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剣より先に

 騎士たちの列は、村を見下ろす丘の上で、まるで墓標のように静止していた。誰一人として剣の柄に手を掛けていない。馬の鼻を撫でる風の音だけが、やけに大きく聞こえる。彼らの間に張り詰めた糸は、今にも切れそうなほどに鋭かった。

「本当に、ここが報告の場所なのか」

  若い騎士が乾いた唇を舐めて呟いた。隊長であるアルベルトは、短く切り揃えられたブロンドの髪を揺らしながら、眼下に広がる村を葡萄色の瞳で油断なく見下ろしている。あまりにも完成された平和が、そこにあった。

  昼下がりの陽光を浴びて、畑は幾何学模様のように美しく耕され、子供たちの笑い声が風に乗って運ばれてくる。怪我をして呻く者も、飢えて蹲る者もいない。まるで、絵画の中に閉じ込められた理想郷のように、全てが整いすぎていた。

「報告では、死者は出ていません」

「それが問題だ」

  アルベルトは重く、噛み締めるように答える。騎士とは、人の命と尊厳を守るために鋼を帯びる存在。だがこの穏やかな風景の中で、剣を抜く正当な理由を見つけ出すことは、砂の中から金を探すよりも困難だった。

  消息不明となったユスティナとフラスニイル。その捜索と再調査の命を受け、彼らは王都を発ったが、目の前の光景は"事件"の匂いを完全に消し去っていた。

「魔女と断じるには、証拠が足りません」

「しかし、奇跡が安売りされすぎている」

  部下たちもまた、肌で感じ取っていた。この平穏が、自然の理を超えた何かに支えられていることを。経験したことのない空気感に足がすくむ。

  丘を下り村へと足を踏み入れると、村人たちの視線が一斉に絡みついた。それは武装した集団に対する畏怖や警戒ではない。濡れた瞳で飼い主を見上げるような、甘やかな期待だった。

「おお、騎士様……よかった」

「あなた方が来てくれれば、もう安心です」

  その言葉を聞くたび、アルベルトの胸の奥で鉄錆のような不快な音が軋んだ。彼らは、何を守ってほしいのか。あるいは――何を維持してほしいのか。アルベルトは、道端で日向ぼっこをしていた一人の老人の前で足を止めた。

「この村で起きていることについて、お話を伺ってもよろしいですか」

  老人は、初夏の陽気で温まった石のように、穏やかな表情で答えた。

「困ることは、何もありませんよ」

「……本当ですか? 不便も、苦痛も?」

「ええ。以前より、ずっと良い」

  "良い"という響きには、生々しい喜びが含まれていなかった。それは命が永らえたことへの感謝ではなく、重荷を下ろした安堵に近い。病めば頼めばいい。怪我をすれば願えばいい。迷ったら、決めてもらえばいい。考える必要も、耐える必要もない世界。アルベルトの背筋を、冷たい蛇が這い上がるような悪寒が走った。

  確かめるべき場所がある。報告書にあった、奇跡によって命を拾った少女――エルナの家だ。

  薄暗い室内は、薬草の匂いではなく、時が止まったような静けさに満ちていた。少女は寝台にちょこんと座り、ガラス玉のような瞳で窓の外を見ている。そこには鮮やかな新緑が揺れているはずなのに、恐らく彼女の瞳には何も映っていない。

「こんにちは」

  努めて柔らかく声をかけると、エルナはゆっくりと、油の切れた歯車のように振り向いた。にこり、と笑う。ただしその笑みは、喜びを表すものでも誰かを迎えるものでもなく、ただ顔の筋肉をその形に整えただけのものだった。

「歩けないと、聞きました」

「はい」

「……辛くありませんか?」

  少女は、小首を傾げた。その仕草は愛らしかったが、答えを探しているというよりは、質問の意味を理解しかねているようだった。やがて彼女は静かに首を振り、

「わかりません」

  その一言が、腰に帯びた剣よりも重く、アルベルトの心にのしかかった。これは病ではない。呪いでもない。辛いと感じる心、歩きたいと願う意志――選択肢そのものの欠如だ。彼女は救われたのではない。ただ、生かされるための部品として、削ぎ落とされたのだ。

