忘れる為の物語 二枚目 雲の形のように 前編
ヒトの心は形を変える
まるで、雲のように
雲はただ
風によって吹かれているだけなのだ
雨。もう三日目だ。この時期こうなることはわかっている。わかっているが、さすがに体中に黴が生えるんじゃなかろうか、と疑いたくもなる、嫌な雨だ。
エルフは雨が好き、などという迷信がある。彼女「ルーチェ」にとっては実に不愉快な話である。どこをどうなったらそんな迷信が生まれるのか。天気は晴れる方が良いに決まっている。
大自然的な印象が強いエルフだが、エルフは好んでそういう場所に住んでいるわけではない。どちらかと言うと、選択肢を排除していくとどうしてもそういう場所になる、というだけなのだ。
数で圧倒的に勝る「ヒト」は、世界において弱者に相当していた。力ではトロルに劣り、魔力ではエルフに劣り、社会性ではコボルトに劣り、欲望ではゴブリンに劣る。つまり、何もかもが中途半端な「ヒト」は、決して主役になり得る者たちでは無かった。しかし、金属が世界の地図を変えた。
ヒトが世界の表舞台にのさばり始めると、彼らに合わせた経済水準が余儀なくされた。特に長寿族たちには生き辛い世界に変貌しつつある。ヒトは寿命が短い故に、自らの幸福や欲望の為に極端な行動を取る事がある。飢餓以外は驚異となり得ない他種とは違い、短絡的であり、突発的だ。
エルフも都市部に住むことくらいはある。そもそも種族的に流浪性が高くなったのは他でもない、ヒトのせいなのだ。目まぐるしく変わる街の風景と経済、そしてあっという間に年老い、エルフにとっては短い六十年程度で代が変わる。濃密な対人関係が形成がしづらいヒトの文化圏。寿命が十倍あるエルフにはついていけないのだ。故に、都市に住み辛くなった。
エルフは森に適応したのではなく、そうならざるを得なかった、のである。好き好んで森の奥だったり、山岳地に住んでいるわけではないのだ。
都市が「ヒト」の尺度ではなく、エルフの尺度で動いているのであれば、是非とも都市に住みたいのだ。現に昔はそういうエルフの国はあった。
世界の歴史が、ヒトの歴史と等しくなるにはもうしばらく時間を要するが、世代交代が圧倒的に早い為に進化も早い。そこがヒトの利点であり、欠点でもある。
そして、欠点だけが吐出した時代があった。
雨は鬱陶しいが、流れる時間が緩やかな農村はエルフにとって過ごしやすい。
「せっかくおいでなのに、この雨では出かけるのも億劫ですねぇ」
宿の主人が頬杖を付きながら外を眺めていた。
「お客さん、来ないね」
「ですね…。昨日四名程来る予定だったんですが」
「来ないの?」
「なにかトラブったんですかねぇ。この雨だと蛙が出ますからね」
蛙か…、と金髪のエルフは腕組する。出没する【魔物】としては余りにも一般的でそれほど注意も払われない【蛙】だが、うっかりすると大損害を被る相手である。特に雨の日の蛙は、まさしく水を得た粘疱蛭と同じで凶暴であり、徒党を組まれると熟練者でも厄介だ。
「何か飲みますか?」
「甘いのがいい」
「かしこまりぃ」
宿主人の名はスターナ。この宿「花の咲く場所」の四代目。ルーチェは何故かこの宿ではお代は払わなくて済むらしく、何も考えずにそれを受け入れて家族のように過ごしている。ルーチェの頭には、支払いを頑なに受け取らないのであれば、自分がこの宿で何かしらの奉仕をすれば良い、と考えたのだ。どうせやる事も無く、何の目的も無い旅だ。いや、目的はあったのかもしれないが、記憶があやふやだ。
昨日も雨だったので、一日かけてゆっくり自分の手帳を読み直してみた。マメに日記をつけているので間違いはないが、誰かとの約束などでこの地に来たわけではないようだ。あまり自分の記憶に自信が持てないのは今「そういう時期」だからだ。
とはいっても、この村に来てからは記憶が飛んだりする事が無い。やはり記憶症は都会特有のものらしい。エルフ間で最近よく耳にする記憶症。「枕呪」の症状が末期を迎えると起きている時間でも記憶がまだらになってしまう症状が出るのだ。だが、今それは無い。
病気、というわけでもないのだが、気分は悪い。この村に来てその気持ち悪さもなくなった。不死人とのやりとり、ライルの祖母とのやりとりで心配したが、不思議と精神状態は安定している。むしろ、軽くなったような気がするのだ。
不死人とのやり取りが終わった夜、宿で待っていたのは宿主人スターナと一通の手紙だった。この宿の名前の由来となった、一種の預言書にはこう書いてあった。。
もし
あなたが
暇を持て余していたいたり
日々つまんないと感じていたら
探してみるのもいいかもね
その意味深な詩とも手紙とも受け取れる内容と、一枚の地図。地図といっても酷く大雑把でこの付近の山の麓にチェックマークがあった。これを探せ、というのか?
