忘れる為の物語 三枚目 異形の者 後編
危険な経験をすると、次またその機会が訪れた時、それを避けようとする。これは、昆虫にすら備わっている本能。ここには大きな沼がある。毒蛇がいる。水棲馬がいる、魔法を跳ね返す鏡甲虫がいる、などなど。
経験によって知識を蓄積し、それを活かして生き延びる確率を上げる。そうやって亜人種は繁栄して来た。本人の経験を飛び越え、書物などによって死人の声を未来に届ける。文字を持つ亜人種にのみ可能な方法だ。文字を持たない種は親から子への伝達もままならない。天敵が襲って来た時にはどうすればいいか、という経験を次の世代に伝える事は大変難しい。天敵とは、襲われた経験をする時点で既に絶望的だからだ。
だが、経験とは時に種としての前進を留めてしまう事もある。経験、記憶、学習が邪魔して、それを避けてしまう故に複雑怪奇な結果を招く事もある。
ヒトの場合、六十年程度で世代交代による刷新が起こる。経験を過去の遺物として社会から追いやる頻度が長寿族よりも遥かに多い。なので、長寿族にとっては「ヒトはさっぱり学ばない」ように映る。
歴史上繰り返される戦争も、見事にこの理屈が当てはまり、六十年という周期がある。六十年に一度、というとヒトの人生では二回経験する事が限度だが、六百年を生きた翡翠眼だと「またか」という印象なのだ。
キュベス国は、戦争終結から四十年が経過しているが、まだ、戦争が完全に忘れ去られているわけではない。ヒトですらそうなのだ。長寿族にとってはまだつい最近の出来事だ。
「どうだ?」
「分かってはいたけど、全く、何でこんな仕掛けにしたのよ」
「少し休憩したらどうだ?」
軽装の騎士と魔導士が、暗闇で何かをしていた。
「…あの村の、翡翠眼、見たでしょ?」
「…ああ」
「そんな話【あいつ】からは聞いてない。下調べしてから二ヶ月。その間に来たんでしょ」
「確かに報告にはそんな話はなかったな」
「余所者。しかも翡翠眼。厄介よ。村の住人は抑えられても、翡翠眼は止められない。止める理由がないもの」
「…そうだな…」
「あの子を眠らせ続ける限界が三日。なんとかして開かないと…時間との勝負よ」
二人は暗がりの中で、妙な形に刳り貫かれた板をパズルのように壁の一部にはめ込む作業をしていた。板は十六片あるが、どれも似たような形をしていてうまく嵌まらない。四隅を頼りにしらみ潰しにあてがっているが遅々として進まないでいた。
「こういうのちまちました作業、苦手なのよ…」
「魔法使いなのにか?」
「あー、そういう言い方、傷つくわぁー」
「…オレの事は散々に言うじゃあないか」
「何よ、喧嘩したいの?」
「落ち着け。時間はまだ稼げる。そもそもこの作業、此処でやらなくてもいいんじゃないか? 上の明るい場所でするべきだ」
「…それを早く言いなさいよっ」
翡翠眼は村を正門から出て行った。村外への外出を制限している中で、門番がどうすればいいかしどろもどろしていた。そもそもこの翡翠眼は村人では無い。外出を止める理由がないのだ。村長には、悪いようにはしないから、とだけ言ってあった。
雲が多いが綺麗な青空だ。陽が少し傾きかけている。陽射しが少し痛い。乾いた風が青々とした麦畑から渡ってくる。とても清々しい。
あ、ロバを借りれば良かった、と途中まで来て気付いたが、分岐の二股まではもうすぐだった。例の大雑把過ぎる立て看板を見てニヤリとし、そのまま森の方向へ歩いた。
魔物に襲われた。肥大化した鴉の一種で人を襲う「森鴉」だ。農作業がひと段落した麦畑で、ヒトによる警戒が薄れたからだろう。四羽が上空から襲って来た。あれ?っと驚いたルーチェは咄嗟に飛来を避けたが、鴉特有のしつこさで何度も襲いかかってくる。
「仕方ないな……」
攻撃をかわしつつ、鞄から取り出したのは、手のひらからわずかに出るほどの短い木の棒。木製だが、先が杭のように尖っている。それを親指、人差し指、中指とで縦方向に摘み、杭先を突き出したように鴉に向けた。
チカっと光り、鴉の一羽が悲鳴を上げて落下する。
多くの魔法の中でも広く知られている「光の矢」だが、単純な術式の為応用が利き、使用者の用途に合わせた調整が容易な事で知られる。
杖の代わりに杭のように先端を細らせる事により、放出される力を濃縮している。多くの者は的を追尾するようにある程度速度を落とす。調整をしないと直線的な軌道な為外す事があるからだ。だが、ルーチェの「光針」は違う。
威力を最小限にし、その分、発動初速と速度、貫通力を重視している。空を飛ぶ魔物は総じて翼が弱点となる。射抜いてしまえばほぼ無力化出来る。鴉は見た目では種類が判別しづらい。中には石化の毒を持つものもいる。さらにしつこい。一度は追っ払っても、次には数を増やして襲ってくる。確実に撃退しなければならない。
ルーチェが放つ「光針」は森鴉の翼の筋を貫通している。落下し暴れる鴉の脚と首を踏み付け、さらに頭部に至近距離で打ち込む。森鴉は悲鳴をあげるまもなく絶命する。
残りの三羽がギャーギャーと騒ぎ立て、一羽が襲って来たが、狙いをだ定める時間があった。放った光針は頭部を貫通。一撃で落絶する。
驚いた残りの二羽が慌てて逃げようとしたが、逃すと後で集団で襲われる可能性がある。距離はあったが狙いを定めて放った光針はそれぞれ一撃で仕留めることが出来た。
ルーチェはふう、と息をした。村にほど近いこんな場所でこんな魔物に遭遇するとは、森に何かがあったんだろうか? やはり鼠臭鬼(鼠臭鬼)がいるのだろうか?
鼠臭鬼がいる、となれば全ての考察は水疱に帰す事となる。誰も嘘はついていない。自分達の勘違いだと言う事になる。怪我人が書いた「いない」も、何がいないのかは指し示していない
森鴉が森から出ていると言う事は、何かしら森に緊張があったと言う事だろう。鼠臭鬼が現れた森からは森鴉が出てくると言う話もよく耳にする。
森に入って注意深く周囲を見ながら歩いた。鳥の声も聞こえるし、時折り鹿の声もした。鹿は警戒するとすぐに警戒を仲間に呼びかけるが、そんな声は聞こえない。誰かが踏み荒らした様子も見られない。何より「鼠臭鬼の匂いがしない」。
鼠臭鬼、特に姫ゴブリンは特殊な臭いを持っている。甘く少しだけ糞尿のような臭いがする。森の大きさを考えると入り口だけでは判断できないが、何も変わったようには見えない。
ヒトが通る道が一本ある。森の奥の小屋まで続いているもので、道自体が消えかけている。最近人が通った形跡はあるが、最近といっても雨が降った後、としか言えない足跡だった。冒険者たちのものとは限らない。
ルーチェはひとまず、知っている範囲を見るつもりだった。森小屋の前を通り、紫水蕣の泉までを見て回るつもりだった。森は広大で、巡礼線沿いに小屋への道が通っているだけで、そこから山岳地帯にかけての森は何倍も面積がある。ほんの一部だけを見て判断するつもりはないが、今日は手始めに見て回れるところだけでも見ようと思っていたのだ。
森小屋が見えてきて、ふと思った。はてこの森小屋は何故こんな所に建てられたのか。そもそも誰が建てたのか。紫水蕣狩りに来た時には気にも留めなかったが、かなり古い。小屋、というには大きい。ちょっとした「お屋敷」といっても差し支えないだろう。
所々朽ちかけていてはいるが、木こりたちが利用するような粗末な小屋ではない。石造りのものだ。枯葉やツタなどに埋もれてはいるが、窓には鉄格子があり、ガラスが割れたりはしていない。ところどころに最近の修復の跡がある。三年間カークが暮らしていたという事を考えれば不思議ではない。
柵は朽ちていたが、石造りの門。
(捨てられた、貴族の別荘?)
