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凍える星

 最初に変質したのは、大気の密度だった。白耀剣の展開した対魔女結界が、村の入り口を幾何学的な光の檻で閉ざす。逃げ場を塞ぐのではない。守るべき村と、排除すべき魔女を、物理的に分断するための絶縁だ。

「陣形、第二!」

  アルベルトの号令は、鞭のように鋭かった。途端、騎士たちが音もなく散開する。重装の盾役が前線を固め、遊撃の剣士が死角へ走り、後方の高所には弓兵と魔導兵が位置取る。無駄がない。数多の魔獣や敵勢力を葬ってきた、洗練された殺意の布陣。

  その光景を前に、ソラスは静かに息を吸い込んだ。彼女の青い瞳が、切っ先を向けた眼前の騎士たちを通り越し、遥か後方――矢をつがえようとする弓兵たちを射抜く。

「……制圧します」

  呟きは、祈りではなく宣言だった。ソラスが虚空を掴むように指を握り込む。その瞬間、後方部隊の頭上の空間が、悲鳴を上げた。ドォン、と目に見えない巨大な地盤が落ちてきたような重低音。

「な――ッ!?」

  局地的な重力操作。

  敷設された木枠の高所に陣取っていた弓兵たちが、一斉に地面へ縫い留められる。矢を放つどころか、身動き一つ取れないほどの圧力が、彼らだけを正確に押し潰していた。

「後衛、無力化されました!」

「構うな、想定内だ! 間合いを詰めろ!」

  副官のラヴィニアが叫ぶ。

  合わせる騎士たちも動揺しない。後方の支援が消えた瞬間、即座に前衛が加速し、ソラスとの距離を食らいにかかる。彼らにとって、想定外の事態など戦場における日常に過ぎなかった。白耀剣の切っ先が、銀の流星となりソラスへ殺到する。

「来ないで」

  ソラスは、地面に片手を添えた。大地がうねり、農道の土が波のように隆起する。瞬時に形成された土壁が、騎士たちの進路を塞ぐ断崖となった。しかし、騎士たちの歩みは止まらない。

「破砕!」

  先頭の騎士が踏み込み、輝く盾で土壁を強打する。同時に振るわれた対魔術の剣が、魔力で編まれた土塊をバターのように切り裂いた。土煙が舞う中、銀色の影が飛び出してくる。

  ーー魔法を、斬った?

  驚愕する間もなく、刃が目前に迫る。ソラスの視線が鋭利になる。空気が歪んだ。キィン、と高い音が響き、騎士たちの剣と盾が、見えない磁力に引かれるように強制的に左右へ弾かれる。

 斥力(せきりょく)だ。

「くッーー腕を持っていかれるな!」

「魔女の正面に立つな、側面から崩せ!」

  体勢を崩しながらも、騎士たちは致命的な隙を晒さない。武器を弾かれた勢いを利用して回転し、あるいは即座にバックステップで間合いを取り直す。個の武勇ではなく、群としての暴力。その連携は、呼吸をするように滑らかだった。そこへ、白耀剣の切り札が投入される。

