忘れる為の物語 四枚目 巨蟹月の幻 遠い昔
今朝、母宛に手紙が届いた。
何度か見覚えがある、魔導師がよく使う少し黄色がかった丈夫な紙。便箋にはただ「親友ミエへ」と書いてある。田舎の村とはいえこれでよく届いたものだ。
差出人の名前は無い。だが、母もそれを届けた配達人もそれを誰が書いたのかはわかっている。
封と呼ぶには簡素な糊付けを剥がすと、綺麗に折り畳まれた大きな紙の真ん中に小さく一行、書いてあった。
「今、レビデにいる。巨蟹月の初め頃にいけると思う」
手紙、とは言い難い簡素すぎる内容に、母は思わず笑った。オルらしいわね、と。
差出人の名はオルティナ。
私と、オルティナ、オルがはじめて会ったのは四歳の頃。あまり人付き合いが無い母ミエの「古い友人」だ。オルは長寿族の中でも一際珍しい、蒼晶額と聞いている。額に青い水晶体の第三の眼を持つ種族で、数多の亜人種族の中でも群を抜く魔法への適性を持つ。蒼晶額は神々の時代からの生き残りと言われるが、古い種族ゆえ、数は減る一方だ。
高魔力種族として名高い翡翠眼や魔族より更に高度な魔術を使い熟す。当然、ヒトと比較にならない。しかしそれ故に常に腹を空かせているのだと本人の口から聞いた事がある。
オルがこの村にに来る理由はガラテアの実。狼の木の先にある翡翠眼集落跡付近に自生する珍しい樹で、葡萄に似た実を付ける。これがとても高魔力食であるらしい。極端に濃い紅色の実で決して美味しいものでは無い。それでもオルは数年に一度干したガラテアの実の為にこの村を訪れる。
手紙を受け取った母は急にソワソワとし出した。オルの目的はわかっている。しかし今年は山に大きな猪が出て人を襲うようになってしまった。退治の目処も立たず、実を摘みに行っていないのだ。
ガラテアの実はヒトの口には合わない。なので村人は興味が無かった。母だけはガラテア摘みを毎年していたが、今年は周囲から止められていた。
母の生業は麻布作りだった。貧乏な田舎ではとても重要な仕事だった。何をするにも必要で、手先が器用だった母はずっとやってきた。母が作る麻袋は丈夫だったが所詮は麻袋。ふとした拍子に穴が開いてしまう。なので母は日々追われるように仕事をした。私も手伝ったりはしたが、楽しいと感じた事はあまりない。
手紙を受け取った次の朝、母はごく当たり前のようにガラテアの実を摘む為に出掛けようとし、村の入り口で足止めをくった。当然だ。だが、どうしてもいくと言い張り、村一番の狩人と一緒に行く事となった。
古い友人とはいえ、たまにしか村に訪れないオルに、なぜそこまでするのか、あの当時の私にはわからなかったな…
母が大怪我をして運ばれてきたのはその日の夕方だった。
子供の私は見ない方が良い、と神父さんが言って、私一人家で待った。ただ、母が怪我をしつつも手放さなかった、という麻袋いっぱいのガラテアの実だけが届けられた。一日経っても家には帰ってこなかったので、不安になって療養所にいくと、母は無事のようだった。ただ、足の怪我が酷くしばらくは安静だと聞いた。母に実の面倒をお願いと言われ、その日のうちに洗い、干した。
母の足は食いちぎられていた。魔物と化した猪の唾液が身体を回るのを防ぐため、膝より下を切らねばならないと言われたのだそうだ。この事は、後で母自身から聞いた。
もう一生、歩けない。
オルが村に来たのはそれから一週間後だった。
オルが母の身に起きた惨劇を知った時、オルの取り乱し方は凄まじかった。身長が低く少女のような容姿のオル。取り乱して烈しく泣き喚いた。涙は魔力を流出させてしまう、と聞いた事があるが、その時、小さな紅い粒の魔力の結晶が出来た。『ルビーの涙』だ。
オルを慰めていたのはむしろ母の方だった。
「私の為に………私の為にこんな…」
オルが一通り泣いた後、母は干した実を渡した。
オルは、村の狩人を雇った。母と共に出掛けた狩人だ。狩人は嫌がったが、オルの有無を言わせぬ態度に折れた形となった。早朝に出掛けていった。
そして、その日の昼頃。村人全員が聞いた。凄まじい落雷のような破壊音。あまりの大きさに地響きがし、村人の中には気を失う者もいた。僅かながらに魔力を持つ神父は、放出された魔力の量に圧倒され教会に引きこもり震えていた。