戦争の最中、魔導関連の産業は好景気に沸いた。既得権益が傾く中で貴族達はこぞって投資を行った。ところがいざ戦争になってみると消耗戦となり、戦火を免れた僻地に逃避先を作るようになったのだ。こんな大陸の端の小さな森はまさに隠れ蓑としてはうってつけの場所と言えよう。魔物の脅威の色も薄いこの地域では、名のある貴族が避暑地としてひっそり居を構えていても何の不思議も無い。
ただ、現時点で放棄されているところを見ると、屋敷を建てた持ち主が消滅したのか、もしくは忘れているのか。いずれにしても打ち捨てられてもうだいぶ経っている。造りがいいので手を入れればまだまだ人が住めるし、事実カークを匿い続けた。
最近まで人がいた気配がするが、それは当然カークだろう、と思った。巡礼道から比較的近い場所に建つ故に目立つ事無く、村人も近づかない【森の死角】に存在する。もともと身を隠すための館であろうから、森の中でも巧みに隠れるように建っている。
この森は広い。巡礼路に面している部分はまだ人が入れるが、山の方へと歩けばあっという間に方向がわからなくなるだろう。緑が濃い、というよりも、闇が深くなるのだ。今の季節なら陽が高く十分に光が届くが、冬になると暗い森へとかわる。霧も濃い。ヒトを寄せ付けない陰湿さがある。いくら翡翠眼が森に適応しているとはいえ、深入りするには準備が足りない。
鼠臭鬼がいたとしても、あまりに深い森では住み着くことは無い。身体的に人と然程差がない彼等は、戌人や石竜人などの亜人種との競合を極力避ける。ゴブリンが棲める限界の深さまで行ってみるつもりだが、案外時間はかからないかもしれない。途中見上げる程大きな鹿と遭遇したが、敵意を持たれなかった。猪や豹なども見たが、翡翠眼を襲う気配はなかった。
深入りするつもりがなかったルーチェは「限界線」まで来たが、鼠臭鬼の気配は感じなかった。そして、囚われているというヒトの気配も感じなかった。森は広いため、一人での捜索には限界がある。鼠臭鬼が居たとして移動している事も考えられる。ルーチェは今朝堕読しておいた魔法を試してみる事にした。
「感度超増幅魔法」
以前、王都にいた頃、翡翠眼喫茶店に勤めていた時期に淫魔族の経営者に教えてもらった魔法に手を加えたものだ。自分、あるいは他人の五感を百倍近くまで精度を上げる魔法で、淫魔族はそれを魔法としてではなく、生まれ持った特性として使っていることが多い。夢魔や淫魔の特殊能力だと思われがちだが、若干の向き不向きはあるにせよ、単なる魔法の一種であり種固有の能力では無い。
この魔法は無論、彼等は精搾取に使う魔法なのだが、応用として使う狩人や盗賊は多い。聴覚に使えば、遠く離れた場所で枯葉が落ちる音ですらはっきりと認識でき、視覚に使えば広大な草原の中の狼のフンを発見できる。優れた魔法である。ただし、魔法で感覚を増幅させているのでその分疲労が激しく、長時間の維持は難しい。また、雑音が多い場所での超感覚は頭痛の原因にしかならない。
「あなた、この魔法を覚えても…、誘惑できる相手は限られるかもよ?」
ふと翡翠眼喫茶店の経営者に言われた事を思い出した。そういえば、頭から足先まで舐めるように見られた上で言われたなぁ。あーそうですよ、どうせ私は【並以下】ですよ。
超聴覚にして目を閉じると、森の中での出来事が手にとるようにわかる。単純に音量を拡大するわけでは無いので近くで大きな音がしても平気である。探索にはもってこいの魔法。文字通り、しばらく聞き耳を立てることにした。
数十種類の鳥の囀り、鹿の草をはむ音、馬、牛に加え、森の奥での低い寝息。
(…え、龍がいるの?)
長い首を通って出る寝息は独特な響きを持つ。小柄ではあるが龍がいる。地面に寝ているということは石竜か。
狼の遠吠えが聞こえた。狼もいるのか。しかもかなりの集団のようだ。この森には鹿が多い。狼が鹿を食べなければ森は荒らされる。良い環境だ
水の音がする。川が何本もあるようで小さな滝の音もする。水晶採掘場の方に繋がる森の方からはノシノシと二足歩行の獣の音がする。これは、巨鳥スファメルンか。スファメルンはヒトも襲うが、これだけ豊かな森ならわざわざ人里に降りる事もない。鹿や猪で十分だ。
「ん?」
聞き慣れない足音。
「魔泥胎?」
間違いない、魔泥胎の足音だ。魔泥胎は魔力の供給が無ければ動き続けられない。魔石で敷き詰めた墳墓や遺跡ならいざ知らず、森の中での魔泥胎は明らかに不自然だ。ヒトが連れているなら別だが。
かなり奥まった所にいるようだ。大きな滝の近くであるらしくその音が邪魔で足音以外を認識する事は難しい。ヒトが連れているのであれば、あの二人だろうか?
魔泥胎はその道に長けた魔導士なら、核さえ準備しておけば比較的簡単に作れる。その場で形作った泥人形に核を埋め込めば良いし、核を取り除けばすぐに泥に戻る。
魔泥胎は圧倒的に撃たれ強い。動きが鈍い、とよく言われるがそれは間違った認識だ。魔導士が使役する魔泥胎はヒトとほぼ同じ速度で動く。ダメージを恐れずに敵陣に突っ込める魔泥胎は不死軍を止める部隊として戦時中にも重宝され、その後の復興にも活躍している。
「…あの女魔導士、使役系かな……」
長寿の翡翠眼ならいざ知らず、使い物になる魔法の習得には時間がかかるため、ヒトには全ての系統の魔法に携わる事は出来ない。魔法系統は初歩では同じだが、あるい程度からは分岐する。見た目では若いようだったが、使役系は突き詰めれば大変奥が深い系統なので、思ったよりも歳を重ねているのかもしれない。
ふと、魔胎泥の足音が止まった。
「アレメクレイスコロンマス…、スラマリニーミエスロス…」
(…!)
聞き覚えがある言語だった。ルーチェにとっては懐かしさすらある。
(エワゥレ語…? ってことは、この森【モレ】がいる!)
