忘れる為の物語 四枚目 巨蟹月の幻 八日
「…メアリー? どうしたの?」
「…え?」
翡翠眼と黒髪半淫魔は『花の咲く場所』のいつものテーブルで雨が降るのを見ていた。
あの集落跡から戻って二日。雨が降った。季節外れの雨。元々、強い目的意識があるわけでも無い探索だ。雨の日は避けた。
しっかりとした雨だ。風は無い。村の広場に続く石畳が艶やかな光沢を放っている。人通りは少ないが、植物性の編まれた傘を頭に被った村人達が無言で何かを運んで行った。
テーブルには素朴な小瓶が置かれ、一輪の小さな赤紫色の花がある。飴色をした使い込まれたテーブルによく映える。村の広場の噴水を眺められる位置に陣取ることが日課となった翡翠眼は、自分と黒髪半淫魔意外は誰もいない食堂で、何をするでもなく甘いお茶を啜っていた。
「…なんでも無いよ…」
「元気ないね」
「…雨は嫌い」
「なるほど」
自分が何者であるか知らないメアリー。半淫魔である自覚は無い。自分の身体を維持するた為には高魔素食事を取らなければならない。雨は身体から魔力を奪うと言われていた時代がある。今はそれはただの迷信だと言い切れるが、魔導師にとって気分は良くは無い。
「別に、調子悪いんじゃ無いよ」
静かに、そして少しだけ寂しそうに笑う。
そんな顔するんじゃないよ。
「…ジルのお尻が忘れられないのかと思って」
「!」
メアリーがみるみる赤くなって思わず立ち上がる。
「…あんたってヒトはっ…」
「ヒトじゃ無い」
メアリーは口をパクパクさせた。
「あんたって翡翠眼はぁっ、また思い出させたなぁあー!」
「…引き締まって良いお尻だったじゃない」
「そういう問題かああ」
「前見るよりマシでしょ?」
「がむがむがむむむむ」
二日前、村近くまで戻って来て、翡翠眼が突然、陽が暮れかけた木陰で「二人とも、脱いで」と言い出したのだ。いきなりの事で動揺したメアリーを他所に、聖騎士も翡翠眼も、何の躊躇も無く脱ぎ始めて、メアリーはさらに混乱した。
「な、な、なんなのっっ、ジルまでっ」
「ほら、早く脱いでメアリー」
「ええ?な、何、何を、そ、そういう事は、もう少しその、暗くなってから、というか、三人なの?いきなり?いきなり三人なの?」
「…あのねぇ、着たままだと、浄化洗浄し難いんだよ…」
あの【ヒト型の木】の現象は、未知の伝染病、菌、呪い、それらの可能性が高い。村にそれらを持ち込む訳にはいかない。衣服に付着した細菌を完全に取り除くには、「死の魔法」が最も効果的だが、服を着たままそれをかける訳にもいかない。一糸纏わぬ姿になって脱いだ服を積み上げたところで、翡翠眼が印を組むと衣服に光が立ち込める。呪いの浄化、魔法の解除、死の魔法、これらを順にかける。翡翠眼は自分にも浄化解除をかけ、さらに手帳をペラペラと捲ると、そこに書いてある模様を地面に描きまた印を組む。二言三言呪文を呟くと、地面に描いた模様から光が漏れ、その光を浴びたルーチェの身体を緑色の線が足先から髪の先まですうっと走り、消えた。
「二人も」
「え?」
しきりに恥ずかしがるメアリーとは対照的に、堂々としたジルが光に触れ、同じく緑色の光が全身を隈なく走った。続いてメアリーも。
「大丈夫みたい。服着ていいよ」
ルーチェにそう言われ、急いで服を着るメアリー。少なくともせめて隠す所だけは隠さなくては。夜の帳が下りかけているとはいえ、外で、全裸になった経験など初めてだ。何の躊躇もなく全裸になった翡翠眼や聖騎士はどうかしている。羞恥心が無いのか。全く信じられない。そうブツブツと言いながら隠す所を隠した時、「あれ、ジル?」とルーチェが言ったものだから、うっかり振り向いて見てしまったのだ。後ろ姿のジルを。しかも、結構な至近距離で。
ジルの全裸など、見たことがなかったメアリーは、言葉にならない悲鳴にも似た奇声を上げた。ジルは極めて冷静に服を着たが、メアリーは湯気が出るほど顔を真っ赤にした。
ジルが一言。
「…性別が真逆だな」
そんな事があって、二日後の朝。
「あの魔法なんだったの? 初めて見たけど」
「ん? あぁ、『生体元素診断魔法』の事?」
「…何それ」
「普通知らないよ。体内や皮膚に付着している菌で未知のものや危険なものを探し出す魔法だよ」
「…あー、最近王都で流行ってる『早い段階で病気を見つける魔法』みたいなもん?」
「医療系魔法としては案外知られてるよ。あれはそれの最上位」
医療系魔法は難易度が高い。完全な治癒魔法など、ただの御伽話である。簡単な切り傷を瞬時に癒せる魔法ですら一級指定の魔法である。もし使えたら、生涯収入には困らないだろう。
「…もしかして凄い翡翠眼なのでは?」
あれ、何処かで聞いた台詞だな
