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祈りのあいだ

 ソラスが背を向け、塔の闇へ戻ろうとした、その直前だった。アルベルトは、視線だけで部下に合図を送る。言葉は交わさない。だが、静寂の中で、革袋から羊皮紙が引き抜かれる乾いた音と、羽根ペンがインク壺を叩く微かな音が響いた。

  ――記録だ。

  それは村人の曖昧な証言でも、魔女狩りの告発文でもない。王国騎士団が残す、冷徹な公式記録。アルベルトは、震えそうになる指先を意志で押さえつけ、簡潔に文字を刻んだ。

『対象ソラス。本日、強い情動反応を確認。周囲の制止を拒否し、騎士に対し激しい言動あり。魔力の顕在化は未確認なるも、精神状態に重大な変質の兆候が見られる。最重要観察対象への格上げを要請する』

  最後の点を打ち終え、彼はふと顔を上げた。

  ――目が、合った。

  いつの間にか、ソラスは振り返っていた。音もなく、気配もなく。ただ静かな湖面のような瞳で、こちらを見つめていた。

「……それ」

  冷めた声。そこには怒気も、涙の跡もない。

「今、書いたのは」

  彼女が数歩、近づいてくる。羽根ペンを持つアルベルトの手が、反射的に強張った。

「"私が怖くなった"ってこと、ですよね」

  アルベルトは、即座に否定できなかった。

「……我々の、義務だ」

  苦しげに、言葉を絞り出す。

「見過ごせない異変だった。これは、君自身のためでもある」

  小鳥のように愛らしく、ソラスは首を傾げた。

「私のためーーですか」

  私のため。私のため。口の中で飴玉を転がすようにその言葉を繰り返し、やがて、ふわりと微笑んだ。いつもの、柔らかく優しい微笑みだ。

「じゃあ、いいです」

  張り詰めていた空気が、一瞬だけ緩む。だが、次に彼女が放った言葉は、鋭利な刃物のように静かで、冷たかった。

「でも、覚えておいてください」

  透き通った青い瞳が、まっすぐにアルベルトの心臓を射抜く。

「私があんなふうになったのは」

  彼女の細い指先が、塔の外――ユイスが消えた影の方角を、ほんの僅かに示した。

「誰かを失ったから、じゃありません」

  春の湿った空気を、肺いっぱいに吸い込む。

「誰も、守ってくれなかったからです」

  アルベルトは、喉が凍りついたように言葉を無くした。

「だから、記録するなら」

  ソラスは、くるりと背を向けた。銀の髪が、夕闇の中で軌跡を描く。

「次は、あなたたちが何を守れなかったのかも、ちゃんと書いてくださいね」

  重い扉が、音もなく閉ざされた。

  残された騎士たちは、誰一人として動くことができなかった。深まる春の、むせ返るような草いきれの中で、彼らだけが冬に取り残されたように立ち尽くしている。アルベルトは、手元の羊皮紙を見下ろした。震える手で、インクを走らせる。

『備考。対象は、自身が観測・記録されていることを明確に認識している。その上で、恐怖ではなく独自の“正しさ”を基準に行動している節あり。本件、単なる魔女案件に非ず。対応には、剣よりも高度な判断を要する』

  インクが乾く前に、ぬるい風が吹き抜けた。尖塔の長い影が、ゆらりと揺れる。アルベルトは戦慄した。あの少女は、こうして記録されることすら織り込み済みだったのだと。その事実が、どんな魔法より恐ろしく、彼の胸を冷やした。


⬛︎


  あの日から、季節の針は音もなく、けれど確実に進んでいた。夏の盛りは過ぎ去り、空の青は少しだけその高度を上げた。だが、日中の太陽は未だ容赦を知らない。畑の土は白く乾き、ひび割れ、立ち昇る草いきれが肌にまとわりつく。

  ライトリム村は、変わらずそこに在った。ただし、漂う「祈り」の密度だけが、呼吸を阻害するほどに濃くなっていた。村人たちは、今も尖塔を見上げている。以前よりも頻繁に。以前よりも切実に。そして、以前よりも貪欲に。

