第5話「ひとときの静けさ」
冬の朝。珍しく、現場は静かだった。
資材も揃い、作業も順調。トラブルの兆しもなく、時間が穏やかに流れていた。
神原匠は、その日、久しぶりに“監督らしい監督”として現場を見回っていた。
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通路の先では、後輩の高槻が無言でチェックリストを片手に立っていた。
「おーい、高槻。段取り、順調か?」
「問題ありません。次の型枠組み立て、30分後に開始予定です」
淡々とした返事。表情も読めない。
だが、神原は知っている。高槻は、どんな小さなズレも見逃さない男だ。
「お前のその精密さ、俺が一番信頼してるからな」
「……そう言われると、逆に不安です」
くすりと笑って、神原は歩を進めた。
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東面では、ベテラン職長の辰巳が若手職人たちに怒鳴っていた。
「おい市川! そんなとこで腰落とすな、転落すんぞ!」
「すんませーん!」
ひらひらと手を挙げて謝る市川。だが手元はしっかりしていた。
神原が声をかける。
「辰巳さん、今日も気合い入ってますね」
「ああ。現場で一人でもケガしたら、お前の顔に泥塗ることになるからな」
口は悪いが、責任感と気遣いの人。それが辰巳だ。
神原はヘルメットのつばを上げ、小さく会釈した。
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現場事務所では、小田切が書類を整理していた。
「神原さん、お疲れさまです。今朝の生コン納品書、ここにまとめておきました」
「助かる。ほんと、小田切さんがいなかったら、俺たち全員書類で死んでるよ」
「それ、ちょっと笑えないです」
癒し系の存在。それでいて、細かい仕事に一切ミスがない。
現場が円滑に回る理由は、こういう縁の下の力持ちがいてくれるからだ。
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昼。神原はコンテナの奥で弁当を広げた。風は冷たいが、日差しは柔らかい。
スマホを開くと、そこには小さなウサギのようなマスコット。
エル。
《本日も順調のようですね》
「おかげさまでな。こういう日が続いてくれると、現場監督も老けずに済むんだけどな」
《たまには、心を休める時間も必要です。……それに》
「ん?」
《私は、あなたと“こうして話す時間”も好きですよ》
神原はちょっと照れたように笑って、弁当をつついた。
「……エル、おまえさ。結局、なんでこの世界に来たんだ?」
エルは少しだけ目を伏せた。
《……魔王との戦いの末、私は魔力を使い果たしました。魂の形だけになり、消滅しかけたその時……あなたの世界と、あなたの“心”が、私を呼んだのです》
「俺が?」
《あなたの心の中に、“力が欲しい”という強い想いがありました。それが、最後の力の矛先になったのでしょう》
神原は、しばらく黙っていた。
「……なんか、恥ずかしいな」
《恥じることではありません。あなたは、今もその想いのまま、現場に立ち続けています》
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午後。
神原は事務所でPC作業をしていた。
目は重く、背筋もこわばる。
そのとき、ふわりとスマホから光が漏れた。
「……エル?」
《あなたの魔力に、新たな動きが出ています》
「また属性?」
《“強化系”の兆候です。あなたの気配が、周囲の作業員たちに“活力”を与えている》
「……気のせいじゃねえの?」
《いいえ。あなたの“現場を良くしたい”という思いが、無意識に影響を与えているのです》
神原はモニターの向こう、作業場で黙々と動く職人たちを見た。
いつもより動きが軽やかに見える。
「……まさかとは思うが、これが魔法なら……面白くなってきたな」
スマホの画面で、エルが微笑んだ。