どおりで鹿が多いはずだ。
【モレ】とは、ヒトにもあまり知られていない、半獣半神である。亜人種の一種、と捉える学者もいるようだが、半分以上が別次元の存在なので、同列に加える事は難しいと翡翠眼たちは考えている。尊敬すべき【森の管理人】である。
鹿とヒトが組み合わさったような姿で現れることが多いというが、それは単にヒトに姿を現す必要がある時、ヒトに馴染みやすい姿を模す、というだけで、姿は様々だ。光の玉のような姿であることもある。
その管理人が魔胎泥を連れている。そんな例は聞いたことが無いが、聞こえる声からして差し迫った緊張感は感じない。解読魔法を使えば言葉の意味はわかるはず。誰と話をしているのか…。
『どうかしたかい?』
誰と話をしているのだろう? と考えた一瞬の後、どっと冷や汗が出た。
『君だよ、聞き耳を立てている翡翠眼さん』
さすが半神だ。すっかりバレている。もしかすると思考も読まれているかもしれない。
「この森に来たという鼠臭鬼を探しているのです」
超聴覚中に喋ると思わなかったので、自分の声の大きさにとても驚いた。
『…ここしばらくは見かけないね』
「…ありがとうございます」
『…君、それ、大丈夫かい?』
「え…?」
突然視界が真っ暗になった。
いけない、限界だ。
ルーチェは慌てて魔法を解いた。一気に感覚が下がるので眩暈がする。立っていられずへたり込んだ。なかなか聴覚が戻ってこない。激しい頭痛がする。かなりの時間超聴覚を続けた上に、解読魔法まで重ねがけしたからだ。耳元で鼓動音が太鼓を打ち鳴らすように聴こえる。軽く吐き気がした。やり過ぎてしまった。しばらく動けない。
ほんの短い間だが気を失った。感覚の冷却に体力が奪われた。ゆっくりと目を開けて、視覚を確認した。見える。次に聴覚。鳥の声がする。これも大丈夫。湿った草の匂いもする。地面を触れる手の感触もある。
(…危ない危ない…)
まだ意識が朦朧とするが、とりあえず立ち上がった。深呼吸をし、落ち着くように努めた。感度超増幅魔法は限界を超えるとその感覚を永久に失ってしまう可能性があるという。百倍はやり過ぎたか。
「…、で、その森は何処にあるの?」
「さぁ、この大陸の何処か、としかわからない」
「掘り返したら、大変な騒ぎになるね」
「そりゃそうだ。大国が傾く程の大問題だ」
「え?」
完璧な白昼夢だった。感覚が曖昧なせいか、現実との区別が付かなかった。見覚えが辛うじてある男と自分がどこか違う森の中で会話をしている夢を見たのだ。驚きはしたが、心は恐怖は感じていない。その夢の中の男は知っている。
「…、ソード?」
声に出して、思い出した。そうだ。あの男の名はソード。本名かどうかはわからないがソードと名乗っていた、槍使いだ。ソード(剣)と名乗っているくせに、槍を使うヤツ、と仲間に揶揄われていた。
…仲間?
…いつ頃の話だろう?
…だめだ、これ以上は思い出せない。
この匂い。森の湿った匂いだ。この匂いが動機となり記憶が掘り起こされたのだろう。忘れていたはずの記憶。もしかしたら、封じていたはずの記憶。
どこか違う森の中で聞かされた、この大陸のどこかに埋められた秘密の話。
(…まさか、この森がそうだと? まさか…)
激しく脈打っていた耳周りを深呼吸でなんとか落ち着かせ、大きな木の幹にもたれ掛かった。今見た白昼夢の事はとりあえず忘れよう。
管理人が鼠臭鬼はいない、と言ったのはもはや決定的だった。森の隅々までを把握している彼等がいないと言った以上この森に鼠臭鬼がいる可能性は無いと断定してよかった。管理人は冗談好きで時にヒトや翡翠眼に悪戯をすると言うが、悪意ある嘘はつかない。「大丈夫かい?」と言ってくれた事を考えると、覗き聞きしていた翡翠眼に対しても友好的だった、と思って良いだろう。今度出会ったら沢山お礼を言わなければならない。管理人は酒と性行為が好きだと言われている。もし望むなら与えても良いだろう。
鼠臭鬼の存在をちらつかせて、この森から人を遠ざけようとしている、というカークとウィルの案が現実味を帯びてきた。このまま探し出して直接聞くか、と一瞬頭をよぎったが、視界が一瞬ぐにゃりとした。船酔いに近い。いけない。一度村に戻ろう。そのくらいはまだできるはず。それこそ今鼠臭鬼に襲われたら大変だ。
ルーチェは鈍い足取りで村の方へと歩き出した。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
村に着いてすぐ、自室のベッドにばたりと倒れた。様子がおかしいとスターナが水を持ってきたが、それをぐいっと飲んでまたパタっと倒れた。体力や魔力が尽きたわけではないが、とにかく目が回ったのだ。
(…感度超増幅魔法は…便利だけど、もう少し制御できた方がいいな…)
感度超増幅魔法は通常の索敵魔法、魔力で意識を飛ばしその反射による探索とは異なり、相手が魔法使いでも感知されない利点がある。魔力を飛ばせばいくら隠蔽しても相手に気付かれる可能性が高い。その点で感度超増幅魔法は自らの五感を限界まで増幅するので、何も飛ばさない。魔法使い相手に存在を知られる事は無い。
が、船酔いのような症状が起こりやすい。久々に使ったので維持時間を見誤ったのだ。回復までには半日はかかる。空腹ではあるが今の状態では何かを食べても吐いてしまう。とにかく寝よう。それしかない。
「ルーチェさん! ルーチェさん!」
突然部屋の扉が激しく叩かれるのを聞いて目が覚めた。状況が飲めない。部屋を見渡して、外が明るいところを見ると、もう朝になったのか?
