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氷解

 密集する木々が、追跡者の鋭い視線を辛うじて遮る。狂気のような死闘の中心から離れ、森の静寂と共に一瞬だけ呼吸を整える時間が、ようやく彼女に与えられた。

  白耀剣の気配が一時的に遠のいたことを肌で確かめると、ソラスは太い木の幹に背を預けるようにして、糸が切れたように泥の上へ膝を折った。その瞬間、限界まで張り詰めていた緊張がぷつりと切れる。同時に、左の肩口から脇腹にかけて走る灼熱の激痛が、容赦なく彼女の意識を現実へと引きずり戻した。視界の端が淡くぐらつき、滲んでいる。それが失血によるものなのか、無意識にこぼれた涙なのか、もはや判別すらできなかった。

「……っ、は……」

  呼吸が浅い。斬られた瞬間には、気づかなかった。いや、気づく余裕などなかったのだ。剣聖ジークの振るった白刃は、あまりにも深く致命的だった。

  ボロ布のようになった外套越しに広がる生温かい血の温度が、遅れて死の輪郭をなぞってくる。衣服の内側が、己の命の液体で重く、ひどく湿っていた。ソラスは震える指先で、裂けた肩口を強く押さえる。圧迫した瞬間、脳裏で視界が真っ白に弾けた。

「……ぁ……っ」

  声にならない悲鳴が漏れる。痛みはもはや鋭さを通り越し、内臓を直接鷲掴みにされているような鈍く重い絶望に変わっていた。このまま動けば、確実に失血で事切れる。

  昼下がりの森が、静かにざわめく。風など吹いていないのに、周囲の木々の葉が不気味に揺さぶられる。まるで、早く血を止めろと森そのものが彼女を急かしているかのように。

  ソラスは固く目を閉じ、薄れゆく意識を自身の傷口の"奥"へと集中させた。そこにあるのは単なる血肉ではない。自分の中を巡る、底知れぬ魔力の濁流。

  普段は気配としてしか感じないその奔流が、今は恐ろしいほど明確に感知できる。森の暗がりから這い出た影たちが、彼女の傷口へ群がるように集まってきていた。

「……ここ。お願い」

  誰に向けた祈りか、自分でも分からない。ただ、そっと震える掌を自身の致命傷へと添えた。

  指先から、氷のように冷たい感覚が傷口の奥深くへと流れ込んでいく。じわり、と。流れ出る血の熱と完全に逆行するように、絶対零度の水が肉の隙間を満たしていく異様な感覚。

「っ……は、……ぁっ」

  呼吸が乱れ、痛みが爆発的に増す。治癒しているはずなのに、逆に傷口を無理やりこじ開けられているようなおぞましい錯覚。千切れた筋繊維がうねり、肉が勝手に動き、見えない糸で強引に縫い合わされていくようだ。

「ぁ……っ、く……」

  堪えきれず、背中を強く木の幹に押し付ける。奥歯が砕けそうなほど噛み締めても、全身の痙攣は止まらない。傷口の奥底で、得体の知れない"何か"が蠢いている。自分の身体であり、自分の手で触れているのに、まるで他人の肉片を無理やり組み替えているような、吐き気を催すほどの不気味な感触だった。

  それでも、術は止められない。止めれば、命が尽きる。影が傷の最奥へと沈み込み、溢れ出ていた血が嘘のようにぴたりと止まる。ぱっくりと裂けていた皮膚の感覚が、不自然な速度でゆっくりと閉じていった。

「……っ、は……は……」

  荒い呼吸とともに、泥まみれの額から冷や汗が滴り落ちる。視界が激しく揺れているが、痛みの質は確実に変わっていた。命を削るような鋭利な痛覚は消え去り、代わりに鉛のような重い痺れだけが残されている。

  ソラスはゆっくりと目を開け、傷口から手を離した。血に染まった外套をわずかにずらすと、そこにあったはずの深い斬創は、赤黒い生々しい痕を残して完全に塞がっていた。失われた血と体力は戻り切っていない。けれど、動ける。まだ、戦える。

