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当たり前のこと

 ライトリム村の境界を越えた瞬間、ユスティナ達を包んだのは、春の終わりの湿った空気よりも重苦しい気配だった。馬車の窓から見える村人たちの姿は、一見すれば平穏そのものだ。けれど、その視線は一様に、北の空に聳えるあの黒煉瓦の尖塔へと吸い寄せられている。それはかつてのような、得体の知れないものへの畏怖ではない。もっと湿り気を帯びた、熱に浮かされるような切実な期待――祈り、という名の縋りつきだった。

「……静かすぎますね。まるで、村全体が息を潜めて何かを待っているようです」

「吹雪明けだからな。雪が音を吸ったのだろう」

フラスニイルは短く応じたが、その言葉が虚空を滑るだけの取り繕いであることは、並んで座る二人には明白だった。

村の中央広場に差し掛かったとき、最初の"お願い"が波紋のように広がる。それは、どこにでもいる一人の老女だった。深く刻まれた皺に、土の色が染み付いた農婦。彼女は泣き叫ぶことも、道を通せと脅すこともなかった。ただ、古びた祈祷を捧げるように両手を胸の前で固く組み、尖塔の方角をじっと見上げていた。

「ソラス様に……お伝え願えませんか」

村長を通した陳情ではない。ましてや、村の総意としての願いでもない。それは、誰の許可も必要としない、剥き出しの個人の渇望だった。

「伝える? 何をだ」

ユスティナが問いかけると、老女は張り詰めていた糸が切れたように、安堵の溜息を漏らした。

「うちの孫が、今朝から、眠ったまま目を覚まさないんです」

掠れた声が、蒼天に震える。

「医師は呼んだのですか」

「王都の立派な医師様など、こんな地の果てまでは来てくれません」

「薬は」

「もう、知っている限りのものは試しました。けれど、あの子の魂はどこか遠いところへ行ったまま戻らない」

老女は、磁石に引かれるように一歩、こちらへと踏み出した。

「でも、ソラス様なら……あのお方なら、あの子を呼び戻してくださる」

その言葉が引き金だった。静まり返っていた広場に、堰を切ったように声が溢れ出す。

「そうだ、ソラス様なら」

「前の吹雪の夜も、村が凍えずに済んだのはあの方のおかげだ」

「難しい理屈はいらない。ただ、祈って頂くだけでいい」

「あのお方の手で、この悪いものを、澱みを、すべて祓ってもらえば……」

折り重なる声は、次第にひとつの大きなうねりとなってユスティナを圧倒していく。背筋を、氷の指でなぞられたような悪寒が走った。

――始まったのだ。

誰かが最初に口にした、切実で身勝手な"お願い"。それが他人の心の枷を次々に外し、欲望を正当化するための免罪符へとすり替わっていく。

「待ちなさい!」

ユスティナは凛とした声を張り上げた。

「彼女は王国の認可を受けた治癒師ではない。正規の儀式も、ましてや魔導の祈祷も――」

「でも、現に助けてくれたじゃないですか」

鋭く遮ったのは、赤子を抱いた若い母親だった。その瞳には、救済を信じ切った者の異様な熱が宿っている。

「吹雪の夜、うちの子が高熱を出して死にかけたとき……あの方がいらした朝には、嘘みたいに熱が引いて。あの子は笑っていたんです」

それを合図に、別の男たちも口々に叫び始める。

「家畜の病も、あの方が通りかかった翌日には治まった」

「枯れかかっていた井戸の水が、今は透き通るほど澄んでいる」

「誰もがうなされていた悪夢を、見なくなった」

村人の勢い。ユスティナは言葉を失った。偶然も、自然の摂理も、幸運さえも。この村で起きるあらゆる善き因果が、今やソラスという一人の少女の名の下に、暴力的なまでの純度で集められている。隣でフラスニイルが、低く唸るように呟いた。