「…生涯が無駄に長いとね…、研究にのめり込む時期もあるよ」
実の所、ルーチェはその魔法をどんな経緯で獲得したのか、全く覚えていない。手帳に記してある魔法の中でもかなり高度な魔法である。解毒と解呪、寄生虫を取り除く魔法の高性能版との連結術式。流石のルーチェでも宙に術式を書き出すのは骨が折れる作業なため、地面に描いた。
ルーチェが強い事はメアリーはよく知っている。一見すると十四歳程度の少女にしか見えないこの翡翠眼は、底知れない魔力を持っている。
【花の咲く場所】の主人スターナが、野菜盛りを持ってきた。
「ルーさん、昨日の話の件なんですけど、ランカーさんは、よくわからないって言ってました」
「ランカー?」
「あ、神父さんです」
「神父でもダメか…」
スターナに、あの集落跡の事について詳しい者がいないかと相談していたのだ。
「ランカーさんはこの村で最年長で、歴史には詳しいはずですが…」
「もっと前の、この村の前の村に詳しい人と言えば………」
二人は一瞬顔を見合わせて止まり、翡翠眼の耳が下がり、ハァと溜息をついた。
「…ウィルか……」
「…ですね」
「なんかウィル最近機嫌悪いんだよね…、思い当たるフシが無いんだけど」
「本当に思い当たりませんか?」
ルーチェは突然の本人の声に仰天した。宿の入り口からツカツカと歩いてきたウィルはルーチェの正面にどかりと座る。
「スターナさん、コーフィーを下さい」
「あ、は、はい」
薄い栗毛の髪が揺れて、すぐ側に座って素っ頓狂な顔で座る黒髪巨乳を一瞥し、すぐにルーチェを恨めしそうに睨む。
「森の奥に行ったそうじゃ無いですか」
「ねぇなんでそんなに機嫌悪いのウィル」
「帰ってきて、二日も、二日も黙ってるなんて」
「別に黙ってたわけじゃ…」
「いろいろ秘密にして、ずるいじゃ無いですか」
ウィルのその言葉に、翡翠眼は思わず黒髪巨乳を見てしまう。
「それに…、なんなんですか、メアリーさんとべったりじゃないですか」
「はぁ?」
「え、ウィル、妬いてるの?」
「んあっ」
ウィルが少しのけぞって、すぐに膨れた。
「そうですよ、妬いてるんですよ。メアリーさんは上品だし、綺麗だし、巨乳だし、私みたいな田舎娘とは大違い。数百年生きている翡翠眼と私は、お友達になりたくても、なれそうもないし…」
「ウィルは私と友達になりたいの?」
「…酷く無いですかそれ」
「いや、わかんないんだよ。翡翠眼は友達を作らないんだよ。特にヒトはすぐ死んじゃうし…」
「あの…」
黒髪巨乳がさっと手をあげて二人の間に割って入った。
「……、混ざりたい、って事ね?」
「………うん……」
「…仲間外れにするな、って事ね?」
「………うん………」
「…素直じゃん」
「仲間外れって……」
ルーチェは、そもそも仲間じゃないでしょうと言いかけたのをそっと飲み込んだ。それを言うとヒトはとても傷ついて泣いてしまうのだった、と思い出したのだ。
「わかったわかった、何があったのかちゃんと話すから…」
「…うん」
「どこから話す?森に出かけたところからでいい?」
「…うん」
いじめられた子供かな? とメアリーは半ば呆れて見ている。メアリーとウィルはこの時ほぼ初対面だった。メアリーからすれば随分と地味な田舎娘に見えた。髪の色が薄い茶色で中途半端な長さだ。耳の脇は垂らし、それ以外は紐で後ろに束ねている。その無造作さが『イモ感』を助長する。
香りがいい飲み物が運ばれてきた。
ルーチェは、順序立てて物事を話すのは苦手なようで、語部としては途方もなく筋が悪かった。「えーとね、猫に会ってね」などと話を始めた為、メアリーが思わず注釈を入れ始め、終いには「あんた、説明下手だねー」と言って、メアリー自ら一部始終を話す事になった。ウィルは大人しく聞いていて、ルーチェは傍から相槌を打つだけ、となった。
「要約すると、森の奥に集落跡を見つけたけど、奇妙なヒト型の木が沢山あって、そこを調べる前に一旦戻ってきた、という事ですか」
「そう! そうそう!」
「…要約しすぎだよ、大きなカタツムリとかはどうなったの?」
「翡翠眼はそういうとこほんっとダメなのね。全部必要なの?」
「カタツムリは…もういいです……」
「それで、ウィルに聞きたい事があったんだよ」
「はい?」
「この村の、例の翡翠眼の石像があるじゃない? あれの話」
「え、ユーヴィ様についてですか?」
「そんな名前なんだ」
「え、伝説程度なら知ってますけど、何か関係あるんですか?」
「関係があるかどうかもわからないから知りたいの」
ユビ村を見下ろす小高い丘。岩がゴロゴロと露出したその丘に、石像が建っている。風化していて、表情などはわからないが、伝説によればユビ村を作ったエルフ「ユーヴィ」の像であるという。
