46話 賢者バスラ
ハルス家とカラム家の襲撃は、まるで連携でもしていたかのように同時であった。
ゴデル軍の本陣を左右から同時に攻める。
ハルス家の1万の軍を率いるロンの弟ラガンは、ゴデル軍の本陣の人の気配のなさに、肩すかしにあったような気分だった。
これから大乱戦が始まるのだと気合を入れていたのに、肝心の敵がいないのだ。
ラガンはつまらなそうに、軍を進めていった。
普通であれば、ここまで人が少なければ、不審に思い、逆に警戒をするものだが、ラガンにそのような思考回路はなかった。
とにかく前進あるのみである。
あと300メートルもすれば、いよいよ敵の本陣の敷地に入るというところで、前方に人影が見えた。
ひとりだった。
その人物はいくつかのテントを囲むように作られた木の柵を、ひょいと飛び越えて歩いてくる。
彼は見るからに値の張りそうなローブを身につけていた。
端正な顔には貫禄があった。
しかし、柵を飛び越える様は、いかにも子供っぽく、実際の年齢は若いのだろうと思われた。
10代の陽気さがあった。
彼には、共存しうることがほとんどない、若い無邪気さと重厚な威厳を感じさせられた。
ラガンは、一旦兵を止める。
さすがのラガンも、この人物には不気味さを感じた。
軍が止まると、その男も歩みを止める。
「何者だ」とラガンが問いかける。
「バスラと申します。
賢者バスラといえば、少しは聞き覚えもあるかと思います。
何しろ200年ぶりの賢者という珍種でございますので」
賢者バスラの声はけっして大きくなかった。
むしろ小さかった。
それでもその声は、ハルス軍の1万の兵士全員に聞こえた。
おそらく魔法であろう。
突然に聞こえてくる声に、後方の兵士たちに動揺が走る。
「まさかこのタイミングで挟撃を仕掛けてくるとは実に意外でした。
2万の兵を初動で投入してくるとは、至極大胆な発想です。
事前に分かっていなかったら、さすがに少し苦戦を強いられていたでしょう」
バスラは肩からさげている鞄から、一冊の本を取りだす。
それは辞書のように分厚い。
「お前があの賢者か。
わけのわからんことを言っているな。
挟撃だ。これのどこが挟撃なんだ。
それにこの軍が2万に見えるか。
恐怖のあまり、敵が大きく見えてしまっているのか?
状況把握すらまともにできないとは。
賢者というのは、実はとんだ愚かものだったのだな」
バスラは少しの間、口をつぐむ。
ラガンを観察する。
どうやら嘘はついていないようだ。
この場で嘘をつけるような頭脳もなさそうなマヌケ顏だ。
おそらくカラム軍の存在を本当に知らないのだろう。
「どうやら、これはロンとかいう者が勝手に行っていることのようですね。
お前たちは、ロンとやらにいいように使われているだけということか」
バスラの口からロンと言う名前がでると、ラガンは怒りに顔を歪める。
「なぜロンの名前が出てくるんだ」ラガンが怒鳴る。
「あ、あなたはもしかしたらロンの弟のラガンさんですね。
噂では兄のロンさんが無能で、弟のラガンさんが優秀とのことでしたが。
やはり噂というのはあてにならないものですね。
実際はその逆のようです」
ラガンの顔が真っ赤になる。
「全軍突撃ー」ラガンの叫び声がこだまする。
ひとりに1万の軍が襲いかかる。
しかし、バスラは迫りくる人の波を前に、それまでどおり平静だった。
ゆっくりと手に持っていた本を片手で開く。
いくつかの単語をつぶやく。
すると真っ白な本のページが、真っ黒になる。
次の瞬間、停電する。
いや、ここは野外である、そんなことはありえない。
しかし、部屋の中の電気が突然消えたかのように、あたりは暗闇に包まれていた。
突進をしていた軍勢は、慌てて急ブレーキをかける。
すぐ隣にいるはずの仲間の姿すら見えない。
前後左右に兵士たちはぶつかりあい、よろめく。
ぶつかってきた相手を見ようとしても、その姿が見えない。
それどころか、自分の手すら見ない。
どんなに手のひらを近づけても、見ることができない。
まるで失明でもしたかのようだった。
何も見えないという状況は恐怖へと変わっていく。
すぐそばに何があるのわからないのだ。当然である。
数匹のゴギブリが足元にいても、気づけない。
兵士たちは、身を縮め、その場に固まっていた。
汗が流れる。
鎧を着た背中が、濡れていく。
暑さのせいで、頭がクラつく。
冷たい水が飲みたい。
暑すぎる。
最初、その変化は自分たちが暗闇の中にいる緊張のせいかと思った。
しかし、その暑さは異常だった。
これは気温なんて呼べる温度ではない。
自分たちは今、焼かれている。
そう気付いた時には、兵士の腕は燃え落ちた。
剣を持つ腕が消失していた。
叫び声をあげる。
しかし、数秒後には頭部が燃えあがり、その兵士は叫ぶことすらできなくなった。
人間の焼ける匂いが、あちこちに拡散していく。
光を発しない炎が、兵士たちを、ひとりまたひとりと焼いていく。
自分が焼かれていることはわかる。
しかし、その焼いている炎すら見えないのだ。
熱で大体の場所はわかりこそすれ、正確な場所がわからない。
水をかけるにしても、適当にまくしかない。
それでは消火はままならなかったし、手持ちの水もわずかしかない。
暗闇と熱と絶叫のうちに、1万の兵は焼かれた。
賢者バルスにとって、それは焼却でしかなかった。
落ち葉を焚き火で燃やすように、バルスはただ兵に火をつけて焼いたのだ。
自身に危機はいっさい迫らなかった。
1万の兵士は、ひとりの魔法使いに、あっけなく敗北した。
1時間後、真っ黒な死体が、地面を覆いつくしていた。
賢者バスラが手に持つ本を閉じる。
暗闇がはれ、青空のもとに死体の山が姿を見せる。
その様子を、ひとりだけ生き残っていたラガンが腰を抜かして、ただながめていた。
明日も午前7時15分ごろ投稿予定です。