  木にもたれかかったまま、しばらく荒い呼吸を整えていると、森の環境音がうっすらと鼓膜に戻ってきた。

  遠くで、カサリ、と枯れ枝が踏まれる音。白耀剣が追ってきている。

「……もう、少しだけ」

  小さく呟く。身体はひどく重い。けれど、彼女の身の内には異質な影が静かに満ちていた。

  立ち上がろうとした、その瞬間。

  前方の木立の向こうで、かすかな気配が揺れた。下草を掻き分け、枝を払う音が徐々に近付いてくる。ソラスは反射的に身を強張らせ、草木で擦り傷だらけになった細い腕を持ち上げ、音のした方角へ魔力を向けようとした。

  敵か、追撃の騎士か、それとも――。

「……ソラス?」

  木霊したその声は、ひどく弱々しく、頼りなかった。だが、それは間違いなく、武装した騎士のものではなく、年端もゆかない少女の声だった。

  ソラスは、弾かれたように顔を上げる。鬱蒼とした木立の影から、ひとりの少女が、泥だらけの靴でおぼつかない足取りのまま姿を現した。ソラスは、震えながら構えていた腕を、思わず膝の上へ力なく落とす。

  エルナだった。

「……どうして……」

  枯れた喉が、ひくりと鳴る。

「まだ、避難して……」

  言いかけた言葉は、最後まで続かなかった。なぜ危険な戦場に戻ってきたのかという叱責よりも先に、圧倒的な安堵感が胸を満たしてしまったからだ。

  ――生きている。あの無慈悲な戦火を抜け出し、ちゃんと、自分の足でここに立っている。息を切らし、柔らかい髪は乱れ、服の裾には無数の枯れ葉や小枝が絡みついている。慣れない森の獣道を、転びながら必死に進んできたことは一目で分かった。

  そして何より、エルナの震える瞳の中には、かつての虚ろな人形のような色ではなく、明確な"意志"の光が宿っていたのである。お互いの姿をはっきりと認められる距離まで近づいた途端、エルナの表情がさっと蒼白に凍りついた。

「な、に……その……」

  言葉が途切れる。ソラスは、大樹に半身を預けたまま、無惨な姿を晒していた。裂けた外套、肩口から脇腹にかけてべったりとこびりついた赤黒い血。治癒で傷口が塞がったとはいえ、衣服に残る大量の血痕は、生々しすぎる。袖口も裾も泥に塗れ、汗で顔に張り付いた銀髪が痛々しい。とても、いつもの穏やかな行商人の姿ではない。

「お姉ちゃん……っ!」

  エルナは弾かれたように駆け寄った。血の汚れなど一切躊躇することなく、ソラスの肩へすがりつくように手を伸ばす。

「大丈夫!? どこを怪我してるの、これ、血が……っ」

  震える指先が外套の裂け目に触れかけて、ふと止まる。まるで、少しでも力を込めれば、目の前の少女がガラスのように砕け散ってしまうのではないかと恐れるような目だった。

「だ、いじょうぶ……」

  掠れた声で紡ぐ。それでもソラスは、泣きそうなエルナを安心させるために、かすかに微笑もうとした。

「少し、転んだだけだから……」

  誰の目にも明らかな、悲しい嘘だった。エルナの大きな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。

「転んだだけで、こんなになるわけないでしょ……っ!」

  悲鳴のように叫び、すぐに後悔したように血の気のない唇を強く噛む。

「ごめん……ごめんね……私、何も知らなくて……」

  エルナは、そっとソラスの細い腕を両手で包み込むように支えた。温かい。その震える掌の熱が、ソラスがまだ生きた人間であることを確かめるようだった。ソラスの胸がきゅっと締め付けられる。

「痛い? 歩ける? どこか隠れられる場所探さないと……」

  早口でまくしたてながら、エルナの視線は幾度も凄惨な血の跡へと戻る。ソラスは、力なく小さく首を振った。

「もう、傷は塞がってるよ」

「……え?」

  エルナが涙濡れた目を見開く。ソラスは、血まみれの肩口を自身の指でそっと押さえた。

「さっき、治したから」

  静かな宣告だった。けれどその言葉に、エルナの呼吸がぴたりと止まる。視線が、ゆっくりとソラスの顔へ戻る。大量の血を吸った衣服。あり得ないほど異常な回復速度。乱れた息。そして、以前とはまるで違う、異界の存在のような張り詰めた魔力の気配。

「……お姉ちゃん」

  エルナの呼ぶ声が、ひどく弱々しく震えた。それは単なる心配ではない。目の前にいる恩人が、ただの人間ではない"何か"であることを、本能で理解し始めてしまった者の声だった。

