忘れる為の物語 二枚目 雲の形のように 後編
お前はずっと我慢してきたんだ。
そして、兄貴も。
本当の事を知ってるルオの爺ちゃんは、口を閉ざしたまま死んだ。
多分、オレの爺ちゃんも真実を知ってる。
オレは、許せないんだ。
お前の母親を、ずっとずっと悪者にしてきた爺ちゃん達が。
だから…
次の日。雨の気配が匂う曇り。
ルーチェは昨晩は全く眠気が襲って来なかった。眠りにつけたのは、既に東の空が白み始めていた頃で、起きたのは昼直前だが、あまりグッスリ寝れたという印象は無い。かといって以前のような過去の記憶に襲われる気配も無かった。苦い茶褐色のお茶のせいだとはだいぶ後で知った。
この宿に慣れてきたせいか、着替えるのも面倒になってきた。見えてはいけないところが見えなければいい。という程度の意識の低さで上にパサっと服を着た。昨日「縫ったから」と言われて、ライルの祖母からまた新しい服が届いたのだ。ルーチェが宿でほぼ裸で寝ているという話を聞いたらしく、寝衣用にと縫ってくれた大きめのニットだ。大変上質な毛織で、下は膝の上まで隠れ、袖はだいぶ余裕があり、しっかりとした割には窮屈さが一切無く、よく伸びる。全裸のまま羽織っても障るような毛羽立ちが抑えられていて、寝心地は良さそうだと着て寝てみたのだ。寝心地に関しては眠れなかったためよくわからないが適度に温かく気分が良い。眠れなかった割にはそれほど不機嫌でもないのは、この服のおかげだろうと思った。
その格好のままでも隠すべき場所はちゃんと隠れている。大丈夫、とそのままの格好で下の階に降りた。
宿の主人スターナと、重い酒樽を転がして厨房内に入れていたエズスが、階段から下りて来たルーチェにおはようと声をかけようとして思わず見惚れて動きが止まった。金髪の美少女エルフが、首筋から肩まで大きく開けた少し青みがかった白く大きいニットで、ボトムスを履いていない素足で眠たそうに現れたのだ。歳は三十路を越えたとはいえ、独身のスターナとエズスは赤くなりぽかんとルーチェを見ていた。なんと美しい少女なのだろう、と。
「…? どしたの?」
「…、ルーさん、えーと、その格好…」
「え?」
金髪エルフは自分の格好を確認するかのようにひらひらと左右に回る。
「見えてないよね?」
「見えてはいませんけど……」
「…見えそうっす」
「……ダメ?」
「ダメじゃないっす!」
「いやダメだろう」
「どっちなのよ」
エズスは腰をクネクネとさせた。
確か先日も見たなその動き。ライルだったかな。
「だから、何の儀式なのその動き」
「あの、ルーさん、もうちょっとその……、男の視線を気にするというか……、なんというか…、刺激が強過ぎやしませんかね」
真顔のルーチェがじっとヒトの男性二人を観察する。
「…欲情する?」
「…え、あ、いや、その」
「ヒトって、随分性欲があるんだね…、若い子ならともかく老エルフの私に…」
何も気にかけた様子もなく、両手を伸ばして伸びをする金髪エルフに、エズスがヤバイ、と前屈みで店を出て行った。スターナは苦笑いするしかない。厨房には大きな酒樽が三つ置かれていた。
「お酒届いたんだね」
「あ、ルーさんの魔法、良かったらしいですよ。今朝隣村を出てもう帰って来たって事は相当楽だったんでしょう」
「良かった」
「昨日頼まれてた弁当も出来てます」
ルーチェは窓側に立ち空を見上げる。壁を隔てすぐ近くにエズスがいて、何故か柔軟体操じみた動きをしていた。ヒトの男はさっぱりわからない。
「雨、ヤダな」
「今日は降りそうですねぇ。川原はやめといた方がいいかもしれないですね」
「そうだね…、せっかく弁当作ってもらったけど、此処で食べていいかな?」
「そりゃもちろん」
その場で包みを開けようとしたルーチェを、まず着替えなさい、とスターナが戒めた。見えてはいけない場所はしっかり隠れている筈だが、どうやら今の自分の姿格好はヒトの男性を刺激するらしい、と仕方なく部屋に戻って普段着に着替えた。
普段着の方が足の露出が多いのだが、どうにもヒトは性欲情にはエルフにとって不可解な部分が多い。
普段着に着替えて下の階に降りてくると珍しく食堂に客が居た。昼時なので当然と言えば当然だが少し様子が違う。ルーチェの顔を見るなり立ち上がった。妙な歩き方をしている。
「君が、ルーチェさん、だね?」
「うん」
「僕はルオ。昨日、小屋で話してたね」
「あぁ、ウィルの幼馴染の子ね」
ルオは地味な男だ。全身茶色の服装。使い込まれた革の小さな鞄。清潔感はあるが、ずんぐりとしている背格好。田舎者特有の泳ぐ視線と日焼けた髪と顔。優しそうな目をしている。
「そうなんだ。今朝会いに行ったら、君の事を言われて…」
ルオはゴソゴソと腰の鞄から何かを取り出して掌で見せた。
「これ、役に立つかな?」
掌で転がっているのは小さな緑色の石だった。乳白色が混ざったまだら模様のものだ。
「お」
ルーチェは、いい?と言って石をヒョイと摘み良く観察した。濃いとは言えない緑色だが、確かに翡翠だ。
「川原で採ったの?」
「わからないんだ。僕の母が持ってた物なんだけど、紐が切れてバラバラになってしまって…、これしか無いんだけど」
間違いない。エルフ石(翡翠)だ。質はあまり良くないようだが、それでも都会では良い値で売れるに違いない。
「これ、くれるの?」
「ウィルから聞いたんだ。呪いを解くには緑色の石が必要だって。それでふと思い出したんだよ。この石で間違いないかい?」
呪いを解く訳ではないのだが、でもそれは言わなかった。
「コレは一度使用されてる。魔力が一回蓄積された上で放力されてるから、残念だけどコレ自体は使えない。でも、コレが近場で採れるって事は間違いなさそうだね」
「うん、爺さんが若い頃は、よく水晶を掘ったらしいんだ」
「どの辺り?」
「川のだいぶ上流に掘った跡があるんだ。すぐにわかる。でも、もう何も出ない、と聞いてるよ。その代わり、別なものが出るって」
「…別なもの?」
「…魔物だよ」
ルオの話によれば、水晶掘りは大戦前から盛んに行われていたという。水晶は魔導器には欠かせない鉱石だ。回路や集約器、分魔盤、あらゆる魔力伝達に使用される。王都の付近には良質な水晶鉱山があるが、生産精製が追いつかない時期があり、このユビの村で採れる水晶は高値で売買された。もう既に四十年以上も経っておりこの村でその痕跡を見る事は無いが、掘られた坑道は暫く放置された。そして瞬く間に魔物の巣窟になったのだと言う。
水晶が採れる場所でエルフ石も採れる、ということは珍しくはない。水晶は掘り出される時、何かしらの他の鉱石と一緒に採掘される事が多いが、此処ではエルフ石だった、という事だろう。
「水晶とエルフ石の話はウィルから聞いてたんだ。僕も石を掘れたら、と何度も思ったけど、僕は足が曲がってて、歩く分にはいいけど、山登りは出来ないんだ」
「…助けたいの?」
ルーチェの言葉に、ルオは少しだけ目を見開いた。
