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後に残るもの

 アルベルトの言葉が床に落ちたあと、尖塔を満たす空気は、見えない絹糸で隙間なく縫い止められたように静まり返った。

「……身柄、ですか」

  ソラスは、言葉を舌の上で転がしながら復唱した。そこに拒絶の棘はない。未知の木の実の味を確かめるような、無邪気な確認だった。

「保護、という形になります」

  アルベルトは、あくまで穏やかな口調を崩さない。けれどその内側には、泥の苦渋が渦を巻いている。彼の目に宿る紫が訴えを強めた。

「あなたを害する意図はありません。ただ――このままでは、取り返しのつかない事態が起きる」

  雨を含んで重くなった花首をもたげるように、ソラスは、ゆっくりと首を傾げた。

「もう、起きていますか?」

  その問いは、あまりにも単純だった。だからこそ、大人の論理は喉元で詰まる。アルベルトの背後で、別の騎士が小さく息を呑む音が、張り詰めた弦の断裂音となって鋭く響いた。

「……いえ。まだです」

  アルベルトは、歯噛みしつつ正直に答える。

「なら」

  ふわりと安堵の息を吐き、少女は、陽だまりのような微笑みを浮かべた。

「大丈夫です。私、ちゃんと考えていますから」

  その言葉が決定的にズレてしまっていることに、彼女自身だけが気づいていない。

  開け放たれた扉から、若葉を濡らした風が吹き込んでくる。外はむせ返るほど緑の季節だというのに、塔の中だけはひんやりと、時が止まった泉の底に沈殿していた。その静けさを破って、階段の影から足音がした。石を踏む、重く、ためらいを含んだ靴音。

「……ソラス」

  低い声が、静寂に波紋を広げる。

  ユイスだった。

  彼は、階段の踊り場――光と闇が混ざり合う場所に立っている。隠れるわけでも、歩み寄るわけでもない。長い旅の果てに、辿り着いた場所が空っぽだったことを知ってしまったような、静かな立ち姿だ。

「ユイス?」

  途端、ソラスの声が、ぱっと華やいだ。差し込んだ陽光が、そこにだけ命を芽吹かせたかのような明るさだった。

「戻ってきてくれたんだ。嬉しい、本当に、私……」

  想いが溢れ、言葉が喉元でつっかえる。

「あのね」

  一呼吸置いて、彼女は弾むように続けた。

「今、大事な話をしてるの」

「聞いてたよ」

  短い返答。それだけで、彼がどこまでを聞き、何を理解してしまったのかが伝わる。アルベルトが騎士として前に出ようとしたが、ユイスは視線も向けずに、片手でそれを制した。

