コインロッカー
駅から外へ出て、夜の空気に触れた瞬間、男はまるで長い旅から戻ってきたような感覚に包まれた。
実際には、出かけていたのは半日にも満たない。それでも、夜風が運んでくる排気ガスと潮気が混じったような匂い、煌々と輝くスナックやコンビニの看板、歩道の端に傾いて放置された自転車までもが妙に懐かしく感じられた。
ずっとスーツケースを引きずっていたせいだろうか、鉛でも飲み込んだかのように体がずっしりと重く、肩や腕にはじんわりと鈍い痛みがあった。
男は夜空を仰ぎ、長い息を漏らした。
――まだだ。まだ気を抜くのは早い。片付けなければならないものが山ほどある。
心の中でそう呟き、もう一度深く息を吐いて、男は歩き出した。
自宅に向かって人けのない細道を進む。まばらに灯る外灯はどこか頼りなく、一つはちらついている。足元にはぺしゃんこに潰れたペットボトル。大通りを行きかう車やバイクの音から離れ、陰に身を沈めていく感覚が、どこか落ち着く。
――ロッカーか。
穴の空いた黄色い雨除けテント。その下に佇む古びたコインロッカーに視線が流れた。
かつては白だったと思われる塗装は黄ばみ、角のあたりは剥げ、そこから赤錆が滲み出し、地面に細かい欠片を散らしている。
――ロッカーに預けておくのもアリだったかもな……ん?
「消える……?」
そのうちの一つに、くしゃくしゃになった白い紙がガムテープで雑に貼られていた。
【使用禁止! このロッカーに入れた物は消えます】
男は鼻で笑った。ありえないだろう。都市伝説じゃあるまいし……。
男はそう思い、そのまま通り過ぎようとした。だが、ふいに足が止まった。
ほんの気まぐれだった。鞄の中に手を入れ、帰りの電車の網棚からなんとなく拾った雑誌を取り出し、ロッカーに放り込んだ。硬貨を投入口に滑らせると、ロックは問題なく作動し、鍵もスムーズに抜けた。使用禁止は書かれているが、一応使えるらしい。見た目通り、管理がずさんなのだろう。
――何やってんだ、おれは……。
男は自嘲気味に笑い、その場を離れた。しかし――。
「こんなことが……本当に……」
翌晩、再びロッカーを訪れた男は息を呑んだ。
中に入れたはずの雑誌が、跡形もなく消えていたのだ。一瞬、入れた場所を間違えたのかと思ったが、鍵の番号は一致していた。
――試してみるか……。
男は一度自宅へ戻り、今度はいらなくなった服を持ってきてロッカーに詰め込んだ。
そして、翌晩。再び中を改めると、服は消えていた。
「いいぞ……はは、はははは!」
疑念は確信へと変わり、男は歓喜した。彼は次々と不要品をロッカーへ放り込んでいった。マグカップ、歯ブラシ、ぬいぐるみ、使いかけの化粧水、写真――。
数日かけて、男はすべてを処分し終えた。
昼、外は曇り空で、カーテンを閉めた薄暗い部屋。彼は一人、机の上の遺書を見下ろして深く息をついた。
――これでもう、大丈夫だ。ようやく、休める……。
そう思った、そのときだった。インターホンが鳴った。
心臓が跳ね上がる。いったい誰だ……? 男は身を固くして、ただドアを見つめる。やがて、ドアノブが揺れ、カチリと鍵が外れる音がした。そして、ゆっくりとドアが開いた。
「ん、あれ? あんた、サトウさんの彼氏じゃないか?」
そこに立っていたのは大家だった。
「あ、ああ、大家さんですね。前に一度お会いしましたよね。ははは……」
「あんた、こんな暗い部屋で何してんの?」
「いや、まあ別に……それより大家さんこそ、なんですか? 勝手に入ってきていいんですか?」
「ああ、この人たちがね――」
「ああ、すみませんね。君、サトウさんの恋人?」
「え、ああ、はい、あなた方は……え、警察?」
数人の警官が、大家の背後から現れ、ぞろぞろと部屋へ上がり込んできた。
「うん、娘さんと連絡が取れないって、母親から相談があってね。君、何か知ってる?」
「あ……ああ、そうなんですよ! 僕も気になって、こうして合鍵を使って……そしたら、ほら、ここに遺書が!」
男は慌てて机の上の遺書を指さした。警官たちは、男と遺書を囲むようにして、「ほー」「遺書かあ」と覗き込んだ。
「あ、あの、彼女を早く見つけてください! じゃないと手遅れに……」
「うんうん、詳しい話は署で聞こうか」
「さあ、行こうね」
「え? いや、だから、確かに部屋に勝手に入りましたけど、恋人だから問題ないでしょう?」
「うんうん、そうじゃなくてね、通報があったんだよ。ホームレスの男性からね」
「は?」
「コインロッカーに妙なものが入ってたってさ」
「実はその人ね、合鍵を作って、中の物をちょくちょく盗んでたんだよ」
「合……鍵……?」
「そう。そのせいで使用者から苦情が出て、あのロッカーは使用禁止になったんだけど……最近また、誰かが使い始めたって」
「中には女物の歯ブラシやマグカップ、血のついたタオル、へこんだ置物、ツーショット写真……いろいろなものが入っていてね」
「君のアパートを訪ねたら不在だったから、どこにいるのかと思ったらここにいたんだねえ。代わりに他の住人に話を聞いたら、数日前に男女の口論する声が聞こえたって――」
男は言い訳はおろか、相槌を打つことすらできなかった。
ただただ警官たちの声が、がらんどうの頭に響き続けていた。