「……祈り、だな。かつ、形を持たぬ原始のそれだ」

それは宗教ですらなかった。教義も、崇めるべき象徴も、荘厳な儀式もない。ただ救われた、という個人の体験だけが音もなく連鎖し、巨大な信仰の怪物を作り上げている。

「お願いです」

老女が、泥濘んだ地面に膝をついた。

「銀髪の方は、優しい。誰の願いも、決して断ったりはなさらない」

その一言が、決定打となってユスティナの心に突き刺さる。脳裏を掠めたのは、王都の禁書庫に眠る、古い魔術記録の一節だった。

『魔女は、断らない。衆生の願いを喰らい続けるうちに、断るための"個"を摩耗させ、ついには断れなくなるからだ』

「……これは」

彼女は唇を白くなるほど噛みしめた。

「これは、救済などではない。ただの、善意による強要です」

けれど、その悲痛な叫びは、誰の耳にも届くことはなかった。人々はもう、灰色の空を貫く尖塔しか見えていない。少女が何を思い、何に傷つくかなどという人間らしい意志は、彼らが望む救いの形という濁流の中に飲み込まれていた。

「所ーーフラスニイルさん」

ユスティナは声を震わせながら、隣の男へ視線を送る。

「これ以上、彼女にすべてを負わせ続ければ、彼女は――」

「人ではいられなくなるな。村が作り出した、神に成り果てる」

フラスニイルは、冷徹にその結末を告げた。

その時だった。

遠く、尖塔の重厚な扉が、きしりと重苦しい音を立てて開かれた。村人たちの顔が、一斉に、夜明けを迎えたかのように明るく染まる。けれど、彼らは誰も気づいていない。暗がりの向こうから差し込んできたその光が、すべてを暖める火などではなく、何もかもを焼き尽くす"浄化"の炎である可能性に。

黒煉瓦の影は、喜びを歌う村を、冷たく見下ろしていた。


⬛︎


尖塔の内部は、陽光が眩しい昼下がりだというのに、ひっそりと薄暗い静寂に沈んでいた。

ソラスは、重厚な円卓の前に静かに腰を下ろし、両手を膝の上で行儀よく揃えていた。厚い石壁の向こう側からは、さざ波のようなざわめきが絶えず伝わってくる。それは以前のような、肌を刺す刺突的な敵意ではない。もっと重く、湿り気を帯びて、何かに縋りつこうとする熱を孕んだ気配。――期待。

胸の奥に、ほんのりと小さな灯がともるような温かさを感じる。自分という存在が、透明な空気ではなく、確かな輪郭を持って世界に溶け込んでいくような、そんな不思議な感覚。

足元で、影のような黒猫が音もなくすり寄ってきた。しなやかな尾が、彼女の足首にくるりと親密に絡みつく。

「ねえ」

ソラスは、誰に聞くでもなく密やかに囁いた。

「みんな、私を必要としているの?」

猫は答えない。ただ、底知れぬ黄金色の瞳で彼女を見上げ、じっとその魂を観測している。やがて、扉が控えめに叩かれた。それは遠慮がちではあったが、背後に退けぬ切実さを秘めた、迷いのない音だった。

「ソラス様」

隙間から漏れ聞こえてきた村人の声。"様"。いつから、その呼び名が自分に冠されるようになったのだろう。それは名誉というよりは、彼女という個人の境界を消し去る、幽かな呪文のようにも聞こえた。

ソラスは立ち上がり、指先で一度だけ胸元を確かめてから、ゆっくりと扉を開ける。そこには、あの広場で膝をついていた老女が立っていた。彼女の背後には、何人もの村人が影のように連なっている。皆、一様に深く険しい表情を浮かべてはいるが、その瞳の奥には、出口を見つけた者特有の、危うい安堵が揺らめいていた。