扉を叩く声はウィルだ。
「起きてください! あの二人が村に戻ってきたんです!」
「…もう少し寝てたいんだけど」
鍵が閉まっていない扉だと知っていたのだろう。思い切り扉が蹴り開かれて、仁王立ちのウィルが見えた。普段は綺麗な薄茶色の髪が乱れている。
「大人でしょ!起きてください!」
「…わかった、わかったから…l
昨日、着替えもせずにベットに入ったので、そのまま袖を掴まれ引っ張られるように宿の階段を降りた。宿の外には何やら人だかりができている。
「…居なくなってた子が帰ってきたの?」
呑気な翡翠眼に対して、ウィルは興奮気味だった。
「鼠臭鬼が居たんですよ!」
村の門の前では大勢が詰め掛けていた。村長も含め、初めて見る顔もあった。葡萄農園の者たちだろう。陽の高さを見ると早朝のようだ。その人だかりがの前に、戦士風の男と魔導士風の女が、大きな麻袋のようなものを携えて立っていた。
麻袋からは、灰色に緑がかった腕が見えていた。その手に構造が明らかにヒトと異なる。
「鼠臭鬼……?」
「…で、残りは何匹だったかね?」
村長が戦士風の男に話しかけた。
「残りは三匹です。姫鼠臭鬼と一緒に居ました。森の奥に逃げられました。深夜だった故、追うのを諦めたのです。しかし、方向は分かっています」
「鼠臭鬼は、同族の死骸を嫌います。村の入り口に死骸を置けば近寄ってきません」
確かにその通り。鼠臭鬼は同族の死骸を嫌う。鼠臭鬼を退治した場合、村の入り口に串刺しに立てておくと村を襲わない、と言われている。
「我らは急ぎ森に戻り、囚われの女性を救出します。寝ぐらの目星はついています。今後は魔法武器も使用しますので…」
「わ、ワシらに手伝える事はあるかね?」
「私達は大丈夫です。ただ、囚われた方が怪我を負っている可能性もあります。介抱の準備を。それと、食料など頂ければ助かります」
「すぐに準備させます」
「もうできてます」
スターナが声を上げた。流石は宿のの主人だ。
ーおかしい。
ー何もかもがおかしい。
鼠臭鬼の死体を見た事があるヒトは少ない。気味が悪いし、中途半端にヒトに似ている為、女子供が見るべきものではない。カークが人だかりをかき分けて麻袋に向かっているのが見え、ルーチェもウィルもそれに続いた。
麻袋の中から見えていた灰緑の腕は、焼け爛れている。炎の魔法だ。カークが乱暴に麻袋から鼠臭鬼を引き摺り出した。全身火傷の鼠臭鬼。立派な大きさだ。筋肉も隆々とある。剣痕もあるが致命傷はやはり炎だ。一部肉が沸騰したのか、ぼこぼこと脂肪や体液が沸き出している。
村人達から、小さな悲鳴が聞こえた。
「……」
ルーチェとカークは無言で顔を合わせた。
「鼠臭鬼…だね」
「鼠臭鬼…だな」
「みんな、くれぐれも森には近づかぬように。それと、怪我人が出た時のために教会で準備していてくれ。エズス、悪いが墓守のクルックを呼んできてるか?」
ーおかしい。
ー何もかもがおかしい。
「…」
ルーチェは、鼠臭鬼を見下ろしていた。
「ルーチェさん…」
ウィルは、ルーチェが何か言うことを期待していたが、黙ったままでいる。
スターナが持ってきた弁当を丁寧にに受け取った冒険者二人は「では、後ほど」といって足早に村を出て行った。
鼠臭鬼が…いた。
目の前の事実と、今までの推測との食い違いにウィルは困惑していた。ウィル自身、実は鼠臭鬼を見たのはこれが初めてだったのだ。鼠臭鬼をじっと見下ろすルーチェが何か言うのを期待して待っていた。
「…お腹すいた…」
「え?」
早朝の宿の食堂には、焼き立てのパンの匂いがしていた。
パンの匂いも、いいもんだね、と食堂窓際のいつもの席に陣取った。
ルーチェは、小麦の食事にあまり慣れていない。どちらかというと、お菓子の印象が強い。去年まで住んでいた王都で、特に日陰の者達が多く住む地域にいたせいで、すっかり異国の流れ者達が好む「米」に慣れてしまったのだ。この国では主にパンを食するので、時々恋しくなる。
そんなルーチェでも、焼き立てのパンの匂いは激しく胃を刺激する。それもそのはずだ。昨日夕方に宿に戻ってから水しか飲んでいない。
食堂のカウンターには、大小様々な包みが並んでいた。何だろう、と眺めていると次々と村人が来て、包みを持っていく。弁当だ。なるほど。
「ルーチェさん!」
「…え? 何?」
「何、じゃなくてっ、何してるんですか」
「え、ご飯を食べようと思って…」
「え、あ、まぁ、それはいいですけど、ゴブリ…」
「スターナ、何か、おねがーい」
寝起きの翡翠眼が呑気に手をあげた。
「ちょっと待っててください、先にこっち仕上げちゃいますんで」
「ハイハイ、待つよー腹ペコだもん」
「すみませんすぐ終わりますんで」
スターナは厨房に陣取ったまま、複数の鍋を揺らしていた。
呆気に取られていたウイルがブンブンと横に顔を振ったかと思うと、ルーチェの席の対面に乱暴に座った。
「腹ペコなのはわかりますけど! まず、アレ、アレ、どう言う事なんですか」
「アレって?」
「鼠臭鬼ですよ! 鼠臭鬼、いたじゃないですか」
「え? 鼠臭鬼見るの初めてなの?」
「は、初めてですよ! この辺りは五十年近く鼠臭鬼は居ないんです」
「じゃ、よく見とくといいよ。滅多に見れないから」
「そうじゃなくて!」
「事実は事実だよ、しょうがないじゃん」
「え、あ、え」
「アレは鼠臭鬼だよ、そりゃ間違いない」
何かを言おうと口をパクパクさせていたウィルが急に萎んで項垂れた。
「あの森に……鼠臭鬼が……」
「…居ないよ?」
「え?」
「あの森には鼠臭鬼は居ない。間違いないよ」
「へ? あ? え、どういう…?」
ルーチェは窓の外を見た。まだ残っている村人達が遠巻きに鼠臭鬼の死体眺めていた。教会の方から、浮浪者のような身なりの屈強な男がのしのしと歩いてきて、村人がさぁっと引いて道ができた。町長が近付き何かを話している。
「そんなの私にもわかんない。でも、あの森には鼠臭鬼は居ないし、あそこにあるのは確かに鼠臭鬼の死体。この事実だけは変わらない」
「え………?」
「ウィル、あの森には洞窟とか、雨風を凌げる……、ヒトを寝かしつけてても大丈夫な場所ってある?」
「え? えーと、あの朽ちかけた小屋と、あとは泉のそばに小さな穴はあると聞いたことがあります。森の奥は狼が出るのであまり人が行きません」
「…やっぱりあそこか……」
「え?」
「と、すると、やっぱりカークが邪魔だったのね」
「え?」
ルーチェは黙って静かに窓の外を眺めていた。
驚くほど派手なお腹が鳴る音がした。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
ルーチェは森の奥にある「小屋」の前にいた。
早朝に鼠臭鬼の死骸が村に届けられてから、村の入り口が静かになるまでには時間が掛かった。朝食で満腹になり、二度寝しようか、と誘惑が一瞬頭を過ったがウィルの深刻そうな顔をあまり見ていたくなかった。わかったわかった、何とかしてあげるからあの怪我人を見張ってなさい、とだけ言って村を出てきたのだ。
(…やっぱり此処だった)
ルーチェは森に入ってすぐに、感度増幅魔法を使った。昨日の失態を繰り返さないように、出来るだけ抑えて使うように工夫した。最大出力の一割程の力で嗅覚の感度を上げたのだ。するとすぐにわかった。あの二人が宿で受け取った弁当だ。その匂いが小屋に続いていた。幸い風もなく、朝靄により湿度も高い。匂いが残りやすかったのだ。犬のように足取りを追ってみたのだが、随分と警戒しているらしく、回り道をしながら、村から森の道を一望できる丘まできた上で降りて小屋まで来ている。
