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第二話 

ゴルティ侯爵は焦っていた。


 額に浮かんでいるであろう汗を拭いたいぐらいには焦っていたが高位貴族として感情を表に出してはいけないが。


 王宮に努める中央貴族で、この国に財務の携わっている侯爵である自身が焦りを見せるなど。


 しかも目の前にいるのは北辺境伯の側近とはいえたかが伯爵家。

 

 相手がどれだけの歴史を背負っていようとたかが伯爵家に押されるわけにはいかなかった。


 


 



 北辺境伯の側近の一人である伯爵との接待は、会場の隅に用意されたテーブルで行われていた。


 個室になっている休憩所で行うにはあまりにも他の招待客を蔑ろにする行為なので同じ会場内で用意されたのだ。

 

 何故、目の前の男はこちらの話に頷かないのか?

 伯爵家ならば侯爵家に唯々諾々と従っていればいいものを。

 北辺境伯家の庇護下にあるからと侯爵である私に楯突くなどあってはならないことだ。


 わが商会の者もふがいない。交渉の場に侯爵である私が出る前に話をつけておくのが常識だ。

 使えぬ者達め!

 

 確かに商会を通じての取引は開始され会頭同士の話し合いは持たれていた。

 ゴルティ侯爵は脳内であらん限りの不満を爆発させていたが、侯爵自身が会頭同士の話し合いが済む前に伯爵と話をつけると言い出した事は彼の記憶から都合よく消されたらしい。


 「……ノードセプオン辺境伯様の新規事業は下級貴族や富裕層の平民を対象にしようとしていらっしゃるので、ゴルティ侯爵とはお取引出来ないですね」


 「……下級貴族?平民?」


 一体この目の前の男は何を言っているのか?


 たかが伯爵家だが、それでも高位貴族の端くれだ。


 しかもノードセプオン辺境伯は皇家の分家。

 皇家と同じシュタインブルグを名乗れる皇帝を支える3公爵家の内の1家である。


 その辺境伯が下級貴族や平民という卑しい者を相手に商売など……。


 「……では辺境伯様は下級貴族や平民を相手にされると?」


 「ええすでに新店舗もできており、開店日も決まっておりますので」


 まさかそこまで進んでいるとは思わなかった。


 ゴルティ侯爵が愕然としながら言葉を失ったその時、会場のざわめきが一際大きくなり侯爵の耳にも届いた。


 「では、婚約者でもない男爵令嬢に貴方の色のドレスを贈ったのだとしたら……ふふふ……そういうのを何というかご存知?」

 先ほどエミリオ達に社交の常識を問うた貴婦人が、再び軽やかな声を音にした。


 いったい何が起きているのか?


 ゴルティ侯爵は顔色を変え、商談の妨げにならないようにとテーブルを隠すように楯になっていた護衛の肩を掴んだ。


 「いったいどうした?」


 幾分声を潜めたのは主催者である侯爵自身が会場内を把握していないとの隙を作らないためであった。


 が、すでに彼が介入し穏便に事を治められる時は過ぎ去っていた。


 侯爵は息子の様子を確認しようと視線を向けたが、それよりも早く商談テーブルに座っていた北辺境の伯爵――ボレトーデ伯爵――が立ち上がった。


 「ゴルティ侯爵殿。この度はご招待感謝いたします。しかしながら、ノードセプオン辺境伯様は、『貴族とは国と民を守り慈しみ富ませる者』という理念をお持ちです」


 侯爵は一歩会場中央に向かいかけたが伯爵の声で振り返った。


 そこには、自信にあふれ力強い笑顔の伯爵がいた。その口の端に侯爵への蔑みが見えた気がした。

 


 「本日、侯爵殿との話し合いの内容とこの会場の事も合わせて辺境伯様へ報告させて頂きます」


 侯爵の額に、脂汗がにじみ出る。表情も取り繕えなかった。


 まずい!とゴルティ侯爵は思ったがボレトーデ伯爵の素早い動きには反応出来なかった。


 ボレトーデ伯爵はゴルティ侯爵の脇をすり抜けて他の招待客に注目される事もないまま風のように侯爵邸から去っていった。


 

 ボレトーデ伯爵との事を振り切るように騒めきが収まらない広間の中央に急ぎ足で向かった。

 

 未だ事態の収拾を図れると思っていた彼に注がれたのは、招待客からの冷たい視線だけだった。


 侯爵は、背筋に冷たいものを感じながらも笑顔を作った。


 「皆さま、騒がせて申し訳ない。我が息子の稚拙な行い――」


 若さを強調した言い訳を始めた瞬間だった。


 「あら?若気の至りとでも言われるおつもり?」

 

 柔らかながら凍てつく声が響く。


 まさか!