にしても、そもそも誰が自分に対して宛てた手紙なのだろうか。宿主人によると、「ハーフェンメロアの花の咲く場所を聞きに来たエルフ」というのが条件らしいので、ルーチェ宛では無い可能性もある。現にこの宿には、この手紙と地図を受け取ったエルフは過去に二人程いたらしい。
「ねえ、スターナ」
「はい?」
「私以外の、その、手紙を見せられたエルフからも、お代は受け取らなかったの?」
「らしいですよ。あ、いえね、私はルーチェさんが初めてですよ。確か父の代で一人いたんだそうです」
おかしな偶然もあるものだ。
「…宝くじに当たった、程度に考えてるんだけど、いいかな?」
「ええ、構いませんよ」
良くはないよ。だって、この紅茶だって、美味しいし、タダじゃないよ。
お客さんが来たら、給仕をしよう、とルーチェ考えていた。王都ではエルフカフェで働いた事もある。中々に如何わしい店だったが、高い魔導書がどうしても欲しくて、高い報酬に目が眩んだのだ。カフェだったので【夜の営業】は無かったが、短いスカートを覗き込まれる事にはすっかり慣れた。客も言うほど汚れた連中でもなく、都市部特有の孤独感を埋める為に足繁く通う、そんな連中が中心だった。
「私、お代受け取って貰えないんだよね?」
「ええ」
「じゃ、その代わり、私が此処で働くよ」
「はあ?」
「駄目って言ってもやるよ」
「何でそうなるんですか」
「エルフなんてすぐ飽きるよそういうの。だから、飽きるまでやらせてよ」
といって二日目。来客は一人も居ない。つまり、何もやる事がなかった。掃除は嫌いだから適当で、料理も厨房が狭いので二人入れない。やれることと言ったら、出来た料理を運ぶくらい。それも、客がいなければ何もする事がない。
暫くして雨の中、ライルが来店した。待望の来客だ。いらっしゃいませ、とルーチェが比較的愛想良くお辞儀をすると、ライルは何故かクネクネと腰を動かした。
「…何の儀式?」
「いやー、いいなぁ、こんな田舎でさ、こういう、女の子に【いらっしゃいませ】とか言われるの、無いっすから」
「女の子、って…」
わたし、幾つだと思ってるのよ…
流石に自分の年齢くらいは憶えている。ライルのの五倍はあるだろう。ヒトはエルフの年齢を見た目では判別できないのだ。
「あ、頼まれてたもん、出来ましたよ。着てみてくださいよ」
「…おう」
ルーチェはライルに、正確にはライルの祖母に服を頼んでいたのだ。エプロンだ。フリフリのついている、可愛らしいものだ。この宿で給仕をしよう、と決めてから、ならまず形から入ろうと思って頼んだのだ。
「うちのばーちゃん、なんか徹夜してましたよ」
「え」
「もう、嬉しくて嬉しくて、って言ってました」
「…そう」
早速着てみた。サイズが云々、よりも、装飾がやたらと凝っている。
「うわ…」
「おおお」
ライルとスターナが感嘆の声を挙げた。
先時代レースをふんだんにあしらった白の地に、緑のラインと赤のビーズがとても上品に配置されている。都市部ではこのレースがやたらと高値で取引されている。一つ間違えば幼くなりそうなエプロンドレスだが、シルエットが美しいので大人に見える。
「センスいいなあの子」
「ほんと、いいっすなぁ、やり方教わろうかなぁ、これ、一晩で縫えるんだもんなぁ」
「え、その格好でウチで?」
スターナが厨房から前のめりで覗き込んだ。
「うん」
「え、ほんとに? え、ちょっとまって、これは村長を呼ばないと」
「なんでそうなるの」
「マドさん、エズスさんとかも呼んで…」
「そうだな、ちょっとした祭りだなこりゃ」
なぜそうなるヒトの子よ
夕方。
「ルーさんこれ、三番です」
「うん」
「ルーちゃーん、エール追加で!」
「はいはい」
「ルーチェちゃんこっちにも来てよー」
「…煙草臭いからイヤ」
「…オレ、今日から禁煙するわ」
「なるほど、コレがエルフカフェか…、いいですなぁ」
「何が良いの」
「ルーチェさん、私達も手伝います!」
「貴女達は客でしょ?」
「…ルーさんだって客ですよ」
『花の咲く場所』の食堂はあっという間に一杯になった。席が足らず、店先にまでテーブルを出している。幸いな事に雨は止んで、張り出た軒下でま賑わっている。この村にこれ程人が居るんだな、とルーチェはエールを運びながら思った。
ルーチェは率直に言って美少女である。エルフ特有の『少女の顔に大人の身体』であり、長い髪は光沢のある金髪で濃く、さらに毛先が少しだけ緑がかっている。通気性の高いトップスに、今日はだいぶ際どいスカート姿だった。給仕するには邪魔だった為、耳の辺りを三つ編みにし後ろで留めた。この髪型だとやたらと尖った耳が目立つが、それを隠さなければならない状況でも無い。むしろその髪型が、ただでさえエプロンドレスのエルフを更に美しい信仰対象へと変貌させた。
「え、待って、これは信仰なの?」
ルーチェは村長の話に耳を傾けていた。
「そうですよ。この村昔はエルフ村だったそうです。今は一人も住んじゃいませんが、エルフの方々を尊敬しておりましてな」
