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 ユイスが自室に籠もりきりになってから、尖塔の中は、ひどく耳に付く静けさに支配されるようになった。物音が消えたわけではない。窓を叩く風の音も、階段の古い踏み板が軋む音も、以前と変わらずそこにある。ただ、生活の中にあった応答が、ふつりと途切れてしまった。ソラスは、固く閉ざされた扉の前に座り込むことが増えた。湿り気を帯びた若草の匂いが窓から流れ込み、廊下の淀んだ空気をかき混ぜる。

「今日は風が暖かいよ。外の緑が、少しだけ濃くなったみたい」

 木の扉の向こうからは、何も返ってこない。

「村の子がね、もう石につまずいて転ばなくなったんだって。みんな喜んでた」

 深い沈黙。

「だから、もう安心、しなくていいから」

 独り言のようなその言葉だけが、わずかに震えて、冷たい石の壁に吸い込まれた。黒猫が階段の途中で足を止め、二人の間を値踏みするように見比べながら、ゆっくりと尾を振った。ユイスはそこで聞いている。その確信だけが、今のソラスをこの場所に繋ぎ止めていた。ソラスは胸の奥をそっと手のひらで押さえ、

「大丈夫。私は、平気だから」

 言葉にして形を与えると、ざわついていた心が少しだけ凪いでいく気がする。ややあって、尖塔の重い扉が叩かれた。こんこん、とひどく遠慮がちで、けれど切実な響き。

「はい」

 扉を開けると、そこには深く刻まれた皺を震わせた老婆が立っていた。

「少し、お願いがございまして、ソラス様……」

 ソラスは静かに頷く。頷くことは、今の彼女にとって何よりも簡単なことだった。話を聞き、考え、自分にできる最善を差し出す。それだけで、胸の奥に広がる正体不明の冷えが、わずかに和らぐような気さえした。

「それなら、日が落ちるまでには、なんとかしますね」

「まあ、ありがとうございます……!」

 老婆は何度も、枯れ木のような体を折り曲げて頭を下げる。扉が閉まった後、ソラスはしばらくその場に立ち尽くしていた。誰かの役に立っているという実感が、空っぽになりかけた器を満たしていく。

 以前も感じていた、ささやかな喜び。ただ、今の彼女には、もうそれしか残されていなかった。

 黒猫が、階段の上からじっと彼女を見下ろしていた。鳴きもせず、近づきもせず。ただ、逃れられない運命を見守るかのように、金色の瞳を逸らさない。

「……大丈夫だよ」

 自分に言い聞かせるように、ソラスは言った。

「ちゃんと、してるから。みんなのために」

 その夜、彼女は祈りの唄を歌わなかった。代わりに、一冊のノートを開いた。白い紙の上に、細い字で、その日に起きた出来事を淡々と書き留めていく。誰が訪れ、何を望んだのか。それに対して、自分はどう応えたのか。そこには、"なぜそうしたか"理由を記す欄はなかった。理由は要らない。自分に出来るから、やる。それだけで十分だった。

 わずか数日で、ノートの半分が埋まった。村からの"お願い"は、増え続けていた。荒れた畑を整えてほしい。夜泣きする子供を静めてほしい。古傷の痛みを消してほしい。誰よりも優れた楽器の才能がほしい。

 彼女は、それらを一切区別しなかった。それが命に関わることか、ただの贅沢な望みか。あるいは、正しいことなのか、間違っているのか。それを判断する役目は、もう自分にはないのだと、彼女は考えるのを止めていた。

 ある日、ソラスはふと気づいた。最近、全く夢を見ていないことに。ユイスと並んで歩いていた頃は、時々、鮮やかな夢を見た。泣きたくなるような怖い夢も、いつまでも覚めたくないような楽しい夢も。しかし今は、目を閉じると、ただ真っ白な朝が来る。その代わり、意識の覚めている時間が、ひどく長く感じられるようになった。

 灯りを落とした部屋で、彼女は一人、椅子に深く腰掛けていた。胸の奥に、ぽっかりと空いた大きな穴。

「埋めなきゃ」

 何かが欠けているのは、良くないことだ。やがて彼女は、どんなお願いも断らなくなった。難しい条件を付けることも、もうしなかった。

「できます」

 その一言が、すべての曇りを晴らした。村人たちは安心し、村には笑顔が溢れた。尖塔の周りには、彼女を慕う人々が絶え間なく集まってくる。ソラスは、その中心で、優しく微笑み続けた。

 尖塔の中、黒猫が初めて彼女の膝に乗ってきた。ずしりと重い体温を感じながら、ソラスは思う。

 私、ひとりじゃない。こんなに、みんなに必要とされている。

 猫は喉を鳴らさなかった。ただ、石のように動かず、彼女の膝の上でじっとしていた。その重苦しい沈黙を、ソラスは――優しい肯定だと、受け取ってしまった。


⬛︎


 最初におかしい、と誰かが気づいたのは、彼女の声だった。

「ソラス様、今日はその……」

 おずおずと呼びかけられた彼女は、間を置かずに振り向いた。

「はい」

 それは余白のない即答。以前のように、困ったように微笑みながら首を傾げることもない。相手の言葉を咀嚼し、自分の心と照らし合わせるための間が、彼女の中から消えていた。