 「先日の議会以来ですわね」


 ゴルティ侯爵は声をかけられた方を振り向くと、先日皇帝陛下の臨席された貴族院議会で顔を合わせた相手がいた。


 社交界の女王、と姉妹で言われている、貴族学院で最優秀を取った元侯爵令嬢――現女侯爵が嫣然と笑っていた。


 厄介な……。


 彼女を見かけると何時も思う事だ。


 「ち……父上!」


 ゴルティ侯爵令息エミリオは、当主である父親に愛されていると思っていた。


 何時もよくできた息子よ。と叱責を受けたことなどなかったから。


 彼には母親の違う姉がいたが、彼女と違って溺愛されていたからだ。


 屋敷の内でも学院内でも。


 彼はいつでも思う通りに行動できていた。


 父親は「皇帝陛下の寵臣」であったから。


 それなのに……。

 


 「こいつらが! この身の程知らずな平民上がりの子爵家の庶子とハートレイ家の息子とあの下位貴族の女が、僕とアリアーナを侮辱したのです! 父上!父上の権限を使って彼らを捕らえてください! 僕たちの名誉を守るために!」


 会場中の視線が、ゴルティ侯爵に突き刺さる。

 

 それは尊敬や羨望ではなく、憐れみと軽蔑を含んだ冷たい視線だった。


 侯爵は、震える唇を開こうとした。だが、それより先に扇を閉じる乾いた音が響いた。


 「……ご子息は未だに貴族議会に出席できる者達を認識出来ていらっしゃらないのね、嘆かわしい事」


 その指摘に、侯爵は心臓が止まるかと思った。


 帝国はその広い領土を束ねるために各地方単位で派閥を形成しており、各派閥の長である寄り親貴族家が下位貴族達の要望をもって皇都で行われる貴族議会に出席する。


 貴族議会に出席できるのは、各派閥の長である高位貴族と王宮に努める各省庁の大臣と副官である。


 例え貴族議会に出席する家格ではなくとも、議会での発言権のある貴族家当主を覚えるのは貴族として当然の事である。


 貴族としての初歩的な常識すらないのだと指摘を受けたのだ。


 いくら学院での成績が良くても社交で通用しない……のなら「貴族として」は認められないだろう。


 寵愛している息子への次期侯爵家当主として失格を突き付けられたのだ。


 「……ル、ルチア・フォン・ヴァルメイル女侯爵……」


 ゴルティ侯爵の喉がひきつらせながらなんとか名前を絞り出す。


 彼女はにこやかに首を傾げ、まるで皇宮で行われる新年の舞踏会で挨拶するかのような優雅さで歩み寄った。

 

 しかし、その周囲の空気はひやりと冷え込み、貴族たちは自然と道を開ける。


 社交界の女王と呼ばれる姉に並び立つ、もう一人の“魔性”。

 

 皇帝陛下の信任厚い法律顧問官でもある。


 ゴルティ侯爵にとって最も会いたくない相手の一人だった。


 「先日の議会では、国庫の流れについてご説明いただきありがとうございました。おかげで陛下のご不興を買われていたようですが……今日のご様子では、まだお加減は戻られていないのかしら?」


 くす、と微笑むその声は甘いが、刃物のように鋭い。


 周囲の貴族たちが息をのむ。


 ――陛下のご不興――。

 

 その一言が、侯爵の背筋を凍らせた。


 「ヴァルメイル女侯爵、その件は……今ここでは……」


 「ええ、主催者としてはこれ以上評判を落としたくないお気持ちでしょうね。……ところで、先ほどから拝見していましたが」


 女侯爵はくるりと軽やかに首を回し、会場中央で青ざめて固まったエミリオたちに視線を向けた。


 「婚約者を公衆の面前で可哀そうな男爵令嬢を虐げたと断罪するほどの正義感あふれた方が、自らが行った行為の責任だけは取られないのですね?」


 エミリオの顔が真っ赤になり、次いで真っ青になった。


 「ぼ、僕はただ――!」


 「ええ、最初から拝見していましてよ。庶子の少女を助けてあげている正義の味方……ふふ、けれども先ほどの子爵令嬢の言葉は興味深かったですわね」


 彼女はマチルダの方へと視線を移す。


 マチルダはセルジュの後ろから、ちらりと顔を出していた。


 「ローダンヌ子爵家のマチルダ嬢でしたかしら?貴女の仰ることはどれも貴族として当然の倫理です。――とても、平民として育ったとは思えないほど」


 会場が静まり返る。


 女侯爵の声音は柔らかいが、その奥にははっきりとした意図があった。


 (この少女は……ただ愛らしく囀っているわけではない)


 多くの者がそう悟り、マチルダへ向ける視線が変わる。


 「それに比べて――」


 女侯爵は視線を男爵令嬢に向けた。


 「虐げられている。という設定で通されているようだけれど……常識がわかる相手には通じなかったわね」

 

