現れた聖女
目を開けると、辺りは薄暗い。
まだ真夜中なんだ。変な夢だったな。
心地よいベッドの感触を感じながら、夢で出会った金髪の少年の顔を思い出す。
神とか言ってたけど……あれは何だったのだろう。
そう思いながらサイドテーブルに置いたスマホを取ろうと手を伸ばすが、そこにはふかふかの布団が続いているだけ。
あれ?私のベッドってこんなに広かったっけ?
そう思った瞬間、逆サイドに人の気配がしてバッと振り向くと、そこには驚いた顔をしている半裸の男性がいて、こちらを凝視していた。
「きゃあ!!! 誰ですか?!?!」
私は思わず取り乱して叫んだ。
「それはこちらが聞きたい……! どこから現れた?!?!」
落ち着きのある低音だけれど、その声色は明らかに動揺している。
状況を把握しようと必死で辺りを見回してみると、そこは広く見慣れない豪華な部屋で、どう考えても自分の部屋ではない。
な、何で?!ここはどこ?!
私は必死に頭を回転させて気をしっかり保った。
目の前にいる男性をもう一度まじまじと見てみると、彼は闇に溶け込むような漆黒の長い髪にインディゴブルーの瞳をしている。
露わになっている上半身は、広い肩幅と鍛えられた厚い胸板が褐色の艶やかな肌によってその凛々しさを際立たせていた。
大きな窓から差し込む月明かりが、彼の美しい横顔と身体を照らしている。
その右肩には、まるでタトゥーのようにはっきりと、古代語らしき文字が刻まれているのが見えた。
これは、呪いの印……!
「クリフ様…………?」
咄嗟に出た自分の言葉に、自分で納得した。
ああ、そうか。ここは、ルメーラ公国なんだ。あの金髪の少年の言う通り、私は小説の世界に来てしまったということ?!?!
次の瞬間、クリフ様は私の両手首を片手で掴みながらそのままベッドに押し倒し馬乗りになった。
もう片方の手にはいつの間にか短剣が握られていて、私の首に押し当てられている。
「なぜ俺の名を呼ぶ?! お前は一体何者だ?!」
クリフ様が叫んだ瞬間、バタンと扉が開いて青年が入ってくる。
「クリフ様! 何事ですか?!」
顔を動かして見てみると、そこには金髪の童顔な男性が立っていた。
あ、この人、クリフ様の右腕のザフリーだ!
押さえつけられている私に明らかな敵意を向けている。
もう!何この状況?!
私、思いっきり不審者扱いされてるよ……!
しかし、こうして見上げるクリフ様は恐ろしいほどに美しくて、こんな状況にもかかわらず私は彼に見惚れてしまった。
「なぜお前はここにやって来たのだ?!」
「え、えーと。神様……? に言われて……」
ただの金髪の少年にしか見えなかったけど、確かに神って名乗ってたものね。
嘘はついてない。
しかし、あれは夢じゃなくて現実だったんだ。改めて実感が湧いてくる。
でもさ、いきなりクリフ様の寝室に放り込むなんて、やり方が雑すぎない……?
そりゃあ不審者扱いもされるよね。
「ふざけてるのか?」
「本当なんです!」
私の訴えも虚しく、クリフ様は鋭い目つきで私を見下ろしている。
うーん、こんなこと言われて「はいそうですか」って納得できる訳ないものね。
どうしたらいいんだろう……!
私は考えを巡らせて、ふと小説のワンシーンを思い出す。
「あなたはアメリア様のためだったら、何でもできると神に祈ったのではないの?」
クリフ様は一瞬ビクッと体を震わせた。
そうだ、こうなったら小説で読んだ彼しか知り得ない情報を伝えて、神からの啓示だと信用してもらうしかない。
確か、小説の中でヒロインのアメリア様のために胸を痛め、心密かに神へ祈るシーンがあった。
野心家で、利益のためなら人の心をも簡単に裏切ることができる神も仏も信じないような彼がだ。
その描写は忘れられない。
呪いの発作による痛みが取れなくて体が火照った眠れない夜、上着を脱ぎ去り、鍛え上げられた筋肉質で褐色の美しい肌を露わにしてテラスに出たの。
シリウスの輝く夜空を見上げて、彼は痛みに耐えながら神に祈る。アメリアの幸せのためならこの身を捧げてもいいと。
美しい漆黒の長い髪を、夜風に舞い散らせながら月夜に浮かぶ彼の姿は、獣のように雄々しく、その横顔は彫刻のように美しかった。
そんな表現だったと思う。
ああ!なんて尊い…………!
そんな描写を思い出しながら、私は真っ直ぐ彼を見つめて言った。
「あのシリウスの輝く夜、痛みに耐えながら祈るあなたの願いを神はちゃんとお聞きになっていたわ」
クリフ様の瞳には驚きと戸惑いの光が浮かび、私を押さえつけていた手から少し力が抜ける。
「あなたの真摯な気持ちに応えるべく、私をお遣いになったのよ。私はあなたを助けたい」
これは私の本心から出た言葉だ。
実際にクリフ様の右肩にある呪いの印を目の前にして胸が痛む。
このせいで、クリフ様は苦しんでいるのだもの。
事実、私の言葉に動揺を隠せない彼の瞳からは、これまでの苦悩が痛いほど伝わってくる。
そんな様子を見て、心から思った。
クリフ様を助けたい。
私は強い意志を持って彼の瞳を見つめ続けた。
その瞬間、クリフ様の手から完全に力が抜けて、私は自由になった。
起き上がって唖然としているクリフ様の手を見ると、いつの間にか短剣で手を怪我してしまったのか、少し血が出ていた。
あ!そうだ!
私はふと閃いてクリフ様に声を掛ける。
「血が出てる……手を貸してください」
私の言葉にクリフ様は咎めるのも抵抗するのも忘れたように、呆然とした様子で自分の手を見つめた。
確か、あの金髪の少年は私に聖力を使えるようにしておくって言ってた。
だから多分、治せるはず。
そんな確信を持って私はクリフ様の手を取り、怪我をした部分に手をかざし心を込める。
次の瞬間、小さな金色の光が発動して傷口を覆うと、すっかり元通りの肌になった。
やっぱりできた!
クリフ様とザフリーは驚愕の表情を浮かべて顔を見合わせる。
「…………聖女だというのか?」
クリフ様は信じ難いといった風に声を絞り出した。
「私は蘭です。ランと呼んでください」
二人の警戒心を解くように一生懸命、笑顔を作りながら名乗った。
クリフ様は少しの間を置いてから、息をついて静かに言う。
「とにかく……もうこんな時間だ、続きはまた明日にしよう。ザフリー、彼女に部屋の用意をしてやってくれ」
「……! 承知いたしました……。もうなんだってこんな大変な時にこんなことが……」
ザフリーは頭を抱えて混乱した様子を見せながらも、クリフ様に応えた。その様子は苛立ちさえも感じさせる。
その様子を見て、そうだ、と気づく。今ザフリーとクリフ様はとっても微妙な状態にある。
ザフリーは、アメリア様を愛するあまり判断力を失ったように見える主君に戸惑いを感じてからというもの、以前のような信頼を置くことができないのだ。
主君を信じたい気持ちと、心配に思う気持ちと、これまでにはあり得ない変貌ぶりに理解が追いつかない彼の胸中は、複雑という言葉で片付けるにはあまりにも乱暴だろう。
ザフリーはとても真面目で従順な側近だった。
私は、二人の間に漂う複雑な心境を感じさせる気配を目の前にして、思わず胸が痛む。
私に何ができるかは分からないけれど、こうなったらできることをやるしかない!