  家の外に出ると、夕暮れが村を灰紫色に染め始めていた。副官が、不安げに問いかける。

  「隊長。どうしますか」

  剣を抜けば、この無垢な少女を救った"聖女"を敵に回すことになる。抜かなければ、この村は腐ることのない果実のように、美しくゆっくりと死んでいくだろう。アルベルトは、深く息を吸い込んだ。肺に入った夕闇の空気が、決断を促す。

「縛る」

「剣ではなく?」

「剣では、心は守れない」

  その声は、微かに震えていた。武力で制圧することよりも、遥かに困難な道を選んだことへの武者震いだった。

  夜の帳が完全に下りた頃、アルベルトは一人、森の奥へと向かった。星のない空。森の木々が黒い壁となって迫る中、黒煉瓦の尖塔だけが、闇よりもなお濃い影となって聳え立っている。

  重厚な木の扉の前で、アルベルトは立ち止まった。カチャリ、という金属音が静寂の中で不敬なほど大きく響く。彼は剣帯を解くと、武器を足元の草むらに置いた。敵意はない。武力もない。ただ一人の人間として対峙する意思表示だった。

  拳を軽く上げようとした、その刹那。ノックをするよりも早く、扉が音もなく内側へと滑り開いた。吐息混じりの風が流れ出し、宵闇の底から、月光を糸にして織り上げた銀の髪が揺らめく。

  ソラスが、そこに佇んでいた。

  闇に浮き上がる肌は、触れれば指が凍りつきそうなほど白く、陶器のように滑らかだ。その瞳は、愛しい待ち人を迎える聖女のようでいて、同時に、すべてを見透かす怪物のようにも見える。

「……何か、御用ですか」

  鼓膜を撫でるその声は、アルベルトの頭を優しく、激しく、甘美に揺らすのだった。


⬛︎


  開かれた扉の向こう、尖塔の内部は死んだように静まり返っていた。この季節なら当然のことだが、暖炉に火の気はない。代わりに、ひんやりとした石床の冷気が、生温かい夜気に馴染んだ足裏へじわりと這い上がってくる。外から差し込む月明かりだけが、がらんとした一階を青白く切り取っていた。

  ソラスは、その境界線にじっと立ち続ける。招き入れるでもなく、拒絶するでもなく。ただ、そこが自分の領分であると主張するように。夜風が彼女の裾を揺らすたび、闇の中に白磁の爪先が露わになった。

