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剣聖

「押し返せッ! 戦線を割らせるな!」

  白耀剣の最前列で、騎士たちの絶叫が響く。ソラスにより生み出された不死の軍勢を相手に、騎士たちはじりじりと後退を余儀なくされていた。

  そこへ――追い打ちをかけるように、再び、空から氷剣が降り注ぐ。 天を覆い、地を穿つ、純粋な暴力。 もはや防ぎようのない質量が、疲弊した白耀剣の陣を押し潰そうとした、その時。

  ひゅん、と一本だけが進路を変えた。次いであまりにも自然に、音もなく"斬られた"。視界を埋め尽くしていた氷剣が、ドミノ倒しのように連続して断たれていく。刃が触れるよりも早く、不可視の斬撃が通り過ぎ、淀みのない切断面が遅れて崩れ落ちる。

「……え?」

  ソラスの瞳がにわかに揺れた。

  空気が、変わる。戦場の支配権が、塗り替えられる。今まで空間を満たしていた魔力の濃度が、急速に――薄まる。それは魔法によるものではない。圧倒的な"集中"を持った個体が、周囲の魔力ごと空間を威圧し、黙らせているのだ。

  自律人形に盾を打ち付けていた騎士たちが、背後から迫る重圧に気付き、戦慄と共に振り返る。

「まさか……」

「来て、くださったのか」

  後方へ退いたばかりの騎士たちが、泥に塗れた傷だらけの膝を一斉に折った。そこには安堵と、それ以上の畏怖が滲んでいた。

「――団長」

  陣の後方から海を割るように、白燿剣が左右へ道を開ける。その先を、一人の男が歩いてくる。豪奢な鎧も派手な装飾もないが、その一歩ごとに、地面が静かに鳴動する。

  長身。全てを見透かすアンバーの瞳。真ん中で分けられた漆黒の髪。背中には、白耀剣の紋章を刻んだ外套。そして、腰に提げられた一本の剣。まだ抜かれていないにも関わらず、見る者すべてに"斬られる"と錯覚させる佇まい。

「下がれ」

  その言葉だけで、暴れ狂っていたゴーレムたちさえもが、見えない壁に弾かれたように動きを一瞬止めた。アルベルトが乾いた喉で呟く。

「ジーク、団長」

  剣聖ジーク・ハルフォードは、戦場を一瞥した。倒れた部下に凍てついた大地、そして蠢く氷と木と泥の兵隊。

「……報告以上だな」

  その視線が、戦場の中心に立つ銀髪の少女を捉える。ソラスは無意識に、一歩、後ずさった。本能が警鐘を鳴らしている。目の前にいるのは騎士ではない。人の形をした、別の何かだ。