正確には、ユーヴィが作った村だから、ユビ村、という名前になったのだとか。
かつてこの一帯を支配した王がいて、その王に仕えていた双子の姉妹の翡翠眼がいた。妹は大魔導師であったが、姉は魔力を一切持たずに産まれた。その分鉄の扱いをこなし、王を助け、愛したという。姉の名はユーヴィ、妹の名はエルシー。王亡きあと、二人は別れ、妹は海を渡った。その後はわからない。姉はこの地に残り、王の帰りを待った。
「帰りを待った? え、王は死んだんじゃなかったの?」
「ここ、わかんないところなんですよね。でも言い伝えの締めくくりは「帰りを待った」なんですよ」
「…」
メアリーがううむと唸る。
「あの、村が【待ってる】って状態って事?」
翡翠眼と薄茶髪は、間抜け面で巨乳黒髪を見た。
「…随分と、おロマンチックですね」
「え?」
「そんな、御伽噺じゃないんだからさ…l
「…御伽噺ばっかり読んで育ったらしいからね、私」
苦いコーフィを啜り、ムクれて見せた巨乳は、ロマンチックだと言われた事は満更でも無い。お母様に読み聞かせられたであろうお伽話の本をたくさん手に入れたからだ。自分も大好きな、ロマンスの話から心躍る冒険綺譚まで、自分は覚えていないが、聞かされて育ったのだろう。ロマンチック、と言われるのは、覚えていない母の影響を感じるのだった。
「ユーヴィの話って、いつごろの話?」
「さぁ…、少なくとも三百年位は前だと思いますけど」
ウィルもお茶を啜った。
「あの【ヒト型の木】は、三百年も経ってないと思うなぁ」
「あー、たしかに」
「…と言う事は、この村が出来た事と、その翡翠眼集落との関連性は、無いって事ですか?」
「ユーヴィの伝説の中に、例えば【木の人】とかが出て来るなら別だけど…」
「…わかりました」
ウィルが握り拳を胸にすくりと立ち上がった
「…?」
「調べてみます。ウチに置いてある古文書以上に、この件について詳しい本はありませんから」
「え、ウィル、古文書読めるの?」
「…時間はかかりますけど…」
「…あのさー……」
メアリーのダラっとした声。
「その、古文書、どこにあったやつ?」
「え?」
「あ」
「村の教会にあった物を借りています。ずっとウチにあるんで、ほぼほぼ私のものみたいなもんですけど」
「…その教会はいつ頃からあるの?」
「…さぁ……」
そもそも、誰が書いたもの?
魔導士なら誰でも知っているが、古文書、と一口いいってもいろいろで、中にはただの空想を書にしたものが遺ってしまい、聖書扱いされている、というものも驚く程多い。
埒があかない。調べても何もわからない「失われた村」
しかも、住人がまだいる。
ルーチェにとっては、ただの暇潰し、というか、ウィルを避ける為に始めた冒険である。あの奇妙な【木になった人々】は確かに興味はある。もし魔法の類なのであれば習得したい。しかし、こう言ったものの場合、掘り起こすとロクな事が起こらないのは常である。比較的短い期間ではあるが、ルーチェの記憶の中にも、そして六百年以上も蓄積されてきた翡翠眼の手帳にも、そのような魔法の記述は無い。
あの村跡の様子からして、遺棄されてからそう時間は経っていない。二百年は経過していないように見えた。「木になった人」が、通常の植物のように成長するのかどうかはわからないが、二百年と言ったら相当な大きさにまでなっている筈。ところが、あれらはヒトのサイズを留めている。あのサイズが最大なのか、それとも根に蓄えるのか、実はなるのか、など気にはなる。
その後雨が降り頻る中、ルーチェは教会まで足を運んだ。真面目だがあまり魔力を期待出来ない神父ランカーは、教会の興りについて調べてくれた。今は女神聖教の教会ではあるが、八十年程前までは違う神を祀っていたと言う。神の名はユーヴィ。丘の上にある石像は、本来教会のもので、女神聖教を取り入れた当時の村長が丘に移したものだという。
ユーヴィの伝説は、大半が失われているという。女神聖教の恩恵は強く、特に王都への巡礼線の含まれる事には、辺鄙な村にとってとても重要な意味を持った。ゆえに、古き神の教えは形として残るものは石像のみ。あとは老人が数人、覚えている程度だという。
辺境の地で信仰されてきた地神。翡翠眼自身であるルーチェにとって、あまり現実味が無い話だった。魔力に長けた翡翠眼がいたんだろう。翡翠眼と水晶が採れる土地だから、古代魔導器を使えば「神様」並な事は出来たかもしれない。それがただ、ヒトによって受け継がれ、神格化されたのだろう、というのが現実的だ。
ルーチェは雨が止んだらまた出掛けよう、と思った。遺棄された集落。「木になったヒト」の謎。
まず、木を切ったら、どうなるのか?