もう一つわかったことがあった。この小屋の側で肉を焼いたような匂いが残っている。
(此処で焼いたのか…)
正面切って小屋の扉を引いてみたが鍵がかかっていた。注意深く見てみたが足跡らしきものは無い。違う入り口があるのか。
答えはすぐにわかった。木が小屋側面に面した二階の部屋へ届いている。注意深く見ると、草むらに少し窪んだところがある。ルーチェはくすりと笑った。
(…一度、落ちたのか)
ルーチェは木を登るまでもなくふわっと浮いた。窓にそっと手をかけた。鍵はかかっていない。
中に侵入した。暗い。昼とはいえ森の中の小屋だ。部屋は書斎のようで本棚らしきものがある。比較的綺麗に並べられているようだが、明らかに最近のノートがある。そして乱雑に積まれた手紙。よく見るとウィルの名が見て取れた。カークは此処にいたらしい。匂いを探ると、下の階に弁当はあるらしい。
(…便利だな…、この魔法…)
感度増幅魔法は、使い過ぎると通常感覚では満足出来なくなり中毒状態に陥る。あまり連続させない方がいい、とは思うものの、犬を連れて人を探すより手軽だ。足音を立てないように、少しだけ浮かんだまますぅっと動き、下の階まで着いた。中は思ったより殺風景で、装飾などが見当たらない。貴族の別荘としてはかなり異様な内装だった。
鉄格子、分厚い扉に大きな掛金。照明も最小限しかなく、がらんとしていて何もない。二階とは違い、洗いざらい全てを持っていったような光景だ。
奥の部屋に続く扉に手を伸ばし、すぐに引っ込めた。
「あの、話をきかせて欲しいだけなんだけど…私しかいないから」
しばらくして、扉が静かに開いた。不釣り合いなほど頑丈そうな扉。
「…、どうして此処だとわかったの?」
女の恨めしそうな顔に対し、翡翠眼は鼻をスンスンさせてニッコリと笑う。
「美味しそうな匂い」
「…」
「あのさ、後ろのヒトの剣も引っ込めてくれないかな。刃物相手だと手加減出来ないんだ」
「…」
扉の奥で剣を納める音がしたのはしばらくしてからだった。女は扉を大きく開け、部屋に入るようにクイっと顔を動かした。
魔道士風の女。ヒトの年齢で言うと二十代後半だろうか。わざとらしい黒いフードを取って髪を揺すった。黒い髪。目鼻立ちも良い。美人。田舎の農夫などは簡単に懐柔できる美貌の持ち主。村では気付かなかったが、気付かれないようにしていたのか。
すぐに回答が得られた。衣服や装飾品を観察して、変装用の魔導器があるのがわかった。顔に直接付けるもので、王都では比較的安価で手に入る。それを付けると簡単に別人の顔になり、素顔を隠す事ができる。ただ、魔導器なので魔力切れを起こすと効果が無くなり、ただの布キレになってしまう。腰に下がっている布はまさにそれだった。
「いつから?」
「?」
「どの段階からよ?」
「そうね…、昨日まではわからなかった。この森には鼠臭鬼が居ない、と確証を得てからよ」
「…、あの男がしゃべったの?」
「あの怪我人の事? 喋ってない」
「じゃどうやって…」
「翡翠眼は森の事がよくわかるの」
えっへん、とふんぞり返ってみたが、これも管理人に聞かれているかもしれないと気付いて咳払いした。
女は暫く睨んでいたが、ふいっと溜息をついた。
「だから嫌な予感がしたのよ…、翡翠眼があの村にいるなんて聞いてない」
「運が悪かったね」
苦笑いの翡翠眼に、女は少しほっとした。
「ほんっと、運がないのよね」
「いくつか、聞きたい事がある」
「村の子なら二階で寝てる。大丈夫、ずっと眠ってたはずだから」
「随分と回り諄い事したね…、カークが邪魔なら始末も出来ただろうに」
女は一瞬の沈黙の後、アハハと笑った。
「ヒトは殺すと後でいろいろ厄介だしねー」
「…あの怪我人は?」
「アイツは…、ただの闇商人」
「闇商人? なるほど、村人は全員完全に怖がってたよ。すっかり信じてた。殺さなかったのは…、村人を騙す為?」
「殺すのはマズいヤツだったからね」
聞かなくても大体想像がつく。闇商人から『鼠臭鬼の遺体』を買ったのだ。そして、その代金を支払った後に強請られたのだろう。村にバラす、とでも言われたのか…。強欲な闇商人。タチが悪いのも多い。
「というか、アイツの怪我は自業自得なんだけどね。私らがやったわけじゃないし
「そうなの?」
「…あいつ、私らの馬で逃げたのよ。走って追いかけたら、誰かと戦ったらしくて大怪我してた。ほんとよ。私らは何もしてない」
管理人が魔胎泥を連れていたのを思い出した。確かにあの怪我人は、大きな打撃武器による殴打だ。男は剣。女は杖。そのどちらの傷でもない。
「んで、咄嗟に思いついたのよ。あいつ、顔を殴打されて喋れなかった。このまま放置するわけにもいかないし、村に連れてって鼠臭鬼にやられたってことにしよう、って」
「それで、この小屋を訪ねたのね?」
「そう。あいつが出てきて、運ぶのを手伝わせた」
「本当は、それ自体が目的だったのね」
「そう。あいつはあの小屋から村と連絡を取り合っているみたいだった。村が鼠臭鬼騒ぎになれば、あの小屋を出て行くだろうと考えていたの」
「目的はすぐに達したはずだけど、どうして村人を攫ったの?」
「時間稼ぎよ……、パズルを解く為に時間が必要だったの」
「パズル?」
女は部屋の奥にあるもう一つの扉に視線を流した。改めて見渡すとやはり殺風景な部屋だ。テーブル、椅子一つ無い。暖炉らしきものはあるが、恐らくは偽物だ。その割には物々しい頑丈な鉄格子に、触ると傷がつく棘まで張り巡らされている。そして、銅板の扉。扉には何かを嵌め込む枠がある。取手や鍵のようなものはない。だが、扉、に見える。
「此処を開けたいの?」
「誰が考えたんだか、パズルを解かないと開かない仕掛けなのよ」
「…まるでゲームね」
「全くね。お陰で四年もかかったのよ」
「四年?」
女は力無く笑った。
「此処まで話したんだから、全部聞いてもらうわよ」
「…手短にね」
「何よ、翡翠眼のくせにせっかちね」
この小屋は、ちょっとした貴族が作った、いわゆる「疎開先」ね。
その貴族はとっくの昔に没落してる。戦争が終わった後、いろいろやらかしたみたい。この屋敷はもはや持ち主不在。強いて言うなら、ワタシのもの、かな。
私はその貴族と、繋がりがあるらしい。元々全く興味が無かったけど。
私の母は既に居なかった。私をずっと育ててくれた人を母だと思い込んでた。その人が、四年前に死んだの。
死の間際に言われてもねー、困るよね。私が自分の子じゃない、なんてさ。
調べてみたら、私の母はこの屋敷で死んだらしい事がわかったのよ。私は既に冒険者だったし、それなりにやっていけてた。だから、別に自分の出生に拘る必要は無かった…、筈だった。
私は、靴や服を汚しながら古代遺跡や魔獣を狩ったりするのはあんまり好きじゃない。できれば魔術を活かして指導者になりたかった。その為にずっと勉強もしてきたし、優秀だった。魔力が生まれつき強かったしね。
でも、指導者の資格試験に、落ちた。
完璧だったはずなのに。私は納得がいかなくて魔術院に訴えたわ。そしたら「出生に関わる書類の未提出」が原因だと言われた。
私は、仕方なく自分の出生を調べる事にした。
そしたら、妙な連中に目を付けられた。常に監視されて、追いかけ回された。仕方なく私は王都を出たの。王都から出たら追っ手は来なかった。まさか、貴女は追っ手の一人じゃないでしょう?
