忘れる為の物語 四枚目 巨蟹月の幻 四日
エルシー、知ってた?
古代の人はね、花に意味を持たせていたそうよ
例えば、この『ロシュラリー』という花には
色によって色々な意味があったんだって
面白いね
花を贈る、というのがヒトの文化としてあるのは知っていたけど
それが相手に意思を伝える機能を持たせていんたなんて
巨蟹月 四日
既に日が高い。二階の窓の側で小鳥の小競り合いが聞こえた。手に乗る程小さな身体で激しくぶつかり合う。出来れば他所でやってくれないかな、と眠い目を擦る、金髪の翡翠眼ルーチェは、派手にはだけた下着姿のまま窓の前で背伸びをする。下の通りからも丸見えだが、幸いなことに誰もいなかった。
変な夢を見たものだ。あの質感は『記憶の再現』だと思われるが、あの紅が混ざった髪の女性は誰であろうか。顔をはっきりと見なかった。
持ち歩くには少し大きい手帳。ルーチェの記憶はほぼその手帳に書いてあるのだが、この村に来て立て続けにいろんな事が起きたので、数日の空白が入ってしまっていた。これまで日記を書かずに寝ることはほぼ無かったのだが…。
村の鼠臭鬼騒ぎの顛末を昨日の夜纏めて書いたのだが、その途中眠くなり寝落ちしたらしい。日記は中途半端になっていた。
(そのうち、妖精さんでも飼い慣らそうか…)
マメに日記を書く翡翠眼は珍しいという。ルーチェも例外無く、長寿病【枕呪】の傾向はある。だが、日記に書くと案外綺麗に忘れることができると知ってから、書くようになったのだ。ルーチェが年齢の割にヒトと積極的に関わって生きられるのは日記のお陰かもしれない。
下着姿のままで一階に降りるわけにはいかない。ライルの祖母がくれたエプロンドレスをそのまま羽織った。欠伸が出る。夢の途中で起きたからだ。
おはよ、と宿主人に挨拶し、食堂のいつもの席に座る。
相変わらず素晴らしい焼き立てパンの匂いがする。朝採れたての葡萄が綺麗に粉を吹いている。美味しさの証だ。ポイっと口に放り込む。
ルーチェはこのユビ村に来て明らかに体調が良くなった。鼠臭鬼騒ぎの後でもよく眠れる。森の小屋で凄惨な「自衛団の成れの果て」を目にしたはずだが、それらが【枕呪】を生むことはなかった。
いよいよもって、他所とはまるで違う反応だ。都会なら間違いなく薬草頼みになる。
何かの結界内なのかなぁ、それとも鉱脈の影響なんだろうか…
以前は翡翠眼の村だったというこのユビは、村人も知らない何かの大きな規模の結界の中にある可能性がある。翡翠眼信仰もあるようだから、きっとそれらの恩恵を受けているのだろう。王都よりも遥かに過ごしやすい。
あれ、そういえば、何でこの村に来たんだっけ。
「おはようございます」
「あ、メアリー、おはよ」
朝の挨拶を交わしているが、既にだいぶ日は高い。この宿の寄宿する美女二人は、朝に弱かった。
翡翠色の瞳と少し緑がかかった金髪の翡翠眼と、深い紫色の瞳に漆黒の髪のメアリー。数日前までは目立たないようにとフード付きの魔道士衣を被っていたが、今ではそんなものは意味を成さない。魔導器の仮面「隠者の顔」も魔力不足でただの布切れだ。鼠臭鬼退治の英雄として担がれた結果、村人皆から知られる事となった。金髪のルーチェも目立つが、光を反射する程の艶やかな黒髪も相当目立つ。しかもメアリーはだいぶ女性らしい身体で、それを妙に隠そうとするが、宿の中では薄着で楽な格好だ。
…淫魔系の体型だなぁ……
「ん? 何?」
下から上へ、目線を感じ怪訝な顔。翡翠眼は、ニヤっと笑う。
「…おねーさん、いい身体してますねぇ」
「…!」
翡翠眼の卑しい言葉にメアリーはみるみる顔が真っ赤になり、その豊かな胸を抱えた。
「よ、酔っ払ったオッサンみたいな事言わないでよっ!」
あれ?
