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灰色の監査官

 王都の空は、いつ見上げても重たく、湿った灰色を湛えている。ユスティナは、石造りの小部屋の中で、冷たい鉄格子越しにその澱んだ天を眺めていた。正確には、そこは牢ではなかった。けれど、重厚な扉には内側から触れられぬ鍵がかかり、廊下には絶えず規則的な軍靴の音が響く。自由を奪われ、誰かの視線に晒され続ける以上、そこは紛れもない牢獄でないか。

「……監視付きの待機、ね」

 自嘲気味に呟いた吐息が、もたれた壁の腹を伝う。背後で、硬い鎧が擦れる乾いた音がした。王国騎士団――その実態は“魔術事案対策局”の詰め所。ここに連れて来られてから、すでに二度、窓の外の月が満ち欠けを繰り返していた。

 彼女がここに留め置かれた理由は、ただ一つ。尖塔で起きた出来事を、公式の記録として差し出さなかったこと。銀色に透き通る髪の少女。村人たちが囁く魔女の嫌疑。そして、同行の所長フラスニイルが下した、あまりにも静かな判断。

「上層部は、あなたの沈黙を"共犯"と見なした」

 かつて面会に訪れた文官は、塵ひとつない机を指先でなぞりながら、淡々とそう言い放った。

「あなたが見たはずの異能、感じたはずの違和感――それらを"証拠"として上げることを躊躇した。立派な職務放棄であり、王国に対する不敬な隠蔽です」

 ユスティナは、その言葉に反論しなかった。反論できなかったのではない。彼女の内に、反論を支えるだけの確かな言葉が育っていなかったからだ。

 あの少女は、決して毒を持つような危険な存在ではない。けれど、春の陽光の下で安心して背を向けられるほど、この世界に馴染んでもいない。その霧のように曖昧な手触りは、秩序を重んじる王都の理においては、明白な罪に等しかった。

「……フラスニイル所長は?」

「先月末、辞表を提出しました。即日受理です」

 その言葉を聞いたとき、ユスティナの胸を掠めたのは、安堵でも怒りでもなく、身を切るような冷たい予感だった。あの老獪な騎士が、ただ責任を逃れるために盾を置くはずがない。彼は自らの地位を、かつて磨き上げた名誉を投げ打ってでも、何かを――あの尖塔に眠る静寂を守ろうとしているのではないか。

 実際、フラスニイルは王都の中枢を離れ、辺境の地方監査官としてその身を置いていた。肩書きは剥がれ、その権限もかつての面影はない。しかし彼は、尖塔周辺を"特別観察区域"として隔離し、部外者の干渉を拒むための最低限の裁量を、泥を啜るような交渉の末に手中に収めていた。

 石造りの廊下に、新たな足音が響く。その足音には、軍人のような鋭い規則性も、権力者が誇示するような威圧感もなかった。ただ、一歩ごとに迷いを踏み砕くような、静かで確かな歩幅。それだけで、ユスティナは来訪者が誰であるかを悟った。

 かちり、と鍵が外れる。乾いた金属音が、静まり返った部屋にさざ波のように広がった。

「久しぶりだな、ティニー」

 かつての愛称と共に開かれた扉。そこに立っていたのは、潮風と旅の埃を纏った、外套姿のフラスニイルだった。

「……所長」

 反射的に呼びかけてから、ユスティナは唇を噛んで言い直す。

「フラスニイルさん。ここは、面会すら許されない場所のはずですが」

「解除された」

 彼は短く応じ、懐から文書を一通差し出した。羊皮紙の上には、王国の重々しい印章が、まるで血の色のように鮮やかに押されている。

「――"拘束解除。地方監査官フラスニイルの随行を条件とする"……?」

 ユスティナは目を見開いた。文字を追う指先が、わずかに震える。

「随行……つまり、私は」

「私の監督下、という建前だ」

 彼はわずかに肩を竦めた。その仕草には、かつて王都の荒波を渡り歩いてきた男の、渋みのある不敵さが滲んでいる。

「君をここに閉じ込めておく名分が、上層部にとっても限界だったらしい。魔女裁判にかけるには決定的な証拠が足りず、かといって無罪放免にするには、君はーーあの塔の真実に触れすぎた」