「どうなさいましたか」

紡いだ声は、自分でも驚くほど凪いでいた。まるで、こうなることをずっと前から知っていたかのように。

「孫が……眠ったままで、どうしても戻ってこないのです」

老女の頬に、涙の筋はなかった。悲しみが枯れ果てたのか、あるいは"救われる"ことを確信してしまったのか。その乾いた眼差しが、ソラスの心に小さな、けれど消えない波紋を広げる。

「医師の方には……」

「ええ。ですが、あの方々にはもう、匙を投げられました」

老女は言葉を選んで一瞬だけ視線を落とし、それから、ソラスの瞳を射抜くように言った。

「けれど……あなた様なら、おできになるのでしょう?」

その瞬間、胸の奥で、見えない歯車がかちりと音を立てて噛み合った。かつての記憶が蘇ったわけではない。失ったはずの意味を理解したわけでもない。ただ、その傲慢なまでの期待が、今の自分にはあまりにも正しい居場所である、と感じてしまったのだ。

「……私は、ただ祈ることしかできません」

ソラスは、夢遊病者のような足取りで一歩踏み出した。

「それでも、よろしければ」

老女は深く、折れ曲がるほどに頭を下げた。背後の誰かが、張り詰めていた息を吐き出す音がする。誰かが、救済を確信して祈るように手を合わせる。同行していたユスティナが、たまらず一歩前に出ようとした。けれど、隣に立つフラスニイルが、無言のまま彼女の肩を制した。

止められない。差し伸べられた"救い"という名の鎖を、ソラス自身、もう拒んでいないのだから。

老女の家は、ひやりとした湿った土の匂いに満ちていた。簡素な寝台の上で、ひとりの幼い少年が深い眠りに落ちている。その呼吸は、今にも消え入りそうなほど浅く、けれど懸命にこの世に留まろうと喘いでいた。

ソラスは、少年の青白い額にそっと掌を当てた。指先から伝わるのは、生者というよりは凍てついた石に近い、無機質な冷たさ。

「……大丈夫」

それが、少年への言葉なのか、自分自身への言い聞かせなのかも分からないまま、彼女は唇を震わせた。古びた聖典の言葉などは、何一つ思い出せなかった。それでも、彼女の口は、まるで精緻な自動人形のように滑らかに動き始める。それは祈りではなく、ひとつの旋律。

「『風吹けば 痛みは遠く

名を呼ばれぬ者も 道を持つ

眠る者よ まだ帰るな

導は、ここにある――』」

唄い終えた、その刹那。少年の小さな指先が、何かを求めるかのようにぴくりと動いた。老女が、耐えきれずに声を殺して泣き崩れる。

「……ありがとうございます、ソラス様。ああ、ありがとうございます……」

その感謝の礫を浴びた瞬間。ソラスの胸に満ちたのは、未来への恐怖などではなく、あまりにも純粋で甘美な安堵だった。

良かった。お役に立てた。私は――無意味な存在じゃなかったのね。

その思考がどれほど深く"自分"という魂を損なうものであるかに、彼女自身、全く気づいていない。帰り道、夕闇が静かに降りてくる森の入り口で、ユスティナが抑えた声で尋ねた。

「……お前は、望んでいるのか?」

「え?」

「他人の人生を背負い、必要とされることを。それがどんなに歪な形であっても」

ソラスは歩みを止め、少しだけ考えてから、首を傾げて可憐に微笑んだ。

「望む、とか……そういうことじゃ、なくて」

一拍置いて、彼女は春のそよ風のような軽やかさで言った。

「当たり前のこと、なんじゃないですか?」

その言葉に含まれた慈愛と狂気に、ユスティナは全身を氷で撫でられたような感覚がした。フラスニイルは、何も見たくないと言わんばかりに深く目を閉じ、長い溜息を夜の空気に逃がした。

足元では黒猫だけが、低く、長く、喉の奥を鳴らしていた。それが果たして、新たな神の誕生を祝う調べなのか、あるいは取り返しのつかない破滅への警告なのか。耳を傾ける者は、もう誰もいなかった。

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