第3話 変わり果てた姿
クオン町には大きなチョコレートの工房がいくつかあり、マーサ工房もその一つであった。かつては多くの職人が働いていてにぎわっていたが、今は誰もおらず寂れて静まり返っていた。そしてその建物も長い間、誰も手入れをせずにくすんでいた。
その工房の前に先程のチョコレート職人のコーディーが来ていた。
「こんなになってしまって・・・。一体何が?」
彼女は茫然としてつぶやいた。だが彼女は中に入ろうとしなかった。いや、入ろうとしたが迷って躊躇していた。彼女はただ工房の前で誰かが出てこないかとひたすら待っていた。
そこに水晶玉に導かれて老人が通りかかった。工房の前でたたずむコーディーを見て老人が声をかけた。
「おや、これはさきほどの・・・」
「あっ。これは・・・」
コーディーは老人に気付いて慌てて頭を下げた。老人は彼女の様子が気になった。
「一体、どうされたのです。こんなところにずっと立っていらっしゃって。中には入らなのですか?」
「いえ、それが・・・事情があってこの家の敷居を跨げないのです。お願いです。中に入ってこの工房のことを聞いていただけないでしょうか? ここはマーサ工房と言ってチョコレート作りで有名なところでした。ところがこんなに寂れてしまって・・・」
コーディーは不安な気持ちを押さえられないようだった。
「わかりました。少し話を聞いてきましょう。ここでお待ちください。」
老人は扉を開けて工房の中に入って行った。
「ごめん下さい。失礼いたします。」老人は中に声をかけた。すると奥から年輩の男が出て来た。
「はい。何か御用でしょうか?」
「私は旅の方術師のライリーと申します。ここはマーサ工房でしたな。チョコレートは作っておられるのですかな?」
「いえ、申し訳ありません。主が病気で寝込んでおりまして・・・。ここではもう作っておりません。」
その会話をコーディーが扉の陰で聞いていた。主が病気だと聞いて慌てて中に入ってきた。
「お父様が病気なのですか!」
女性は大きな声を上げた。年輩の男はその女性を見て驚いた。
「お嬢様! お嬢様ではございませんか! 今までどうしておられたのです?」
だがコーディーはそれに答えず、ひたすら父のことを尋ねた。
「ナギノ! お父様は、お父様はどうされたのです!」
「旦那様は奥で寝ておられます。体は悪くないのですが頭の方が・・・呆けられて何もかもが分からなくなっておられます。」
ナギノは悲しそうにうつむいて答えた。その言葉にコーディーはショックを受けた。だが、
「とにかく会わせてください。」
コーディーはすぐに上がり込んで奥の部屋に向かった。
「お嬢様。少しお待ちを・・・」
その後をナギノが追いかけた。コーディーは部屋の前で大きく息を吸い込んで気持ちを整えてから声をかけた。
「お父様、コーディーです。帰ってまいりました。長い間の親不孝をお許しください。」
だが中から返事はなかった。それでもコーディーは
「お父様! お父様! コ-ディーです。」と何度も呼び続けた。しかしやはり返事が聞こえてこなかった。ついにコーディーは
「お父様、失礼します。中に入ります。」
とドアを開けた。薄暗い部屋にはベッドの上に座った父親のリーマーがいた。だがその目には生気はなく、ただぼうっと前を見ているだけだった。
「お父様。コーディーです。今まで勝手をしてごめんなさい。」
コーディーは近くに寄ってリーマーに言葉をかけた。だがリーマーに何の反応もなかった。ただぼんやりしているだけだった。
「お父様・・・」
あまりの変わりように驚いたコーディーはリーマーの手を取ってみた。しかし
「あなたは誰かね?」
とリーマーは眉をひそめて尋ねた。以前は厳しくもあったが、元気で優しい父であったのに・・・。
「コーディーです! あなたの娘のコーディーです! お分かりにならないのですか!」
だがリーマーはコーディーの顔を不思議そうに見つめるだけだった。コーディーは涙が込み上げてきた。それを部屋の外から見ていたナギノが悲しそうに告げた。
「旦那様はいつもこういう状態なのです。もう誰かもわかっておられないのです。」
「ああ、お父様・・・」
コーディーはあまりの悲しみに涙があふれてきて顔を伏せた。