「(村の)外れの方に石の遺跡があって、毎日拝む人もいますよ」
「…拝まれるの、嫌だな」
ライルと名前の知らない男がずいっとルーチェの視線に入ってきた。
「いやー、ルーちゃん、イイよイイよー、その服とてもいい」
「…酒臭いよ」
「ちょっと、近づき過ぎよ、離れなさいな」
ヒトの女達が間に割って入る。
ルーチェは反応こそそっけないが、本人は楽しんでいるつもりである。ヒトの女の子って、可愛いなぁ、と思って見ていた。無造作に束ねたお下げに普段から日差しをたっぷりと浴びている褐色の肌。ケラケラと笑い、男たちを揶揄い、揶揄われ。見ていて飽きない。
辺境の村にしては若者がいるようだ。見た目ではルーチェとさほど変わらないヒトが六人で戯れあっている。ルーチェはヒトの目を見ると誰が誰に好意を持っているか、というのがわかる。これも長年の経験なのだろうか。恋をするヒトの目はわかりやすい。
「ルーチェさんは…好きな人とかいたりするんですか?」
「…ヒト? ヒトかぁ…」
「あ、そういう意味じゃなくて、エルフでもヒトでも」
ヒトの子らしい質問だなー、とニマっとする。寿命が短いから、【つがい】を作って子孫を成す事が一生の中で最も活動的な時期の使命であり、長寿族としては少し勿体ないと思ってしまう。ヒトにとっては、共に生きる相手を見つけるという事が生涯での重要な要素ならしい。
エルフは違う。正直、何百年も同じ相手と共にするなんてのはまっぴらだ。同じ場所にすら留まらないのに、付き合う相手を固定化するのは酷くつまらないと思えてしまう。
ルーチェは、ヒトに愛された事も一度や二度ではないが、続いてもたかが三十年程度で、ヒトは年老いてしまう。旅を続けられなくなってしまったり、安定と定住を求めたりする。それも十年程度ならいいが、それ以上となると退屈である。
「好きな特定の相手、ってのは無いかな」
「…居ないの?」
「…うん、無い」
「…寂しいと思わないですか?」
「寂しいから、好きになるの?」
「え…」
投げつけたはずの質問が弧を描いて戻ってきたヒトの子はしどろもどろする。
あぁ、少し大人気なかったかな。
「寂しいのかもね。だからこうして村にいるわけだし」
ルーチェは自分で言って気付いた。ああそうか、私も寂しいんだ、と。
枕呪で不眠が続いていたので、誰にも逢いたくなかった。しかし、一人でいればいるほど、夜になると次々と記憶が襲ってくるのだ。良い記憶も悪い記憶もあるが、良い記憶の時はそれほど疲れもしなかった。
他人と、特にヒトとの関わりはいいことばかりでは無い。不快な記憶だけに限らず、哀しい記憶もある。ヒトと関わらない、という事だけではもう既に限界が来ている程、様々な経験をし過ぎているのだ。
「長く生きてると、嫌な思い出とか、怖い記憶とかが襲ってくるの。だから出来るだけ、楽しい思い出だけ作るようにしてるの」
…と言いながら早速不死人と関わったけどね。
…ま、あれは嫌な思い出、とは言い切れないかな。
「なるほどぉ」
ヒトの女の子の目が輝いている。
「大人ですね!」
「確かに歳は取ってるけどね」
長寿種は、寿命が短く魔力に乏しいヒトを侮蔑する傾向はある。エルフは長寿種の中でも生活圏が被っている為、それ程の溝は無い。ルーチェ自身は目の前の瞬間を全力で生きているヒトの人生を、羨ましいと思ったこともある。自分の姿はどうやらヒトには魅力的に見えるらしいので、それを活かして、ヒトに喜んで貰うという事もつい最近覚えたのだ。
ヒトが喜ぶと、自分も楽しく生きられる事を発見したのだ。なので記憶症と戦いながらも、こうしてヒトと関わっているのである。
「にしても、そのエプロンドレス、可愛いですよね」
「うん、いいと思うね」
「それ、ウチのばーちゃん製だよ」
「えぇ? 本当に? え、凄いね、都会に売ろうよ」
「うん、売れると思う」
「ねー、売れますよね?」
「ルーさーん、二番、片付けお願いできますかー?」
「あ、はいはい」
まだ外には座れていない客もいる。ルーチェは手慣れた手つきで皿やグラスを片付ける。エルフカフェで働いていた時に身についたスキルである。テキパキと運びテーブルを拭いて、「お待ちのお客様どうぞ」と呼びにいく。新しい客は中年の二人だったが、純朴な農夫は思わず惚けた。なんと美しい子だろう、と。
輝くような黄金の髪と尖った耳。翡翠色の瞳と細い首。すらりと伸びた脚。
「…どうしたの?」
「あ、え、あぁ、君が噂の、エルフの子か、こりゃたまげた」
子っていう年齢じゃないんだけどな…
「いやぁ、有難い、有難い」
「拝むのやめて」
「あ、こいつは拝むのが仕事なんで」
入れ替わり立ち替わり、ユビの村唯一の酒場に突如入荷した御神体を一眼見ようと多くのヒトが押し寄せた。男に限らず、女達も多くいた。ルーチェは閉店間際、女達にメフェレンの実の髪油の作り方を教えると約束していた。ルーチェがいつも愛用している油で、髪の日焼けを防ぐことが出来る。