「メアリー?」
「え? え…、あ…」
急に縮こまって、俯いた。勿論無意識だが、大きな乳谷間が覗く。
「…む、昔からさ…、いろんな人に言われたんだよ…、デカい、とか、え、エロい、とか…。す、好きでこんなんじゃ、ないんだけど」
はて困ったものだ。
よりによって、赤面症持ちの半淫魔族とは。混血化が進む時代ではあるが、こうも極端なのも珍しい。
ルーチェは小柄(というより子供)で、様々な規格が「並以下」なのに対し、メアリーは明らかに並以上の規格外体型。薄着だと尚更よくわかる。同性であるルーチェから見ても文句なしの美貌と、不釣り合いとも受け取れる気品。そして同性でも目を惹く大きな乳房と白い肌。化粧っ気の無い故に放たれる色気。出生の真実を知るルーチェは納得するが、それを本人には伝えられない。
貴族のお嬢さんと淫魔のイイトコ取りか…
そりゃオッサン、イジりたくもなるよね
「羨ましいよ」
言ったのは黒髪巨乳の方だ。
「え?」
「その…、ルーチェは…こじんまりとしてて…」
かちん
「…吹き飛ばされたいの?」
「ヒィ」
メアリーがルーチェの強さを知ったのは、この村にに泊まった翌日だった。
葡萄園の方で巨大な猪が出たのだ。村の男達は弓やら鋤やらで果敢に戦ったが、とても敵う相手では無かった。よりによってこの巨猪は農園から村に降りてきてしまい、一つ家屋を粉砕した。
騒ぎを聞いた聖騎士と黒髪魔導士は成り行きで対峙する事となったが、鼠臭鬼よりも遥かに巨大で動きが速い。ジルが持つ「炎剣」で応戦したのだが、質量の差に圧倒された。そうしているうちに、つい、っと登場した翡翠眼に突進したが、飛び越えると同時に、一瞬で六本もの光矢を生成し放った。メアリーはその場で見たが、矢というより、槍に近い、恐ろしく威力のある光針魔法だった。
地面に串刺しになった巨猪は身動きが取れなくなり、それでも咆哮を上げたが、近寄って「うるさいよ」と頭を軽く叩くと、急に静かになって、そのまま眠るように絶命した。
村人達にとって、この田舎村に寄宿する翡翠眼が、これ程の戦闘力の高さを持っていた事に驚きを隠せなかった。これまでは、可愛い、だの、美人だの、魔法に長けている、だのの印象が強かった彼女は、一気に尊敬と畏怖の念を備える事となった。
「ごごご御免なさいっ」
「冗談だよ」
翡翠眼は、自分が小柄な事を気にした事はない。王都で「翡翠眼喫茶」に勤めていた時も、三十人近い翡翠眼の中で四天王とまで揶揄され指名度が高かった彼女だが、四天王の中で「原石翡翠眼」は彼女一人だった。
「原石」とは翡翠眼の身体的特徴の事だ。翡翠眼は長寿だが、生まれてから十二歳程度まではヒトとほぼ同じく成長する。そしてその時点からぴたりと止まる。一説によれば『恋をする』と一気に身体が成長し、ヒト以上の魅力的な身体へと変貌する。この成長速度が恐ろしく早く、一週間程で劇的に変化したという例もある。
この『恋をする』という曖昧な表現であるのは、個体差がありすぎて実はよく分かっていないのだ。この、蛹から蝶になるような劇的変化『変態』に近い特徴は、ヒトで言う思春期に近い状態で起こる。ところがこれが生後百年程度、そのきっかけがなかった場合には、その後恋をしても成長が起こらない。小柄な子供の姿のまま長い生涯を終える事になる。
『恋を知らない翡翠眼』の話は、禁語として扱われている為、知らない者も多い。その為『原石』などと揶揄される。
この「原石翡翠眼」は、本人達が気にするかどうかは様々だが、ヒトにはとても好かれる。幼齢女として、一部に絶大な支持がある。
ルーチェは、気にしない派だが、巨乳半淫魔に言われると流石に冗談の一つも言いたくなる。
「怖いよその冗談」
「…え? 何よ。そっちは本気で言ったって事? 本当に吹き飛ばすよ?」
「そんなの人それぞれじゃん!私はほんっと嫌なんだよ…」
メアリーは、物心ついた頃には魔法を使っていた。誰にも教わるでもなく、本を読んでそれを真似してみるとあっさりと魔法が使えた。
それを見た母(乳母)が、魔導師の元に通わせたのだ。非魔法力者が、魔力を持つ子を育てる事は大変危険で、然るべき教育を受けさせたのだ。