血が出るのか、それともただの木なのか。
雨が止んでから二日日経った。
地面のぬかるみも多少は改善された。ルーチェは珍しく早朝に出かける準備をしていた。聖騎士と黒髪巨乳には黙って行くつもりだったが、前日のうちにスターナに頼んでおいた弁当で速攻でバレた。二人はさも当然と言わんばかりに、完璧な装備で、宿の入り口でルーチェを待ち構えた。「おはよう」と。
ルーチェはこの四日間宿のいる中ずっと魔力の集積に費やした。鉱石喰胞の排泄した高純度の熔解凝固の翡翠は、天然結晶では到達できない高魔力蓄量がある。四日間、一回の睡眠によって回復する量を蓄えたのだ。高濃度の魔力を蓄積すると翡翠は透明度が増し発光する。近寄っただけでも威圧感を感じる程の膨大な魔力に、黒髪巨乳は怯んでいた。自分では何ヶ月もかかる量だったからだ。常に魔力不足に悩む半淫魔にとって、自分が習得している最大火力の魔法を連発できる容量だった。
その日の翡翠眼は、出し惜しみしない全力だった。聖騎士や黒髪巨乳にも、足には「浮遊歩行」の魔法と、重量軽減魔法、獣や魔物に発見されにくくなる「光学迷彩」など、魔圧はそれ程でもなくても、持続するにはとても魔力量を必要とする魔法を、三人分施した。
一度通った道を、全力で駆け抜ける為だった。浮遊歩行は、ぬかるんだ道などお構い無しで駆け抜けられる。物理的重量をも軽くしている為、地面との摩擦が起こらず、まるで滑るように進めるのだ。障害物が多い森の中ではかえって危ないが、獣道を進むのならば圧倒的に早い。
一行は早朝に出発し、たった二時間で森の奥の集落跡まで辿り着いた。一度も休憩を入れていない。
「…こんな手抜きしていいの?」
「…?」
「…なんていうかさ……、まだ朝、って言っていい時間帯よね」
「やりたい事がいっぱいあったからね」
翡翠眼集落跡のほど近くまで来て、最初に来た時に見た「ヒトの形をした木」を、もう一度じっくりと観察した。脚の部分が折れ倒れている。根から出ている脚の切り株を様々な角度から見た上で、ルーチェがおもむろに短剣を抜いた。短剣、とは言うが刃渡りは手のひら程で、とても武器と言えない代物だ。
そんな物で何をするのか?とメアリーが訊くまでもなく、短い詠唱と共に光の刃が伸びた。メアリーが思わず感嘆の声を上げた。「光刃」は大変高度な魔法で、魔導士として長いメアリーも数度しか見た事がない。「光刃」は剣の材質も影響するが、立派な刃渡りを形成したところを見ると…
「その短剣、何で出来てんの?」
「レムリア鉄」
「ひゃぁあ」
そんなの、既に二級クラスの古代魔導遺物じゃないですか。
「…さりげなく…、とんでもないもん持ってるね」
「…長い事生きてるしね」
長い事生きているだけで、レムリア鉄の短剣を手に入れられるわけではない。レムリア鉄は、遥か南に位置する孤立した大陸にあったと伝わる文明の名前がついた金属で、現在ではその精製方法が失われている「古代遺物」の中ではだいぶ有名な物。伝説を孕む遺物武器の殆どがレムリア鉄が混ざっていると言われる。ヒトの力で曲がる程柔らかく、そのものでは武器として役に立たないが、他と混ぜると柔軟性を持たせる事ができる。また、純度が高いレムリア鉄は付与された魔力の減衰性が恐ろしく低い。魔法に長けた翡翠眼との相性が良い材質なのだ。
伸びた光刃でヒトの形の木の折れた脚の部分を少し斬った。
「…それ、大丈夫なの? 切っちゃって…」
呪いで樹木化しているヒトだったとすれば、解呪した時に大怪我だけど…?
