第一話
その日、皇都にある侯爵家で令息の誕生パーティーが催された。
会場は煌びやかな装飾と貴族たちの笑顔に包まれていた。
侯爵家当主のパーティー開始の挨拶が終わり、本来なら子息の婚約者である伯爵一家への挨拶に行かなければならなかった。が、
先日経営している商会絡みで付き合いを開始した北辺境地の伯爵家当主をを今回のパーティーに招待していたためそちらの挨拶を優先したのだ。
この伯爵家は皇家の分家である北辺境伯――中央では公爵家待遇――の寄子貴族である。
北辺境伯への足掛かりになると思えば疎かに出来ない相手であった。
その為その時当主は気づかなかった。
この日の主人公である息子の隣に婚約者である伯爵令嬢が立っていなかった事を。
そして、飲み物も食べ物も一通り出席者が満足したころあいに、この日の主人公である侯爵令息が自身の婚約者である伯爵令嬢に向かって婚約破棄を高らかに宣言した。
「彼女をいじめていたそうだな!お前のような腐った性根の持ち主とは婚約を破棄する!」
いつの間にか音楽が止まっていた会場に、令息の声が響き渡った。
その隣に立つのは、最近男爵位を叙爵された家の令嬢。
婚約破棄をされた伯爵令嬢は声もなくその場に立ち尽くし、招かれた貴族達の笑顔がこわばった。
静まり返った会場内はその後の成り行きを見守るように沈黙が支配した。
(ふん!相変わらず愛想のない女だな。髪も目も黒一色で薄気味悪い。あんな女だからこそ身分が低いというだけで稚拙な嫌がらせをするのだろう)
「エミリオ様ぁ怖いです~。ミレーヌ様に睨まれました~」
淡いエメラルドグリーンのドレスを身に纏った男爵令嬢を庇うように彼女の腰を引き寄せた。
「身分をひけらかして下位の者をいじめるなど、皇帝陛下のお側でお仕えし、この帝国を支えている中央貴族の首座である我がゴルティ侯爵家には相応しくない女だな!」
今日の主役である侯爵令息の側に立っている子爵令息が声を荒げた。
「伯爵家と言っても辺境地の田舎者!この皇都の社交界に参加できる素養があるはずがない、そんなだから我ら下位貴族を見下すような性根をしているんだ!」
糾弾された伯爵令嬢は身じろぎ一つせずに立ち尽くしていたがドレスの前で両手で持っている扇がかすかに悲鳴を上げた。
この広い会場ではそのことに誰も気づきはしなかったが。
(まったく立ち尽くすだけか。相変わらず頭も足りない女だな。この女のどこが良くて父上は私に縁談を結ばせたのだろうか。全く父上のお考えがわからない)
そのような状況で恐る恐るではあるが可愛らしい声があがった。
「……あんな大声で婚約破棄を宣言されるなんて……怖いですぅ……」
会場にいる人々が声のする方へと視線を向けると、大きな瞳に涙を浮かべた令嬢が蛇に睨まれた小動物のように震えていた。
ピンク色をした天然パーマの髪がふわふわと揺れている。
年の頃は14.5歳かしら?どちらのご令嬢?と目の前で起きた婚約破棄騒動など蚊帳の外に追いやり声のする方に視線を向けた。
「なんて可憐な……」 「守ってあげたくなる……」 「誰だ、あの子は……?」
人々の声が空気を震わせ騒めきだした会場内で、貴族学院に今年転入してきたばかりの子爵家の庶子のようだ、との声が。
そういえば、噂には聞いていたな、と記憶をたどる仕草を何人かがしていた。
周囲の男性陣は一斉に色めき立ち、視線は彼女に釘付けになった。
声を上げた侯爵令息も例外ではなかった。
(男爵令嬢も可愛いと思っていたが……この子は……万倍……いや、億倍……!)
男爵令嬢がその隣で顔を引きつらせていた。
「セルジュ様ぁ~、私ぃあの方々を学園でお見掛けした事があるんですがぁ。伯爵令嬢が男爵令嬢に婚約者のいる男性にむやみに触れてはいけませんっておっしゃられてたんですぅ。それっていじめになるんですかぁ?私だったらセルジュ様にそんな横恋慕する方がいたら泣いちゃいますぅ~。私のセルジュ様に触れないで!って言っちゃいますぅ。それもいじめなんですかぁ?」
子爵令嬢が隣に立つ婚約者の伯爵令息に向かって心底不思議そうに聞いていた。
「ミリィの言っている事は正しいよ」
ハートレイ伯爵令息セルジュの声は穏やかで、まるで春の陽だまりのようだった。
マチルダはその言葉に、ぱぁっと顔を輝かせたが、すぐにまたしょんぼりと眉を下げた。
「で……でもぉ~、先日お義姉様が”男は皆裏の顔があるのよ、ミリィも気をつけなさい”って、おっしゃってたの……。ミリィはセルジュ様はそんなことしないよ!ってお義姉様に言ったんだけど聞いてもらえなかったのぉ」
それに……とさらに続けて「でも侯爵令息様も真面目な方のようなのにぃ、こんな大勢の前であんな事言うなんてぇ……ミリィだったら泣いちゃうもん」
「確か君ローダンヌ子爵が最近引き取ったという元平民だよね。アリアーナは君と同じ庶子だが実家で男爵夫人や兄弟たちから虐められている可哀想な人なんだよ。そんな状況の彼女を助けてあげている僕たちを悪者にするのかい?」
侯爵令息の取巻の一人である寄り子マルデア子爵令息が声を上げた。
「……可哀想なアリアーナに寄り添えないなんて。可愛い顔をしているが性根が腐ってるんだな」