  足元には黒猫が寄り添い、金色の瞳でじっとこちらを見上げている。艶やかな尾が、ゆらり、ゆらりと、気だるげに揺れていた。

  アルベルトは、逸る鼓動を理性で押し込め、すぐには本題に入らなかった。まずは、確認しなければならない。確定していない絶望を、言葉にするために。

「確認したいことがあります」

  ソラスは、小首を傾げた。その仕草は、無害な子供そのものだった。

「はい」

「王都より派遣された調査官ユスティナ、ならびに――」

  アルベルトは、一度言葉を切った。その名を呼ぶことが、彼らの"不在"を決定づける気がして。

「元研究所長フラスニイル。この二名が、ライトリムへ向かったきり、消息を絶っています」

  夜の空気が、ぴんと張り詰めた。森の虫の音さえ途絶えた静寂の中、ソラスは驚く様子も見せず、ただ記憶の引き出しを開けるように、視線を斜め上へと向けた。

「……来ていましたよ」

  そのあまりに軽い返答に、背後に控える騎士たちの息が止まる。

「二人とも、ここに、来たのですね」

「はい」

「いつですか」

「少し前です。まだ、春の夜風が冷たい頃に」

  アルベルトは、乾いた喉を鳴らした。

「その後は?」

  ソラスは、少し考えた。隠しているのではない。適切な言葉を選ぼうとしている沈黙だった。やがて彼女は、困ったように、けれど愛おしそうに微笑んだ。

「帰りました」

「帰った、とは」

「大丈夫です。ちゃんと」

  その"ちゃんと"という言葉があまりにも曖昧で、そして空虚だった。アルベルトは、声を低くする。威圧するためではなく、震えを隠すために。

  「彼らは、王都に戻っていません」

  沈黙が落ちる。黒猫が、みゃあ、と細く鳴いた。ソラスはその声に視線を落とし、闇に溶けそうな黒い背を、細い白百合の指でそっと撫でた。

「……おかしいですね」

  そこには、感情のさざ波ひとつなかった。焦りも、不安も、罪悪感も。ただ、彼女の認識している事実と、アルベルトの言葉が噛み合っていないことへの、純粋な困惑だけがあった。

「二人とも、とても疲れていましたから」

  彼女は、優しい声で言った。まるで、遊び疲れた子供を寝かしつけ終えた母親のように。

「疲れていた彼らにーー何をしましたか」

  鋭くはないが、逃げ道を塞ぐ問いだった。

「休ませました」

「それだけですか」

「それだけです」

  ソラスは、はっきりと言い切った。嘘をついている声音ではない。だが、我々の知る真実を語っているとも言い切れない。そしてアルベルトは理解してしまった。彼女の中にある箱の分類を。

  消息不明も、拘束も、保護も、ソラスにとっては"安息"という同じ箱に入っているのだ。守った、助けた、苦しみを取り除いた。彼女の解釈はそれだけで完結している。

「今、二人はどこにいますか」

  その問いに、ソラスの滑らかな旋律が初めて淀んだ。視線を彷徨わせ、桜色の唇を小さく噛む。

「……ここには、いません」

「生きて、いますか」

  間。

  心臓が幾度か痛みを訴えるほど、重苦しい間。

「はい」

  返ってきたのは混じりけのない肯定だった。けれどその潔白さが、騎士たちの胸に冷たい刃を突き立てる。彼女の中で編み上げられた“生きている”という定義の織物が、我々の知るそれと重なっている保証はないのだと、残酷に悟らせたからだ。

  アルベルトは、湿り気を帯びた夜気を肺の最も深い場所まで吸い込んだ。草いきれと雨の名残。熟し始めた季節の匂いが、鼻腔の奥に重く沈殿する。剣は、草の上に置かれたままだ。ゆっくりと、彼はその場に崩れ落ちるように膝をついた。それは騎士としての礼節ではない。抗う術を持たぬ、ただの無力な泥人形としての姿勢だった。

「お願いがあります」

  言葉が夜に落ちた瞬間、ソラスの青い瞳が僅かに見開かれた。"お願い"。それは彼女にとって叶えるべき使命であり、拒絶を許さぬ呪いだ。

「これ以上、力を使わないでください」

  風が、止まった。足元を黒猫が音もなく横切る。その漆黒の毛並みは夜そのものであり、主の影へと滑らかに溶け込んでいった。膝をつくアルベルトを見下ろしたまま、ソラスは静かに、迷子に道を説くように答えた。

「それは……誰かが、死ぬということですか」

  アルベルトの喉が、引きつったように凍りついた。自然の摂理とはすなわち淘汰だ。救いの手を引けば、こぼれ落ちる命がある。干上がり、裂ける大地がある。彼女に"何もするな"と告げることは、この村に"死を受け入れろ"と宣告することと同義だった。

  だが、それでも。これ以上、人の形をした器が幸福な忘却によって満たされ、人でなくなる前に。アルベルトは顔を上げた。その瞳には、星のない夜空よりも暗い決意が宿っていた。

「あなたの身柄についてお話があります」

  未だ剣は鞘に眠っている。しかし、引き返せない選択の断崖から、彼はすでに飛び降りていた。

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