大体想像が付く。多分貴族の整理されていない遺産があるんでしょう。この屋敷も含めてね。その血を引いているらしいから、金目当てで付け狙ってるんでしょう。
私がこの周辺に来たことは、出来るだけ広めたくはない。そもそも私が知りたいのは出生の確かな証拠。私が何者であるかの証明。母が此処で死んだのなら、何かしらその証拠があるかも知れない。母…、育ての母が死んで一年後、此処に忍び込んだ。
そしてこの開かずの扉。途方に暮れた。ぜんっぜんわかんないんだもの。何をどうしたらいいか。私は諦めた。嫌だったけど、冒険者達に混ざって、運び屋やら宝石掘りやら色々やった。いろんなところを転々として、ガレイの街に居る時に、偶然、この屋敷を建てた大工に会ったのよ。
ほんと、偶然。すっかり忘れてたのに。この扉の仕掛けについて事細かに教えてくれた。何せ、自分が作った仕掛けだから、と。何のつもりでこんな仕掛けをしたのか、その大工はわからないと言ってたけど…、依頼主は…、この屋敷に来ていた、夫人。つまり、私を産んだ人。
つまり、この仕掛けは、貴族の当主達にも伝わってなかった、って事よ。何十年も遺棄された屋敷の「開かずの扉」
「でもね、その仕掛けも、さっきどうにもならない事がわかったのよ」
「え?」
「一つね、パーツが欠けてるの。よりによって一番大事な部分がね」
「…そう…」
「ほんっと運が無いわ」
騎士風の男、魔導士風の女、そして翡翠眼の女。
三人がそろって、書物程度の大きさの盤を見下ろしていた。盤には中央部を除いてパーツが嵌まっている。中央部の楕円状のくぼみだけ、何者かの帰りを待っていた。
「見つからないの?」
「このパーツ一式は、二階の『書斎』にあったのよ。わかりやすい感じでね。実は、見つけた時は丁寧に並べてあったの」
「…つまり、既に答えが出てたってこと?」
「ひっくり返しちゃったの。二階から下りる時」
「そりゃー、運が悪いね」
「ほんと、呪いか、ってくらいね」
「で、その時から一つ、欠けていた、と?」
「見つけた時、中央部は既に欠けていた」
「どこにあるのよ?」
「そんなのこっちが聞きたいわよ!」
人懐こいのか、女は徐々に素が出るようになってきた。フフフ、と翡翠眼が笑う。「他人事だと思って…」と口を尖らせる。
ルーチェはふと騎士風の男に目を向けた。
「…で、二人は…、『つがい』なの?」
「つっ?」
女は急に真っ赤になった。
「ちっ、違うわよっ! ってそもそも、つがいって何よつがいって」
「違うんだ?」
「ジルは仲間よ、と、友達。こんなめんどくさい事に…付き合ってくれるけど…」
急に語尾のトーンが下がって、俯いてしまったが、翡翠眼はニヤニヤが止まらない。
「いやあ、見張ってるつもりなのかな?と思ってね」
「!」
「…見張る?」
「…そんなつもりはない…」
男は一瞬驚いたようだったが、静かに言った。
翡翠眼はにっこりとした。
パーツが欠けたパズルをただ眺めているだけでは仕方がない。制限時間はギリギリだ。睡眠魔法で人を眠らせておける限界は三日。それ以上眠らせると、起こした後に身体に様々な異常が出てしまう。男女はそれを望んでいなかった。話に聞くと、もう村に行くつもりは無かったようだ。鼠臭鬼の遺体が時間稼ぎの最後の切り札だったのだ。村で治療を受けているあの男はそもそも仲間ではないし、自分たちの素性も知らない男だった。村には迷惑かもしれないが、捨てていく事には何の躊躇もない。
「このくぼみ、何か適当なものを嵌めて代用できないかな?」
「え?」
ルーチェは、扉の構造を詳しく調べた。盤に全てのパーツを嵌めた後で、扉の機構の中に収めると、それらが鍵の役割をする仕組みだ。欠けていたりすれば機能しないが、魔導器のような魔力が流れる回路は無い。ただの石板。だとすると、物理的に同じ型をしていれば開錠できる。
「適当に…か」
「んー」
「例えば、粘土みたいなもので埋めれば、ひょっとして通るかな、と」
「えー? そんな適当な感じなのコレ」
「田舎街の大工が作った仕掛けでしょう? そもそも、パーツは一つを除いてあらかじめ揃ってたわけだし…」
「なるほど、開けてほしくなければそのパーツすらバラバラにしておくか」
「一度も使ってないんじゃないかな、この仕掛け」
「封印されてから、一度も開けられていない、ということか?」
「そう。封印ってそもそも、封印したものを『特定の誰か』にだけ見せたり手に入れたりできるようにする為のものだからね」
「特定の…誰か…」
「この場合、誰だ?」
「? どうしたの?」
女が、静かにじっと盤を見つめていた。
「…なーんだ…、そういうことか…」
「え?」
女は、首元から胸を探り、服の中のペンダントを手繰り寄せた。美しい紫の楕円の石が付いている。
「あ!」
「これじゃない? ひょっとして」
チェーンを外し、台座ごと嵌めてみた。台座のチェーンを取り付ける部分までもが綺麗に収まり、ぴったりだった。
「おお?」
「それは?」
「私、ずっとこれ持ってた…。母に貰ったもの…。母って言っても育ての母だけど…」
盤の全てが埋まり、それを持って扉の前に立った。仕掛けの機構に盤を嵌めてみたが、何も起こらない。
「あれ?」
「これは魔導器じゃないから、どこかで何かを動かさないと動かないよ」
「あ、そうか、え、何を動かすの?」
「さぁ…?」
「さぁ、とか辞めてよここまできておいて」
「私に言われても。そもそも、大工さんに聞いてないの?」
「嵌める、としか聞いてない」
「じゃ、押し込んだり、引っ張ったりしてみればいいでしょう」
女は嵌めた盤を押し込んでみた。すると、ずもっと音がし、静かな振動と共に盤が下に落ちていく。しばらくして、がちゃり、とわかりやすい音がした。
「やった?」
女は扉を押してみた。僅かに動く。歓喜の声を挙げた。男も加わり、扉を押し開けた。中は思ったより広い。照明魔法を使い、中を照らした。
「…これ…」
中を見て驚いた。灯りが照らした部屋は、パステルカラーの内装。天井からはいろいろな鳥の模型がぶら下がっている。鳥だけではない。魚のようなものも。
部屋の壁には様々な絵が描かれている。花、木、植物、山、海…。天井の中心には太陽が描かれ、雲と虹が描かれている。床には木馬、そして鹿や犬、猫のぬいぐるみが崩れかけていた。
子供部屋だ。机、ベッドまである。かわいらしい装飾。小屋内の殺風景な内装からはかけ離れた、手の込んだ家具や調度品。封印されていたので、傷みは無い。綺麗なまま。
女はゆっくりと部屋を眺めた。いろいろなものを。机脇の棚には絵本が沢山あった。そしてその中に紛れた「日記」を見つけた。ぱらぱらとめくってみる。
六月四日 くもり
メアリーは熊のぬいぐるみよりもトカゲの方が好きみたい。
早速、トカゲのぬいぐるみを作らせる事にした。
六月五日 雨
ユビの村に頼んでいた服が届く。メアリーにぴったり。
あの服職人、腕がいい。王都のものよりしっかりしている。
そのうち自分の服も頼もう。メアリーが嫌がらなくなった。
やっぱり、ちくちくしてたのね。
六月六日 晴れ
リックが猪のレバーを届けてくれた。さっそく頂いた。
メアリーには少し早いかなと思ったけど、柔らかく煮たら食べた。
美味しいと大喜び。リックには後でお礼を渡さなきゃ。
六月七日 晴れ
少し熱があった。でも、外の空気を吸ったら元気になった。
メアリーにも森を歩かせたい。大好きなトカゲも見せたい。
日記はほぼ毎日書かれているようだった。三年に渡っていた。
「何かわかった?」
「いや…、此処で『私が育てられていた』ってことはわかったけど…」
「それがわかっただけで、十分じゃない?」
ルーチェのその言葉に、女は少し寂しそうに笑った。
「何も…思い出せない…」
日記の最後はなんと書かれているかが気になった。
一月六日 晴れ
お父様からの手紙が届いた。お忙しいみたい。
戦争でいろいろな事が変わったから、大変。
メアリーへ贈り物なんて初めて届いたけど、ちょっと大き過ぎ。
メアリーはまだ二歳よ、お父様。
これが日記の最後だった。
続きの日記があるのだろう。棚には本が沢山あった。念入りに探せば日記の続きもあるに違いない。
「二歳…」
「え?」
「二歳じゃ…、覚えてないか…」
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
此処はどこだ?