「勿論だ。ウィルとカークはずっとずっと一緒に育ったんだ。ウィルがあんな事になって…、何とかしたいんだ」
「…」
ルーチェは少しの間考えた。
「…好きなの?」
エルフのその言葉にルオは機械仕掛けの人形のようにビクリと動いた。いつの間にかスターナとエズスの視線を脇から感じる。暫く沈黙が続いた。
「…そうさ…」
「そう」
「そうさ。僕はウィルが好きさ」
「そう」
「でも、でもカークも大事な友達だ。カークを選んだのはウィルなんだ。正しい選択だと思うよ」
「そう」
「カークは今居ない。あいつは今王都で…、いろいろ頑張ってる。僕も何かしたいんだ。だから…」
ルオの声が急に萎んだ。
「こんな…足だけど…」
ルーチェはにっこりと笑う。
「その足で、行けるところまででいから、明日、案内してくれないかな?」
ルオの顔は、花が咲いたように明るくなった。
「麓までになると思うけど…いいかい?」
「うん」
「わかった。明日、晴れるといいんだけど」
夕方、スターナが話してくれた。ルオとカーク、ウィルは幼馴染で、特にカークとルオは仲が良かったという。ルオの方が少し年上だが、カークは村長の孫という事で村の子供たちの中でも一目置かれている存在だった。カークは美少年で、その影響もあり村でも常に中心に近い位置にいる子供だった。
ルオは両親を早くに亡くし、祖父の手で育てられた。鉱夫だった祖父は武骨で子育てには向いていなかったが、カークは歳の近い兄のように慕った。
理由はわからないがルオの祖父はウィルに対して非常に冷たかったとの事だが、カークとルオが一緒に遊び、同じく両親を早くに亡くしたウィルがその間に入った形となり、幼い頃からずっと一緒に過ごしたのだという。
ルオは子供の頃から足が悪く、日常の生活は出来ても力仕事などには向いていない。長い旅をすることもできない代わりに、農作物の管理に関しては村でも頼りにされている。ウィルの小屋の周辺の小さな畑も、ルオ一人で作り上げた。
カークとウィルの結婚の話は、村長の孫の結婚とのことで村の人は誰しもが知っている事情だった。村の金を手に取り、呪われた花嫁を置いて出て行ったカークを庇護したのは他でもない、ルオだったという。
村長はルオに、この村で唯一ウィルの小屋に行くことを許可した。エルフのルーチェは特別だとして、今ではあの小屋に近づけるのはルオだけだという。
また、スターナの話では、呪いを貰う以前からウィルはこの村では特別な存在だった、という。村の集会やお祭りなどには参加する事が無く、村人の多くがどこか余所余所しいのだという。スターナ自身は呪いを貰う前のウィルと何度か話をした事があると言う。ウィルは薬草学に精通している為、時折怪我で担ぎ込まれる旅人などに飲ませる薬の相談をしていた。その時感じたのは、村人、特に年寄り達の、ウィルに対しての厳しい目だったという。
「…あれは、厳しい、というより、怖がっている、という感じですかね」
「怖がっている?」
「詳しくは知りませんが、昔大きな事故があって、ルオの両親はそれで死んでるんです。ウィルの母親がその事故に関わっているとかなんとか」
「ふうん…」
「んまぁ、もう二十年以上も前の話ですからね、年寄り以外は覚えていないと思いますが」
「…二十年なんて、ついこの前じゃない」
「ま、ルーさんにはそうですね」
ウィルは呪いを貰ってから、その所謂「偏見」のようなものが拍車がかかったようで、村人の殆どから嫌われている。呪われたのだから無理もないが、呪いを解こうとする努力をずっとしてきた。それが功を成した事は無いが、エルフが現れて事情が変わった。
ルーチェの存在は、この三人にとってまさしく、一生に一度巡って来るか来ないかの機会なのだ。
「ルーさん、無茶はせんでください」
スターナは、よく眠れるように、とハーフェンメロアの蜂蜜湯を出した。
長寿のエルフ、ルーチェが早起きするのは何ヶ月ぶりだろうか。心配していた雨も降っていなかった。ルーチェがこの宿に来て「朝」と呼べる時間帯に起きてきた事が無かった為、宿主人スターナはのけぞって驚いた。何もそこまで驚く事無いでしょ、と口を尖らせ、この前飲んだ苦いやつをちょうだい、と言った
別に時刻を決めた訳では無かったが、ちょうど朝食を終える頃にルオがやって来た。大袈裟な革の帽子と農業用の鉈、それに太いロープを持っている。
「いい装備ね」
「鳥がね、襲ってくるからね」
村を横切り、川原に出た。雨のせいか水量がだいぶ多いよ、とルオが言う。村の様子からは想像し難い、岩がゴロゴロとした川だった。山の麓に位置するユビの村だが、川が磨いた水捌けの良い土が葡萄の栽培に向いていたようだ。山間が抱く大きな森はメリハリのある雨量があり、今は良く降る時期だ。落石もある。それらが水で流れてきてこの景観を作ったのだ。
乳白色の岩石が多い。日が当たればさぞ綺麗な眺めだろう、と思った。岩山を川が削ったので、岩石の断層が露出している。確かに何かが掘れそうな場所だ。
「もう少し歩くよ。川に沿って行けば坑穴があるんだ」
ルオはそう声を掛けたが、ルーチェが立ち止まって少し大きめの岩を見ていた。
「?」
『金剛破砕』
どう見てもただの棒切れにしか見えない杖を軽く振り下ろした。杖が一瞬キラッと光ったと思ったルオはその光景に目を疑った。人の身体ほどある岩がボコっと砕けたのだ。その場に座って岩を物色するエルフにルオは目を丸くする。
「うーん、コレなんかは良い感じだけどね」
「凄いね…流石エルフだ…」
「ん?」
少しの間考えた。
「ああ、魔法の事? ゴーレムと戦うには欠かせないのよ」
「ゴーレムと戦う…? 成程…、僕なら逃げるね」
「それが正しい。アイツら追ってこないからね」
金髪の美少女が平然と口にする言葉はあまりに壮絶で、妙にシュールでルオは苦笑いした。ルーチェのその細く白い指が、今その手によって砕かれた石をつまみ上げる。光に翳すまでもなく濃い緑色をしていた。
「いいね」
「コレは、あそこから落ちた岩じゃないかな…」
ルオが指さした先には川沿いの崖のかなり上の方、岩肌が新しく露出している部分があった。
「このままずっと川伝いにを登っていくと穴が幾つか空いてるんだ。今でも水晶混じりの石くらいは採れる。でもその岩盤は硬くて、なかなか掘れなかったらしいんだ。さっきの魔法を使えば、採掘には事欠かないね」
「崩落しなきゃ、ね。生き埋めは嫌だし」
魔法を使わないヒトにとって、水晶掘りは大変な作業だ。鶴嘴を振り上げ、掘り、運び、と重労働で、それに似合わない収益では続かない。ルオの話では、戦争が収束する頃に一気に価格が下落した。翡翠も採れるが、骨が折れる作業で、葡萄酒の方がより効率よく稼げたのだ。元々農村だった村の舵の取り方は単純にして明快だった。
ルオは左脚を引き摺って歩いている。川沿いの「道」とはいえない石の足場は、上流になるに従って辛くなる。岩の大きさが背丈程もあるものが増えると前に進めなくなった。息が上がる。ルオは汗を拭き取って岩に腰を下ろした。
