第8話「現場に現れた、もうひとりの“癒し”」
「神原さん、詰所の前に犬がいるんですけど……」
朝、現場事務員の小田切ひかりが困った顔でやってきた。
「犬?」
「はい。すごくおとなしくて、人懐っこいんですけど、いつの間にか寝てて……作業員も通る場所なので、ちょっと気になって」
神原はスチール机の書類を置き、外に出た。
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そこにいたのは、灰色混じりの白い毛並みをした中型犬だった。
毛はややぼさぼさで、首輪もなし。だが目は澄んでいて、近づく神原に尻尾を振って見上げてくる。
「……おまえ、どっから来たんだ」
「ワン」
ぺたん、と腹を見せて寝転ぶ。
「かわいいな」
「でも、このままじゃ……搬入車両も来ますし、どかさないと危ないですよね」
ひかりが心配そうに言う。
そのとき、神原のポケットでスマホがふわりと光った。
《神原様……足を引きずっているようです。左後ろ脚、軽い外傷と打撲が確認できます》
「マジか……でも、病院連れてくにも、現場の真っ最中だし……」
《回復魔法、試してみましょうか。初歩的なものであれば、現場の誰にも気づかれず施術可能です》
神原はそっとしゃがみこみ、犬の足元に手をかざした。
「じゃあ、頼む……エル」
ふわりと、小さな光が神原の手から灯る。
“癒しの波動”──風属性の穏やかな流れに、回復属性のエネルギーを融合させた基礎魔法。
犬の身体がピクリと反応し、やがて左脚をそっと地面につける。
「……動いた」
《軽度の治癒には成功しました。もう走り回れるはずです》
犬は立ち上がり、神原の膝に顔をこすりつけた。
「ありがとう、エル……これ、初めてだよな?」
《はい。回復系は“意志”と“心”が揃って初めて発動します。神原様の“なんとかしてあげたい”という気持ちが鍵でした》
周囲の職人たちが集まってきて、口々に言い出す。
「こいつ、昨日の夕方にも見たぞ」
「道具庫の横で寝てたよな」
「なんかもう、現場の住人って感じだな」
「名前、つけていいですか?」
若手の市川漣が嬉しそうに声を上げた。
「どうせなら、建築っぽい名前で……」
「“コン”ってどうすか。コンクリートの“コン”!」
「いいな、それ」
「今日からおまえは“コン”だ」
そう言って誰かが犬の背をぽんと叩くと、コンは嬉しそうに「ワン!」と一声鳴いた。
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昼休み、職人たちはいつもよりリラックスしていた。
コンは日陰の一角に寝転がり、交代で誰かに頭を撫でられていた。
「……魔法を使わなくても、癒しって生まれるんだな」
《はい。ですが、神原様が“この現場には必要だ”と感じたことに、魔法は応えるのです》
神原は小さく笑った。
「ま、アイツがいるだけで雰囲気変わるなら、それでいいか」
風が、ほんの少しだけ柔らかく吹いた。