「君がソラスか」

  名を呼ばれただけで、心臓を鷲掴みにされるような威圧感。

「ここまで私が来た理由は、分かるな」

  ソラスは、震える唇を噛みしめた。血の味が、かろうじて意識を繋ぎ止める。

「村に……手を出さないでください」

  声を絞り出す。

「誰も、これ以上、傷つかなくていいはずです」

  ほんの僅かにジークは眉を寄せた。果たしてそれは憐れみか、それとも呆れか。

「君が決めることではない」

  言葉は静かだ。だが、鋼鉄よりも重く響く。

「この村は、特異隔離指定区域だ」

  彼は村の奥を見渡し、眼前の少女を見据える。

「そして君は、制圧ないし討伐の対象だ」

  ソラスの背後で、風が唸りを上げた。感情の高ぶりに呼応し、数百の氷剣が再び鎌首をもたげる。

「やめておけ」

  ジークの一言で、すべてが強制停止した。未だ魔力が、恐怖に凍りついたように動かせない。

「これ以上、力を使えば……」

  彼は、ゆっくりと、一歩前へ出る。

「全てが壊れる」

  アルベルトが思わず声を上げる。

「団長! 彼女は、まだ――」

  ジークは視線だけで隊長を制した。

「言うな。故に、私が来た」

  ついに剣の柄に彼の手が掛かる。まだ抜かない。それでも、空間そのものが悲鳴を上げて裂けた。

「少女」

  ジークの声が腹の底に響く。

「多少なりとも理解しているつもりだ。君は、守ろうとしたのだろう。が――」

  剣が、鞘から、半寸。

  鯉口が切られる。

  僅かな動作で、地面に一直線の亀裂が走った。

「もう終わりにせねばならん領域だ」

  ソラスの膝が、重力に負けて沈みかける。

  ――重い。

  ――抗えない。

  ――死ぬ。

  生物としての生存本能が"逃げろ"と叫んでいる。それでも、彼女は決然と顔を上げた。

「……私は、退きません」

  その瞬間、ジークの琥珀色の目が鋭く細まった。

「そうか」

  金属音が世界を断つ。剣が、完全に抜かれた。次の一撃は"制圧"を超えた"処刑"になるだろう。戦場にいる誰もが理解し、世界から音が死滅した。風の唸りも、氷の軋みも、遠くで続く戦闘の喧騒すら――全てが、その切っ先に吸い込まれ、切り落とされたかのように静まり返った。

  ジークは、踏み込まない。構えすら取らない。純白の刀身に刻まれた紋様が輝きを放つ、退魔の長剣を垂直に提げながら、留まるだけ。だというのに、その姿は、天を突く巨塔のごとき威圧感を放っていた。

  ソラスは、肌を焼くような悪寒の中で理解したこの人は近づいてくる必要すらないのだ、と。

「……っ、あぁああっ!」

  彼女は、悲鳴にも似た呼気を吸い込む。

  もう、抑えない。抑えられない。胸の奥に溜め込んでいた、世界への愛も、憎しみも、慟哭も。すべてを魔力という名の暴力に変えて、解放する。

  空が、悲鳴を上げて軋んだ。

  ソラスの背後の空間が歪み、無数の氷剣が一斉に生成される。銀色の刃は蝗害のごとく空を覆い尽くし、ジークを中心とした死の円陣を描く。次の瞬間、それらは殺意の意思を持った群れとなり、全自動で殺到した。追尾、角度補正、速度最適化。逃げ場など寸分もない、極寒の斬撃網。

  不意にジークが動いた。それは静止から最高速への、予備動作を一切排した加速だった。最初の数百本が、全身を同時に穿とうと殺到する。ジークは半歩、軸足を滑らせた。その極小の体捌きだけで、氷剣の奔流は標的を見失い、互いの軌道上で衝突して砕け散る。しかし、残りの刃はなおも執拗に追尾を続ける。上下左右、全方位からの絶え間なき猛襲。

  ジークの腕が霞んだ。

  キィン、ガギィン、ガガガガガガッ――!

  硬質な衝突音が刹那の間に何千回と重なり、一つの轟音と化した。彼は斬るというより、弾き、いなし、流している。正面から迫る刃を剣の腹で滑らせ、背後から迫る刃の軌道へと叩き込む。側面からの刺突は、最小限の首の傾きで紙一重に躱し、同時にその剣柄で別の氷剣を砕く。

  まるで、数千の氷剣すべての軌道が、あらかじめ彼の手の内で設計されていたかのような、完璧な調和。渦を巻くような剣舞の中心で、ジークの黒髪がわずかに揺れる。

「……な……」

  それを見守るラヴィニアが、戦慄に息を呑む。人間技ではなかった。襲い来る魔力の奔流に対し、彼は純粋な物理的"剣技"のみで対抗し、そして凌駕していた。

  やがて最後の氷剣が、ジークの鼻先数センチで弾かれ、粉々に砕け散った。後にはダイヤモンドダストのように煌めく氷の霧だけが残り、その中心に、ジークが何事もなかったかのように佇んでいた。剣先は、すでに自然体に戻されている。

  ソラスは、絶望する暇すら惜しんで次を放つ。この男は違う。白燿剣の騎士とはもちろん、アルベルトやラヴィニアと比較してすら、質が違う。手加減などすれば、瞬きの間に首を飛ばされる。

  その確信が彼女の枷を外させた。ソラスの両手から、青白い燐光が奔流となって溢れ出す。

  すでに展開していた手隙の木と土の兵士たちへ、過剰なまでの魔力が強制的に注ぎ込まれる。ぎぎぎ、と空気が軋むような異音が響いた。泥の体表が陶器のように硬質化し、さらにその上から分厚い氷の甲冑が形成される。木の根でできた腕がねじ切れんばかりに膨張し、先端に巨大な氷の戦槌や、身の丈を超える長槍が具現化する。

  ただ押し返し潰すだけの"人形"が、明確な殺傷能力を持つ"重装兵"へと変貌した。

「……う、うぅぅッ……!」

  ソラスの悲痛な叫びと共に、武装した軍勢が一斉に動く。その速度は、先ほどまでの比ではない。全身の重量を魔力で強引に加速させ、大気を引き裂きながら、四方八方からジークへと殺到する。完全に潰すための進撃だった。