「大丈夫? どこか痛い所はない?」
無い。あなたは誰?
「良かった。無事でよかった」
あれ、私は何をしてたんだっけ。
さっき、お肉を買って、それで…
「…ここは?」
「ここは森の中。貴女は鼠臭鬼に攫われて…」
「鼠臭鬼に?」
「そう。あの二人がね、貴女を助け出したのよ。もう大丈夫」
あの二人? 見た事が無いけど
「歩ける? 一緒に村まで帰ろう」
絵に描いたような勇者の帰還だった。
勇者の名は、ジル、そしてメアリー。そしてもう一人、翡翠眼のルーチェ。
森の鼠臭鬼を撃退し、攫われた村人を救い出して村まで帰って来た。
村長が手放しに喜び、しきりに遠慮する二人に無理やり宿に泊まるように言い、そのまま宴会が始まった。
「ヒトは、宴会が好きだよね」
宿の食堂の片隅で、ウィルと小さなグラスを傾けていたルーチェが、半分呆れ顔でその様子を見ていた。
「危機が去ったわけですからね」
「危機…、ねぇ…」
「でも流石ですね。ルーチェさんも鼠臭鬼と戦ったんでしょう?」
「え? あ、うん」
「すごいなぁ、どんな魔法使ったんですか?」
興味深々のウィルに、苦笑いするしかない。
「すっごい魔法よ」
「す、すっごい魔法? え、どんな感じのですか?」
ルーチェは、あの二人が多くの村人に囲まれて、酒を注がれ、ボロを出しやしないかとヒヤヒヤしてみていた。
少し時間が遡る。
「え? あの村に、戻る?」
母の遺品、といっても日記くらいだが、手にいれたメアリーは村に戻るつもりは無かった。だが、そこをあえて戻る事を提案した。
「あの村は今鼠臭鬼に怯えてる。貴女たちが帰ってこない、となると余計な心配事が増える」
「それは…」
「知ったこっちゃない、って話? 私はそういうの嫌だな」
「でも、どの面下げて…」
「鼠臭鬼を倒して帰るのよ。何も難しくない」
「ええ?」
男女二人が顔を見合わせる。
「え、いいの?」
「いいのって? 何が?」
「何がって…、嘘ついて騙してたわけだけど…」
「貴女たちは、すっごく回りくどいことしたけど、まぁ、私的には、許すかな」
メアリーはとても驚き、そして笑みがこぼれる。
「許してくれるの?」
「だから、貴女たちは村に帰って、歓迎される、までが仕事ね」
「あ…」
メアリーは美女だ。ルーチェとは異なるタイプの美女で、この地方には珍しい黒髪。田舎の農夫を引っ掛けるなど容易い美貌。そして豊満な身体。魔導士には不釣り合いなその容姿で、隣に騎士がいなければあっという間に男たちに囲まれるだろう。案の定、宴会では多くの男たちが詰めかけた。
メアリーは男に愛想笑いを振りまくのが大の苦手の性格だ。ルーチェにもそれは分かっている。だからこその「償い」だ。これがメアリーには、とても辛い。愛嬌を振りまいて、やっていない鼠臭鬼退治の功績を称えられ、身の上を根掘り葉掘り尋ねられる。この上ない「拷問」だ。
タスケテ、とルーチェに視線を送るが、その度ににっこりと笑顔を返すだけ。夜も更けてきて、メアリーはどっぷり疲れてしまった。
寝室で一人になれたのは、夜中だった。いろんなことが一度に起こった上に、鼠臭鬼との格闘よりも過酷な戦いを強いられた。メアリーは服を着たままベッドに突っ伏した。ベッドで寝る、なんてどれくらいぶりだろう。あれ、そういえばジルはどうしたんだ? ま、いいか、明日にしよう明日に…
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
深夜。ルーチェは再び『小屋』の前にいた。
疲れたから早く寝る、と言って寝室に戻った後に、こっそり抜け出し、森へ急いだのだ。開けられた正門から入り、カラクリの扉を潜って子供部屋までの三歩程度の通路。その壁が崩されていた。そして奥に続く通路と、梯子がさらに地下に降りている。最初に入った時には気付けなかった。
ルーチェはあの子供部屋に入った時、それ以外の部屋の存在があるだろうと注意して見ていた。なるほど盲点だった。扉と部屋の間のちょっとした通路。塗り固められた壁。
息を潜めるでもなく、ルーチェは梯子を下りた。入り口は狭いが、奥はさほど狭くもない。蝋燭程度の灯りを魔法で出し、それを頼りに降りていく。中はとても静かで物音ひとつしない。長い間ずっと封印されていた、さらにその中にあった封印の場所。
少し降りると、とても嫌な臭いがした。死臭…、とも違う、薬品が混ざった匂いだ。錬金術で使う酸の臭いが鼻を刺激する。昼使っていた感覚増幅魔法など使っていたら卒倒してしまうような臭い。
まだ梯子を降り切らないうちに、違う光が見えた。そしてその傍にいた男。
「やはり来たか」
カンテラを持っている男、ジルだ。
「来るだろうと思っていた」
「わたしも」
「…見ろ」
ジルが見ていた先には、何か黒いものが見えた。ルーチェが近づき目を疑った。
干からびたヒト死体が転がっていた。しかも一つや二つではない。ざっと十体はいる。妙な形に固まり、悲痛な表情のままミイラ化したものもいる。腹部に大きな損傷があるものばかり。中には腕、脚などが無いものもある。
腐敗している様子は無く、全て干からびている。薬品か魔法かによって炭化させられている。それゆえに形状が保たれているのだろう。明らかに年数が経過している。
常人であれば発狂するほどの凄まじい光景だ。
「これは…」
さすがのルーチェもたじろいだ。この数。そして全てが男性の遺体。
「気付いていたのだろう? この屋敷」
「…座敷牢…」
「そうだ。この屋敷が閉じ込めたかったもの。それは、彼女だったのか、母親の方だったのか、それを確かめたかった」
頑丈な鉄の扉。窓に張り巡らされた鉄格子。そして奇妙な仕掛け。ただの貴族の疎開先の屋敷ではない事はわかっていた。貴族邸を装っているのは外観だけ。中は子供部屋と書斎以外は牢屋のように冷たかった。
「監視してるつもりなのか、と昼に言ったな。あれは、半分は真実だ」
「貴方、聖騎士ね?」
「別にどこにも属していない。メアリーの母親は、魔族の子を孕んだのだ」
「わかってた」
「本人は知らんがな。上(子供部屋)に入った時、ここに気付きやしないかとヒヤヒヤしたよ」
「…優しいんだ…」
「知らなくてもいい事がこの世界にはたくさんある」
魔族はヒトの血肉を喰う事がある。特に成長期には欲するらしい。今でこそ、代替肉が広く出回ったが、それが無かった当時は、ヒトを喰う魔族は多かった。
戦争は、死人が多く出る。魔族にとってはわざわざ襲うまでもなく、ヒト同士が殺し合いをする。死肉も食える彼らにはさぞいい時代だったろう。
魔族は戦争で必要とされた。それも相まって、急激に表舞台に登場するようになった。そんな中で…、多くの間違いも起きた。
ヒトが魔族の子を孕むとどうなるか、知っているか?