ルーチェは斬った断面をマジマジと見て、うーむ、と一声唸ると、「ヒトの形の木」から伸びている枝から生えた葉をプチっと採って見てみた。そしてガサゴソと手荷物から手帳を取り出すと、挟んであった栞の頁を開き、葉と見比べて、またうーむ、と唸った。
ルーチェはふう、と息をすると、突然光刃で「ヒトの形をした木」を頭から縦割りに斬った。
「ちょっ、ちょっとっ! これ、ヒトだったらどうする気なのよ!」
「これはヒトじゃないよ」
ルーチェは斬った断面を指さして言った。
「呪いや病気なら中の組織があるまま樹木化されるはず。石化ですら内臓の形が残るしね。純粋に、これはただの木だよ」
「コレが、ただの木な訳ないでしょ?」
「彫妻の木」
「え?」
「昔偉大な彫刻家が、理想の女の像を彫った。その彫刻家はその像に恋し、像をヒトにしてくれと神に願った。その願いは聞き入れられ、像は妻となった…」
「え?」
「そんな曰くがついてるのがこの木。この木はヒトの記憶を読み取ってそれに擬態する魔法生物の一種…、らしい」
翡翠眼の言葉の最後に、少し躊躇いがあった。
「『彫妻の木』は、森に自然に自生する木じゃない。生き続けるためには魔力を与え続けなきゃいけない。この集落跡で、この木に魔力を提供している何かがあるはず」
「魔力?」
「ヒト…、翡翠眼、魔族、あるいは魔物…、魔力を持ってる種はたくさんいる…」
「そうじゃなくて、こんな森の深い場所で? 誰が? 何の為に?」
「それは、今から調べるんだよ」
聖騎士、半淫魔、翡翠眼は、長い間遺棄された集落跡に踏み入った。中央通りと思しき低い草の侵食を受けた石畳の両脇にすっかり植物に飲み込まれた建造物が立ち並んでいた。石造のものもある。そして転々と並ぶ「ヒトの形をした木」が、三人を出迎える。珍しい黄色と茶色の小鳥がヒト型の木に数羽止まって、珍しい来訪者を見下ろしている。
集落跡は建造物が残っている故に、魔物の巣窟になっていてもおかしくないはずなのだが、その気配はない。
うっかりすると、普通に村の中を歩いているような感覚に陥る。立ち並ぶ木々がいかにも通りを行くヒトに見えるのだ。
「うわ、見て、犬、馬までいるよ…」
遺棄されて数百年経ったこの場所で、馬車が残っているはずは無い。風化して原型を留めていないはずなのだ。しかしそこには、馬車がある。
「これ、全部、木だよ。生きてる木」
「馬以外も木で出来てる」
「凄い木だな…、色までも…」
聖騎士も珍しく感嘆の声を挙げた。馬の毛模様までも再現していたのだ。
「『彫妻の木』は、地下茎類なんだ。これらは元々一本の木から派生したもの。根っこが繋がってるはず」
博識の翡翠眼は、今にも踊り出しそうに手を広げた女性の姿の木の、その指先を指で突きながら言った。
「一本の木から? この集落跡全体に広がった?」
「魔力さえあれば成長自体は早いからね。こうなるまでには百年も要らないと思う」
村の中心部まで歩いてきた。大きな噴水跡がある。池部分には背丈の大きな植物が生えている。「蛇に気をつけてね」とルーチェが言った。
「あの…、さ、」
メアリーが、言い辛そうにきり出した。
「ん?」
「これ、みんな、同じ方向向いてない?」
「それは気付いてた」
「これ…、何かから…、逃げてる?」
手をあげて溌剌と走る少女の姿は、もしや、助けを求めて逃げているのでは?
老人の手を引いている者の姿は、もしや、歩けぬ者を助けているのでは?
踊り出しそうな女性の手は、何かを指差しているのでは?
「何があった……?」
「二人とも、気付いてた?」
「え?」
「建物、焼けた跡がある」
石造の建物は、黒ずんでいる。元々の色ではなく『すす』だった。ルーチェは村に入ってからずっと気になっていたのだ。石畳が妙に黒い。そして彫妻の木以外の木が殆ど無い。此処は森の中の集落で、住者達が居なくなれば直ぐに森が飲み込んだはず。見ると木が朽ちている。百年以上が経過していて、焼けた跡、とはっきりと判別するのは難しいが、村の一点を中心にして大きな樹木が彫妻の木のみで、その他は朽ちている。切株などから察するに、樹齢が四百年程度の大樹も複数本あったようだが、今は見る影も無い。
比較的新しい彫妻の木だけが目立っているのだ。
「火事…?」
「…そんな生易しいもんじゃないだろうな…」
「翡翠眼集落だったとするなら、火事で村がダメになる、なんて事はな…」
ルーチェが絶句した。
村のほぼ中心部の場所から見えたもの。
「なん……」
三人とも絶句した。
穴。
大きい。ユビの村の中央広場よりも大きい。そして、その穴を少し降りた所に、穴を塞ぐように、巨大な「蟹」が横たわっている。生気はすっかり無くなっているが、朽ちている様子は無い。砕け散った何本かの脚がまるで塔のようだ。森の侵食を受け、巨大な甲羅を覆い尽くそうとしている。
「……何があった?」
「……アハハハ」
「え?」
「え?だって、笑うしか無いでしょう。こんな場所で、こんな光景、何が起きたかなんて想像できっこ無いよ」
「ようするに、想像を絶する事が起きた、んだな?」
「この蟹、おっきいなぁ…紅沙蟹かなぁ…、何年生きたらこのサイズになるんだろう」
紅沙蟹は、その名の通り紅色の森蟹で、ヒトの頭ほどの大きさのものは良く冒険者達を悩ませる魔物として有名だ。紅沙蟹は何でも食べる雑食で、ヒトを木の上から襲う。一匹ならいざ知らず集団で来られると大変厄介で盾の素材としても利用される甲羅は兎に角硬い。そして重い。この蟹の主な脅威は体当たりだが、歩く速度は遅くとも、木の上から音もなく頭目掛けて落下してくるので、打ちどころが悪ければ即死だ。驚くほどの高さまで跳躍する為、体当たりを喰らうと大怪我を負う。甲羅に地味に突き出た突起がさらに脅威で、剣で対応するとあっさりと折られてしまう。