「ここ辺りが限界かな?」
「…そうだね」
「此処からなら一人で戻れる?」
「戻れるけど…、君一人で進む気かい?」
その場所から遠くに滝が見え、その近くの崖に坑穴が数カ所確認出来た。
「アレでしょ? 場所がもう見えてるからね。一人でいけるよ」
「…熊が出るよ?」
「熊くらいなら大丈夫」
「…僕がダメだよ」
「ま、そうね」
急ぐことでも無い。場所が確認出来ただけでも十分だった。距離感や時間、魔物の気配など、ルーチェは最初から今日中に採掘までするつもりは無かった。ルオの言う通り少し川の水量が多い。少し落ち着いてからでも良い。エルフの時間は長いのだ。
「魔物が出るって言ってたけど、出ないね」
ルオは大きく息をした。無意識に周囲を見渡す。
「一応見晴らしが良い場所を歩いているからね。大きな鳥なんかが襲って来ることがある。夜は蝙蝠もいるらしいよ」
「非行型か…」
「あと大きな蛇なんかは良く出るよね。森を歩くと山猫も。アイツら木の上から来るから怖いんだ」
「なるほど」
「あと、青い火の玉みたいなのが移動してるのを見たって人もいる。僕は見たことないけど」
「ウィルオウィスプか……」
「ああ、思い出したよ。それを見たって人、ウィルの母親だ」
「え? それでウィル? 嘘でしょ?」
「ウィルの母親は、魔法が使えたらしい…」
ヒトの身で魔法が使えるの珍しい事ではないが、魔法は師を必要とする。
村では魔法を使うヒトの気配がしない事を考えると、ウィルの母親はこの村ではない何処かから来たのだろう、という事になる。
「村が水晶掘りを止めるきっかけになった事故があったらしいんだ。僕はその事故の現場にいたらしい。子供だったからあまり覚えてないけど。何でも、魔法が暴走したって話で…」
「…魔法が……暴走?」
ヒトが使う魔法は、エルフが使う魔法と威力は然程変わらないが、持続しない。特別な訓練を何十年もすれば、エルフ並みの魔力量を持つことが出来るとは言われているが、今度は寿命が保たない。ヒトの高名な魔術師が全て老人なのはそのせいである。
魔法の暴走とは主に、魔法に対して過剰な魔力を注ぐ事によって起こる。十で発動出来るものに対し百を注ぐ事によって術者の制御範囲を超えてしまうのだ。魔物と戦いの最中なら思わず力んで、という事はあるかもしれないが、採掘中に暴走するのは考えづらい。
「ウィルの母親はその事故で大けがを負って、事故から暫くしてから死んだらしいんだけど…」
その時だった。
悲鳴が聞こえた。聞き覚えのある声の悲鳴。はっきりと「助けて誰か」という叫び声だ。明らかに、今見えている滝の方向からだった。
「今の声は?」
「…ウィルの声?」
「間違いない、ウィルの声だ!」
確かに今の声はウィルの声だった。ルーチェもそう思う。が…
「ルオ落ち着いて、今の声は…」
「ウィル!」
「あ…ちょ、ちょっと」
今までの道のりの鈍足は何だったのよ、と呆れる程、ルオは走った。まっしぐらに滝の方へ。ルーチェはルオのその行動に少し驚いたが「走れるじゃないの」と一言漏らした。
ウィルの声がした。聞き間違えるはずはない。でもどうして此処に。
ウィルはこの場所で翡翠が採れる事を知っている。
自分たちの先回りをして、採りに行ったのかもしれない。今日自分たちが此処にいることをウィルは知らない。自分で翡翠を準備しようとしたのかもしれない。
岩がゴロゴロとした場所だが、お構いなしに走った。滝がもうすぐ目の前の所で立ち止まった。
「ウィル! どこだ!」
周囲を岩に囲まれている為よく響いた。その声に呼応するように「助けて誰か!」と叫び声がした。最初から確信を得ていたが、近くで聞いて間違えようもない。この声はウィルの声だ。
滝つぼの近くに開いている坑穴があった。水晶堀りであけられた穴だ。その奥から聞こえた。
「そこか?」
穴に入ろうとたルオは、自分が上に持ち上げられる感覚を覚えた。急に体が軽くなった、と思ったら足が地に着かない。空中で足を藻掻いた。
「だから、落ち着きなさいって」
声のする方を向くと、ルーチェだった。空に浮いている。
「え? あ?」
「ウィルが此処にいるわけないでしょ」
「でも、あの声は」
また「助けて誰か!」と聞こえた。穴から聞こえるので妙に響いて聞こえる。流石のルオも今度は何かに気付いたようだ。
「まぁ…冒険者でもよく引っかかるからね…」
魔鳥フェローロ
ルオがどさっと地面に落とされ、ゆっくりとルーチェも降りて来た。
「助けて誰か!」
また聞こえた。ルーチェがすうっと息をして
「助けて誰か!」
と穴に向かって叫んだ。すると暫くして「キャー!」と女の悲鳴がした。これもウィルの声にそっくりだ。あまりに似ているため、ルオがビクリと反応した。ルーチェは目だけでルオを制すると、穴に向かって「キャー!」と悲鳴を返した。
「…来るよ」
凄い勢いで青っぽい何かが飛び出してルーチェに突進した。身体を回転させて避ける。飛び出した塊は地面を蹴り上げ高く跳躍し垂直な壁に掴まった。
大きい。子牛程の大きさ。青みがかかった羽毛の身体を持ち、長い首をつの字にまげてルーチェたちを見下ろしていた。鋭い鉤爪と金属的な光沢を持つ嘴。魔鳥フェローロの姿だ。
魔鳥は空を舞うことを捨てた代わりにその脚力が脅威となる。ルオはすっかり腰を抜かしているようだった。
フェローロはじっとルーチェを見ていた。しばらくルーチェと見つめ合ったが、フェローロは急にどさっと地面に落ちた。
「ふう…」
ルーチェは深く息をした。ルオを振り返り「もう大丈夫」と言った。
「何がどうなって…?」
「あのね、ヒトの助けを呼ぶ声がしたからって、突っ込んじゃダメ。冒険者の基本中の基本。…まぁ、あなたは冒険者じゃないけど」
「こいつがあの声を出してたのか?」
「魔鳥フェローロ。そのロープで足縛っちゃって。寝てるうちに」
「寝てる?」
「眠らせた」
「魔法か!」
「暫く起きないと思うけど…、足縛っちゃえばこいつは何も出来ないから」
魔鳥フェローロは山岳地に住む鳥で、ヒトを襲うため魔物の一種に数えられる。
声帯が発達しており、一度聞いた声や音をそっくりに真似る。特に襲い掛かったヒトの助けを呼ぶ声を真似る事で知られ、冒険者の被害者は絶えない。魔物と言って声色を真似る事以外はこれといった特徴が無い為、不意を突かれなければ怖い相手では無いが、襲った冒険者などから衣服や装備品を巣へ持ち帰り、それらを使って囮にする事が確認されており、見かけた場合駆除するようにと王都は報奨金を出している。
「でも、どうしてこいつ…、ウィルの声を…」
「あの子がこいつに襲われた事があるのかな?」
「…無いと思う。ウィルが村を出て魔物が出るところまで来るなんてことは考えられないし」
「…そう思ってるなら、なんで騙されるのよ」
「あ、いや、そうだね。なんでだろうね」