閉店までいたライル達は、名残惜しそうに店を後にした。時間にして僅か三時間足らずだったが、片付けるものが山積していた。宿主人スターナが言うには備蓄していたエールがほぼ空になった、との事で、明日から酒が暫く出せない、とにこやかに笑っていた。酒は殆どを隣町から仕入れている。隣と言っても早朝に出て、一日掛かりで帰れる程離れている。この村にも小さな酒造所はあるが王都向けの葡萄酒が殆どで、今は鍾乳洞に寝かせている最中。盗賊避けの罠があって村長と酒造所所長の承認がないと入れない。
この小さな村で、酒を切らすのは大変な事だった。今日村民の半数近くが此処に押し寄せた事を考えると、娯楽に乏しい村だとよくわかる。ただでさえ元々はエルフ村だったという伝説が残るこの村では。ルーチェはまさに「信仰対象」に匹敵する存在なのだ。
酒を切らす事だけはあってはならない、と創業当時から言われ続けてきたスターナだが、この雨の時期、まさか収穫祭時並みに酒が無くなるとは予想出来なかった。
「…なんか、ごめん…」
「え、なんでルーさん謝るんすか。大繁盛っすよ。ウハウハですよ」
「ならいいんだけど」
無限にあるかと思える皿を並んで洗いながら、スターナはずっと柔かに笑っていた。
「明日、エズスが早速隣町まで買い付けに行ってくれるそうなんで大丈夫ですよ」
「…水上歩行の魔法を強めに掛けとくよ、荷馬車に」
「…おぉおお、そんなことも出来るんすか!」
片付けは深夜近くまで続いた。本日の宿泊客は一人のみ。その一人はルーチェ本人なのだが、もはや客と呼べるのかも怪しかった。全ての片付けが終わり、明日の朝の仕込みまでなんとか目処が立った。ルーチェは疲れた様子も無く、出された薬草湯を飲んだ。
落ち着いてよく見てみると、新調したばかりのエプロンドレスにいくつかのシミが見て取れた。染み抜きの魔法を使って綺麗にするのをスターナが興味深く見ていた。
「なんでもやれるんすね」
「ん、臭いまではとれないんだけどね」
「ルーさん、あの、あのっすね…」
「?」
スターナが真面目な顔をしたので、少し驚いた。
「あまりその、魔法、使わない方がいいかもですね」
「…」
「あ、いやその…」
「…ありがと」
「…え?」
スターナが考えている事はわかる。ヒトの多くは魔法は使えない。ルーチェは日常生活の中でも自然に魔法を使う。力無き者は力に頼るようになる。それを一々相手にしていたらキリが無いのだ。魔力保持者が多い都市ならいざ知らず、この村では大挙して頼み事が増えるのが目に見えていた。そうなると、厄介ごとを極力避けたいエルフにとって良いことでは無い。
「わかってる」
「…なら、いいんですけど…」
ルーチェはにっこり笑う。エルフのにっこりは珍しく、とても可愛い。
「お金取るから」
「うわっ」
よりによって、この村に一番無いものを対価にするのか、とスターナは笑った。
朝、とはもはや呼べない昼近くにルーチェは起きた。
随分グッスリ寝たなぁ…、結局、疲れたら寝るのか。
疲れにも質がある。ルーチェは良い疲れ方を考えよう、と日記に記した。
あれほど悩んでいた睡眠不足は最近解消されている。変な夢も見ない。この宿に泊まるようになってから「枕呪」は無くなっている。寝坊はしたが、元気だ。お腹が空いた。
雨は上がっていた。曇ってはいたが柔らかな光が部屋に差し込んでいる。
鏡を見て髪を梳かした際に、髪が一本抜けた。お、とルーチェは拾い上げた。エルフの髪はとても強い。櫛で梳いてもそう簡単には抜けない。髪が抜けたら大事に取っておくと良い。魔法で何かを依り代に捧げなければならない場合のいい触媒になるのだ。
エルフの髪は、ヒトとは異なる。ルーチェはヒトの何倍も生きているが、髪は子供頃から一度も切っていない。今は腰まであるが、伸びる速度はヒトよりも遥かに遅い。細いが強く、魔力の塊である。
髪が抜ける、とは珍しい事で、エルフにとってはどちらかというと嬉しい事である。心にかかる心配事が無くなると一本抜ける、という言い伝えがあるくらいだ。注意深く見ると、途中から切れてしまったようだ。昨日の騒ぎの中で、一度客の服に引っ掛けてしまったのを思い出した。それで切れたのだ。
食堂に降り、早めの昼食を済ませたルーチェは、昨晩村長に勧められたこの村唯一の「観光スポット」に行ってみようと考えた。つい先日まで都市部に住んでいた彼女にとってこの村そのものが既にどの角度から見ても観光対象だが、村の北側の葡萄畑を超えた先にエルフ村の痕跡群と、大昔の戦争でこの村を守った英雄の石像が立っているという。その石像を信仰する者が多いらしい。
辺境の地とはいえ、この村もキュベス国の一村である。小さいながら女神聖教の教会もある。巡礼線も通っている。全ての村民が女神聖教に入信している筈なのだ。しかし、ごく小さい範囲に限られる地神に対して、女神聖教は余程の事が無い限り苦言を呈する事は無かった。むしろ受け入れている。昨晩の騒ぎの中で店に来た女神聖教の修道士も時折その石像の前で祈るという。
「エルフ信仰…ねぇ…」