弱点は、熱に弱い。つまり…
「この巨蟹に火で対抗したのか?」
「…このサイズの焼きガニを作ろうとしたら、相当な熱量が必要だったろうね」
蟹の甲羅の部分に火の跡は確認できないが、蟹の弱点は腹だ。
火の魔法を好む翡翠眼は少ない。火は便利ではあるが、長い時間かけたものを一瞬で焼いてしまうのが、長寿の翡翠眼には嫌悪感があるからだ、といわれている。
ルーチェにはその感覚は無い。そもそも、「燃え移らない火」を使えば良いからだ。燃え広がらない火は大変高度な魔法で並の魔導士には難しい。メアリーは並の魔導士ではないが、大変面倒くさい術式連結を必要とするため、知ってはいるが使う機会は無い。
「にしても、デッカい蟹ねー。どこから来たんだろ」
「…もしかしたら、村自体が、蟹の巣穴の上にあったのかもね……」
紅沙蟹は、地中深いに巣を作る。地下水で巣穴の一部を満たし、そこで産卵する。紅沙蟹は大人になると地中に潜み、殆ど地上には出てこなくなるが、地下水が途絶えたり枯れたりすると、巣穴を直上して地上に現れる事がある。
村が地下水を吸い上げたりして地中の水が枯れれば、その真上を突き破って出てくる事もあるかも知れない。
「弱点がわかってる魔物相手に……、動揺しちゃったのかなぁ?」
「弱点がわかってる、って言ったって……、コレが突然地面から湧いたら誰だってパニック起こすよ」
「そうか、まぁ、そうかもね」
「……あんた、どういう生涯を送ってきたの?」
三人が穴の淵から見下ろしていると、ジルが音にならない唸り声を出した。
「…どうしたの?」
「封印結界だ。生きている」
「え?」
ルーチェとメアリーには何も見えないし感じないが、ジルが足元にあった白い岩をしゃがんで眺め、手で軽く小突くと、文字が僅かに発光した。そして一瞬だけだが、穴全体を覆うような大きな封印術式が浮かび上がった。
「よく気付いたね」
「一応、封印が専門なんでな」
「全然わかんなかった…」
「簡単に分かられると困るからな」
「今の様子だと、穴自体を封じてる?」
「蟹ごとな。むしろ、蟹を触媒にしているようにすら見える。あの甲羅、術式が描かれているのかもしれないな」
「え?どう言う事?」
「蟹は蓋で、封印したいのは、穴の中って事?」
「そうかもしれん」
穴を封じる、というのはよくある話だ。
大地にぽっかりと空いた穴から、瘴気が勢いよく噴き出てくる、という話は古い古いお話で登場するが、今ではとんと聞かない話である。ルーチェの生涯は長いが、ここしばらくは聞いた記憶がない。
ただ、事実として確かにあった話。空想の話ではない。古代、魔王との戦いがあり、大地にの多くが呪われた。その呪いが浄化されきっておらず、時折巨大な穴となって現れては、その周辺にあらゆる厄災を撒き散らすのだ。瘴気はヒトをはじめ獣達を穢し狂わせる猛毒で、あっという間に阿鼻叫喚の奈落へと変える。
浄化の方法もあるが、蓋をしてしまう事が一番手っ取り早い。
「こんな森の村のど真ん中で? 瘴気の穴が空いたってのは、なんか腑に落ちないね。そもそも、翡翠眼は瘴気に敏感でしょう?」
「少なくとも、呪われた地に態々村を作ったりはしないね」
「だよねぇ」
「ただ、結構いろんなヘマをやらかすんだよね」
「え?」
穴のすぐ側に巨木があった。見ると家を飲み込んでいる。穴によって地面が抉られ、家がちょうど断面図のように見えている。木は家の中から生えているように見え、幹と根の境目が曖昧だ。葉の形からして「彫妻の木」である事はわかる。しかし、この巨木は何かに姿を似せている様子はない。
「これが、大本、かなぁ」
ルーチェが見上げて言った。家はよく見ると地下室があり、抉られた部分より下にも続いているようだった。ルーチェは何の躊躇いもなくそこに入り、邪魔な根、とも枝とも受け取れる垂れ下がった部分をザクザクと光刃で斬った。
「ちょっと、大丈夫なの?」
恐る恐る地下室に入るメアリー。
「大丈夫。この木はおそらく、この地下室で秘密裏に育てられてたものだと思う」
「育てられてた?」
「彫妻の木、はね。呪性認知症によく効く薬が作れるんだ。あと、ヒトの鬱とかにも効くらしい。以前は【枕呪】に効く薬として重宝されたらしいんだよね」
「え?そうなの?」
「実際、ここに生えてる彫妻の木自体が、相当なお宝だよ。葉っぱを煎じたものだけでも、王都では翡翠眼や深紺眼、長寿族相手にはとても良い値で売れると思うよ」
「そうなの?」
「彫妻の木はね、その特性から怖がられるんだ。実際怖いでしょ。空間が持ってる記憶を再現する特性。あまり気分がいいもんじゃ無いし、今ではほとんど見かけない。こんなに大きく育つまでには、何十年と魔力を与え続けなきゃならないから…」
つまり、何十年と魔力を提供し続けている何かがある、という事。
「やっぱりあった」
根を掻い潜って地下室の奥にあったもの。メアリーでもわかる、僅かに魔力を放出し続けている水晶のような透明な鉱石があった。
「何コレ」
「メアリー、見た事ないの?」
「無いよ」
「記憶結晶」
ルーチェより先にジルが言葉に出した。淡く蒼白く輝くその水晶は、胎動しているかのように静かに輝きが揺らいでいる。
メアリーは、ここに寝泊まりしている
『何か聞き出せたか?』
いや、本人は本当に知らないのかもしれないな
『それじゃ困るんだよ。なんでも良いんだ。繋がるもんを探し出せ。クローレンの遺産だぞ?』
乳母からは何か聞き出せたか?