最初に『そういう目』にあったのはその魔導師だった。まだ十歳程度だった自分に、やたらと触りたがった。魔法の伝授だからと裸にさせられたりし、おかしいと感じた同門の先輩方に助けられたが、同時に破門となった。
その後は女性の魔導師の元で学んだが、その師の愛弟子がメアリーに恋し状況は一変した。師は事あるごとに冷たく当たるようになり、最後には恋敵がごとく振る舞われた。当のメアリーは全くその気がなかった。それも神経を逆撫でしたらしく、また破門となった。
仕方なく独学で魔術師の資格を取り、ギルド登録が通った。ギルドに通した時も何故かさまざまなトラブルが立て続けに起こった。全て色恋沙汰であった。
その事を簡潔にルーチェに伝えた。
流石だなぁ、とルーチェは感心する。半分とはいえ魔族の血。恐らくは淫魔系統であろう。
だとすると血気盛んな男どもが彼女を放っておくはずは無い。魔導師なら本能的に危険を感じるのだろう。典型的な無意識問題児なのだ。本人は何も悪く無い。だが、とにかく好かれる。わかっていても、ルーチェ本人ですら目が離せないような感覚があるのだ。これはもはや、常に魅了魔法を放出していると同じ事だ。
「そんなんじゃ、旅するのも大変でしょう」
「そ、そうなのよ。普段からすっごくダサい格好してるの。なのに、紹介された男みんながさ、私にちょっかい出してくる。女だと変に嫉妬されるしさ。嫉妬しない女の子だと、好き、とか言い出すし! 私は規定値なの! 同性は好きになれないよ!」
「声大きいよ」
「どういつもこいつも、何なのよ。挙句の果てには決闘沙汰よ? どうかしてるよ。勝った方が私を手に入れる、とかさ…、え、私の意志は? ねぇ私の意思はどこにあるの?」
「わかったわかった」
「そういうの抜きで! 抜きで旅したいの! せめて、順を追って積み重ねた上で考えたいの! なのにいきなりよ。たった数時間、とかいう男もいたわ。ありえない」
あー、ほんっと困った子だなぁ
そりゃー、あんたの「血」のせいだよね
むしろ、とってもとっても優秀な素質なんだけどなソレ
あれ?
「ジルは?」
「ふえっ?」
メアリーの顔の赤面が音を立てた。(本当に音が出た)
「…」
「何、なんか言いなさい」
「いあ、あ、あの、こ、この話は、その、また後で、後でしよう、うんそうしよう」
真っ赤になってアタフタとする黒髪巨乳は、半淫魔である。
タチ悪い。無自覚鈍感巨乳半淫魔にそう言ってやりたいが言えずに心がムズムズする翡翠眼だった。
今話している服装も、とてもゆったりした服だがその分隙間から覗くあらゆる部分が艶かしく性情的。さらに、乳房の見えるか見えないかぎりぎりの場所に黒子がある。思わず見てしまうのだ。それは偶然ではない。そういう場所に黒子が生じるのが淫魔である。全身が容赦なく視線誘導を起こすように作られている。淫魔とはそういう種族である。性別の垣根などアッサリと超える。
「せっかくだし、似合う服でも作ったら?」
「似合う、服?」
「そう」
「…昔ね、そう考えてお店に行くとさ…、必ずと言っていいくらい、淫魔向けの服を紹介されるの」
ルーチェは思わず飲んでいた紅茶を盛大に吹き出した。
「何よっ、きったないなあ」
「いやぁごめん、その…、なんというか、まぁ、そうなるかな」
「嫌よ。下品だし…イヤラしい…」
困った子だなぁ…
ルーチェは、しきりに遠慮するメアリーを半ば無理矢理にライルの家まで連れて行った。
森の奥で出会った不死人の一軒でこの家が「服を作る家」とかつて呼ばれていた事がわかった。今この家に住むライルは狩人に道具などを売る何でも屋だが、家の奥には大きな機織り機がある。ライルの祖母は歳で、最近ぼうっと機織り機を眺めている事が多いらしい。
「婆さん、直したいらしいんですよあの機織り機」
「壊れてるの?」
「一番動く所がやられてて、直すには結構かかるんですよ。いえね、部品を作る事くらいは、村の者でも出来るかもしれないんですが、材料が…」
「材料は何?」
「鹿です。鹿の大角。それと、ツゲの木も無いと」
「なるほど、覚えておくよ」
「え、ありがとうございます」
「世話になってるしね」
ルーチェはそう言って、エプロンドレスをそっと撫でた。