そういうものがある事は彼女も知っているが、随分と時代錯誤甚だしい。戦乱の世なら、確かに魔力に長け、野を駆け回る事に適したエルフは尊敬を受けたかもしれない。が、今は平和な時代になって、長寿の彼女でも「平和になって暫く経った」という認識でいるのだから、人間にとって随分と前の話だろう。
村の北側、急な勾配の葡萄畑を横切り、丘を越えて少し行った場所に、まばらに石柱が立つ区画があった。苔むした石から想定するに、二百年は経っているであろう場所だ。墓場のようにも見えたが見晴らしがよく風が心地よく吹いている。こんな場所で眠れるならさぞ幸せだろうね、と彼女は目を細めた。
区画の中心にある石像が遠くから見えた。そこに一人、誰かが跪いて祈りを捧げていた。頭から頭巾をかぶり、覗かせる髪から察するに女性のようだ。ルーチェが近づくと「あ」と振り向き、逃げるようにして走り去っていった。背丈は少し低めだろうか。蒸し暑い季節だというのに全身を覆うように大きな布を羽織っていた。
お邪魔だったかな?
区画のほぼ中心にその石像はあった。石像といってもだいぶ風化していて、人物像だ、という事くらいしかわからないものだ。ほぼヒトと同じ大きさで馴染みやすい素朴なものだ。花が一輪供えてあった。先ほどのヒトが供えたのだろう。
そういえばそのヒトは村とは逆方向に走って行ったが、この先に何かあるのだろうかと少し歩くと答えはすぐに見つかった。遠くに小さな小屋が見えた。山壁を少し削ったような跡があり、最近作られた小屋だとわかる。粗末で細い道が繋がっていて、小屋の周囲には小さな畑もあるようだ。さっき走り去ったヒトがその畑を通るのが見え、小屋の中に消えた。
はて、何故あんな場所に?
「おお、ルーチェさん、早速おいでになったのですか」
「ん」
葡萄畑の方から村長が近づいてきた。手に手提げ袋を持っていて、中に果物か野菜かが入っている事が見て取れた。
「村長さん」
「あ、あの小屋、気になりますかな?」
「うん」
「そうですか。いやアレは、話せば長くなりましてな」
「じゃ、短く説明して」
「…エルフなのにせっかちですなぁ…。アレに住んでおりますのは、私の、孫嫁になるはずだった子でしてな…」
三年前。
村長の孫「カーク」とあの少女「ウィル」は結婚する筈だった。
挙式まであと二週間という日に、ウィルは隣街まで出向いた。式の準備の為に注文していた様々なものを受け取る為だ。この街に去年嫁いだ仲の良い友人と共に最期の独身の時を過ごそうとも考えていたのだ。その日は街に泊まり、朝には馬車で帰路に就く筈だった。
その朝、宿の前に行き倒れとなった人を見かけた。行き交う街の人は避けるようにして見向きもしない。それを哀れと思い、大丈夫かと声を掛けた。
するとその男はカッと目を見開き、ウィルの腕を掴んだ。驚いたウィルは助けを呼ぶ事も出来ないまま抱きつかれた。すぐに振り払って何をするのかと声を上げたが、男は力無く座りただヘラヘラと笑うだけだった。
ウィルの身体に異常が出たのはそれから数時間後、馬車の中であった。気付けば男が触れた腕が赤黒く変色している。腕だけではない。抱き付かれて触れた首から顔にかけても同様に変色していた。
村に着いてから僧侶に「強い呪いを受けた」と聞かされた。両腕と首、顔の左側が、最初の数日は赤黒いだけだったが、やがて毒々しく青緑を帯び、フツフツと得体の知れない腫瘍が浮き上がった。呪障と呼ばれるもので、薬草などでの治療は効かなかった。
さらにそれは、他人に呪染す可能性があった。弁えていたウィルは誰とも会わないようにまず教会に閉じ籠った。僧侶の協力もあり誰にも呪染す事なく、解呪の方法を探した。
カークはウィルの惨劇を聞き、隣街の教会にまで訴え出たが、その呪いを祓う事はできない、と言われ、失意のうちに村に帰ってきた。
「私は、村人に呪染す事を恐れ、外れにあの小屋を造らせ、あの子を閉じ込めた。あの子本人もそれを望んだのですが、孫は私を許せなかったようです」
「あなたは正しい判断をしたのよ」
「…はは…そういって頂けて、荷が軽くなる思いがいたします。私は、村を守る役目もあります。が、同時にあの子の家族でもあるのです」
「…」
「不憫でしてな…」
呪い。術式として古典的で、それ故に大変厄介な魔術だ。
呪いにもさまざまな様式があるが、呪われた者に触れた者もまた呪う、というのが定番だ。呪いは魔法の中でも使う魔力を最小限にでき、尚且つ長く対象者を苦しめる事ができる「貧者の魔術」と呼ばれる。受呪者自身の魔力や生命力を糧に術式が持続するため、放っておくと生涯続く。救済者が手を差し伸べ難くするために、触れた者に術式の複製を付与する。
この場合、呪染された者は、二次呪染であるためそれほど身体にダメージは大きくはならない。余程強い呪いでもない限り、即座に死に直結する程ではない。孫嫁となる筈だった、ウィルも日常生活は不自由無く暮らせる。呪障部分が疼く事はあるかもしれないがその程度だ。