  同時に空が暗く翳った。ソラスの頭上に、城郭ほどもある巨大な氷塊が形成されいく。極限までの圧縮、重力付与、加速。それは魔法などという生易しいものではない。圧倒的な質量で繰り出される、擬似的な隕石ーー見捨てられた星の涙(ステラ・ラクリマ)

  落下点は、ジークただ一点。

「……!」

  思わず前に出かけるアルベルトだが、口惜しくも足が動かなかった。圧が、違いすぎる。彼の知る戦場の常識がここでは全く通用しない。その絶望的な破壊の嵐を前に、ジークは、ようやく一歩を踏み込んだ。

  白銀の剣が、真横に振られる。風切り音すらしなかった。それだけで、群がる自律人形の動きが、糸が切れたように停止する。壊れたわけではない。供給系統の魔力線だけが、正確無比に切断されたのだ。

  次の瞬間、剣は流れるように頭上へ翻り、振り下ろされる。スパン、と。空を墜ちてきた氷塊が、豆腐のように一切の抵抗なく真っ二つに割れた。

  しかし、静寂はそこまでだった。

  ドォォォォォォォンッ!!

  両断された断面から、行き場を失った魔力と運動エネルギーが一気に暴発した。斬撃の衝撃波が爆風となって渦を巻き、粉砕された無数の氷の礫が、散弾銃のように周囲へ撒き散らされる。

「うぐっ……!?」

  後方にいたアルベルトたちが、とっさに腕で顔を覆う。バラバラバラッ、と鋭利な氷片が鎧を叩き頬を裂く。ただ斬っただけ。それだけで、小規模な爆撃を受けたような余波が戦場を洗う。

「……効か、ない……?」

  ソラスの声が、初めて明確な恐怖に揺れた。彼女は両手を突き出す。視界のすべてをねじ曲げるほどの斥力を放つ。空間そのものを壁として、絶対的な拒絶を押し付ける。

  だが――ジークは、その拒絶の中を、散歩でもするかのようにゆっくりと歩いてくる。剣が斥力の"境界"を斬る。重さも、反発も、物理法則すらも、彼の剣の前では意味を成さない。

「無駄だ」

  漆黒の髪の男が発する声は、戦闘の最中とは思えぬほど静かで、平坦だった。

「君の魔法は、確かに規格外だ。人の身で扱える容量を遥かに超えている」

  特殊な紋様の刻まれた切っ先が傾けられる。

「だが――"視る"力と、この"断魔の剣"をもってすれば斬れる」

  次の瞬間、剣が閃光のように走った。ソラスは反射的に、ありったけの魔力を注ぎ込み、氷の防壁を重ねる。三層。五層。十層。城壁すら凌駕する絶対防御。

  にも関わらず、それら全てが、紙切画のように同時に断ち切られた。

「――っ!」

  防壁ごしに伝わる衝撃。遅れて、焼き切れるような痛み。ソラスの華奢な体が、木の葉のように宙を舞う。地面に叩きつけられ、何度も氷と土の上を転がる。口から吐き出された鮮血が、白い地面に毒々しい花を咲かせた。

「ソラス!」

  アルベルトの叫びが、どこか遠くで響く。剣を握り締めたまま、ラヴィニアは、指一本動かせずにいた。入れない。この二人の間に、凡夫が割り込める場所など、どこにもない。

  ジークは、剣を下ろしたまま、ボロ布のように倒れた少女を見下ろした。その瞳には、憐憫も、侮蔑もない。ただ、事実を見定める冷徹な光があるだけだ。

  ソラスは、それでも、震える膝に力を込め、立ち上がろうとする。泥と血にまみれた顔を上げ、虚空を睨む。氷剣が、また、ふらふらと浮かび上がる。数は減り、動きも鈍い。輝きすら失われている。それでも――少女の瞳はまだ死んでいない。

  ジークのアンバーの瞳に、一瞬だけ、複雑な色が浮かんだ。果たしてそれは、敬意に近いものだったかもしれない。

「……見事だ」

  真実の色を孕んだ言葉だった。だが、剣聖は情けで剣を鈍らせない。再び無造作に剣を構える。終の一振りだ。その冷酷な断罪の瞬間を、まだ、誰も止められない。

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