  それでも彼女は、後ずさりしなかった。ただ、ぎゅっとソラスの腕を強く抱きしめる。まるで、そうしなければ、目の前の少女が影の中に溶けて消えてしまうとでもいうように。

「……声がしたの」

  自身の胸元を強く押さえながら、エルナはポツリと言った。

「よく分からなかったけど、たぶん、あの銀髪のお兄ちゃんの声。でも……行かなきゃ、って思ったの」

  ユイス。

  その名が脳裏をよぎり、ソラスの胸の奥に、熱くじんわりと込み上げるものがあった。遠く離れていても、彼は自分を助けようとしてくれたのだ。

  ソラスは何も言わない。エルナが、誰に操られるでもなく、自身の意思で危険な森の奥へ足を踏み入れてくれた。今は、それだけで十分だった。

「エルナ」

  震える声で、その名を呼ぶ。

「私……」

  言葉が、千切れたように喉の奥で詰まる。ずっと、言えなかった。言ってしまえば、自分の中に残された僅かな人間らしさまでが完全に壊れてしまう気がして、恐ろしかった。

「私ね……」

  深く息を吸い込む。秋の冷えた大気が、まだひきつる胸の奥を鋭利な刃のように刺した。

「あなたを、助けたとき……本当は……」

  泥だらけの指先が、地面の土を無意識に強く掻き毟る。

「あなたの……心からの意志を、少し……奪ってしまったの」

  エルナが、息を呑んで目を見開く。ソラスは、血を吐くような告白を止められなかった。

「あのとき、私は……自分の魔力に、半分飲まれてて……それでも……」

  声が無惨に掠れて震える。

「それでも、命を助けたんだから正しいんだって……身勝手に、自分に言い聞かせて……」

  ぽたり、と。

  熱い雫が、冷たい泥の上に落ちて染みを作った。

「……でも、本当は……ずっと、怖かった」

  華奢な肩が、小刻みに震える。

「あなたが、自分の意思を奪われて、ただ生きているだけの人形になってしまったんじゃないかって……ずっと、恐ろしかったの……」

  ソラスは、泥に汚れた両手で自身の顔を覆い隠した。

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」

  嗚咽が森の静寂に吸い込まれていく。その時、小さく温かい手が、顔を覆うソラスの冷たい指にそっと重ねられた。

「……奪われてなんか、ないよ」

  エルナの声は、静かで、そして何よりも確かな熱を持っていた。

「だって、今、私……自分の意思で、ここに来てるんだから」

  ソラスは、弾かれたようにゆっくりと顔を上げる。涙で歪んだ視界の先で、エルナが優しく微笑んでいた。膝は小刻みに震え、恐怖は完全に消え去ってはいない。それでも彼女は、確固たる己の足で、この恐ろしい森に立っているのだ。

「怖かったし……頭の中がぐちゃぐちゃになって、うまく考えられない時も、あったけど……」

  エルナは、自身の胸の奥の鼓動を確かめるように、そこに手を当てる。

「それでも、私が、お姉ちゃんを助けに行くって、決めたの」

  その純粋な言葉が、ソラスの胸の奥で固く結ばれていた呪いのような結び目を、ふわりとほどいた。

「……よかった……」

  ソラスの空色の瞳から、もはや堪えきれなくなった涙が堰を切ったように溢れ出す。それは、肉体の激痛によるものでも、迫り来る死への恐怖によるものでもない。己の犯した罪が、たった今、一人の少女の優しさによって"赦された"という、どうしようもない魂の救済だった。

  遥か遠くの尾根で、再び剣戟の音が激しさを増し、風に乗って響いてくる。もはや、残された時間はほとんどない。それでもこの一瞬だけは、間違いなく世界は彼女たちのためだけに静まり返っていた。

  とめどなく流れる涙に濡れた顔のまま、ソラスはエルナを真っ直ぐに見つめ返す。

「……ありがとう」

  その声は、消え入りそうに弱々しかった。だが、絶望の底に沈んでいた彼女の魂は、今、確かに息を吹き返し、力強く生きていた。

  しばらくの間、二人の間には言葉がなかった。

  鬱蒼とした森の奥で、秋の風に吹かれた枯れ枝がカサカサと擦れ合う、乾いた音だけが静寂の輪郭をなぞっている。ソラスは、泥と血に汚れた外套の袖で、自身のひんやりとした頬を伝う涙を乱暴に拭い去った。