「どうしましたか。何が必要ですか」

 その声音は、凪いだ湖面のように穏やかで、銀時計の刻みのように正確だった。そこに、彼女自身の感情が介在する隙間はどこにもなかった。

 願いは、もはや途切れることのない濁流となっていた。夜明け前、塔の前に人が並び始める。陽が昇れば、茂みの奥からも彼女を呼ぶ声がする。夜が来ても、重い扉を叩く音は止まない。

 ソラスは眠らなくなった。正確には、身体を休める時間はあったはずだが、眠ったという実感そのものを失っていた。まぶたを閉じれば次の瞬間に朝が来ている。気づけば夜の闇が降りている。時間の継ぎ目が、すべて魔法の糸で縫い合わされた気がした。

 ある日、一人の若者が訪れた。

「ソラス様。俺に……力を、ください」

 差し出された彼の手は、小刻みに震えていた。

「王都の試験に落ちました。俺には何もありません。剣の才能が、どうしても、どうしても欲しいんです」

 昔のソラスなら、きっと悲しげに首を振っていただろう。それが彼自身の人生であり、苦しみも含めて彼が背負うべき重みだと知っていたから。だが、その日の彼女は、迷わず頷いた。

「わかりました」

 若者は、思わず息を呑んだ。

「……いいんですか。こんな、身勝手な願いを」

「必要です。そう、あなたが決めたのなら」

 ソラスは、彼の額にそっと指先を当てた。魔法は、音もなく静かだった。眩い光も、身体を焼く痛みもない。ただ、そこにあるべきだった空洞が、透明な粘土で無理やり填め込まれる感覚。若者はその場に膝をつき、自分の両手を見つめた。

「……すごい。身体が、軽い……!」

 彼は歓喜し、跳ねるようにして塔を去っていった。その夜、彼は見事に勝った。模擬戦で誰よりも鋭く剣を振るい、相手を圧倒した。

 だが、翌朝、彼は二度と起き上がることができなかった。腕が、石のように重い。思考が、泥のように鈍い。何より、自分がなぜこれほどまでに剣を握りたかったのか、その理由が霧の彼方へ消えて思い出せなくなっていた。

村では、密かに"代償"と呼ぶようになった。

「聖女の力には、裏がある」

 けれど、誰もその行いを止めようとはしない。むしろ、人々は歪んだ期待を彼女にぶつけた。

「なら、もっと軽い代償で済むように、上手くやってほしい」

「ソラス様はもっと上手に調整できるはずだ」

 その残酷な言葉の群れを、ソラスは正面から真実として受け取った。

「次は、もっと」

 ――もっと、上手く。

 彼女は、ノートに詳細な記録を取り始めた。何を与え、どれだけ変化したか。どのような不具合が生じたか。淡々と綴られる文字の中に、後悔や迷いの文字は、一文字もなかった。

 ある晩、黒猫が、書きものをする彼女の手首を強く噛んだ。皮が破れるほどではない。だが、それは明確な、そして最後の拒絶だった。

「……邪魔をしないで」

 ソラスは、初めて、自分に寄り添っていた猫を無造作に振り払った。ぽとりと猫は床に落ち、低く、寂しげに唸った。ソラスは、その音を聞かなかったことにした。

 彼女は、部屋の隅にある姿見の前に立った。映し出された少女は、目の下に深い影を落としている。それでも、彼女は鏡の中の自分に向かって、完璧な微笑みを作った。

「大丈夫。まだ、できるから」

 その声は、かつてユイスを安心させようと歌っていた唄と、全く同じ調子だった。

 翌日、幼い子供が連れて来られた。

「この子に……何か、才能を授けてください」

 母親は、なりふり構わず泣いていた。

「この子は足が悪くて、このままじゃ、この村では生きていけない。どうか、何か特別な力を」

 ソラスは、子供の目を見た。濃緑の季節に洗われたような、澄み切った瞳。その子がまだ、何も知らない無垢な瞳。ソラスの指先に、ほんの一瞬だけ、震えるような迷いが浮かんだ。けれど、それは次の瞬間には冷たい決意に塗り潰された。

 選ばせない方が、きっと、この子は幸せになれる。

 そう判断し、彼女が子供の額へと手を伸ばした瞬間――。尖塔の中で、何かが、静かに壊れる音がした。吹き抜けていた風がぴたりと止み、梢で囀っていた鳥たちが一斉に黙り込んだ。黒猫は、一度も振り返ることなく、開いたままの扉から影のように逃げ出した。

 それでも、ソラスは気づかない。指先から流れ出す、凍てついた奇跡の感触に、ただ、うっとりと目を細めていた。

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