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凪いだ呼吸

 不意に風が止んだ。

  ーーいや、違う。

  止まったのは人の動きだった。白耀剣が掲げた盾が、見えない泥に捕らわれたように凝固する。自警団が突き出した槍の穂先が、殺意を孕んだまま空中で縫い止められる。握りしめられた石が、指の隙間から零れ落ちることさえ許されない。まるで、世界の呼吸機能そのものが、恐れをなして一拍遅れたようだった。

  次いで、死神の指先を思わせる冷気が、地面を音もなく撫でた。土の温度は物理的な法則を無視し、急速に奪われていく。

「やめて」

  声は決して大きくなかったが、鼓膜よりも脳髄に直接響く透明な響きを持って、その場にいる全員を貫いた。

  尖塔の影が落ちる場所。

  村の奥、陽炎の向こう。

  幻のように、白い影が、けれど圧倒的な質量を持って近づいてくる。流れる銀髪は、雲間から差す陽光を冷たく撥ね返していた。風もないのに、薄い外套がふわりと揺れている。

  ソラスだった。

  村人たちが、喉を引きつらせて息を呑む。

「聖女様……!」

「出てきちゃ、だめだ……」

  その華奢な足が地を踏むたび、青々とした夏草が恐怖に震えるように凍りついていく。霜ではない。踏めば砕けるほどの、完全な凍結。

  キィィィィィン――。

  白耀剣の対魔装備が、悲鳴のような高い共鳴音を上げた。魔力干渉。盾に刻まれた防御陣が、主の意思に関わらず、過剰な負荷に耐えかねて強制起動している。ラヴィニアは、呼吸を忘れたまま、その少女を真正面から見た。

  あまりにも小柄。

  折れそうなほど細い肩。

  武器など、何ひとつ持っていない。

  ――だというのに。

  視線が合った刹那、背骨の髄までを氷柱で貫かれたような悪寒が走った。本能が警鐘を乱打する。

「……この子が」

  音にならない呟きを思わず漏らした。思考が、理性を飛び越えて結論へと滑り落ちる。アルベルトがあんな顔で"記録"を残した理由を、彼女は、衝撃と共に理解した。彼が前に出なかったのは、単なる慈悲ではない。この少女は、守るべき対象であると同時に――決して触れてはならない、人智を超えた"何か"なのだ。

  ソラスの碧天の瞳が、ゆっくりと巡る。まずは背後の村人たちへ。怒りと恐怖で強張った顔、震える手で握られた粗末な武器。それらを宥めるように。次いで、正面の騎士たちへ。白耀の鎧に身を包んだ、秩序の番人たちへ。誰も、指一本動かせない。そっと差し出すように、彼女は下に向けて両手を広げてみせた。ただそれだけの動作。

  なのに、白耀剣が掲げる重厚な盾が、見えざる巨人に押されたか、じり、じりと後退を強いられる。それは物理的な衝撃ではない。空間そのものが示す、拒絶だ。

「剣を、しまって」

  少女の言葉に、騎士の一人が歯の隙間から呻く。

「……体が、動かない……」

「魔法か……!?」

  ソラスは、首を横に振った。

「違います」

  即座に、静かに否定した。

「ただ"止まって"って、お願いしてるだけ」

  足元の地面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。破壊の予兆ではない。世界が彼女の"願い"を受け入れようとして軋む、身じろぎの音だ。

  自警団の男たちが構えていた槍の穂先が、重力に屈して垂れ下がる。村人たちの膝が震え、それでも、誰一人として地面に崩れ落ちることはない。生かされている。

  ソラスは、薄い胸が痛むほど深く息を吸い込んだ。細く白い喉元が、かすかに上下する。

  ――無理をしている。

  ラヴィニアの鋭敏な感覚が、その違和感を捉えた。彼女は今、溢れ出しそうになる奔流を、その小さな身体ひとつで必死に堰き止めている。敵も味方も、全員を生かすために。

  ふと、ソラスの視線がラヴィニアを捉えた。儚げで透明な青。そこには、侵入者を責める色も、慈悲を乞う色もない。ただ、事実を確かめようとする静謐な光だけがあるように思えた。

「貴女が指揮官ですか」

  ラヴィニアは、喉に詰まった言葉を飲み込み、ようやく絞り出した。

「……いえ。副官です」

  すると、ソラスは小さく頷いた。

「よかった」

  その声音に滲んだのは、紛れもない安堵だった。次いで彼女の視線は、隊列の中心にいるブロンド髪の騎士――アルベルトへと流れる。その眼差しを見た瞬間、ラヴィニアは戦慄しながら確信した。

  ――この少女は。アルベルトが下した判断を、その苦渋も、迷いも、すべてを最初から見透かしていたのだと。

  止まっていた大気が不意に流れ出した。季節の名残を孕んだ、乾いた風。だが肌を撫でるその空気は、もはや以前とは別物になってしまっている。

  剣は振られなかった。

  血も流れなかった。

  その代わりに、この場に居合わせた全員が、二度と引き返せない境界線の向こう側へと、足を踏み入れてしまったのだ。

  もはや、風は完全に凪いでいた。

  白銀に覆われ、凍てついた草の上で、ソラスとアルベルトは対峙する。その距離は、わずか十歩にも満たない。しかし、二人の間に横たわる溝は、物理的な距離などでは測れないほど深く、暗い深淵。その沈黙を先に破ったのはソラスだった。