反呪の難しさは、一次呪染の術式の「型」を判別しなければならない点にある。司祭級の僧侶ならば型さえ分かれば解呪は簡単に出来るし、一次呪染者がいるなら、その術式の解読も容易にできる。大体様式は決まっていて研究され尽くしているため、一次呪染者がいなくても解呪することができたりもする。
しかし、これの場合隣町の僧侶はそこまで優秀では無かった、という事だろう。
「この村の僧侶はどうしたのよ?」
村長は苦笑いした。
「アレは…まぁ、儀式はできますが、力は強くありませんでな」
「呆れた」
「あまり悪くも言えません…、死霊から貰う呪いは祓えますのでな」
「お孫さんはどうしたの?」
「…それが…、村から出て行きましてな」
「え?」
ヒトへの呪いはエルフには通じない。術式が根本から異なるのだ。ウィルが受けた呪いはルーチェには呪染らない。エルフにとってヒトからうつる感染症や疫病は怖い。生物としてヒトとエルフは生命の構造が近い。子供を成せる程だから。だが魔力に関してはまるで能力が異なる。ヒトにとって厄介な呪いも、エルフにとっては跳ね返してしまう場合が殆どだ。エルフを呪うにはヒトが編み出した術式程度ではどうにもならない。魔族程の魔力密度が必要になる。
ルーチェはその小さな小屋まで行ってみる事にした。今まで呪いにかかったヒトを何度か見た事はある。もしかしたら自分が知っている魔法でどうにか出来るかもしれないと思ったのだ。
小屋は小さな畑に囲まれていた。ヒト一人を養うには小さいが、本格的な畑で女手一人で作れるものでは無い。誰かと一緒に育てているのだ。
小屋の目前まで来て、急に扉が開き女のヒトが出て来た。目の前にルーチェがいて大変驚き、持っていたバケツを落としてしまった。派手な音を立てた。
「私に近づいてはダメ!」
ウィルはさっと顔を隠し、小屋に戻り扉を閉めた。ルーチェは扉越しに声を掛けた。
「大丈夫」
「…え?」
「私はエルフのルーチェ。最近この村に来て、今日初めて貴女を知った」
「…エルフ…?」
声が若干上擦っている。
「私にその呪いは呪染らない」
少し間があり、ゆっくりと扉が開いた。覗き込むようにウィルはルーチェを見た。
尖った耳。黄金に輝く濃い髪。耳付近から細く結った髪を後ろで束ねている。吸い込まれるような美しい翡翠色の瞳。服はこの付近の定番のものだが、それ故に親近感がある。飾り気は無いが眩しい程の金髪が既に何にも勝る宝飾として輝いている。ウィルは思わず見惚れた。
「少し、良い?」
「あ、は、はい、どう…ぞ…」
ルーチェは不思議な匂いだな、と思った。甘いが少し土臭い匂い。すぐに答えはわかった。サベルジを焚いている。呪障を和らげるためか。
ウィルは思う。客を小屋に招き入れるなど今まで無かった。呪いにかかってから、出来るだけ誰とも会わないようにして過ごして来た。この小屋も急作りで、椅子もテーブルも、全てにおいて一人で過ごす為にある。コップも一つ。来客を想定していなかったので、急に恥ずかしくなった。小屋の中は汚いわけでは無いが、殺風景で読んだ本が乱雑に積まれている。
ルーチェは椅子に座り、すぐ側にあるベッドにウィルが座った。ルーチェは「ちょっとゴメン」と言ってウィルの手や顔をよく見た。触らないように注意する必要は無いのだが、ウィルが触れるのを拒んだ。
確かに呪いだ。ルーチェの表情は暗くなった。二次呪染の割にはだいぶ強い呪障が出ている。かなり強い呪いのようだ。これ程のものも珍しい。確かに村に居る僧侶程度ではどうする事も出来ないだろう。ルーチェが長い生涯の中で最も酷い部類に入るものだった。
「…痛いでしょう?」
「…慣れました…」
ウィルは力無く笑った。ルーチェはどうにか出来るかもしれないと思ったのだが自分には何も出来ない、すまない、と謝った。
「謝る事なんて…、それより、私、嬉しいです。憧れのエルフの方とこうしてお話出来て」
「そういえば、あの像に祈ってたね」
「ええ、私、この村が昔エルフの村だったという伝説を信じているんです」
エルフは都市部ではそれほど珍しい種でもないのだが、僻地であるこの村では、エルフの存在は稀有だ。魔力に富み、森を癒す種族。獣たちと戯れ、風と大地の声を聴く種族。ルーチェにはその認識は無い。
「ただ長く生きるだけだよ」
「え、あ、そ、そうですか?」
「夢を壊すようだけどね…。あなたのその呪いだって祓えないわけだし」
「…」
呪いは受けたヒトの生命力や魔力などを糧にするので、回復系の魔法は意味を成さない。一時的に治癒を高めて、痣などが薄くなったように見えたりもするが、すぐにまた元に戻る。エルフは魔力に長けあらゆる魔法を使うが、下手な魔法を使うと呪いの場合逆効果となる。安易に手は出せないのだ。
ウィルは思いついたように山積みになった本から一冊を抜き出し、パラパラと捲った。何度も読み返しているようで、附箋がいくつか貼ってあった。ルーチェはその本のタイトルを見て思わず笑いそうになった。「エルフの魔法全集」と書いてあったのだ。
「これ、この方法で、呪いが取れるかもしれないんです。私、エルフの伝承が好きで、こういう本をよく読むんです」