妊娠中、体内から多くの魔力が胎児に吸い上げられる。しかも、決まった妊娠期間は無い。魔力が蓄えられるまでずっと妊娠状態が続く。計算すると、メアリーの妊娠期間は五年にも及んだらしい。
その間、母体はヒトとしての魔力を吸われ続ける。それを補う為に、より魔力を有した食事をとろうとする。狂う程に。
そして、最終的には、ヒトの肉にたどり着く。
ヒトの肉は、ヒトが魔力を保持しているか否かに関わらず、多くの魔力を有している。魔族がヒトを食するのと同じ理由で、母体はヒトであるに関わらず、ヒトを食そうとする。
ま…、翡翠眼の肉も優秀らしいが…、手に入れ辛いしな…。
メアリーの母親は、列強国の貴族の娘。しかも大きな家の嫁入りが生まれた時から決まっていた。死なせるわけにもいかず、此処に閉じ込めた。
生まれた子は、始末する筈だったのだろうな。ところが戦時中に、貴族の中に、魔族の血を入れる事が流行した。戦時下、より強い力を望んだ結果だろう。女神聖教側としては断固反対したい所だが…
「そんな中での『負の遺産』がメアリーだ。」
「上(子供部屋)の様子を見ると…、母親は…食べているものが何なのか、知らされていなかった…」
「そうだろう。ヒトの肉を食って正気でいられる人などいるまい」
「この…死体たちは誰なん…」
ルーチェはそこまで自ら口にして、はっとした。
この死体たちは、まさか
『買われた自警団』か
「この辺りの者たちだろう…。若い者たちばかり。オレも噂くらいには聞いてるよ。あの村が鼠臭鬼を恐れる理由。消えた自警団。その理由を『でっちあげた』のがおそらくこの屋敷の持ち主だ」
隣街で消えた、とされてきた自警団の若者たちは、腹を引き裂かれ、生き胆を抜かれ、絶望と苦悶の姿を未だ残している。
大げさに自己主張する開かずの扉。
塗り固められた壁の奥にあった真実。
魔族の子を孕んだ貴族の娘には、ヒトの肉が与えられていたのだ。
本人も、その子も、知らないまま…。
「知らなくてもいい事がこの世界にはたくさんある…」
ーだけど、知ってしまったー
「そうだ。メアリーが指導者の試験に合格できなかったのは、試験官の中に翡翠眼がいたからだ。翡翠眼は魔族の力を瞬時に見抜けるらしいな」
ー知ってしまったー
「…村に来た時から気付いてた」
「だろうな。メアリーも無意識に翡翠眼を嫌う。昔からな。自分の身の上話を君にしたことには少々驚いたが…」
ーそれが、たとえ【真実】でもー
「どうして、貴方は彼女を?」
「…オレは、依頼主に背いて…、彼女と共にいる…」
ーそれが、たとえ【嘘】でもー
「…好きなの?」
「…」
ーそれに、何の意味がある?ー
ーこの場所で、この真実の価値はどれくらいある?ー
「この館の真実を知るのは、今の時点で私と君だけだ。君次第では、彼女にも隠し通せるだろう」
苦悶の表情で固まり、長年この地下で閉じ込められてきた若者たち。
村を護るんだ、と言って鍬に変わり剣と槍を手にした若者たち。
村には、その家族がまだ生きている。
此処に横たわる哀れな者たちを、待っている者たちもいる。
ー此処にこのままにしておくわけにはいかないー
「メアリーが笑って生きていけるなら、それでいいんじゃない?」
翡翠眼のその言葉に、ジルは悲嘆の表情を浮かべた。
「そうか…」
「貴方も、『半分』は、それを望んでるんでしょ?」
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
「あ、おはよう翡翠眼。ねぇ、ジルを知らない?」
昼近く、宿屋の食堂でメアリーが見た事もない焦燥しきった顔を見せた。
「…翡翠眼、って呼ぶのやめてよ。おはようヒト、ってのと同じだよ?」
「名前聞いてないんだもの。それより、ジルを見かけなかった?」
ルーチェは食堂でくつろいでいた。実際のところは一睡もしていない。ちょっとばかり覚醒魔法を使っているので、あと数時間は眠くないはずだ。
「彼なら、寝てるよ。上で」
「え?」
「え?って何。昨日一緒にいたでしょ」
「そ、そう…、良かった…いなくなったかと思って」
つい先ほどまで、埋葬作業していたからね。
…とは言えない。
直視する事が出来ない程の、哀れな若者たちを、地下から引き揚げ、屋敷の外に出した。彼らはやっと囚われの牢獄から出れたのだ。
屋敷の外に妙な気配を感じたが、すぐに消えた。
あれは、管理人だったろう、とルーチェは思っている。
あの場所で、ルーチェ達が何をしているか、理解を示したのだろうと思った。
カークが使っていたであろう比較的新しい薪を使い、若者たちを弔った。
ジルが聖騎士らしく弔いの祈りを捧げた。既に夜明けが近い森の空に、若者たちの魂が還っていく。
翡翠眼と聖騎士は、それを静かに送った。
覚醒魔法を使っていたとはいえ、ジルの体力は限界で、村に戻ってくるなり、与えられた部屋に沈んだ。
【花の咲く場所】の主人スターナは、この二人がいない事に気付いていたらしく、夜通しで待っていた。しかし、何も訊かなかった。おかえりなさい、とだけ。
何も知らないメアリー。ジルはいつもは早起きで、朝に極端に弱い自分を起こす立場の筈。なのに今日に限っては現れず、どこにも見当たらない。
それが、急に怖くなったのだ。
部屋で寝ている事にほっとしたのか、メアリーはテーブルに着き頬杖をついた。
「いなくなるの?」
「え?」
翡翠眼の、穏やかな顔に、少しの間見惚れたメアリーは、その言葉の意味を捉え損ねていた。
「いなくなるの?」
「え、いや、いなくなる…事は無いと思うけど…」
実は、この一件で時々とても不安に駆られることがあったのだ。
自分の出生の秘密。自分は貴族の娘かもしれない。そんな【お姫様ごっこ】に、騎士たるジルは付き合ってくれていた。
しかし、よく考えると、その貴族は既に没落し、たとえ自分がその血筋であったとしても意味は無い。ただ自分の好奇心の為に、多くの人を騙す事まで容認した【聖騎士】は、どこかで自分を裏切るのではないか?
いや、裏切る、ということは考えた事は無い。
ただ、やはりいつか突然自分の前からいなくなるのではないか?
そんな、得体のしれない不安が頭を過るのだ。
「なんだろ…いつか離れていくんじゃないかと…」
その言葉を口にした瞬間、メアリー自身も驚いた。
弾けるように、涙が出たのだ。
その、深紫の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと落ちた。
ーなぜ、私と一緒にいてくれるの?ー
その疑問を、真正面から受けたくなかった。
長年二人で探して来た真実を得る事が出来た。
でも、そうだとしてその先は…?
ー私たちの…、未来は…?ー
涙が止まらなくなって、一瞬「どうして?」と笑って見せたメアリーは、そのまま嗚咽が止まらなくなって号泣した。
この子は、感じているんだな。
自分の【真実】を。
ルーチェは、激しく嗚咽するメアリーの肩をそっと抱いた。
ーわたしたちのかわりに、泣いてくれて、ありがとうー
「大丈夫。彼は貴女から離れる事は無いと思う」