「……アルベルトさん」

  名を呼ばれ、騎士は一瞬だけ目を伏せる。その痛みを堪えるような微かな仕草だけで、彼女には十分だった。

「ここに来た理由を、もう一度だけ、教えてください」

  アルベルトは唇を真一文字に引き結んだ。背中に突き刺さる村人たちの視線。張り詰めた白耀剣の緊張。何より、すべてを見透かす彼女の曇りのない瞳。逃げ場など最初からどこにもない。

「……王都アーデルハイムより、正式な命令が下った」

  感情を削ぎ落とした、硬質な声。

「君――ソラスを、"特級異端隔離対象"第一種として指定する」

  再びどよめきが起きかけたが、ソラスから放たれた冷ややかな気配が、それを喉元で押し留める。

「隔離……」

  彼女は、その無機質な単語を舌の上で転がすように反芻する。

「では、討伐ではないのですね」

「違う」

  アルベルトは、食い気味に即答した。そのあまりの速さに、傍らに控えるラヴィニアが僅かに緑海石の目を見開く。

「だが」

  彼は言葉を継ぐ。その先こそが、最も残酷な通告だった。

「同時に、ライトリム村一帯も、制圧対象に指定された」

  空気が、音を立てて凍りついた。ソラスの瞳が初めて不安げに揺れる。

「……村、も?」

「抵抗の可能性が極めて高いと判断された」

  淡々と事実だけを並べる声。その響きは重い。

「秩序維持のため、騎士団長ジークは――」

  その名が紡がれた瞬間、ソラスの背後の大気が、悲鳴を上げるように軋んだ。空間か、あるいは世界そのものが、拒絶反応を示したかのように。

「彼は、局地的混乱の芽は早期に摘むべきだと」

  アルベルトは最後まで言い切った。その宣告が、決定的な引き金を引くことになると知りながら。

  沈黙が、痛いほどに張り詰めた。ソラスはゆっくりと瞬きをする。その瞳の奥で、何かが静かに閉じられる音がした。そして――彼女は笑った。小さく、どこか懐かしいものを見るように。

「……そうですか」

  彼女は背後の村を見渡す。怯え、怒り、そして期待。彼らの視線は、重たい鎖のように彼女に絡みついている。

「これが、私がここに留まり続けた代償ですね」

「違う」

  アルベルトは、思わず声を荒らげた。葡萄色の瞳が、悲痛に揺れる。

「これは――我々の無力だ」

「いいえ」

  穏やかな声でソラスが遮った。

「私が、選んでしまったことです」

  そして一歩、踏み出す。ただそれだけの動作で、白耀剣の騎士たちが纏う対魔導鎧が一斉に軋みを上げた。空間の密度が変わる。大気が、彼女の存在を恐れている。

「あなたは、記録を書く人だと思っていました」

  ソラスの視線が、アルベルトを射抜く。

「見たものを、ありのままに。私の言葉を、歪めずに書き留めてくれる人だと」

  アルベルトの喉が引きつる。かつて交わした言葉、積み重ねた時間が、今は鋭利な破片となって胸を刻んでいく。

「でも、今回は違う」

「……何がだ」

「もうーー結論だけを携えて来ている」

  その言葉は、どんな魔法よりも深く突き刺さった。アルベルトは唇を噛む。否定の言葉は、喉の奥で泥のように固まって出てこない。彼女の言う通りだ。今回の任務に"過程"はない。"隔離"という結果だけが、最初から決定事項として刻印されている。

  ソラスは、両手を胸の前でそっと重ねた。それは攻撃の構えではない。内側から溢れ出しそうになる激情を、必死に宥めるための抱擁だ。

「この村を制圧するというのなら」

  声の温度が、急激に下がる。

「その前に、私を通してください」

  空気が凍りついた。隊員たちが反射的に剣の柄を握りしめるが、その指先は微かに震えていた。

「……それは」

  若き隊長は、肺から空気を絞り出すように言う。

「命令に、反する」

「でしょうね」

  ソラスは、小首を傾げて同意した。

「でも」

  伏せられた睫毛が持ち上がり、そこにはっきりとした燐光が宿る。

「ここで剣を抜けば、あなたたちは自分に言い訳をするでしょう。"守るために斬った"と。"彼女が暴走したので仕方なかった"と」

  図星だった。アルベルトが握りしめていた"正義"の形を、彼女は正確に見透かしている。

「私は、そんな安易な救済は与えません」

「ソラス――!」

「だから私が相手をします。全力で」

  ぱきり、と乾いた音が響いた。周囲の地面までも一瞬にして白く染まる。熱を奪われた大気が逆流し、つむじ風となって彼女の銀髪を舞い上がらせた。計測器など見るまでもない。魔力の奔流が、物理法則をねじ伏せ始めている。後方に控えていたラヴィニアは、肌を刺す寒気の中で悟った。

  これは、宣戦布告ではない。互いに後戻りできない場所へ踏み込むための、残酷な儀式だ。アルベルトは、剣の鯉口に親指をかける。抜かない。だが、もう離せない。

「……ソラス」

  名を呼ぶ声が、風に千切れた。

「この線を越えれば、もう戻れないぞ」

「ええ」

  ソラスはどこまでも澄んだ瞳で微笑んだ。

「最初から、戻るつもりなんてありません」

  頭上で空が悲鳴を上げた。秋の到来を告げる雲が、不可視の力によって真っ二つに割れていく。

  ――次の瞬間。

  剣が閃くのか、魔法が弾けるのか。あるいは、世界そのものが形を変えてしまうのか。その答えを知る者はまだ、誰もいなかった。

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