ルーチェはフェローロがいた穴を覗いてみた。予想通り巣がある。巣には卵が無いし、巣の大きさが若干小さい。これは他の何かの巣が放棄され、それを利用しているのだ。フェローロは空を飛べない。なのでこの岩壁に木の枝を敷き詰める事は難しい。巣にはいろいろなものがあるようだったが、ルーチェの興味を引くようなものは無かった。穴はだいぶ深い。採掘坑が掘られている。翡翠が採れるとすればもっと奥だろう。
「縛ったよ、アレでいいのかな」
光がまだ十分に届く場所の筈なのに穴の中が妙に暗い。ルオは不思議に思った。僅か先にいるルーチェがとても遠くに見えた。
「ルーチェ? あれ、おかしいよそこ」
「え?」
「光の加減かな…、凄く暗…」
ルオは驚いた。振り向いたルーチェがすーっと闇に呑まれたのだ。
「ルーチェ!」
何かを言ったように見えたが声が届かない。そのまま完全に見えなくなった。そして穴の入り口近くまで音もなく闇が近付いて来て、逃げる間も無く呑まれた。
「ルーチェ! ルーチェ! 何処にいるんだ?」
「大丈夫、聞こえてるよ」
「ど、どこだ、何も見えない、何がどうなって…」
「これは…?」
ヒトがいる。数人。採掘抗入り口に二人、奥に四人。視界が段々明るくはっきりして来た。声もする。
『…この幅、かなりデカイ奴だぞ、大丈夫か』
『出たら出たで、あいつの出番だろ。その為に高い金払ってんだしな』
『出ないなら出ないで、こっちを手伝ってくれても良さそうなんだがな』
男が一人歩いて来て、ルーチェの身体をすり抜けて奥に消えた。
「これは、何だ?」
「ルオ、大丈夫?」
「ああ、ルーチェそこにいたのか、段々見えて来た。なにが起こってる?」
振り下ろされる鶴嘴、運び出される岩。それらの鉱夫達が持っている鶴嘴はケーブルが出ていて、採掘坑入り口に設置された装置と繋がっているようだった。淡々と作業する坑夫たち。それらの人がルーチェとルオをすり抜ける。子供の鳴き声が聞こえた。
『リンジ、泣いてるよ、少し見てやれよ』
『コレを終わったらね。もう少しだから』
『コイツ、調子悪いな、おーい、ウィナー、ちょっと来てくれー』
「リンジ……?」
美しい銀髪の女性が採掘坑に入ってきた。ルオからは逆光で顔が良く見えないが、ウィルととても雰囲気が似ていた。髪の色が異なるが、声はそっくりだ。何かの装置の調子が悪いのか、男と話をしている。
『これ以上の使用はやめ。制御盤の修理が必要よ』
『え?』
『採掘作業は中止、これを村まで運びます』
『そりゃぁ無ぇだろう、ただでさえ遅れてんだ』
『どうせ古いもんだし、壊れるまで使おうぜ』
『此処は翡翠も採れるのよ。コレが暴走したら大事故になる。ダメ。危ないよ』
ルーチェとルオはその光景を見ていた。その者たちには自分たちは見えていないようだ。触れようとしても擦り抜ける。声をかけても反応は無い。
『キャーーーー!』
『助けてぇええ! 誰かーーー!』
『どうした!』
『いかん、ルオが!』
『いやああ! 離してぇええ!』
『リンジ! 危ない!』
声がする。穴の中には誰もいなくなっていた。見えている範囲では何も変化はないが、声だけが聞こえた。ルーチェもルオも、移動は出来なかった。動こうにも身体がそこには無いような感覚だ。
『リンジー! うぉおおおおお』
「…なんだ、一体何が起こってる?」
ルオは採掘抗の入り口を見ていた。懸命に動こうとしたが全くどうする事もできない。ただ音がするだけ。だが外の状況は想像できた。騒ぎが聞こえた。その中に聞き覚えがある声がしていた。
その場の者達が絶望的な状況にあるのは分かったが、突如激しい爆音が聞こえた。ルーチェもその音には驚いた。そしてその音の後、周囲の岩が崩落する音が聞こえた。
「…今の……」
『エイダ! エイダ! 何が起こったんだ!』
『リンジが生き埋めに…』
『ダメだ、もう助からん、まだ崩れるぞ』
『ウィナ! 頼む何とかしてくれ!』
『…こんな…、誰が…、誰が再起動したの…?』
『何とかしろよ! アレを持ち込んだのはお前じゃねーか!』
『よせっ、おいっ!』
採掘坑から漏れる光と音だけを頼りに状況を想定するしかない。
「爺さんの声だ……」
「え?」
ルオの言葉にルーチェが振り返った。
「どう言う事だ、爺さんは死んだはず…これは、僕は何を見ているんだ?」
「…そう言うことか…!」
ルーチェは手で印を組み素早く詠唱した。するとパッと急に明るくなった。騒ぎも聞こえない。滝の音が聞こえる。
「…!」
「大丈夫? ルオ」
「あ、あぁ…、ルーチェは?」
「私は平気、それより急いで」
「え?」
「早く」
ルーチェは、ルオの手を乱暴に掴み、坑穴から出た。先程縛り上げたフェローロがまだ寝ていた。
「ど、どうしたんだ」
「…ここに居て。私一人で入る」
「え?大丈夫なのか?」
「大丈夫。あれが何なのか、想像ついてるから」
ルーチェは目を閉じて短く詠唱した。杖を両手で祈るように持ち、地面に突き刺した。すると突き刺した場所から淡い光が漏れ、身体を包んだ。
ルオはただ見ていたが、目を見開いたルーチェの顔は恐ろしく真剣で鳥肌が立った。先程と同じように坑穴に入り、そして不自然に暗くなり、あっという間に見えなくなった。ルオは生唾を呑んだ。
空模様が急に悪くなり出した。遠くで雷が鳴っている。ルオは空の音に驚いてオロオロとした。
時間にしておそらく数十秒の事だっただろう。だが、ルオにとってはとても長く感じた。フェローロがびくりと動いた為驚き、冷や汗が出た。ただ痙攣しただけのようでまだ眠り続けていたが、それを恐る恐る見ているうちにルーチェが坑穴から出てきた。
「ルーチェ!」
「終わったよ、来ても大丈夫」
「え?」
「鉱石喰胞。大丈夫、ヒトを襲わない」
【鉱石喰胞/ミネラルスライム(又はミネラルイーター)】
鉱石を効率よく採掘する為に開発された魔法生物の一種で、主に粘液性の水疱生物である。様々な亜種が存在し、魔法生物図鑑では全ての種類を記載しきれない程の種類がある。繁殖するものもあれば、個体限りのものもいる。
「此処の翡翠をたっぷり食べちゃったんだろうね。驚いたよ。あそこまで完璧に記憶を送り込んでくるなんて」
「記憶を、送り込む?」
「翡翠はね、記憶や意識も含めた魔力を吸うんだ。だから呪いを吸い取るんだけど、この子に悪気があったわけじゃ無い。ただ自分の棲家への侵入者に対して自分なりの威嚇をしたんだと思う。ヒトが怖がるであろう記憶を選んでね」
「威嚇?今のが、威嚇…?」
その時坑穴から、何かモゾモゾと動くものが顔を出した。ルオが身構えたがルーチェが手で制した。
金属的な光沢がある半液体の塊。とても美しい深い緑色で、透けない程の濃度をしている。よく見ると部分的に発光しているようだ。
「な、なん…」
「この子が鉱石喰胞。へぇ、貴方、綺麗。もう何十年も此処で生きてたのね?」
「大丈夫なのか?」
