第三章:影の騎士の苦悶と王子の誘惑
Ⅰ. 王子の光と、婚約者の影
王宮の午後の茶会。優雅な貴族たちが集うその空間は、ユリウス・エストレイア王子の深紅と黄金の装いによって、最も華やかに彩られていた。彼の輝くエメラルドグリーンの瞳は、一貫してセレネアを見つめている。
アルティスは、壁際の影となる場所に立ち、冷たい藍色の瞳で広間全体を監視していた。彼の役割は、形式的な「お飾りの婚約者」であり、セレネアから一定の距離を保つことこそが「職務」だった。
ユリウス王子は、セレネアの隣の席に座り、彼女の白金の髪を称賛するように優しく微笑んだ。
「セレネア公女。ノクス公は、まるで貴女の影のように遠い場所にいらっしゃる。やはり月は太陽から離れてこそ美しいとお考えで?」
ユリウスはわざとらしい笑みを浮かべ、アルティスの方を一瞥する。
セレネアは、王子の熱を帯びた視線に居心地の悪さを感じながらも、「お飾り」の聖女の微笑みを崩さない。
「アルティス公は、王家の秩序と、わたくしの不安定な魔力の均衡を保つという、最も重要な職務を担っておられます。その冷徹な距離こそが、彼の誠実さの証でしょう」
(距離。そう、彼は距離を置いている。あの夜、私の手を握ってくれた優しさも、すべては職務のフリだったのね。このユリウス様の熱は、私を飾るには安心できる熱だわ……)
ユリウスはそれを聞くと、笑い、さらにセレネアに身を寄せた。
「では、その冷たい月の職務から解放される時間まで、この太陽の側を、私に温めさせていただけませんか?」
Ⅱ. 燃え上がる嫉妬
ユリウス王子は、優雅な仕草でセレネアのティーカップを受け取ると、その栗色の髪を優雅に揺らし、彼女の手首にそっと触れた。
その瞬間、遠く離れたアルティスの全身の魔力が、警鐘を鳴らすように激しく反応した。
( 触れるな。その手で、あの夜、私が救い、鎮静させた光に、公然と触れるな! この男の魔力は、野心と所有欲の熱だ。セレネア様を、王家の道具として、自分のものとして、灼き尽くすつもりだ)
アルティスは、完璧に無関心な姿勢を保ったまま、指先に月魔法を凝縮させた。彼だけが知る、ユリウス王子が最近好んで身につける魔力的な装飾品の結界に、極めて微細な「影の浸食」を仕掛ける。
( ――職務だ。彼女を守るための職務だ。感情ではない。この冷たい仮面を、絶対に崩すな)
彼の冷徹な藍色の瞳と、ユリウス王子の輝くエメラルドの瞳が、一瞬だけ、広間を挟んで交錯した。
ユリウス王子は、その瞬間、突然、微かな頭痛と眩暈に襲われた。彼の体内に宿る魔力が、一瞬だけ冷たい影に蝕まれたような感覚。
「……っ」
ユリウスは表情を崩しそうになり、慌ててセレネアから手を離した。
「失礼、公女。どうやら、少し疲労が溜まっているようだ」
「殿下……?」セレネアは、彼の突然の変化に戸惑う。
Ⅲ. 影の勝利と真実の渇望
ユリウス王子は、王族としての尊厳を保つために、セレネアに詫びて席を立った。彼はアルティスの方をもう一度冷ややかに見ると、広間を去っていった。
王子の熱が去り、安堵が訪れる。そして、遠くに立つアルティスを見た。 彼はこちらを見ていない。ただの冷徹な「お飾りの婚約者」だ。
(でも……なぜ、ユリウス様が離れた瞬間、私の心があの夜の清涼な月の光を渇望したのだろう?)
アルティスは、その場に立ち尽くし、冷たい汗をかいていた。
( 成功だ。王子の魔力結界の微細な崩壊は、彼の体調不良として処理される。これで、今夜のセレネア様への魔力鎮静の接触まで、彼女の安全は確保された。 だが、あの男の焦がれる熱は、私の嫉妬を、これほどまでに揺さぶるのか)
彼は、誰にも悟られぬよう、自身の銀色の指輪をきつく握りしめた。
「職務だ」と、彼は自らに言い聞かせる。
「職務として、あの光を、この影で守り抜く」
そして、彼は、今夜の「儀式」で彼女に触れる数秒間だけが、彼に許された唯一の親密な時間であることを知り、その夜を待つのだった。