「……エルナ」

  その愛称を口にするだけで、堰き止めていた感情が再び胸を締め付け、呼吸が詰まる。

「少し、痩せたね」

  こんな極限の死地にありながら、思わず口をついて出たのは、かつて村で暮らしていた頃のような他愛のない、けれど切実な労りの言葉だった。エルナは、少し照れくさそうに、そしてひどく哀しそうに力なく笑う。

「……お姉ちゃんも。前より、少しだけ」

  その先の残酷な言葉――酷く傷つき、人間離れした痛切な姿になっていること――を、彼女は決して口にしなかった。言わずとも、互いに痛いほど分かっていたからだ。

「……最近ね」

  エルナが、ぽつり、ぽつりと静かに語り出す。

「村の畑、うまくいかなくて。大人たちはみんな、あなたのことばっかり話すから……」

  少し困ったように、エルナは伏し目がちに視線を逸らす。

「聖女様が守ってくれる、って。祈っていれば、だから大丈夫だ、って」

  その盲目的な依存の言葉に、ソラスは思わず苦く、自嘲するように笑った。

「……それは、ちょっと困るな」

  自身の口から出たその声が、予想外に柔らかく、かつて行商人として村を訪れていた頃の温度を取り戻していることに気づく。

「私には、畑の作物を立派に育てる方法までは、分からないよ」

  エルナは、涙の痕が残る顔でくすっと笑った。

「そう。だから、私が自分で考えたの」

  小さな胸を、少しだけ張る。

「今年は、畑の土を替えてみたの。お姉ちゃんが、昔、教えてくれたでしょう? "同じ場所に立ち続けると世界が痩せてしまう"って」

  ソラスは、弾かれたように空色の瞳を見開いた。そして、胸の奥から込み上げる愛おしさに耐えきれず、声を殺して静かに笑った。

「ああ……そんなこと、言ったっけ……」

  冷え切っていた胸の奥底が、じんわりと、嘘のように温かくなっていく。自分が何気なく落としたささやかな言葉の種が、この少女の中で枯れることなく根を張り、自ら考えるための意志として確かに芽吹いていたのだ。

「……私ね」

  エルナは、一歩だけソラスに近づき、少し声を落とす。

「お姉ちゃんが、あの尖塔に戻ってしまってから……夜になると、よく窓の外の森を見てた」

  ソラスは、何も言えず、ただその小さな肩を見つめる。

「空の星は、いつもと変わらないのに……あなたがいないと、世界が全然、違って見えたの」

  ぽろ、と。拭ったばかりのエルナの瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。

「……寂しかった」

  そのたった一言の真っ直ぐな響きが、ソラスの心臓をきゅっと無慈悲に潰す。

「……ごめん」

  己の罪深さを噛み締めながら、血を吐くように搾り出す。

「私、あなたのそばに、ちゃんといてあげられなかった」

  だが、エルナは強く首を横に振った。

「……でも、今は、いる」

  そう言って、エルナはソラスの泥まみれの袖口を、そっと縋るように掴んだ。不器用で温かい仕草が、かつての平和な日々の記憶とあまりにも重なり、たまらなく懐かしくて。ソラスは、思わず泣き笑いのような微笑みを浮かべてしまった。

「……ああ」

  小さく、震える息を吐き出す。

「こんな風に、二人で話すの、本当に久しぶりだね」

  たった数分の、奇跡のような邂逅。一瞬だけ、この場所が血塗られた戦場であることを、追われる身であることを忘れそうになるほどの、甘く優しい時間。

  ――だからこそ。

  ソラスは、はっと弾かれたように我に返った。森の向こう側。昼下がりの冷たい空気の層を伝って、明確な殺気と鋼の擦れる微かな音が、びりびりと空間を揺らしたのだ。

  ――近い。

  ソラスは、自嘲するような苦笑を浮かべ、血で汚れた手で自身の額を押さえた。

「だめだ……こんな話、している場合じゃなかった」

  エルナが、その空気の変化を感じ取り、不安そうに顔を上げる。

「……来るの?」

  ソラスは、ゆっくりと、しかし力強く頷いた。

「たぶん、もう……すぐそこまで」

  恐ろしい死の足音が迫っているというのに、ソラスの声はどこまでも凪いで、優しかった。

「ごめんね。久しぶりに、嬉しくなっちゃって」

  そして、ソラスはエルナの怯える瞳を、真っ直ぐに射抜くように見つめ返した。そこにはもう、己の罪に怯え、呪われた力に振り回されていた脆弱な少女の迷いは、微塵も残っていなかった。