マルデア子爵令息ロイスが一歩マチルダに詰め寄った。
「こ……怖ぁい、セルジュ様ぁ~」
セルジュは婚約者を自身の後ろに隠すようにロイスの前に立ちふさがった。
「やめろ。私のミリィを傷つけるというならハートレイ伯爵家から君の家に抗議させてもらうよ」
セルジュは嫡男ではないが、領地も持たない宮廷貴族の子爵家が帝国軍皇都守備隊第二師団隊長であるハートレイ伯爵家に敵うはずがなかった。
「…………男爵令嬢ってお肌も透き通るように透明感があるし、髪もつややかできれいだしぃ」
セルジュの後ろに隠れたはずのマチルダの声があがった。
「学院でも、髪飾りは流行の高級品をつけているって、女の子皆羨ましぃって言ってるよ。」
「ミリィのお家も裕福だしお父様も可愛がってくれるけどあんなにすごいアクセサリー買ってくれないよ。男爵家ってすごいのね」
マチルダの声は大きくはないが広い会場で衣擦れの音もしない程の静寂の中、皆の鼓膜を響かせるのには十分であった。
その中の一人の貴婦人が「そうねえ。虐げられているという割には肌艶がいいわね」と声を上げた。
貴婦人の一言が、場の空気をさらに冷たくする。周囲の視線が男爵令嬢に集まり、同情から懐疑へと変わっていった。
侯爵令息とその取り巻き達の顔色が険しく、一層マチルダを睨みつける。
セルジュの後ろから顔をのぞかせていたマチルダは、きゃ!と声を上げて隠れた。
セルジュは後ろに向き直り、安心させるようにマチルダの肩に手を置いた。
「大丈夫だよ、僕が守る、ミリィは間違った事は言っていないのだから」
その言葉に、会場の空気は完全にハートレイ伯爵家側へと傾いた。
その静寂を打ち破る鳴き声があがった。
「ひ……ひどいですぅ!!」
男爵令嬢が侯爵令息の右腕に縋り付き、顔を伏せた。
「ゴルティ侯爵家に繋がる方々は優しい方たちばかりだと思っていたのにぃ………………」
その言葉に、会場の空気が一瞬揺れた。まるで“ゴルティ侯爵家”という名を盾に、周囲の同情を引き寄せようとしているかのようだ。
「あら?あなた方に賛同しない人たちは皆意地悪な方ということ?」
先ほど声を上げた貴婦人が答えた。あらあら困ったものねーと軽く溜息1つ。
「それより貴方。今日はどのようにしてこちらにいらっしゃったの?」
男爵令嬢の泣き声や侯爵令息たちの非難にも関心がない素振りでの話題転換。
鳩が豆鉄砲を食らったように男爵令嬢は顔をあげた。
「……どうやって?」
「ええそうよ。今日のパーティーは貴方たち学生が開いたお遊び会ではないわ。ゴルティ侯爵家が開いた社交場よ。未成年である貴方達には保護者もご一緒のはず。どちらにいらっしゃるのかしら?」
「実家で虐げられている彼女が保護者と同伴できるはずがないではないか!」
ゴルティ侯爵令息のそんな事も分からないのかといった傲慢さが言葉の端々から窺えた。
「それなら未成年者が一人でどうやって潜り込めたのかしら?招待状を持っていたって大人の社交場には入れない事、ご存知でないの?」
その声音は、それまでと同じように非難ではなく“常識の確認”。
だが、その一言で会場の空気は一層凍り付いた。
「確かに……」 「保護者なしで?」 「侯爵家の名を使って……?」
ヒソヒソと貴族たちの笑顔の奥の囁きが、男爵令嬢の周囲を包み込む。
彼女は言葉を失い、ただ俯いた。
そして――マチルダが、ふわりと微笑んだ。
「ミリィは、ちゃんとお父様と一緒に来ましたぁ。お父様、ミリィのドレス選びにも付き合ってくれたんですぅ」
その言葉が、まるで“正しさ”の象徴のように響いた。
「わ…………私が迎えにいったんだ!」
ゴルティ侯爵令息エミリオが声を荒げた。
しかし彼らは気づかぬうちに追い詰められ逃げ出すことも叶わない袋小路に誘導されていた。
取巻たちは、エミリオの言葉にうなずき、賛同の声を上げる。
「しゅ……主催者であるエミリオ様がご一緒されたんだ!未成年だから入れないなど出たらめをいうな!」
何処の貴族家の御夫人かわからないが、成人した相手に未成年が噛みつく事などできないのは流石にエミリオ達でも理解していた。
それを理解していたエミリオ達が噛みつけるのは自身よりも下位の存在だけだった。
「男爵令嬢のシミ一つない透き通った肌に侯爵令息様の色のドレスはよくお似合いですぅ~。」
高位貴族の子息に目をつけられているのを理解しているのかどうなのか?
マチルダは、楽しそうに声を上げ続けている。
その言葉に、貴族たちは再びざわめき始める。
「あら本当だわ……侯爵令息様の色ね」 「つまり、あのドレスは贈り物……?」 「……婚約者を差し置いて……なんて……」
男爵令嬢は、唇をかみ、俯き続けていた。
その美しい肌も、艶やかな髪も、今や“証拠”として見られていた。
エミリオは、マチルダの瞳に見つめられながら、言葉を探すが――音には出来なかった。
こんな頭の弱そうな女に学院で五位以内をいつもキープしているこの僕が!
皇太子殿下の側近にも選ばれるであろうこの僕を陥れようとするなど!
あんな下位貴族の分際で!
あの女も貴婦人然としているが卑しさが隠しきれていないぞ!
頭の中で、思うようにいかない現状に周囲への激しい罵倒を繰り返していた。