ライルの案内で祖母のいつもの部屋まで通された。老婆は一人、織り機の編模様の型紙を眺めていた。
「あら、オル、また来てくれたのね」
塞ぎ込んでいた顔が見違える様に明るくなる。まるで恋をする乙女の様に。
「私はそんな名前じゃないよ」
「そうね、まぁ、なんだっていいじゃない。同じ翡翠眼なんだし」
「適当すぎるでしょ」
「あら、お友達を連れて来てくれたの?」
相変わらず話をあまり聞かない。老いたヒトの扱いは面倒だな、と思う。
「この子、名前はメアリー。この子に合う服を作って欲しいの」
「まぁ……、まぁああ」
老婆が可愛らしく身を捩って腰をクネクネとさせた。へぇ、その「儀式」は性別年齢関係ないのか。どうやらヒトは嬉しいとその仕草をするらしい。
見違える様に生気を帯びた老婆がそそくさと道具箱から紐を取り出す。目盛りが付いている。
「さぁ、なにをしているの? 脱いで!」
「…え?」
「服を着たままじゃ測れないわ」
「いや、測れるでしょ」
老婆がヤレヤレと苦笑いする。
「いい服は、正確な採寸から、よ。貴女、身長もあるし、肉付きもいいけど、それを恥じているのね? きっといろんな人に揶揄われたんでしょう?」
巨乳黒髪と翡翠眼は驚いた。この老婆、心が読めるのか?
「それはね、隙があるからよ。似合わない服を着ているから舐められるのよ。服はね、何よりも「型が合っている事」が大事なの。身体は立体だし曲線だから、それに合うように型紙を作らなきゃダメなのよ」
ついさっきまで呆けていた老婆とは思えない鋭い眼差しだ。
「自分の為に服を作ったことなんかないでしょ?」
「…無い」
「他の誰かの為に縫われた服なんて似合うわけないわ。貴女、とても良い姿をしてる。私に任せて。損はさせないわ」
気圧される、とはこういう事を言うんだなぁ、と、丸裸になって採寸される巨乳黒髪を眺めながら思った。あれよこれよと言ううちに様々な所を測られる。出される数字に驚きを隠せない翡翠眼だった。一体何を食べたらそんな身体になるのか?
あ…、そうか、何を食べるってそりゃ……、いや、考えない事にしよう。少なくとも今は食べてないでしょ。
「このエプロンドレスの時には、測らなかったよね?」
翡翠眼の言葉に、老婆が濁った鼻眼鏡を掛け直す。
「貴方はわかりやすかったわ。平面的だし」
織機ごと吹き飛ばしてやろうか?
別にそれ自体に対して嫉妬するわけでもない。比べる相手が悪過ぎる。精搾取が生命維持と直結する種族の血と、原石翡翠眼とでは比較すらできない。
思い掛けずメアリーの身体を隅々まで見る事になったが、恥ずかしいのか赤面し通しで、揶揄いたくもなる。
腹部、背中、脚まで見たが、『淫紋』らしきものは無い。
『淫紋』を持つ淫魔は最近減っているという。本来淫紋は、淫魔の精神衛生の為に不可欠な要素だった。淫魔とて搾取相手は「誰でも良い」わけではない。
だがそんな悠長な事を言っていると、途端に体調が悪くなる。魔族の身体はヒトよりも遥かに魔力代謝が激しい為、ヒト用の通常の食事では対処できない。
魔族は直接ヒトを食するが、淫魔の場合それを搾精でも補える。特定の相手、例えば恋人や夫、妻などから一人の淫魔を養い続ける事は不可能で、その相手をしたヒトはあっという間に疲弊し干からびる。淫魔は比較的ヒトに近い精神構造であるため「食わず嫌い」を克服する事は、生死に直結する問題なのだ。
故に、若いうちから淫紋を用いて性欲の中毒を意図的に起こし、誰彼構わず相手にする。そうやって種を維持して来たのだ。
その淫紋が無い。となると、ハーフとは言え、メアリーがこれだけの身体を維持していられる理由が気になる所だ。現在では魔力食も豊富にあり、淫紋など使わずとも、食事から高魔力を得られるようになって来ている。このユビ村でそれらのものを見た事はないが、メアリーの手荷物の中にあるのかもしれない。
あれ? メアリーは自分が半淫魔だと知らないのだから、高魔力食を魔道士として食べているのか。「常にお腹を空かせた魔道士」というわけか。
でもそれだけであんな身体維持できるかなぁ…。
ジルかなぁ。ジルが夜伽相手してるって事かなぁ。でも、ジルは聖騎士でしょ?
