていた。ゆっくりと視線を落とす。

 ぽつん、と黒猫がいた。

 雪の上に、まるで最初からそこに在ったかのように行儀よく座り、黄色い目でソラスを見上げている。いつものように鳴きもせず、じっとして尾も揺らさない。

「どうしたの。先に帰ったんじゃなかったの」

 問いかけても、黒猫は動かない。その代わり、ほんの一瞬だけソラスの足元――正確には、台車の下――へと視線を移した。その何気ない仕草に、ソラスは判然としない胸騒ぎを覚えるが、言葉にするより前に、黒猫はくるりと身を翻して雪の中へ溶けるように消えてしまった。

「……変なの」

 彼女は小さく首を傾げると、再び歩き出した。その足取りは、わずかに早くなっていた。

 やがて森を抜けると、視界に尖塔が現れた。黒煉瓦の胴体は、降り始めた雪の向こうに、いつもと変わらぬ姿で立っている。

 けれど。

「あれ?」

 ソラスは思わず立ち止まった。窓に、灯りがある。出掛ける時、暖炉の火は落としてきたはずだった。ユイスも今日は村へは出ないと言っていた。なのに、二階の窓から、微かな橙色が滲んでいる。

「……ユイス?」

 名を呼んでも、普段の陽気な返事はない。だが、塔の扉に近づくにつれ、別の音が聞こえてきた。ごろごろ、と喉の奥で低く鳴るような音。黒猫の、あの音だ。

 扉を開けると、暖かい空気が流れ出した。暖炉には確かに火が入っている。そして、肘掛け椅子の傍――いつもソラスが座る場所の足元ーーに、黒猫が丸くなっていた。

「帰ってたのね」

 黒猫は目を開けない。だが、その喉は、確かに鳴っている。ソラスは濡れた外套を脱ぎ、台車を壁際に寄せ、布袋を下ろした。一連の動作をしている間、彼女はずっと、胸の奥のざわめきを感じていた。

 まるで、何かをーー 間違えた順番でーー持ち帰ってしまったような感覚。

「おかえり」

 不意に声がして、ソラスは振り向いた。螺旋階段の途中に、ユイスが立っている。相変わらず、どこか影の薄い立ち方で。

「吹雪、来そうだったでしょ」

「うん。もうすぐ」

ソラスは微笑もうとして、上手くいかなかった。

「ねえ、ユイス」

「なに?」

 彼女は一瞬、言葉を探した。逡巡の後、結局口をついたのは、どうでもいいはずの問いだった。

「私、今日……何か、忘れてきた気がするの」

 ユイスは少しだけ目を細めた。それが笑みなのか、困惑なのか、ソラスには分からない。

「……気のせいだよ」

 即答だった。

「君は、ちゃんと帰ってきた」

 彼の言い方が、なぜだか胸に引っかかった。

 その夜、吹雪は塔を包み込んだ。風が壁を叩き、雪が窓を白く塞ぐ。ソラスは寝台に横になりながら、黒猫の鳴き声を聞いていた。ごろごろ、という音の合間に、時折別の響きが混じる。言葉になりそこねた、何か。彼女はそれを聞き分ける前に、深い眠りに落ちた。

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