 誰かが小さく吹き出した。


 その瞬間、空気が決定的に傾いた。


 男爵令嬢は必死に唇を震わせた。


 「わ、私は……ち……違う……っ」


 女侯爵の瞳がエミリオに向く。

 その眼差しは、どこまでも冷酷だった。


 「婚約者への侮辱、家同士の信用問題、そして男爵家への名誉棄損もあるのかしら?」


 会場の空気が固まる。


 女侯爵はゆっくりと唇を開いた。


 「保護者の許可がない社交場への参加ですもの、未成年者誘拐の疑いにも該当しますわ」


 男爵令嬢の顔が真っ青になる。


 周囲の貴族が息を呑み、ざわめきが波打つ。


 女侯爵はそっと扇子を閉じ、完璧な笑みを浮かべた。


 「さて、説明をお願いできるかしら?――ゴルティ侯爵。あなたのご子息の軽率な行為について」


 ゴルティ侯爵の膝が震えた。


 もはや会場内を収めるどころか、自ら炎上の中心に立たされている。

 という事実に、初めて気づいた。


 だが、すでに遅かった。


 「ち……父上!何とかしてください!父上なら……! 」

 「黙れェッ!」


 バチンッ!!


 会場に、肉が弾ける破裂音が響き渡った。

 ゴルティ侯爵の手が、エミリオの頬を全力で打ち抜いていた。

 エミリオは無様に床へと転がり、男爵令嬢が短い悲鳴を上げる。


 「ち……父上? なぜ……」

 「貴様、自分が誰に向かって口を利いているか分かっているのか?ヴァルメイル侯爵家のご当主だ!」


 ヴァルメイル侯爵家。皇帝の側妃の実家で皇妃の派閥の重鎮だ。

 現当主は、側妃の妹だが貴族議会でも発言権を持つ帝国でも古参の高位貴族だ。


 「ヴァルメイル女侯爵!愚息が申し訳ない。後継者教育を再度厳しく行うので今回の事は不問にしていただけないだろうか」


 「ヴァ……ヴァルメイル侯爵?!このおん……」

 「馬鹿者!口の利き方に気をつけろ!!」


 エミリオの顔から、完全に色が消えた。

 

「あら……ゴルティ侯爵、私への謝罪が先なの?貴方が謝罪するのは私よりも御子息の婚約者であるアルシーヌ伯爵家へではなくて?」


 それともゴルティ侯爵家には『高潔さ』も『誠実さ』もないのかしら?




 女侯爵の声音はやわらかいのに、会場の空気を一息で氷点下に落とす。

 誰もが悟っていた。ここから先は単なる失言では済まされない、と。


 女侯爵がパチンと音を立てて扇を閉じた。そのままスッ……と自身の後ろを指示した。

 そこにはアルシーヌ伯爵とエミリオに罵倒されていた令嬢――ミレーユ――が立っていた。


 アルシーヌ伯爵家当主――ガブリエル・フォン・アルシーヌ伯爵。


 白銀の刺繍が施された正装をまとい、撫で付けた前髪の一筋が白髪。

 氷のように冷静な榛色の瞳がエミリオを見据える。

 その視線には怒りすら宿っていない。怒る価値もない、という静かな断罪だけがあった。


 彼の後ろには、エミリオが軽んじ断罪しようとした婚約者。

 薄桃色のドレスを纏い凛とした気品を放ちながらも、どこか傷ついた影が差している。


 伯爵は、ゆっくり女侯爵へ一礼し、そして会場全体に向き直った。


「まさかこんな騒動が起きると思わず娘を一人にしてしまいました。私共がこの様な騒動になる前に対処すべきところを……ヴァルメイル侯爵閣下のお手を煩わせてしまった事お詫び申し上げます。ゴルティ侯爵、そしてエミリオ殿。わが娘に向けられた侮辱は、もはや謝罪だけでは済まぬ事と認識されているだろか」


 その一言に、静かな震えが広間を走った。


 エミリオは何か言おうとして口を開きかけたが、声が出ない。

 父であるゴルティ侯爵も同じだった。

 二人とも自身のテリトリーの社交場で弱者の立場に立ったことがなく、ただその場に立ち尽くしかできなかった。


 女侯爵は扇を軽く開き、楽しげとも艶やかともつかない微笑を浮かべる。


「アルシーヌ伯爵、謝罪は受け取りました。でも、乗りかかった船ですもの、このまま両家の裁定の見届け人として関わらせていただきますわ」


 伯爵は短く息を1つ、恭しく頭を下げた。


「まずは婚約の破棄の話し合い。そして、ゴルティ侯爵家には娘への暴言と名誉棄損についての正式な謝罪と、相応の償いを求めます」


 落ちた言葉は柔らかいのに、床石より重かった。


 


 


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