聖騎士って…、童貞じゃなきゃ聖力を失うんじゃなかったっけ?
しかも相手はよりによって淫魔だし…
どうなってるんだろ?
聞けるわけもない。カッコつけてメアリーに真実を伏せると約束した手前、興味本位でそれを匂わせるわけにはいかない。
つがいなの?と聞いた時妙に赤面した事を思い出した。
え、メアリー、もしかして、処女なの?
…だとしたら、かなり傑作の話よ。私、長い事生きてるけど、そんな話聞いた事ない。
「ルーチェ? ちょっと、ルーチェ、大丈夫?」
「え?」
「あ、良かった…」
「へ?」
「【枕呪】が起こったのかと…、呼んでも全然反応しないんだもの」
「そう? ごめん、考え事してた」
「なんかあのお婆さん、奥に引っ込んじゃったけど…」
あの老婆はあーなったら暫く部屋から出てこない。話に聞けば採寸をした後、あらゆる方向から眺められたらしい。流石に慣れ、呆れながらも棒立ちしていたが、老婆が「よしわかった」という一言を境に、三日後に来て頂戴、と言われた。
「三日…、ね」
「お代って、どのくらいなんだろ?」
「お代?」
「それ(エプロンドレス)、いくらだったの?」
「…」
翡翠眼は、その事をすっかり失念していた。
「?」
「…払ってない」
「え? それ、相当良いやつだと思うけど」
この村に来てから、ルーチェは「お金」を使っていない。王都でエルフカフェで暫く働いて稼げたお金で、欲しかった魔導書を買った。四年かかったが、その甲斐あって実に素晴らしい本だった。今も大事に荷物の中にある。
魔導書の価格は様々だが特に錬金術について書かれたものや、召喚魔法などの高度なものはとても高価で、冒険者による地道な採掘採取、魔物退治など得たお金では何十年掛かるかわからない。エルフカフェで、仮にも指名四天王に四年君臨し続けたルーチェ。魔導書を購入した後は、あまりお金は持っていない。
宿にすらお金を払っていないルーチェ。
「お金、お金かぁ…」
「宿、依頼受けてるんじゃ無いの?」
「…聞いてみるかぁ」
宿に帰る道すがら、ルーチェは暫く困らない程の大金を手にする事となった。
昨日の巨猪を肉屋が引き取ったのだ。見た目より美味で大味になっておらず、大量の良質な肉になった。宿には大きな肉塊が届けられ、塩漬けの肉が隣町に高く売れたと知らされた。近年では中々手に入りづらい肉で、かなりのお金を置いていったのだ。
夕方、呆れるほど分厚く切られた肉塊が宿の食事で出された。香草で臭みが消されていて、スターナの絶妙な味付けで最高に美味だった。
宿には翡翠眼、巨乳黒髪、聖騎士の三人のみの宿泊客だったが、肉が食えるとあって村人が押しかけ、食堂は賑やかだった。森中の木の実や剰えヒトの畑までを冒した巨猪は、脂が乗り赤身が盛り上がり、都市部では貴族級の富豪しか食べれない品質だった。
メアリーは淑やかな見た目とはかけ離れた大食いで、特に肉好きだった。美味しいものには目がないと言う。自称「金のかかる女」。文字通りモリモリと食べた。小柄な翡翠眼の三倍は食べた。