「――対魔女拘束、起動!」

  アルベルトの声と共に、複数の光輪が空中に展開した。それらは鎖のように連結し、ソラスの四肢を狙って収束する。触れれば魔力を削ぎ、神経を焼き切る捕縛術式。

  ソラスは逃げなかった。背後に村がある限り、彼女に退路はない。

「……っ!」

  バチバチと、空間が拒絶の火花を散らす。ソラスの展開した障壁と、拘束の光輪が拮抗する。だが、数で勝る騎士団の術式が、わずかに障壁を食い破った。

  光の棘が、ソラスの薄い肩を掠める。

  白い外套に、鮮血の花が咲いた。

「ソラス!」

  微かな心配の色を帯びたアルベルトの叫びが、戦場に響く。その痛みこそ、彼女の中にある最後の抑制を外す鍵となった。ソラスの瞳から人の名残が消える。

「……村に」

  血の気の引いた唇が、紡ぐ。

「触らないで」

  世界が、軋んだ。

  次の瞬間、物理法則が捻じ曲げられる。

  白耀剣の前衛数名が、真横から殴られたように吹き飛び、地面へ叩きつけられた。空から落ちるような衝撃。鋼の鎧が悲鳴を上げ、地面がクレーターのように陥没する。

  だが、死んではいない。

  骨を砕く一歩手前。

  その暴力的な重力は、騎士たちを"村から遠ざける"方向へだけ働いていた。ソラスは、全身で戦場を支配している。

  額から汗が流れ、肩の傷から血が滴り、呼吸は荒く、指先は震えている。それでも、少女の細い体は、村と騎士団の境界線として屹立していた。ラヴィニアは、剣を構えたまま立ち尽くす。

「……見たことがない……」

  これ程の魔力を。しかもーー私たちを制圧するためだけに。騎士団を相手取り、殺さず、通さず。それは殲滅の道を選ぶよりも遥かに困難な、狂気じみた偉業だった。

  剣の柄を握りしめたまま、アルベルトは奥歯を噛み締めた。彼が前に出れば、戦いは次の段階へ進む。しかし目の前の少女は、"魔女"として暴れているのではない。"守護者"としてそこに在る。

「……全隊、一時後退。体勢を立て直せ」

  命令は戦場全体へ届いた。騎士たちが整然と距離を取る。風が止んだ。ふらつきながらソラスは立ち続けている。ただ一つの矢も殺意も、彼女の背中へ通過することを決して許しはしない。

  それは、爆発のような惨事ではなかった。

  怒号でも、悲鳴でもない。

  むしろーー世界が底へと沈んでいくほどの沈黙。

  ソラスの華奢な足元から、さらに絶対零度の波紋が広がる。パキ、パキパキ、と微細な音が連鎖する。周囲の視界が一瞬で薄白く染まり、土の奥深くを流れる水脈さえもが、凍結の恐怖に軋み声を上げた。

「……やめ、なきゃ」

  彼女の唇から零れたのは、祈りのような震える声。それは敵に向けた警告ではない。暴走しようとする自分自身への、必死の嘆願だ。溢れ出した魔力は、もう彼女の小さな掌では掬いきれない。

  大気が凍る。

  チリ、チリ、と高い音を立てて、空間そのものが結晶化していく。それらは、重力に従って落ちることをしない。ただ、そこに留まる。ソラスを中心とした虚空に、死を告げる星座のように配置されていく。

「……何だ、あれは」

  乾いた喉で白燿剣の騎士が呻いた次の瞬間、漂っていた無数の氷晶が、一斉にその姿を変えた。

  鋭利な切っ先。

  握られることのない柄。

  光を透かす鍔。

  虚空で、氷の剣が顕現する。一本や二本の数ではない。十でもない。五十、六十――いや、百に近い。煌めく剣山が、ソラスの背後を埋め尽くす。彼女はそれを一本たりとも握らない。その必要がない。なぜなら、彼女自身が巨大な兵器の核なのだから。