夕方山から降りたオルと狩人の手には、獲物らしいものは無かった。ただ狩人の顔は蒼白で、暫く自宅に篭り寝込んだという。
「派手にやったわね」
訪ねてきたオルに、母が言った。
「ミエの足は、私が必ず何とかする。ただ、ヒトと私とでは時間の感覚が違う。ミエはあと何年くらい生きるだろうか? 三年は生きられそうか?」
「三年? 三十年じゃなくて?」
「三年だ。…、あぁ、「緋竜御伽話」というオチでは無い。ヒトでの三年だ」
「三年後、私は三十七歳よ。ヒトは七十歳くらいまでは生きるから」
「まだ寿命はあるか?」
「それは大丈夫よ」
「そうか。わかった。三年だ。三年後にこの村に来る。その時までに、その足を何とかする方法を見つけてこよう。いや何、実はアテがあるのだ。百二十年程前になるが、身体の組織を増やす秘術を用いる一族と出会った事があるのだ。その者達は本来ヒトと何ら変わらない姿形をしているのだが、腕が三本あったり、指が七本あったりし、中には翼を生やした者もいて、全員姿が異なるのだ。生まれた時に族長がその子の役割を選び、それに適した身体にするらしい。その一族の中に友人がいるが、それは目が三つある。丁度私と同じ、額にもう一つの瞳があるのだ。蒼晶額を崇拝する風習があってな。私がそれだとわかって、大変懐かれたのだ。一族の秘術であるらしいが、多種族の頼みでその術を用いたこともあるらしいから、頼めば教えてくれるかもしれん」
三年後、手紙が届いた。オルからだ。内容は相変わらず素っ気ない。
「今港に着いた。寄る場所があるから、一ヶ月くらいはかかる」
歩けない母は、ガラテアの実を摘みに行くようにと私に頼んだ。今年は狩人達から魔物の話も聞かない。丁度村に来ていた冒険者にガラテアの実の採れる場所まで同行を依頼した。
ガラテアの実がなる場所は、母と村で数人の狩人しか知らない。母はその理由を教えてくれた。信じがたい話だったが、もし聞いていなければ驚き逃げていただろう。
ガラテアの実、は一見すると水分を多く含んだ葡萄に近い果実だが、果汁が真っ赤で、ヒトにとっては美味しいものではないが、黒鳥バラバースは大好物だ。この時期になると北から大群でやってくる。
バラバースは魔物ではあるが滅多にヒトを襲わない。狩人にとって脅威の魔物では無いのだが、その光景があまりにも凄惨で、それとわかる者でなければ生涯引き摺る恐ろしい光景に見える。
ガラテアの実を成す樹木は魔法植物の一種で、地脈に魔石が埋まる土地でしか育たない。かつての翡翠眼集落だったこの場所は、村人は恐れて来ない。
ガラテアの実を成す木は、人の形に擬態する。樹人の記憶を宿す、とか、聖霊樹の末裔、だとか様々な噂があるようだが、真実はよくわからない。とにかく、ヒトの形になるのだ。木といっても殆ど葉を持たない木で、根から吸う魔力のみで成長する。だがこの時期だけ、木肌の隙間から小さな赤い実を出すのだ。それを、バーバラスが啄む為、果汁が木肌に垂れ、一見すると血だらけで悶え苦しむヒトのような姿になる。それをそれと知らない者が目にすれば、あまりの恐ろしさに気が狂う。
それを、それとわかっている私も、初めて見る光景に震えた。狩人にも教えていたのだが、初見の数体を見て腰が抜けて動けなくなった。私はなんとかバラバースを払い除け、実を採った。慣れ、とは恐ろしいもので数時間も経つと麻袋は一杯になった。
オルが村にやってきたのはそれから丁度一ヶ月後だ。約束通り三年で村に再び訪れた。だが、少し様子がおかしかった。目つきがだいぶ変わっていたのだ。
母はオルに会うなり、すぐに『儀式が必要』と言い、ガラテアの干した身を細かくし、塩と酒、それに蜂蜜と水を加えたものを作った。
オルは村に来て数時間は立っていられたが、母に会ってからは意識が朦朧としているようだった。何かに取り憑かれているような、魂が抜けているようなそんなそぶりを見せた。ガラテアの実を飲ませると、少しだけ生気を取り戻し、事情を説明した。
オルは三年前、この村に『儀式』をする為にやってきたのだ。長寿族には不可欠な「記憶の整理」の為だ。オルは見た目は小柄な若い女性だが超高齢だ。既に脳が、忘れるべき記憶と蓄積すべき記憶を正常に振り分けられないのだ。