「平気。元々この子は、…多分あの村で飼われてた子だと思う。水晶が大好物だから、鉱脈を見つける為にね。この子は此処で放置されて、生きる為に翡翠を食べ続けた。その結果、翡翠が持ってる特性を強く持つようになっちゃったわけ」
「飼われてた…」
鉱石喰胞がルオを見て一瞬びくりとしたが、ブニョブニョと脈打ったと思うと、すうっと縦に伸びた。驚いて仰反るルオに対してルーチェはニコニコと眺めている。そして、あっという間にヒトの姿になった。真緑色の光沢がヒトの肌の質感を帯びる。
「あはは、流石にその色じゃ擬態は無理だね。翡翠の石像みたいだよ」
髪や衣服まで色以外は完全に擬態した、真緑のヒト。声は発しないものの、仕草までヒトを擬態している。ルオに対して恭しく挨拶をした。
「この子はね、元々ヒトやエルフの手で作られた魔法生物なんだ。ヒトと接する時はこうやって擬態する。この子達にしか聞こえない音で会話も出来るし、意思疎通も出来る。この子はいい子だよ。フェローロが住み着いて邪魔だったみたい。この子なりに記憶で威嚇したらしいんだけどね」
「あの記憶を、こいつに? あ、だから声を」
「そう。あの記憶に居たのは…、ウィルのお母さんじゃないかな…」
ルオは擬態した真緑のヒトを見て、ハッとした。見覚えがある。
「…ルーチェ、こいつは、自分の記憶の中から、擬態するヒトを選ぶのか? それとも、僕の記憶を探ったりするのか?」
「え? いや、この子にヒトの記憶を探る事はできないはず」
「…そうか、なら、偶然か…」
「?」
「…多分、母さんだ」
僕はまだ子供だったし
殆ど覚えていないんだ。
リンジってのは僕の母さんの名前。
もう二十年以上前の『事故』の事は
一緒に居合わせたはずの爺さんは、話してくれなかったんだ。
僕が大人になったら、と思ってたのかもしれないね。
でも、そうなる前に死んでしまった。
事故の現場を知っているのはごく僅かで
ウィルの母親は大怪我を負って
僕の両親は死んだ。
もう一人、居たらしいんだけど、
正気を失ってまともな話が出来なくなったらしい。
爺さんは、ウィルの母親が魔法を暴走させたと言ってた。
僕は魔法が使えないし、詳しくも無い。
ウィルの母親は魔法が使えたらしい、とは聞いてたけど
記憶の中で見たウィルの母親は、一緒に水晶掘りをしてたね。
やっぱり、魔法を使って岩を削ってたのかな。
「なんとなく…予想はつくよ…」
ルーチェは採掘場の崩れた一角に近付いていった。低い背丈の植物が覆っているが、大きく抉れている事がわかる。
ルーチェは足元に何かを見つけ、しゃがみ込んだ。ルオと緑色の人型も近づいて見てみた。鶴嘴の破片だ。もう何十年もそこにあるのだろう。原型を留めていないが、持ち手にケーブルが付いている。
「コレ、魔導器の一種だね。さっきの魔法覚えてる?」
「…岩を砕いた魔法?」
「そう。アレを鶴嘴に送り込む装置だったんだろうね…」
「それが……、暴走した…」
「ウィルのお母さんは、壊れてると言ってたね。暴走するかもしれないから、使うのを中止しようと言ってた」
「…当時は、王都での水晶と翡翠の価格が落ちてた時期だ。多く掘り出そうとしたんだろうね…。今のを見る限り…、悪いのは…」
「…」
「壊れているのをわかってて、装置を動かしたのは、多分僕の父さんか、母さんか……」
「…そうね」
魔法の暴走ではなく、壊れた魔導器の再起動が暴走の原因。ルオは、死んだ両親自身が引き起こした事故だという事を受け止めるだけの器があるだろうか?
そう心配したルーチェだが、ルオは違う事を考えていた。
「…僕は……」
「…」
「……僕はね、ずっと、ずっと、ウィルのお母さんのせいで、両親が死んだと聞かされて育ったんだ……」
「…」
「…僕の足が悪いのも…、ずっと、ずっと、ウィルのお母さんが悪いんだと、聞かされて育ったんだ……」
「…」
「…ウィルのお母さんが、悪いんだ、と」
ルオの顔から大粒の涙が零れ落ちた。
「僕は…、ウィルを、好きになってはいけない、と……」
足が疼く度に
超えられない段差がある度に
あの笑顔を見る度に
「…もっと、早くに…知りたかった…」
君に聞かれて、気付いたんだ
僕は、誰にも言ったことが無かった
爺さんにも、カークにも、ウィルにも、誰にも
ウィルは、ずっと、ずっと一緒に過ごして来たんだ
でも、いつも、いつも
心の中で
ウィルの母親のせいで、僕の両親は死んだと
ウィルの母親のせいで、僕の足は、動かなくなったと
必ず、誰かが呟くんだ
それを
どうしても拭い去る事ができなかったんだ
「結局…、僕だけが…、取り残されたんだな…」
「たかが二十年よ」
「たかが…?
たかが二十年だって?
二十年だよ、二十年
僕が、まだ言葉も喋れない頃から
自分の足で歩き始めて、走れるようになって
子供が、大人になってさ
その時間を、たかが?
ああそうだろうよ
君みたいなエルフには、そう思うだろうよ
でも、でもな
もう取り戻せないんだ
取り戻せないんだよ!」
知らないうちに雨が降り出していた。急に叫んだルオに、緑色の人型は、形を崩すほど驚いたようだった。
大けがを負い、瀕死で村に戻ったルオの祖父とウィルの母親ウィナはどうしたのだろう。この惨事をどう村人に伝えただろう。
採掘の効率性を上げようとして魔導器を導入した。だが旧式で魔力蓄積の容量は僅かしかなかった。魔法を使える者がその場にいて常に補填した方がよかったのだ。この場所は魔物の出現もある。魔法が使える者がその場に駆り出されるのはごく自然の事だ。
経過した年月を考えれば、ウィナ自身子供が生まれたばかりだったはず。父親の所在が分からない事を考えれば、どこかから流れ着いた者だったのかもしれない。その、他所者が起こした惨事。そういう事にしよう。
そう言いだしたのは、他でもない、ウィナ本人ではないか?
そして、それを村長も承知していたのではないか?
当時、水晶掘りは村にとっての貴重な外貨獲得手段だった。価格が下がり、焦りがあったことは否めない。そんな中で起きた【魔導器の暴走】。
事故が起きた影響は大きかった。鉱夫であったルオの両親を一度に失ったこの事故は、魔導器と魔法への不信感に直結した。あっという間に水晶掘りは廃れた。
ルーチェがこの採掘場に来て最初に疑問に思った事は、もう何も採れない、と聞かされていた割には、何の苦労もせずに見つかる事だ。あの採掘場は、まだ埋蔵量があるにも関わらず放棄されたのだ。
ウィルの存在は、村人にこの事故を忘れないための戒めとしても機能したのだ。
ウィルには何の罪もない。
そんなことは村人全員が理解している。
だが、恐れているのだ。魔法を暴走させ、数人を死に追いやった魔法の娘。
村で長年続いてきた、ウィルに対しての冷ややかな態度を一変させたのはカークの存在だ。カークはウィルとルオととても仲が良かった。他の村人がどんなにウィルに冷たかろうと、カークはずっと一緒だった。
「カークは…、知ってたのかな…」
ウィルも知っていたのか?