流石のルーチェも苦笑いしかできない。ウィルは恋する乙女のように目を輝かせて本を読み上げる。
「翡翠と水晶、それをエルフの髪を練りこんだ紐で結わえたお守りを首や手足にかけると、呪いが消えていくと書いてあります。私、これを見つけた時思わず興奮して…、水晶はいくつか持っているんです。翡翠は…見た事がありませんが、緑色の石なら、西にある河原で何度か見た事があるんです。」
よく喋る子だな、とルーチェはホッとした。村長から聞いた話からして、塞ぎ込んでいやしないかと心配したのだ。ウィルは嬉々として本を捲る。
「エルフの方とこうして実際にお会いできるなんて今日はなんて良い日なのでしょう。私、この地方から出た事が無くて、隣町にもエルフの方は居ないんです。海を渡ればたくさんいらっしゃると聞いたことはあるのですが、子供の頃から憧れていました。ああ、まさか今日という日に。夢のようです」
「エルフなんて何処にでもいるけどね…」
「そうですか? 私はお会いしたのが初めてです」
確かに、数は減ったように見えるだろう。実際には都市部から離れて暮らすようになっただけなのだ。生命としての回転率がヒトの何倍も低いので、そう感じるだけで数自体は変わっていないはずだった。この村では元エルフ村だったという伝承そのものが、エルフの存在を信仰的に受け入れている。事実今ウィルがルーチェに向けている目はそれだった。
神様に会った目
ルーチェは力なく笑う。
「心配はいらなかったみたいだね。よかった」
「心配…ですか?」
「村長さんに話を聞いたからね」
「あ、そうですね…、もうしばらく手紙を貰っていないし…」
「手紙?」
「はい。カークから、手紙を貰っていました」
「そうなの? この村を出て行った、って」
「はい。私のせいなんです…」
ウィルの話は単純だった。
呪いを受けたウィルには近づかないように、と村長に指示されたカークは言う事を聞かなかった。2週間後には自分の花嫁となる娘が呪われた。顔や手足が爛れ、見るも無残な姿になった。しかし、カークとウィルは子供の頃からずっと好意を持ち続けた幼馴染だった。その程度で夫婦になる事をあきらめるわけは無かった。
ウィルはよくエルフの話をカークに聞かせていた。カーク自身はあまり興味が無かったようで、どちらかというと王都で急激に発達した魔導器の方に興味深々だった。呪いを返す方法があるかもしれない。ウィルを救う方法が、王都に行けば見つかるかもしれない。カークはそう主張した。そして、旅立つ事にしたのだ。いずれにしても、呪われた者との結婚など誰も許そう筈がない。呪いを解かなければ二人に未来は無いのだ。ならば、自分が行こう。お前はこの村で待っていろ、と。
カークは、祖父、つまり村長が管理する村のお金を黙って拝借し旅に出て行った。祖父は最初は罵ったが、村人からはカークに対する同情の声が多くあがった。
「王都はとても遠いし、偉い僧侶様など私の為に来てくれるわけもないんです。でもカークは必ず連れてくると言って、この村から出て行ったんです」
「そうだったの」
「…ここ3ヶ月くらい、返事が来てないけど…」
その時、扉の外に誰かがいる気配がした。『誰かそこに居るのかい?』と優しい男のヒトの声がした。ウィルは扉に向かって話した。
「ルオ、今日はね、エルフの…、えーと…」
といってウィルはルーチェの顔を見た。
「…ルーチェ」
「そう、ルーチェさんが来てくれたのよ」
『え、呪いは大丈夫なのかい?』
「エルフの方にはこの呪いは呪染らないんですって」
『そうなのか、此処に置いておくよ』
「いつも、ごめんね」
『…いいんだ、それじゃ、また』
「あ、ルオ!」
間があった。ウィルが、少し暗い顔になった。
「…手紙は、来ないの?」
『…あぁ、今日も来てない』
「…そう…、ありがと」
ルーチェは人の気配が遠ざかるのを感じた。畑を作ったのは今の声の男だろうか。その疑問を感じたのかウィルは少し声のトーンを下げて言う。
「ルオは、カークと私と、幼馴染です。私がこの小屋に来てから、ずっといろいろ届けてくれて…、私にはもう両親が居ないから…」
ウィルは、特別美人という訳ではない。素朴で、とは良い言い方で、悪く言えば田舎臭い娘だった。呪障が痛々しいがそれが無ければ普通のどこにでも居るヒトだ。濃い栗色の髪。陽を避けているので他の村人と比べれば肌は白い。一方的に話すのも、話し相手が暫く居なかった事が原因だ。手紙でのやりとりをしているらしく、まだ開いていない手紙が何通かある。
「その本、見せて」
「え?」
ルーチェが、先程ウィルが広げた本を手に取り、パラっと捲った。付箋のページには確かに呪いを和らげるタリスマンの事が書かれているが、エルフ本人であるルーチェが見たことも聞いたこともないものだった。読んで直ぐに気付いたが、この本はヒトの為に書かれている本であり、エルフ自身には何の意味もない呪いなどが沢山書いてあった。ヒトには効くのだろうか?