「いい」

  彼の瞳は、ソラスだけを映している。

「聞きたいのは、騎士様の話じゃない」

  彼は、一段、階段を下りた。その音が、処刑台への一歩のように重く響く。

「フラスニイルは?」

  その名を、静かに、けれどはっきり落とした。

「……休んでる」

「ユスティナは」

「一緒」

  即答だった。

  ユイスは、笑った。それは枯れ葉が踏み砕かれるような、乾いた、感情の抜け落ちた音だった。

「そっか」

  また一歩、下りる。

「じゃあさ」

  声は、もう震えていなかった。

「彼らを返せる?」

  その言葉にソラスは初めて、晴れた空に不意に雲がかかったように、はっきりと戸惑う。

「……どうして?」

「どうして、って」

  ユイスはそこで足を止めた。これ以上近づけば、何かが音を立てて壊れてしまうと、本能が告げていたからだった。

「君は、二人を守ったつもりなんだろ」

「はい」

「傷つけてない」

「はい」

「殺してない」

「はい」

  水晶のように曇りのない声でソラスが答える。ゆえに、ユイスは理解してしまった。彼女は決して嘘をついていない。そして、それこそが一番、救いようのないことなのだと。

「……ソラス」

  彼は、ゆっくりと、最後の問いを手向けた。

「もし、僕が"外に出るな"って言われて、"君を守るためだ"って言われて、ここに閉じ込められたら――」

  肺の奥まで、大地の空気を吸い込む。

「君は、それを正しいって言うの?」

  ソラスは、少し考えた。本当に、ほんの少し。

「……危険なら」

  その答えが、見えない鉄格子を下ろした。咄嗟にユイスは目を閉じ、祈るように静かに言う。

「もう、だめだ」

  ソラスの真珠の瞳が、さざ波のように揺れる。

「ユイス?」

「君は、もう」

  彼は彼女を見ない。傍らで息を潜めている騎士たちも見ない。かつての家であり、世界そのものであった尖塔の壁を、一度だけ名残惜しそうに見回した。

  「僕の知ってるソラスじゃない」

  それは罵倒ではなかった。

  あまりにも静かな、喪失の証明だった。

「……でも、私は」

  ソラスが、慌てて一歩踏み出す。衣擦れの音が、静寂に走った亀裂となって響く。

「私は、悪いことは――」

「言うな」

  初めて、声に砂が混じった。

「それ以上、言うな」

  ついにユイスは歩を進めた。階段を上って自室に戻ることはしなかった。塔の奥へ身を潜めることも、扉を閉ざすこともなく―― 彼が選んだのは、光の射す出口への道程だけだった。

「……それを、僕はもう、見られない」

  言葉の死骸をその場に置き去りにして、ユイスはソラスの横をすり抜ける。触れ合わない肩と肩。けれど、扉から流れ込んだ生温かい風が、二人の銀髪を一瞬だけ絡ませ、そして無情にほどいていった。

  石畳を叩く音が、湿った草を踏む音に変わる。規則正しかったはずの歩調は、途中で少しだけ乱れ、それから再び、悲しいほど正確なリズムを取り戻した。迷いを捨て去るように。決意を泥に刻むように。

  足音は、輝く森へは向かわない。尖塔の壁に沿って回り込む、色濃い闇の底がユイスを呼んでいた。視界から完全に彼の姿が消えたのは、ほんの一瞬後のことだった。黒煉瓦の塔が月光を遮ってつくる濃い影の中へ、溶け込むようにその輪郭を失っていく。

  翼の折れた鳥のように、ソラスは、その場から指一本動けずにいた。追いかけることも、呼び止めることもせず、ただ、主を失った塔の影がゆらゆらと揺れるのを、空虚な目で見つめている。

「私は……」

  唇から零れたのは、砕けた硝子。

「間違っていないのに」

  絞り出された声は風に乗ることもなく、誰の鼓膜も震わせないまま、冷えた石床の染みとなって消えた。その言葉を"違う"と否定してくれる優しい存在は、もう、この世界のどこにもなかった。

  薫風が見送るように、銀髪の少年の背中を音もなく飲み込む。彼が去った後の向こう側は、満ち潮のように押し寄せる藍色に塗り潰され、その気配すらも湿った土の底へと沈んでいった。

  しばらくの間、黒煉瓦の尖塔の前には、誰も息をしていないかのような、重苦しい空白だけが横たわっていた。足元では、昼間の熱を吸い上げて伸びすぎた草々が、生温かい風に撫でられ、さわさわと心細げな葉擦れを奏でている。虫の音さえ途絶えた、窒息しそうな静寂。その凍てついた時間を最初に溶かしたのは、ソラスだった。

「……どうして」

  滴り落ちる雫のような、珍しく低い、震えた声。彼女は、俯かせていた顔をゆっくりと上げた。月光を映す青い瞳。そこには、いつものあどけない静謐さはもうない。鏡面は砕け散り、さざ波立ち、今にも器から溢れ出しそうな剥き出しの感情が揺らめいている。

  彼女は、目の前に立ちはだかるアルベルトと、その背後に控える騎士たちを、貫くような瞳で見据えた。

「どうして、あなたたちは、いつも」

  一歩、ソラスが前に踏み出す。小さな素足が露に濡れた石畳を踏みしめる。いつもの台車も、色とりどりの商品を詰めた布袋も、そこにない。風が吹けば飛んでしまいそうな、頼りないほど華奢な少女。けれどその立ち姿は、鋼の鎧を纏った騎士たちよりも、遥かに巨大な圧力を放っていた。