知らないのは、僕だけだったのか?
僕が、傷付くから?
事故の原因は、僕の両親だから?
だから、僕には真実は誰も言わなかったのか?
「あの…、あのさ…ルーチェ」
「ん?」
「そいつ…、その…、緑のヤツに聞いてくれよ。此処に、カークとウィルは来たのか、って」
「…」
「僕さ…、此処に行こうって言われても断ってたんだ。何度も、何度も。カークは、此処によく遊びに来てたらしいんだ」
「…そんなの、本人に聞きなよ」
「…そうか、そうだね…そうだよね…」
ルオは大声で泣いた
そうだ。自分が聞けばよかったのだ
どう思ってるのか、を
自分が、伝えればよかったのだ
どう思ってるのか、を
二十年という時間の長さは重い
カークとウィルが結婚すると発表した日
ルオは村人に盛大に祝おうと吹聴して村中を練り歩いた
まるで、道化師のように
でも、その晩にも泣いた
ウィルがカークを選んだ事、ではなく
カークに対しての嫉妬、でもなく
ただただ、自分の惨めさに泣いた
好きな人に、好きと言えなかった
呪い
それは、間違いなく【呪い】といえるものだ
緑色の人型が、いつの間にかルオに寄り添っていた。
その腕が、ルオの肩を抱いている。
ルオの母親を記憶の中から再現しただけの【鉱石喰胞】は、その異質な色を除いては、ほぼ完全な擬態だった。ルオの中に僅かにしか残っていない母親の面影と寸分変わらない緑色の人型は、優しく微笑んでルオの肩に触れている。
魂の存在は、証明されている。
ルーチェは、この緑色の人型が、ルオの母親の魂を宿していると信じたかった。
いや、そうに違いない。違いないのだ。
緑色の人型は、その手に何かを持っていて、それをルオの前に見せた。
森の深淵を感じさせる、真翠の翡翠。しかも、何粒もある。
緑色の人型は、ただただ、優しくルオを見つめていた。
「そうですか…、ルオはついに知りましたか…」
次の日、ウィルが祈っていたエルフ像の丘の上に村長とルーチェが居た。
「あの日の事はよく覚えております。怪我をしたウィナさんを担いで帰って来たクエンを見たときは、大変な事が起こったと思いましたよ」
「クエン?」
「ああ、ルオの祖父の名です。私と…、親友でした」
風が抜ける丘の上。立ち並ぶ奇妙な石像は無言のまま、二人の話を聞いている。
「ウィナさんは、右手を失っておりましてな。その他にも内臓も一部やられていました。暴走し続ける魔導器を身体を張って止めたのだとか」
「あの場所は、水晶と翡翠の採掘場。それは魔力の海に火を投げるようなものよ。よく止められたね…」
「長くは生きられない身体となっておりました。ウィナさんは私とクオンに、自分のせいにするようにと言ったんです。クオンは村の鉱夫の中心人物でしてな。その息子夫婦が原因で死人が出たとなれば、クオンの立場がありません。他所から来た自分のせいにした方がいい、と…」
「そうする事に、何も感じなかったの?」
「…」
「それで、ウィルに…、罪滅ぼしのつもりなの?」
村長の顔が悲しく歪んだ。
「恐ろしいもので、一度そうなってしまうと、村人はウィナさんを避けるようになりましてな。ウィナさんは事故の三年後に亡くなりましたが、葬式には私とクオンしか来ませんでした」
「…」
「あの時の判断が、良かったのか悪かったのか、今までわかりませんでしたが、一人の人生を狂わせてしまった事だけは事実です。我らは、間違っていた。死んだルオの両親の【名誉】の為に、ルオ自身の人生を犠牲にしたのですから」
村長はこうも続けた。
クオンは、その後生涯ただの一度も笑う事は無かったという。大好きだった酒も辞め、ルオの為に鶴嘴を捨て、その頃から盛んになりつつあった葡萄畑の整地にその後の生涯を捧げたという。誰にも真実を漏らす事無く、ウィナとの約束を守り抜いた。病に倒れて死ぬ間際でも、ルオにうわごとのように、お前の両親はウィナのせいで死んだ、と言ったという。
それを見た村長以外の人間は、よほど恨んでいたのだろうと噂した。だが真実は違う。ウィナが文字通り生涯をかけて守ろうとした息子夫婦の名誉を、命尽きる最期まで『隠し通す』事でウィナに報いたのだ、と言える。
ルオとウィルが仲良くしている姿を見て、クオンの心はどれほど救われていただろうか。クオンはウィルに対して冷たかった。しかしルオとウィルが一緒にいる事に何かを言う事は決して無かったという。
「まさか、ルオが…、ウィルを愛するとは…」
「ウィル以外を好きになればよかった、とでも言うの?」
ルーチェが低い声で眉を吊り上げた。村長は背筋が凍るような感覚を覚える。
「それ、人間の一番醜い所だよ。辞めなよ」
「…はい…」
ルーチェは伏し目がちに丘の上から見える小屋を見ていた。
時間を少し巻き戻そう。昨日はあれから、採掘場から急いで帰途に就いた。雨が降り出していて川が増水する恐れがあったのだ。ルオは緑色の母親に慰められ、泣きながら笑った。とても純度の高い翡翠の粒を手にしながら「ありがとう」と言った。何かが吹っ切れたようだった。その場から離れる時、静かに手を振る緑色の母親に、また会いに来るから、と声をかけた。
村に到着したのはかなり暗くなってからだった。二人ともクタクタで村の入り口で、じゃまた後日、という類の言葉を交わしただけで別れた。ルーチェの記憶では、最後ルオは笑っていたと覚えている。
ルーチェは朝、というより昼に起きて、昨日の事を思い出し不安になった。酷い事を言ったかもしれない、と。ヒトの人生で、特に生まれてからの二十年は大変貴重な時間であり、ヒトの殆どを形成する時期だ。それを「たかが二十年」と言ってしまった。ルオについては、ただヒトの情の縺れ、とは全く異なる事情を有している。酷く傷つけてしまったかもしれない。そう不安になり昼食も取らずに出かけた。
ルオを探さなくては。
ルオは葡萄畑で働いていた。直接会う事は無かったが、共に働くヒトに聞いたところ、普段と変わりなかったという。むしろ、機嫌がよかったと。
ヒトの笑顔には注意しなければならない。ヒトは平然と他者を騙す為に笑顔を作る。それを見抜く事は魔力を持ってしても難しい。笑っているから幸せとは限らない。むしろヒトは大きく傷ついた時ほど笑う。ルーチェはそれが怖かった。
ルオにとって、今後何が幸せだろうか、と考えたが、長い人生のルーチェにも答えが出ることは無かった。そうしているうちに、「エルフの像」があるこの丘に足が向いたのだ。
そこで今、村長の【懺悔】を聞いたところだ。
丘の上から、小屋の扉が開いてウィルが出てくるのが見えた。丘にルーチェと村長がいるのを見て、手を振っている。ルーチェは少し笑って小屋に向かった。
ルオの事はなんと言えばいいか。とても微妙な問題だ。何せウィルは結婚を控えた娘だ。呪いで伸びてはいるが結婚式を迎えるはずだった。呪いさえ抑え込めればカークと結婚する。昨日ルオが手にした高純度の翡翠は呪障の発症を百年程度は問題なく抑える程の高容量を持っている。他人に呪染す事も防ぐ筈だ。あの純度の翡翠は王都をいくら探し回った所で見つからないだろう。エルフの自分が長い人生の記憶を丸ごと封じても余る程のものだ。
人生が七十年足らずのヒトは、「呪いが解けた」と言っても差支えが無い。
呪いが解ければ、カークは王都から帰ってくるだろう。そして結婚式だ。ルオはその結婚式をどんな気持ちで見るのだろうか。本人が言っていた【二十年の重み】を乗り越えられるだろうか?