「……行って」

  その囁きが、引き金だった。

  ヒュッ、と風が鳴く。

  百の氷剣が、意思を持つ生物のように動いた。音速にも満たない。だが、目で追うにはあまりに多すぎる。氷の雨が、白耀剣の陣へと降り注ぐ。

「散開ッ!!」

  切迫したアルベルトの絶叫。ガガガガガ、と硬質な破砕音が連続して轟く。断魔の剣が、氷の剣に弾かれる。重厚な盾が、紙のように貫かれる。

  だが、恐ろしいのはその威力ではない。

  精度だ。

  心臓は避けている。喉元も、頭部も、寸分違わず逸らしている。

  その代わりに、剣を持つ右腕を。地を踏みしめる大腿を。砕けた盾を持つ左肩を。戦うための機能だけを、冷徹に、正確に破壊していく。

「ぐ、あぁぁッ!」

  騎士たちが次々と地に伏す。血は流れない。傷口が瞬時に凍りつき、熱を奪っているからだ。

「制御、している……?」

  ラヴィニアの声が戦慄に掠れる。これほどの数を同時に操り、急所を外して無力化できるのか。

  違う。ラヴィニアの騎士としての本能が、即座にそれを否定した。あれは制御などという生温かいものではない。彼女は、必死に――抑えているのだ。解き放てば全員を瞬殺できる暴虐な力を、爪が食い込むほど握りしめ、極限まで絞って、ようやく"無力化"に留めている。それは慈悲ではない。綱渡りのような、瀬戸際の手加減だった。

  次いで、地面が悲鳴を上げた。

  凍てついた土が内側から弾け飛び、太い根が蛇のように鎌首をもたげる。泥と氷、植物の繊維が瞬く間に絡み合い、歪な人の形を編み上げていく。

  木や氷で構成された、即席の自律人形。顔はない。感情もない。確かな"役割"だけが、その空洞の頭部に詰め込まれている。

  守る。

  押し返す。

  この線から先への侵入を、物理的に拒絶する。

  ――村と、尖塔を背にして。

「……量産、だと!?」

  白耀剣の後衛が、息を呑んで後ずさる。飛来する氷の剣と同様、一体や二体どころではない。十、二十、三十。見る間に立ち上がったそれは、王国の精鋭部隊に対抗するための、圧倒的な暴力の壁だった。

  アルベルトは、唇を引き結び、切っ先を正眼に構え直した。剣聖の型。思考を捨て、無駄を削ぎ落とし、最短距離で核心を穿つための構え。

「ラヴィニア!」

「了解!」

  呼吸を合わせる必要すらない。二つの影が、同時に爆発的な加速で踏み込んだ。銀閃が走る。氷の剣が砕け、木の関節が両断される音が響く。

  速い。

  迷いがない。

  王都最強の名に恥じぬ連撃が、傀儡の群れに風穴を開ける。だが――追いつかない。斬れば、次が地面から生えてくる。砕けば、破片が集まり、再び歪な肢体を組み上げる。

  無限の再生。

  尽きることのない泥人形の行進。

  その嵐の中心で、ソラスは動かない。一歩も動かず、ただ両手を胸元できつく組んでいる。祈っているのではない。自身の内側から溢れ出ようとする力を、必死に抑え込んでいるのだ。

  ――抑制して、この規模なのか。

「これが貴女の」

  傀儡の腕を切り落とし、ラヴィニアの喉が乾いた音を立てる。

「本気、ですか……ッ!」

  問いかけに、ソラスの白磁のような唇が、かすかに動いた。

「違う」

  声は、遠い。

  感情の波が希薄だ。

「これでも、まだ……」

  言葉の続きを、彼女自身が拒んだ。これ以上解放すれば、あなたたちは死ぬーーと。迫る木の槍を弾きながら、アルベルトは、残酷な事実を理解させられていた。

  ――勝てない。技量の問題ではない。覚悟の差でもない。立っている次元が、根本から違う。

  ヒュッ、と風切り音が走り、氷の槍が彼の頬を浅く掠めた。赤い筋が走り、血の珠が散る。しかし、それだけだ。首を狙えば確実に落とせたはずの一撃は、あえて急所を外された。殺さない力。生かすための手心。それが、全力で殺しに来る刃よりも、遥かに恐ろしい。

  ふらり、とソラスの膝が揺れた。顔色が蒼白を超え、透明に近い白へと変わっていく。

  代償が、来ている。

  世界を書き換える負荷が、彼女の華奢な肉体を蝕んでいる。それでも、彼女は止めない。止められない。白耀剣の誰かが、震える声でその名を呼んだ。禁忌の呼び名を。

「……"凍星の魔女"だ」

  その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、ソラスは悲しげに目を伏せた。ぐにゃり、 と大気が歪む。

  さらに深い場所。彼女の魂の底で、ずっと眠っていた"何か"が、片目を開けた気配がした。

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