「守る、守るって、綺麗なことを並べるくせに」

  声の輪郭が、少しずつ荒く、ガラスの破片のように尖っていく。

「本当に守りたいなら、どうして、あの子を追いかけなかったの。剣も持たない背中を、どうしてぼんやり見送ったの」

  その悲痛な問いに、アルベルトがはっとして唇を開きかける。弁明か、あるいは慰めか。だが、ソラスの言葉はそれよりも速く、鋭い氷柱となって騎士たちの足元へ降り注いだ。

「どうして、私を止める時だけ、そんなに必死なの」

  ソラスは叫んだ。それは魔女の呪詛ではない。ただの、置き去りにされた少女の悲鳴だった。

「私が何かをするたびに、間違ってるって顔をして! でも、村の人が泣いていた時は? 助けを求め手を伸ばしていた時は? あなたたち、その立派な剣も、優しい言葉も、何一つ差し出してくれなかったじゃない!」

  一気に吐き出された言葉は、いつもの柔らかな調子ではない。まとわりつく湿気を切り裂き、訓練された騎士の耳にも痛みとして直接突き刺さる、血の通った等身大の感情の響き。

  「私は、代わりに背負っただけです」

  ソラスは、自らの薄い胸元にきめ細やかな手を押し当てた。その下で早鐘を打つ心臓だけが、彼女がまだ生物であることを訴えている。

「あなたたちが目を背け、置き去りにしたものを。怖くて、汚れたくなくて、責任という重みに耐えきれず――見て見ぬふりをして通り過ぎたものを。だから、私が、全部」

  声が裏返り、湿った夜気を鋭く切り裂く。

「それなのに!」

  たん、と。硬い石の床が、強く踏み鳴らされた。傷ひとつない無垢な足が放ったその衝撃は、物理的な音量を超え、痛々しいほどの慟哭となって静寂を打ち砕く。

「どうして、私だけが悪者なんですか」

  息の詰まるような沈黙。アルベルトは唇を噛み、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。何を言っても言い訳にしかならないことを、本能が悟っていた。

「……ソラス、それは――」

「違う!」

  即座に、悲痛な叫びが彼の声を食い破る。

「"それは"じゃない! "結果が"じゃない! あなたたちは、いつもそうやって、すべてが終わってから安全な場所で正しさを並べる!」

  彼女の瞳は乾いていた。涙を流す機能など、とうに捨て去ったかのように。だが、その内側では制御の堤防が決壊し、行き場を失った感情が濁流となって溢れ出している。誰の目にも明らかな、魂の出血だった。

「ただ良くしようとしただけなのに」

  声が、不意に落ちる。深淵の底から響くような、低く、震える音色へ。

「誰も死なないように。誰も苦しまないように。誰も――私みたいに、空っぽにならないように」

  その最後の一言が、蒸し暑い夜の空気を一瞬にして凍てつかせた。

  アルベルトは、ようやく理解した。目の前で荒れ狂う激情は、魔女の暴走などではない。神になろうとした少女の中で、迷子になった最後の子どもらしさが、傷口から噴き出しているのだと。

「……すまなかった」

  アルベルトは、剣の柄に手をかけることもなく、深く頭を下げた。それは騎士隊長としてではなく、ただの無力な大人としての謝罪だった。

「だが、それでも――」

「それでも、止める?」

  静かに問い返した。先刻まで帯びていた熱が、急速にソラスの輪郭から剥がれ落ちていく。

「守るために、私を縛るんでしょう」

  彼女は、笑った。けれどその唇が描いた弧は、これまで彼女が村人に向けてきた、春の日差しのような柔らかなものではない。触れれば指が切れそうな、氷の微笑。精巧な硝子細工だけが持つ、冷酷な美しさだった。

「なら、いいです」

  一歩だけ下がる。揺らめいていた感情の蝋燭が、ふっと吹き消された。

「私は、もう、説明しません」

  その声は普段の――あまりにも正しく、あまりにも静かなソラスに戻っていた。

「正しさは、いずれ、分かるものですから」

  騎士たちは誰一人として、異を唱えることができなかった。今しがた目の当たりにしたものが、単なる少女の癇癪ではなく、彼女の中から失われつつある人間性の、最後の瞬きであったことを理解してしまったからだ。

  風が止む。世界が再び、完璧な静寂という名の棺の中に閉じ込められた。

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