『乳母だった女は死んじまったんだ』
なんだと?
『殺ったんじゃねぇよ。あの女、自分で死にやがったんだ。何も吐かないうちにな。余程の秘密を知ってたんだろう。間違いねぇ。クローレンの隠し金はあるんだ』
そうだとして、あの女はつい先日まで自分がクローレン家と繋がりがある事すら知らなかったのだ。何か聞き出せるとも思えんが?
『だから、それじゃ困るんだよ。何でもいいから焚き付けろ。乳母をネタにしてな。この地方の何処かにあるって事まではわかってんだ。後はそれっぽいところをしらみ潰しに探すしか無い。探し当てたとして、すんなり手に入るとは思えねぇ。必ず「鍵」はかけてるはずだ。それこそ、あの女にしか開けられない箱、なんぞあってみろ。イチイチ探すのも面倒くせえ。ずっと張り付いてろ。いいな』
わかった
「え…?」
今メアリーが見たのは、白昼夢か、それとも封じられた記憶か。二人の男の会話だった。片方の声は普段から聞き慣れている。側から片時も離れない聖騎士の声だ。
クローレンの…遺産?
そんなものがあるなんて、知らない。
そもそも、あの屋敷にあったのは、小さな子供部屋に放置されていた数冊の本と、朽ちかけた人形や縫いぐるみだけだったじゃないか?
あれに、そんな値打ちがあるとは思えない。
とすると、あそこには、もっと他の何かがあるって事?
「どうしたメアリー?」
ついさっきも白昼夢で聞いた声がする。
「ジル、あの屋敷には、あの部屋以外に、何かあるの?」
「クローレンの隠し金だ」
クローレンの隠し金?
「ああそうだ。ルーチェと山分けしようと考えていたんだ。あれ程の金貨があれば、こんな辺鄙な旅ももう終わりだ。王都で一生遊んで暮らせるだろう」
「あはは、私は寿命が長いから、一生、は賄えないかもね」
「無駄に寿命が長い種族は大変だな」
「ねぇ、あの金貨、もっとあるんじゃないの? 探してみようよ。まだ他にも別荘があるかも知れないじゃない? あの子供部屋にあった日記を調べればきっとヒントがあるよ」
「そうだな、メアリー、あの屋敷から回収した書物を、オレ達に寄越せ」
え、なにそれどう言う事?
ジル?
私は、姫で
貴方は、騎士で
ずっと
ずっと一緒に旅してきたけど
時々何処かに居なくなるのは
そいつらと、連絡を取り合っていたの?
遺産って、何よ?
私、知らない
そんなの知らないよ
それが目的だったの?
いろんな所に行って
いろんな街で、村で
楽しかったのは
私、だけ、だったの?
大事にされてる、と思ってたのは
私のただの勘違いだったの?
