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蒼き火蓋

 始まりの音は、戦場のそれとは程遠い、あまりに小さなものだった。カチリ、とただ硬いものが硬いものに触れただけの音。極限まで張り詰めた緊張が、自警団の男の手元をわずかに狂わせたのだろう。震える穂先が、数センチだけ前へ傾いだ。

  それに応じるように、騎士の盾もまた、主の意思を待たずに動いてしまった。攻撃の意思などはない。互いに一歩も引けなかった。それだけだ。

  次の瞬間――盾の縁と鉄の穂先が、触れ合った。キィン、と高く冷たい音が鳴る。本来なら謝罪ひとつで済むはずの過ちだ。しかし、白耀剣の盾に刻まれた術式は、その接触を"攻撃"と認識した。

  ブゥン、という低い唸りと共に、盾の表面が青白く発光する。拒絶の衝撃波が、不可視の鉄槌となって弾け飛んだ。

「――っ!?」

  糸の切れた人形のように、自警団の男の体が宙へ浮く。なす術もなく吹き飛ばされ、数メートル後方の乾いた地面に叩きつけられた。

  どさり。

  鈍く、重い音が寒村の静寂を引き裂く。一瞬の空白。世界が止まったかのような静止。次いで――耳をつんざく悲鳴が上がった。

「父さん!」

「誰か、医者を――!」

  駆け寄る村人たちの足元で、男が苦悶の声を漏らす。命はある。だが、地面についた腕が、関節ではない場所で折れ曲がっていた。皮膚を突き上げんばかりの白い骨が、残酷な現実を突きつける。

  その光景が、ソラスの網膜に焼き付いた。胸の奥で、張り詰めていた弦が、プツリと切れる音がした。喉が詰まる。吸い込んだ空気が、肺の中で鉛に変わる。

  誰も傷ついてほしくなかった。

  なのに、間に合わなかった。

  その絶望的な事実は、彼女の意思など介在する余地もなく、爆発的な反射となって世界へ溢れ出す。地面が鳴った。否、大地そのものが悲鳴を上げた。ソラスの足元を中心として、透明なドーム状の歪みが一気に膨れ上がる。それは風でも光でもない。行き場を失った純粋な"拒絶"の奔流。

「下がれッ!!」

  ラヴィニアが喉も裂けよとばかりに叫ぶが、音よりも速い衝撃には追いつけない。最前列の騎士たちが、重厚な鎧ごと弾き飛ばされる。盾を構える暇もなく、人が木の葉のように宙を舞い、地面を削って転がっていく。火花が散り、鉄が拉げる音が重なる。

  殺意はない。だが、加減も容赦もなかった。受け身すら取らせない圧倒的な威力に、ラヴィニアの背筋が凍りつく。これは攻撃魔法ではない。世界が彼女の悲鳴に共鳴してしまった結果だ、が――もう誰の目にもそうは見えない。

「――魔女が、手を出した!」

  誰かの叫び。その一言が、決定的な楔となった。悲劇的な事故は、この瞬間をもって明確な"開戦"へと塗り替えられた。

「全隊!」

  アルベルトの声が、裂帛の気合いと共に響き渡る。そこに迷いはもうない。

「陣を立て直せ! 負傷者を後方へ!」

  白耀剣が、動く。今度は明確な敵意を持って。揃った金属音が鳴り響き、盾が隙間なく並ぶ。そして、白く輝く剣は、完全に鞘から抜かれた。

  血の匂いが、風より先に鼻を突く。白耀剣の騎士が引き戻した盾ーーその鈍く光る縁に、べっとりと先ほどの赤黒い筋が残っている。

「……戻って」

  低く、澄んだ声だった。そこには先ほどまでの戸惑いも震えもない。一歩、ソラスが前へ出る。その小さな背中に、村人たちの切迫した視線が突き刺さる。

「全員、家に戻って。窓を閉めて、森へも行かないで。今すぐ」

「でも……聖女様、そんな……!」

  誰かが叫ぶ。祈るような、縋りつくような、剥き出しの依存。ソラスは振り返らなかった。

「いいから。行って」

  声が、冷徹なまでの鋭さを帯びる。

「ここから先は、見ていいものじゃない」

  村人たちが、はっと息を呑む。その背中から、今まで彼らを温めていた何かが、砂のように零れ落ちていくのを彼らは直感した。

「自警団も。負傷した人を連れて、すぐに下がって」

「聖女様が……ひとりで戦うのか……?」

  問いへの返事はなかった。代わりに、空間そのものが悲鳴を上げて軋んだ。騎士の最後列まで、猛烈な勢いで霜が走る。石畳の隙間に、逃れようのない死の宣告のように、白い線が刻まれていく。

「――早くッ!!」

  少女の、慣れない、怒鳴り声に近い叫び。

  それで、十分だった。

  誰かが最初に背を向けて駆け出し、次いで家族の肩を抱き寄せ、路地へと雪崩れ込む。自警団の男たちが歯を食いしばり、仲間を担ぎ上げ、憎しみに満ちた目で騎士を睨みつけながら後退する。

  村から人の気配が遠ざかっていく。残されたのは、不自然に開けた広場と、抜き放たれた剣を構える白耀剣。そして――それらすべてと対峙する、少女ひとり。

  ソラスは、ようやく、真正面を見据えた。透明な青い瞳に映るのは、鉄壁の陣形を敷く騎士たち。その中心で、己を圧殺しようとする隊長と副官。

「……来るなら」

  小さく、けれど深く息を吸う。

「ここまでです。それ以上、中へは入れません」

  白耀剣の盾に刻まれた魔法陣が、眩い燐光を放ち、完全戦闘態勢へと移行する。ラヴィニアは重い剣を構えながら、立ち尽くすソラスを見た。

  銀の髪が揺れている。その姿は、あまりにも小さく、儚い。アルベルトは、剣の柄を握る手に、指が白くなるほどの力を込めた。

  王命。

  制圧。

  開戦。

  筋書きは最初から決まっていたが、回避できたはずの"第一撃"が、最悪の形で放たれてしまった。

「……ソラス」

  声を絞り出す。名を呼ぶことさえ、今のアルベルトには簒奪に等しかった。少女がゆっくりと顔を上げる。その青い瞳には、もう逃げ場のない孤独な覚悟が静かに、けれど苛烈に宿っている。

「ここからは――」

  唇を震わせ、彼は最後の言葉を飲み込んだ。

  "敵だ"というその一言を。

  ごろごろごろ、と空が低く唸った。集いし雲が刃で裂かれたように完全に割れ、そこから芯まで凍えるような冷たい風が吹き下ろす。

  戦いは、始まった。

  誰も報われることのない戦いが。

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