そこに老人も部屋に入ってきた。彼はコーディーの様子が気になっていた。
「申し訳ありません。勝手に上がらせていただきました。私は方術師で医術の心得もあります。すこしお父様の具合を見させていただけませぬか?」
「ええ、お願いします。」
コーディーはそこを離れ。老人がリーマーの近くに座り、彼の様子をじっくりと診た。
「ふむ・・・確かに。物の判別がつかぬほど呆けておられる。昔のことも思い出せないでしょう。」
「父は治るのでしょうか?」
「いや、何とも言えません。方術でいくらかはよくなるとは思いますが・・・。とにかく家族の温かいお世話が必要じゃ。何かのきっかけで少しずつ思い出していってよくなることもあります。気を落とさぬように。」
老人は慰めるように言った。その言葉でコーディーは少し希望を持ったようだった。袖で涙をふくと老人に言った。
「そうですか・・・それでは私がこれから父に付き添います。ライリー様とおっしゃいましたか。ご迷惑でしょうが、しばらくこの家にご逗留して頂き、父を診ていただけないでしょうか。よろしくお願い申します。」
「これも何かの縁。よろしい。少しここでご厄介になりましょう。」
老人はうなずきながら言った。
タロイ工房では、「馬鹿野郎!」という怒鳴り声が響いていた。それはこの工房の主、タロイが発したものだった。
「お前ら! あれほど喧嘩をするんじゃないと言ったじゃないか! 町の者が迷惑しているんだ!」
「タロイ旦那。向こうから仕掛けてきたんです。売られた喧嘩を買ったまでです。」
アニーが頭を掻きながら言った。彼をはじめ職人たちは大なり小なり怪我をしていた。そんな体たらくで戻ってきたこともタロイは腹立たしかった。
「それにしてもそんなに怪我しやがって。ジロイ工房の奴らにやられたのか?」
「いえ、旅のじじいの一行が・・・奴らが滅法、強くて・・・でもジロイの奴らも同じようにやられたんですよ。コテンパにやられていましたよ。」
アニーはそう言ったが、タロイの機嫌が直るわけもなかった。だが怒ってばかりもいられなかった。新しいチョコレートを、ジロイのものより素晴らしいものを作る必要があった。
「お前たちも職人だったら、喧嘩でなくこのチョコレートの競作でジロイの奴らに勝て! これが本当の勝ちというやつだ! わかったな!」
「へい!」
職人たちは一斉に声を上げた。
ジロイ工房でも怪我をした職人たちが帰ってきていた。ジロイは一目見て喧嘩をしたと思った。
「お前ら! タロイの奴らとまたひと悶着起こしてきたな!」
「喧嘩をするにはしましたが、やられたのは別の奴らに・・・」
「一体、どこのどいつだ?」
「それが旅のじじいの一行で。滅法強いのが2人出てきまして・・・」
オットーは痛めた左腕をさすりながら言った。
「まあいい。それより喧嘩は止めろ。町の人たちが迷惑する。タロイ工房の奴らが挑発してきても乗るな!」
「へい。それは必ず。」
オットーは頭を掻きながらそう言った。他の職人たちも面目ないというように頭を下げていた。ジロイは職人たちを見渡して言った。
「お前ら! タロイ工房と新しいチョコレートをかけて戦うんだ。喧嘩する暇があったら素晴らしいチョコレートを作ることを考えろ! いいな!」
「へい!」
職人たちは大きな声を上げた。
王宮ではデーマ王の前にスマト大臣が恭しく進み出た。先日、命じられた新しいチョコレートに関する競作の件の報告だった。
「王様。チョコレートの試作を各工房に命じてまいりました。」
「おお、そうか。それで様子はどうであったか?」
「あまり芳しくないようで・・・。しかしタロイとジロイが意気込んでおりました。両者に試作を命じましたが。」
スマト大臣が言った。デーマ王はうなずいたものの、そこにチョコレート作りの名人の名が出て来なかったことが気になった。
「うむ、そうか。タロイとジロイか。その親のリーマーはどうじゃ。チョコレート作りではこの国で並ぶ者がないと聞いているが。」
「それが病とのことで。しかしタロイかジロイのどちらかがリーマーに成り代わって素晴らしいものを作ってくるでありましょう。」
「そうであればいいが・・・」
デーマ王は顎を触りながら言った。