第7話「バフのやりすぎ注意報」
「神原、今日の作業、午前中で終わらせられたら最高なんだけどな」
朝の詰所で、丸山課長がぽつりとつぶやく。
「高所作業の足場解体、電気屋の先行配線、それに5階の天井下地……全部今日動かすだろ? 人も道具も被ってる。昼には整理つけたいんだよ」
「……あんまり無茶言わないでくださいよ」
神原は苦笑しつつ、現場に出た。
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──朝礼。
全職人が集まる広場に、緊張感が漂っている。足場班、電気屋、内装、設備、それぞれが殺気立った顔をしている。
「今日は一気に工種が重なります。事故だけは絶対に起こさないように」
神原はそう言って一呼吸置いた。
「……それと。俺からひとつ、お願いがあります」
ヘルメットに手を添え、そっとつぶやく。
「この現場が、今日だけは、ひとつの流れになりますように」
「ご安全に!」
その瞬間、見えない風が一陣、会場を通り抜けた。
──建設現場の朝礼では、安全確認や作業内容の共有の後、掛け声として「ご安全に!」という言葉が交わされるのが通例だ。
これは「今日も無事故で帰ろう」という合言葉であり、職人同士の気持ちを一つにする魔法のような言葉でもある。
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7:45、作業開始。
そこからが、異様だった。
足場班は無駄のない動きで、段取りが秒単位でハマる。
電気屋は図面を見ずともルートが頭に入っているかのように動く。
天井下地班は道具を出す前に必要な位置が見えている。
「……なんだこれ」
神原は、どこか異常なテンポで進んでいく現場に、うっすらとした不安を覚えていた。
10:30。予定の2倍以上の進捗。
11:15。全工種、予定作業を完了。
神原はあっけにとられた。
辰巳がポケットからタバコを出しながらぼそっと言った。
「今日、地に足がついてる感覚がしなかったな……作業は全部終わったけど、なんか逆に怖ぇよ」
高槻も近づいてくる。
「……神原さん。今日は、現場全体の動きが妙に噛み合ってました。何か特別な指示、出してました?」
「いや、特には。まぁ、偶然かもな」
「……そうですか。なんだか、空気が違ってたように思えましたけど」
高槻は首をひねりながらも、それ以上は踏み込まなかった。
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昼、現場はもう何もすることがなかった。
職人たちは早上がりになり、神原は事務所でコーヒーを飲みながらエルに話しかけた。
「……やりすぎたな」
《はい。今日の現場は“整いすぎて”いました。作業効率は確かに最高潮でしたが、職人たちの思考や判断力まで“依存状態”に近づいていました》
「魔法で仕事を奪っちゃ意味がねぇ」
《はい。現場の力を引き出すことはできますが、代わりに“考える力”を止めてしまっては、本末転倒です》
神原はコーヒーをひと口啜った。
「……じゃあ、次はもう少しだけ、人の“背中を押す”くらいにしとくよ」
外では、昼過ぎの太陽がのんびりと外部足場を照らしていた。