「……ここからは、私の仕事だ」

  深く根を張るように立ち上がろうとして、不完全な治癒を施したばかりの身体の奥で、無数の骨と肉が悲鳴を上げて軋む。だが、それでも彼女は決して膝を折らず、エルナを完全に庇うように一歩、確かな足取りで前へ出た。

「あなたは――私の後ろに」

  その決して退かない銀の背中を見つめ、エルナは小さく、しかし強く頷いた。ソラスは小さな身体を背に庇いながら、森の奥を静かに行き交う気配を見つめる。低く唸るような風の音が、木々の間を縫って響き渡る。白耀剣の騎士たちが放つ追撃の気配は、もはや隠そうともせず、こちらへ向かってまっすぐに距離を詰めてきていた。

  それでも――ソラスの胸の内は、不思議なほど静まり返っていた。心の奥底で、かつて傍にいた少年の名を呼ぶ。

  ねえ。ユイス。

  声には出さず、ただ静かに語りかける。

  あなたがこの子を導いたのには、意味があるんだね。

  背中越しに、エルナの小さく震える呼吸が伝わってくる。

  たぶん……私が自分自身と和解するなら、今しかなかったんだ。

  彼が尖塔を離れていった、あの日の夜。互いに言葉にできなかった怒りと悲しみ、そして、取り返しのつかない決定的な沈黙。

  あなたは最後に……私の後悔を、ひとつだけ和らげてくれた。

  それは過去の罪に対する許しではなく、縛り付けられた泥濘から足を抜いて前に進むための、かけがえのない余白だった。ソラスは、ゆっくりと冷たい空気を吸い込む。背後にしがみつくエルナの存在を、その命の重みを確かめるように。

  私に、この子を守れって、そう言っているんでしょう?

  その瞬間、胸の奥深くで重く錆びついていた錠前が、かちりと音を立てて外れた。己が壊れてしまうことを恐れ、必死に押し殺してきた力。無意識のうちに抑え込み、封じ、遠ざけてきた冷たい奔流。

  ――もう、いい。

「……大丈夫」

  ソラスは振り返り、エルナに向けて柔らかく微笑みかけた。衣服は血に濡れ、顔も泥に汚れている。それでも、そこには迷いのない確かな笑顔があった。

「ちゃんと守るからね」

  足元に積もっていた枯れ葉が、ふわりと宙へ浮き上がった。風が巻き上げたのではない。魔力が顕現する兆しだった。だが、先刻までの激痛と絶望から生み出された暴走のような暴力性は、そこには微塵もない。まるで、広大な森そのものが彼女の意志に静かに耳を澄ませたかのような、穏やかな波動。木々がざわめき、地の奥底で太い根がきしりと身動ぎする。

「……お願い」

  ソラスは、初めて、自身の力に向かって強引に命じるのではなく――慈しむように頼んだ。

「少しだけ……力を、貸して」

  森が、それに応えた。この尖塔を囲む鬱蒼とした木々は、ただの自然ではない。世界中から溢れ出た人々の途方もないエネルギーが、地脈を通って流れ着き、長い年月をかけて沈殿する魔力の吹き溜まり。

  記憶のないスポンジのような状態だったソラスの器に、森に蓄積された高密度の魔力と波長が、一気に流れ込んでくる。土の匂いに混じって、古く、ひどく懐かしい記憶の匂いが立ち上った。

  ズンッ、と。

  脳髄を直接殴られたような衝撃に、ソラスの視界が激しく明滅した。

「……っ、ぁ……!?」

  ビードロのような瞳孔が限界まで収縮し、膝から力が抜ける。強烈な魔力酔い。だが、それは単なる魔力の過剰摂取によるものだけではなかった。ヒュッ、と喉が鳴る。空気が吸えない。過呼吸がソラスの細い身体を激しく震わせる。亀裂の隙間から、濁流のように"本当の過去"がフラッシュバックした。

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