それとも…
「どうしたんですか?」
「え?」
「ぼーっとして…」
出したお茶を手に持ったまま、考え事で止まっていたルーチェを心配顔で見るウィル。相変わらず顔の呪障が痛々しい。
「…ルオは来た?」
「そういえば来ませんね。いつもなら昼前に来るのに」
「そう…」
「え、ルオがどうかしたんですか?」
ウィルのあまりの心配顔に気圧された。
「…昨日、翡翠を探しに行ったの」
「!」
ウィルは目を伏せた。少し目を閉じ、そしてぱっと見開く。ルーチェが想像もしていない言葉を発した。
「鉱石喰胞ちゃんは元気でしたか?」
「え? あ」
ルーチェは、ウィルの言葉に口をパクパクさせた。
「…知り合いだったの?」
「五年くらい前からです」
「フェローロはどうしたの?」
「フェローロ? 魔鳥フェローロの事ですか? 居たんですか?」
「住処の穴に陣取ってた。あ、そういえば、足を縛ったまま放置してきちゃったな。今頃、蛇にでも食われちゃってるかも」
「ええ? もったいない。フェローロはごちそうなのに」
二人とも一瞬の後に笑った。
「鉱石喰胞の事を知っているということは…」
ルーチェのその言葉にウィルはぴくっと身体が震えた。
「…あの事故の事ですね。あの採掘場で知りました」
「貴女は、どう思ったの?」
「それまでの人生の全ての謎が解けて、すっきりしました」
「…そう…」
「ルオも、知ったんですか?」
「うん」
「…どうでしたか?」
「泣いてた。あなたに…、好きだと言えばよかった、と」
ルーチェのその返事の後、とても長い沈黙が続いた。突然ウィルがテーブルの上のものを乱暴に払い除け、手紙を書き始めた。
「どうしたの?」
手紙を書く手が震えている。そして、涙が手紙に落ちる。ルーチェが驚いていると、呪障で惨い見た目の顔が、泣き笑いしている。
「やっと、やっとこの日が来ました…」
「え?」
「すべての事情をお話します」
ウィルは買いた小さな手紙を丁寧に折りたたみ、小さな筒に入れると、布がかけられた箱を取り出した。覆いをとると、そこには鳩がいた。
「伝書鳩?」
「はい。カークが王都から取り寄せてくれた、とても訓練された鳩です。カークを見つけて届けてくれます」
「え、手紙で連絡を取っていたんじゃなかったの?」
「ルオを経由して私に届く手紙は、あれはルオに見せるための手紙なんです。カークは毎週必ず手紙を出しているはずです。でも、ルオは手紙は届いていない、と言っています。それが、手紙を見ている証拠です」
「え? 話が見えない、どういうこと?」
「カークは、私に対して別れたい、という内容の手紙を書いています。それを、ルオは私に見せまいとして、『手紙は届いていない』と言ってくれているんです」
「…はぁ?」
「これは、カークに協力してもらって打った、芝居なんです」
「!」
「カークは、この村から少し出た、森の中の小屋に住んでいます。王都には行っていないんです」
「えええ?」
「これは、ルオの【呪い】を解くために、何年もかけて計画してきた【芝居】なんです」
ルーチェが唖然としたのも無理はないだろう。
ウィルの話はとても現実とは思えないものだ。
五年前、カークとウィルはあの採掘場に行った。冷ややかな態度を見せる村人について常日頃疑問に思っていたカークは、ルオの祖父が亡くなったその年、誰も寄り付かなくなっている採掘場に行き真実を知った。ウィルはエルフ信者であるため、鉱石喰胞の事も知っていたのだ。出会った鉱石喰胞はあの記憶を二人に見せた。
二人はルオにもそれを見せようと何度も試みたが、足が悪いという事を理由になかなか採掘場に行こうとしなかった。ルオが幼い頃から刷り込まれている【呪い】は、ルオ自身の両親の死の真相と名誉が関わる問題だ。他者の強制によって知らされるのは後のルオの人生に良くない。自分の意思であの場に行き、真実を知る必要がある。カークはそこまで考えたのだ。
カークは幼い頃から兄と慕うルオをよく知っている。足が悪い事を負い目に感じ、時折意固地になって塞ぎこむ。祖父譲りの頑固さと生真面目さ、そして暗さが厄介だ。
二年いろいろ試してみたが、ルオは一向に行動をとろうとしない。なので、大きな芝居を打つことにしたのだ。
「え…、結婚が…芝居なの?」
「…私は…、ルオが…、ルオ兄ちゃんが…、好きです」
「えぇぇぇぇー? なんでそれを本人に伝えないの!」
「伝えたかった。でも、伝えても…、ルオ兄ちゃんは【呪われてる】から…」
「あ? あ、あー、そうか…」
「なので、呪いを解いてからじゃないと…」
「え、ちょっと待って、じゃ、あなたの呪いは? あなたの呪いは本物でしょ?」
「これ…、私自身が私にかけた呪いなんです」
「ええええええええ」
「私の母は魔法が使えました。実は私も魔法が使えるんです。ただ、師が居なくて…、私が結婚の準備といって隣町に行ったのは、魔法を習うためでした」
「呪いを習ったの?」
「はい。魔術師の間では、仮病用に【見た目が酷いけど痛くない呪い】がある、という話を本で見つけて、それを教えてもらいました」
「ああ…あうう、あうう」
「とても簡単でした」
にっこり、じゃ無いっつーの。
ルーチェは思わず心で突っ込みを入れていた。
「三年経って、さすがに私もカークも疲れて来て…、ルーチェさんが現れて、本当に助かりました」
伝書鳩を外に放ちながらニコニコと話すウィルにエルフは呆れ返った。
「ルーチェさんが来た時ヒヤヒヤしました。ルーチェさんには、この呪いが仮病だとわかってしまうかもしれない。呪いは【臭い】でわかるんです。このお香は、鳩が居る事がバレないように焚いているものですが…、幸いにしてバレずに済みました」
衝撃の真実を聞いて目眩を覚えたルーチェは、小屋から出て悪い夢でも見た後のようにふらふらと宿に帰った。まさか全て【ルオの呪いを解くための仕掛け】だったとは。
二十年の呪いを解くためには、それだけ大きな装置が必要だ、というカークの発案だったようだ。ちなみに、カークに対して恋心は無いのか?と聞いてみたが、カークはだいぶ昔から隣街のとある娘と付き合っていて、その娘にも話は通してあるらしい。魔法の師を紹介してくれたのはその娘だという。
全ては、呪われた幼馴染を救う為にどうしたらいいか、と考え、こちらが呪われてしまえばいい、という発想で計画が立てられた。
カークとウィルは二人で、村長やルオを含めた村全体を騙す事になったのだが、そもそも自分たちは、二十年もの間騙されて来たのだから、だまし返してやればいい、と息巻いていたらしい。
宿に帰ったルーチェは、ぼーっとしながらお茶を飲んでいた。
「…人間って、怖い…」
「え? なんです?」
様子が変だ、と眺めていたスターナが声をかけた。
「…人間って…、怖いぃいっ!」
ルオはその日、ウィルの小屋に翡翠の粒を届けた。そして扉越しに、二十年前の事故の真相を知った事を伝えた。ルオは自分の事を「呪われていたのは僕の方だったんだな」と言った。ウィルはその言葉を聞き、思わず扉を開けた。急に開いた扉をに頭を打ちつけたルオが蹲っているところに、呪障で醜く爛れた顔をさらに涙で歪めたウィルが抱きついた。呪いなどすっかり忘れて、二人は抱擁しあった。
「ダメだよウィル、君は、カークの花嫁なんだ」
「違う、違うお兄ちゃん。私は、最初から、ずっと、ルオ兄ちゃんのものよ」
「え?」
「私も、呪いが解けるの。カークを、私を、許してね」
「どう言う事なんだ?」
「私は、ルオ兄ちゃんと結婚するの。最初から、初めから、昔から、そうだったの」
「…?」
「ルオ兄ちゃんは、やっと呪いが解けたのよ」
「…へー、そりゃー、よかったねーー」
午後三時。ユビ村唯一の宿『花の咲く場所』の一階の食堂でルーチェとルオが窓側の席に座っていた。ルーチェはつまらなそうに頬杖をついて外を眺めている。瓶に入った小さなクッキーを無造作に口へ放り込む。
ルオは和かに笑っている。先日までの陰気臭さが消え、今日は服装までもパッと目を引く白のシャツだ。
「ウィルの呪いが解けたんだ。あの翡翠、本当に効くんだね。苦労した甲斐があったよ」
「え?」
ルーチェは思わず口に入ったクッキーを飲み込んだ。
「君の髪、本当にありがとう。ウィルの呪いの痣ももどんどん薄れてきてる」
ルオはいったい何処まで知らされているのか。ルーチェは眉を顰めた。ウィルに口止めされたりはしていないが、少なくともウィルの呪いが偽物だった事は知らないようだ。カークについては?