  朝、鍬を担ぐその背中で。

  水を汲むその指先で。

  黄昏が世界を塗り潰すその瞬間で。

  誰かが唇を動かし、誰かが目を伏せる。声に出す者は少ない。だが、そこに渦巻く感情の正体は、痛いほどにはっきりしていた。感謝と、期待と、そして――"要求"。

  アルベルトは、その粘りつくような視線を肌で感じながら、村の中央を歩いていた。駐留が長引くにつれ、騎士たちへ向けられる眼差しは変質している。

  敵意ではない。だが、決して好意でもない。明らかに"邪魔者"を見る目だ。

「……隊長」

  背後から声をかけてきたのは、第三騎士隊の若い団員だった。額に脂汗を浮かべ、視線はどこか落ち着きなく彷徨っている。

「また、です」

 何がだ」

「聖女の件で……人だかりが」

  アルベルトは、短く、重い息を吐いた。広場の一角で、村人たちが数名の騎士を取り囲んでいた。暴動というほどの数ではない。だが、全員が同じ方向を向き、同じ熱を帯びた瞳をしている。

「なぜ、塔へ行かせてくれないんだ?」

「お祈りだけだ。何も持ち込まないと言っているだろう」

「この前のように、聖女様が具合を悪くされたらどうするつもりだ」

  詰め寄られている騎士は、困惑に顔を歪めて後ずさっていた。剣の柄に手をかけていないのが、せめてもの理性だ。アルベルトが割って入ると、村人たちの視線が一斉に突き刺さる。

「通行制限は、あくまで安全確保のためです」

  もう何度目か分からない、擦り切れた説明。

「塔の周囲は、まだ調査中で――」

「安全?」

  年配の女性が、かぶりを振って一歩前に出た。日焼けしたその顔に滲んでいるのは、怒りよりも、もっと根源的な"飢え"に近い切実さだった。

「聖女様が、私たちに害をなしたことがありましたか」

  アルベルトは答えなかった。答えられなかった。

「奇跡をくださったのは、あの方です」

「あの凍える冬を越させてくれたのも」

「子どもの熱を下げてくれたのも」

  言葉が重なり、共鳴し、熱を帯びていく。

「それを貴方たちが独占して囲っている」

「一体、誰のための安全なんだ!」

  空気が、軋んだ。

  アルベルトは理解していた。彼らは反乱を起こしたいわけではない。王権を転覆させたいわけでもない。ただ――自分たちの所有物を、返してほしいだけなのだ。

「聖女様は私たちの味方だ」

  群衆の中、誰かが言った。

「少なくともーー王都よりは」

  その一言で、場の温度が数度下がった。

  騎士たちの背中が強張る。誰も剣を抜かない。だが、その指先は、いつ抜いてもおかしくない距離で震えていた。

  アルベルトは、低く、冷徹に告げる。

「……今の言葉は、取り消したほうがいい」

「なぜだッ……!」

「それ以上は、"願い"ではなくなるからだ」

  重い沈黙が落ちた。村人たちは納得していない。不満はマグマのように地下で煮えたぎっている。だが、この場で一線を踏み越える勇気も、まだ持っていなかった。


  ⬛︎


  その夜、 騎士たちの天幕には、重苦しい停滞が漂っていた。

「このままじゃ、時間の問題です」

「祈りが――命令に変わりつつある」

「ソラスが動かない限り、連中は……」

  部下たちの焦燥を、アルベルトは手で制した。

「彼女を巻き込むな」

  だが、その声の響きに、確信を持たせることはできなかった。彼は知っている。村人たちが信奉しているのは、ソラスという一人の少女ではない。"自分たちを救ってくれる、都合の良い存在であり続けるソラス"だ。そしてそれは、彼女自身が最も恐れ、拒んでいた役割だったはずだ。

  夏の終わりの生温かい夜風が、村を吹き抜ける。どこかの家から、誰かが祈る声が漏れ聞こえた。それは救済を求める声でありながら、供物を強要する呪詛のようにも響いた。アルベルトは、闇に沈む尖塔の輪郭を見つめ、静かに悟る。

  この村は、すでに分岐点を迎えている。剣が抜かれる前に、純粋すぎた信仰が、暴力へと反転してしまう。そしてその時、誰が何を守れなかったのかがーー残酷な歴史として後に残るのだ。

  アルベルトは、熱を吸い込んで重たくなった剣帯を静かに指先でなぞり、行き場のない焦燥を深く重い吐息へと変える。月が描き出す尖塔の影は、もはや穏やかな場所ではなかった。静まり返った闇が、まるで重い垂れ幕のように、ゆっくりとアルベルトの足元を浸していった。

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