「……随分、都合の良い解釈ですね」

「いつの時代も、真実とは不便なものだ」

 フラスニイルは、殺風景な部屋の中を一瞥した。使い古された寝台、影の落ちた机、孤独を絵に描いたような椅子。窓から差し込む灰色の光が、埃を白く浮き立たせている。

「不服か?」

「いいえ」

 ユスティナは、迷いなく首を横に振った。

「正直に言えば、この重たい空気を吸わずに済むのなら、どのような鎖に繋がれても構いません」

「なら、話は早い。身支度をしろ」

 彼はくるりと背を向け、廊下へと続く扉を大きく開け放った。その向こう側には、どこまでも続く石の回廊と、その先に待つ未知の荒野が広がっている。

「行くぞ、ティニー。ライトリムへ。あの、時間が止まったような場所へ戻るんだ」

 彼の言葉に導かれるように、ユスティナは立ち上がった。窓の外の重たい雲の切れ間から、ほんのわずかだけ、北の森を思わせる冷たい風が吹き込んできた気がした。


⬛︎


 馬車の中には、二人分の静かな呼吸だけが満ちていた。王都を離れ、街道を北へと進むにつれて、規則正しかった石畳の振動はいつしか土の柔らかい響きへと変わり、車窓を流れる景色もまた、華やかな色彩を失って素朴な装いへ移ろっていく。

 ユスティナは、窓を叩く冷たい風の音を聴きながら、ぽつりと独り言のように呟いた。

「本当に、戻るんですね。あの閉ざされた村に」

「ああ」

 短い返事と共に、フラスニイルは視線を落とした。その横顔には、王都の政争に揉まれた老練な騎士の影と、それをかなぐり捨てた男の覚悟が、入り混じるように刻まれている。

「尖塔の件……王都はもう、埃を被った"終わった話"として、棚の奥に仕舞いたがっています」

「だからこそだ」

 フラスニイルは即答した。その声は低く、けれど馬車の軋みさえも貫く力強さを持っていた。

「世の中には、終わったことにしてはいけないものがある。蓋をすれば消えるわけではないのだ」

「例えば、それは?」

 彼は一瞬、窓の外を流れる裸の木々に視線を投げ、言葉を慎重に選ぶように沈黙した。やがて、重い口調で答える。

「人が、何にその身を委ね、何に依存し始めたか――という事実だ」

 ユスティナは、膝の上で思わず拳を握りしめた。脳裏に、あの尖塔で編み物をしていた少女の、淡い銀色の後ろ姿が浮かぶ。

「ソラス、ですね」

「名前を出すな。まだ記録の上では、名もなき未確定事案に過ぎない」

 厳しく制しながらも、彼は否定しなかった。

「ティニー、君はなぜ自分が隔離されたと思う?」

「……彼女を魔女ではないと、明確に否定しなかったからでしょうか」

「違うな」

 フラスニイルは、深い森の奥を見透かすような眼差しで静かに言った。

「君が隔離されたのは、疑い続けたからだ。王都という場所は、すべてを白か黒かのどちらかに染め上げねば気が済まぬ。その狭間に広がる灰色を見つめ続ける人間は、彼らにとっては歩みの邪魔になる石ころに過ぎんのだよ」

 馬車が、がたん、と大きく揺れた。轍に落ちた衝撃が、二人の沈黙を揺り動かす。

「改めて聞こう。君は、あの少女をどう思っている」

 不意の問いに、ユスティナはすぐには言葉を紡げなかった。雪のような優しさ。春の陽だまりのような無垢。けれど、その純粋さの裏側に潜む、指先が凍りつくような違和感。

「……危険な存在だとは思いません。でも」

「でも?」

「安全だとも、どうしても言い切れないのです。彼女の側にいると、自分の輪郭までが甘い霧に溶かされてしまうような、そんな気がして」

 フラスニイルは、わずかに口角を上げた。それは、愛弟子が正解に辿り着いたのを見届けたような、微かな微笑だった。

「それでいい」

「……いい、のですか」

「ああ」

 馬車はいつしか深い森道へと入り、高く聳え立つ木々が陽光を遮り始めた。その暗い回廊の先に、あの黒煉瓦の尖塔と、静かに変質を始めた村が待っている。

「ティニー」

 彼は、かつての呼び名で彼女を呼んだ。

「今回の私は、ただの監査官だ。君も、ただの騎士としてそこにいろ。だが」

 一拍置いて、彼は念を押すように続けた。

「あの少女の味方にも、敵にも、なるな。ただの人間として、彼女を見つめ続けろ」

 ユスティナは唇を強く噛みしめ、深く、覚悟を刻むように頷いた。

「……はい」

 馬車は、湿った土を蹴りながら進む。やがて、森の切れ間にライトリム村の輪郭が見えてくるだろう。そこではすでに、忌むべき"銀髪の魔女"の噂は消え去り、救いをもたらす"銀髪の聖女"という熱を帯びた囁きが、人々の間に深く、静かに根を張り始めていることを――二人はまだ、知る由もなかった。尖塔の影が、夕暮れに溶ける森を、静かに見下ろしている。

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