「今年の秋には結婚式をやれそうだけど、なんだか信じられないよ。ウィルが僕と結婚だなんて」
「…、カークは?」
「あ、知らないんだね。ウィルとの婚約は破棄してるんだ。もう他に付き合っている娘がいるらしい」
「へ、へー」
「王都での生活が長かったせいで、あいつもいろいろ変わったんだろう…、今度会う時、どんな顔をすればいいかわからないけど、でも手紙ではそれがお互いにいいんじゃ無いかって書いてあった」
「へ、へぇええー」
「…僕は白状しなきゃいけない。あいつは欠かさず毎月手紙を寄越したんだ。でもその内容を僕は…読んでしまった。今日、ウィルには言って謝ったんだ。そしたら許してくれた」
恐らくウィルの事だ。手紙を態とルオが読むように誘導したのだろう。カークとウィルとの手紙のやりとりがどんなものだったのかはわからないが、心境の変化なども書き綴っていたのかもしれない。
「確かに、僕は呪われていたんだね。実は、動かない足が、最近よく動くんだ」
「へぇぇえー」
「たった数日で、こんなに人生が変わると思っていなかったよ。何もかも君のお陰だ。ありがとう。本当に、ありがとう」
「…あ、え、う、うん」
「これなんだけど、良かったら、飲んでね」
上等な瓶の葡萄酒だ。何のラベルも貼っていないので生産者が自分用にしているものだろう。
何度もお礼を言い、ルオは店を出ていった。ルーチェは頬杖ををついたままで外を見ている。テーブルに置かれている酒瓶をチラッと見ては溜息をついた。
これは、どう受け取ればいいの?
「…どうしたんですか?」
機嫌の悪そうなルーチェに、宿主人スターナが心配した。
ルーチェがこんな複雑な心境である事は、今のルオの話だけでは無い。つい先ほど、同じくこのテーブルで村長の口から聞いた話もまた、衝撃的ななものだった。
「私は、カークとウィルが何かを企んでいる事は薄々気付いていたのですよ」
「え?」
飲んでいたお茶が思ったより熱く、そっとソーサーに戻した時だ。
「どういうこと?」
「いつ動くか、と思って、あの丘で見ていたのですがね」
村長は、カークから届く手紙に疑問を持っていた。王都とユビ村の手紙のやり取りはどれほど急いでも十日はかかるのだ。疑問が確信に変わったのは一年前。嵐が吹いて、王都からの船便が遅れるとの連絡が入っていたのだ。だが、カークの手紙だけが王都からの扱いで届いた。
「この村の郵便物は、隣街で管理されています。エズスはただ届けるだけ。隣街で細工をすれば、王都にいると思わせる事は簡単に出来たでしょう。何せカークは、後に村長になる為に、と隣街の学校に通わせた事がありましてな」
ルーチェは唖然とし、そしてムスっと頬杖をついた。
「ルーチェさんは、もう一つ、知らない事があります」
「まだ隠し事があるの?」
「私自身も心苦しくなりましたので、全部お話ししましょう。ウィルの父親についてです」
村長はちらっとスターナを見た。スターナは厨房で洗い物をしている。村長は口に手を添えて小声で耳打ちした。
「実は…、ウィルの父親は、カークの父親…、つまり私の…息子でしてな」
「……ええええええええ?」
村長は慌てて「しっ」と口先に指を立てた。エルフは言葉にならない声で口をわきわきと動かす。
「今は葡萄酒作りの事業で偉そうに踏ん反り返っている愚息ですが…、よりにもよって婚約者がいる時期にウィナさんに手をだしましてな。この村に住まわせる事にしたのです。真実を伏せたままで…」
「え、つまり…、カークとウィルは異母姉弟って事?」
「はい」
「その事を、二人は知ってたの?」
「息子が…恥ずかしながら口が軽うて困っております」
「…と、当然それはルオは知らないわけだよね」
「…恐らくは」
隠し事が多すぎる。そして、それに騙され続けるルオ。
ルオ自身は今幸せ一杯だ。自分自身の整理がついた上に、最愛の人から告白を受け、呪いも消えつつあるのだから。全ては仕組まれたものだとも知らずに。
呪いは本当に解けたんだろうか?
ルーチェはわからなくなった。
真実が必ずしもヒトを幸せにしない、と言う事もある事はわかるが、嘘が産む幸せとは、いったいどれくらい【保つ】のだろうか?
幸せのためにウィナがついた嘘は二十年保った。ヒトにとって二十年は長い。ウィルがついた嘘は何年保つだろう?
「墓場まで持っていく、と言いますよ」
この疑問に対して、スターナが答えてくれた。そうか、ヒトは寿命が短い。墓場までの時間がエルフよりも遥かに近いのだ。
ルオは、真実を知る日が来るだろうか?
でも少なくとも、その日が来ても、ルオは笑うのだろう、と思った。
愛するヒトに、騙され続ける。
それが【幸せ】って事なのかもしれない。
にしても、釈然としない。
テーブルに置かれた葡萄酒を、ルーチェは乱暴に手に取って無理やり栓を引っこ抜いた。
「今日は、飲もう」
「え?」
「付き合ってよスターナ」
んでね、
ルオがウィルにあげた、翡翠があるでしょ?
あれね、王都ならすっごく高く売れるヤツだよ
でも、あれ、本当は何だかわかる?
わかんないよねー?
あれね、
鉱石喰胞が身体の中で濃縮して、外に出したものなんだ
ようするに
うんち
あれ、鉱石喰胞のうんちなんだよ
あはははははははは