ウィルが示したタリスマンは、水晶と翡翠をエルフの髪を編み込んだ紐で繋ぐものだ。
「…、水晶は、増幅役か…、翡翠は、この場合吸着かな…、髪は接続だから…」
「え?」
「あー、確かに、軽減はするかもね。根本解決には、ならないかもしれないけど、でも受けて3年も経った呪いなら、吸着を繰り返せば呪障は減るかも」
「え?」
「うん、作る価値あるかもねコレ」
ルーチェは腰の小さい皮袋から二つに折った紙切れを出した。挟んであるのは髪の毛だ。
「これで、紐作っておいて。私は翡翠を探してくる」
「え! え! くださるんですか!」
ウィルは髪の毛を見て驚いた。エルフの髪はヒトの髪よりも太くとても強い。そしてとても貴重なのだ。この長さになるまで、百年はかかる。売っている場合もあるが大変高価で、村のお金をかき集めても買えるかどうか…。
「今朝切れたものだから、三十年は魔力が抜けないと思う」
「こんな貴重なものを、何故私に?」
ルーチェは暫く考えて、ふっと笑って言った。
「…丁度いい暇潰しになりそうだしね」
ルーチェは宿に戻っていた。村について書かれた古い本が宿の食堂に置いてある事を思い出したのだ。エルフが本を書く理由はその記憶を忘れたい為に書く場合が多い。記憶隔離の儀式用に書く事が多くを占める。エルフが書いた書物とは、悲惨な事や忘れてしまいたい嫌な事を書き殴ったものが多く、さらに、信じていた噂が嘘だった、という事を忘れるために書いているので、信憑性など担保出来ない。書物はヒトが書いたものに限るのだ。ヒトの短い生涯を越えて知識を繋ぐ本は、長寿種にとって、ヒトが紡ぎ出す唯一共有できる「単位」なのだ。
「何を調べてるんです?」
暇そうなスターナが珍しい香りがするお茶を出した。遠い南国のもので独特の燻製のような香りが混ざっている。
「んー? 以前この村はエルフの村だったんだよね?」
「以前って言っても、千年単位ですよ?」
「んー…」
ルーチェは何の違和感もなく、出されたお茶を飲む。
「エルフはさ、あまり定住しないんだ。でも村があったってことは、そこに定住する理由があったって事で………、って苦っ」
スターナが吹き出して笑った。舌をぺろりと出し、うえぇと声を出すルーチェは、あまりにも可愛かった。普段表情を変えないせいで大人びて見えるが、今の仕草はまるで少女のようだった。笑われて膨れた顔もまた愛らしかった。
「何よコレ」
「砂糖と牛乳を入れて飲むんですよ」
「…びっくりしたよ」
「すみません、いきなり飲むと思ってなかったんで…」
イソイソと砂糖と牛乳を入れ、恐る恐る飲んだ。これなら飲める。苦味も良い。
「これ何?」
「コーフィというらしいです。南国のお茶なんだとか」
「……ふうん、案外珍しいもの好きだね」
ルーチェが本をパラパラと捲る。確かに良い香りだ、と出された白濁した茶色のお茶を啜る。
「…、でね」
「あ、はい」
「エルフが定住する主な理由は二つ。一つはそこに守るべき何かがある場合。もう一つは、翡翠が採れる場合」
「翡翠…?」
翡翠は別名「エルフ石」とも呼ばれるほどエルフとは結び付きが強い鉱石だ。乳白色の半透明の緑色をしていて魔力や思念を蓄積できる。記憶隔離の儀式でも欠かせない石であり、極めて複雑で長い詠唱を封入する事で、発動に長い日数を要する魔法などを瞬時に発動出来たりする。魔力を蓄積させた翡翠を「魔石」と呼ぶ。魔導器にはこの翡翠が使われている事が多い。魔力の補助や発動条件の単純化などに重宝するのだ。
「緑色の石。見かけた事ない? 西の河原で見かけた事があるとウィルが言ってた」
「河原……、いやぁ、緑色の石なんて見た事無いですねぇ」
「行ってみるしかないか……、あ」
本のとあるページに目が止まった。鶴嘴を持った炭鉱家達の絵が描かれていたのだ。トントンと本を指で叩いた。
「…、水晶、翡翠……が採れた、と書いてる。アタリね」
つづく