愛されてる、と思ったていたのは
私の
「メアリー! 起きろメアリー!」
「えっ!」
「ごめんメアリー、油断した。大丈夫?」
メアリーはいつの間にかジルの腕の中にいた。いつも飄々とした翡翠眼の声が鬼気迫る張った声で小さな部屋に反響する。意識が朦朧とする中、必死に目を開けたメアリーが見たのは、恐ろしく殺気だった翡翠眼の後ろ姿だった。
「え? え?」
「精神汚染か、涙が出ている」
「何の防壁も無しに喰らったからね。メアリー、私の声が聞こえたら返事して」
「え? は、はい」
「良かった。戻ってきたんだね。今、貴女は襲われたの」
「襲われた?」
「ニーズヘッグ。精神汚染、記憶干渉、幻惑錯乱。その辺り」
メアリーは後ろ姿の少女がルーチェだと理解するのに時間を要した。小柄な金髪の後ろ姿は発光しているが、全く魔力を検知できない。魔力の目視ができているのに、微塵もそれを感じない。感覚が一つ失われたのだ
その翡翠眼越しに見える光景。記憶結晶に纏わりついたウネウネと動く蛇玉のような奇妙な塊があった。頭があるようには見えないが何百匹もの蛇が絡まっているように見える。見ているだけで軽く吐き気を催す。
呪われた土地の地下を好み棲み着く、数ある魔物の中でも大変危険視される、二級危険魔性生体。並の冒険者では一撃で、敗北したことすら認識できないまま死に至る、恐るべき魔蛇。この魔蛇は呪いの瘴気を好み、数百年かけて肥大化する。生まれたばかりの頃は掌に乗るほどの小さな蛇だが、この魔蛇は長い間此処に住んでいたらしい。蟹が塞いでいた穴から漏れ出た瘴気を吸っていたのかも知れない。
「なっ、何っ」
メアリーは錯乱して、どっと冷や汗が出た。身体が強張る。今までの人生でこれほど危険な魔物と遭遇した経験が無い。何よりも、これ程の魔蛇の魔力を全く検知できないのは、魔道士として恐怖でしか無い。魔道士が魔力を感じれないのは、息が出来ないのと同じ事だ。
「ジル、ゆっくり動いて、まず地上に出て。ヤツは太陽が苦手なはず」
「うむ」
魔蛇から伸びた幻覚の触腕が何本もあり、翡翠眼を取り囲んでいるのが見えた。ルーチェはそれを何らかの障壁魔法で防いでいる。気迫、と呼ぶのが生易しい、普段からは想像できない鬼気迫る声。髪が発光して見えた。
ジリジリと後退した。伸びてくる幻覚を透明な薄氷が防いでいるように見えるが、その幻覚の圧倒的な数にヒビが入っていく。直ぐに修復はされるのだが数が多く、障壁を突破してしまう幻覚も数本あった。その数本がルーチェの身体に突き刺さる。だがルーチェは動じない。
ジルとメアリーが地下室から出て陽が当たるところまで逃げた。
「いいぞっ」
ジルの声に、ルーチェが転がるように出口に走る。幻覚や精神汚染は一種の結界魔法だ。距離を取りさえすれば脅威ではない。ジルの手も借り、家屋の外に出て村中央の噴水近くまで走った。メアリーも必死に走った。噴水跡まで走るとルーチェが片膝を落として蹲った。息が上がっている。
「大丈夫?」
「大丈夫。息が続かなかっただけ」
ルーチェが手荷物から小さな小瓶を取り出して飲んだ。メアリーにとっては見慣れない色をしていたが、魔法解毒薬の一瞬だ。「魔法の毒」を中和する。息を大きく繰り返し、暫くすると立ち上がって、にっこり笑う。
「いやー、危なかった危なかった」
普段の声のトーンに戻っている翡翠眼。
「この状況で、笑う?」とメアリー。それに対して、恐ろしく優しい視線を向ける。
「メアリー、いきなりバッタリ行くからビックリしたよ」
「完全に気配を消していたな」
「ほんと。あんなのまでいるとは思わなかったよ」
メアリーはやっと理解できた。先程の会話は、あの魔蛇が引き起こした幻覚なのだ、と。
「アイツはなんなの? というか、大丈夫なの、此処で呑気に喋ってて」
「大丈夫。アイツはアイツでビックリしたんだと思うよ。ニーズヘッグは植物に近い魔物だから、追ってはこない」
ルーチェは手帳を取り出してペラペラ捲った。
「うん。あいつも記憶結晶の魔力であんなに大きくなっちゃったんだろうね。アイツは基本自分じゃ動けない。罠とか宝物の守護とか、そういう目的で配置する事が多い魔物だね」
「配置? 誰かがあそこにアイツを仕掛けたって事?」
「そう。アイツは無力化するのは比較的簡単なんだ。ブガワ草を焚けばいい。酒をかけるのも効果的だって書かれてるね」
「そこに居る、ってわかってれば怖くないってこと?」
「そ」
「怖かったよっ!」
「そうだね、怖かった。うっかりあいつの結界内に入っちゃったからね」
「そうじゃなくて」
「え?」
メアリーは、先程見た「幻覚」を思い出していた。
「怖かったよぉ…」
情けない声が出て、地面にへたり込んだ。大丈夫かとジルが駆け寄ったが、メアリーはビクッとして、しばらくじっと顔を見ていた。大粒の涙が弾けるように出て、子供のように声を上げて泣いた。普段決して見ることの無い姫の嗚咽に騎士はオロオロとしたが、姫が抱き着いてきた(というよりしがみついてきた)ので、まるで子供をあやすかのようにそっと抱き締めた。
メアリーの精神が不安定だと判断し、一旦村に戻る事にした。まだ日は高い。ブガワ草を手に入れなければ。
帰りの道中、メアリーは記憶症の涙が止まらなかった。涙は生体の魔力が流れ出てしまう為半淫魔にとって大変危険で、ルーチェが先頭を切って帰途を急いだ。狼数匹と遭遇したが幸いな事に敵意は無かった。