数時間前誰と会った、と言う事が覚えられないかと思えば、百日前に食べた食事のことを覚えていたりする。オルの場合この症状が顕著に出る。記憶の整理の儀式を定期的にすれば、十年は保つ。その間隔が徐々に狭まっているが、三年前のオルは、忘れてはならない記憶があった。母の足の事だ。
母の足を何とかする為、封印していた記憶の一部をこじ開けた。それによって思いの外早く脳が処理できる記憶量が溢れてしまったのだ。ここ数ヶ月は、寝てしまうと記憶が揮発する恐れがあったため、出来るだけ覚醒状態を保ってきたという。故に、肉体が持たなかったのだ。
ガラテアの実は他に類を見ない高魔力食品だ。魔力が回復したとて脳の負担が減るわけでは無いが、一時的な余裕はできる。オルは急いだ。
「説明は後だ。ミエ、私を信じてコレを飲んでくれ」
母はオルの差し出した小瓶を何の躊躇もなく飲んだ。そしてすぐに気を失った。
オルはすぐに、ナイフを取り出し、眠る母の失った脚の部分を少し刺した。私はあっと声を上げたが、大丈夫、少し血を使うだけだ、と言って制した。
ほんの少しだけ血が出たが、その血を小さな小瓶に移し、傷口を指で塞いでボソボソと何かを呟くと、傷は何事もなかったように塞がっていた。
オルは手荷物から奇妙な灰緑色の卵のようなものを取り出した。殻のように見えて、表面はブヨブヨとしたもので、見た事がないものだった。それに母の血を垂らすと色が変わって肌色になった。そして中から管のようなものがウネウネと出てきた。オルはそれを見計らって母の足の側まで持っていくと、その肌色の小さな卵は管を母の足に刺した。私は驚き、オルの顔を見たが、オルは大丈夫、と言う。
管が刺さり、血が滲むが母は眠っている。肌色の卵は脈動を繰り返し、だんだん母の足の色と全く同じになっていった。小さかった卵は管から母の血を吸い、ボコボコと増え、みるみると足の形を成していく。
「コレは…?」
「竜尾肉腫。竜の末裔とも言われる生き物の成れの果てで、切り刻まれた肉塊なのだが、この状態でも生きているんだ。生命力はあるが、ほかに組織を持たないから、他の生物に寄生する。その生物を何百年もかけて改良したのがコレで、失われた身体の部位を補うんだ。結合には痛みを伴うが、さっき飲んだ薬で大丈夫。組織が完全に同化するのに三日くらいはかかるが、その後は体の一部として違和感なく動くはずだ。こいつが生きる為の栄養はミエの血液からとるが、ミエは普段と変わらない食事を摂ればいい。ヴラドレーヴェンの寿命は五百年だが…、ミエの方が先に命が尽きるだろう…」
このまま寝かせておけばいい、三日程で目が覚める。そう言い残し、オルは村を出て行った。そんな身体でどこにいくのか、と聞くと、あの翡翠眼集落に儀式をする場所があるから、と言った。
三日後、母は目を覚ました。母は落ち着いていた。オルはどうした?と。
私は一部始終を話した。母は失ったはずの脚がほぼ完全な状態で動く事に驚いていた。そしてすぐ起き、村で唯一の宿「花が咲く場所」に走った。宿の主人はすぐに弁当を準備してくれた。運悪く狩人や冒険者が居らず、水晶掘りの為多くの村人が出張っていた。母は一人でオルを追うと言い出し、私の宥めも一切聞かなかった。オルの居場所はガラテアの実を採った場所に近い。私も同行する事にし、その日の昼頃には出発した。
『儀式』を見るのは初めてだった。
遺棄された集落跡の朽ちかけた家。地下に作られた部屋に、場違いな魔導器が乱雑に転がり、何本もの管で連結され白い湯気をあげていた。不自然に暗く、普段見えるはずもない空間の断層がくっきりと見える。通常なら弱過ぎてかき消されるはずの魂や気の流れもが揺らめいている。細かな光の筋が何も無いはずの空間を漂っていて触れると光の粒となり霧散するが、それらがまた集まって筋を成す。
その光は何も照らし出さない、暗いのに筋だけははっきりと認識できる。自然界を流れる微量の魔力素が可視化される程の魔力濃度。
母は初めて見る私に「これが、奈落化、よ」と言った。
奈落化と言うと、空間の魔力濃度が限界を超え、空間を満たす粒子が光を通さなくなり暗くなる。魔力に対して周囲の動植物が急激な反応を起こし、弱い生物だと弾け飛ぶ。人間の場合、魔力保持者か否か関わらず、骨に内包する魔力が反応を起こし、長時間過ごすと肌の色が変わったり、組織の一部が奇形を起こしたりする。
話には聞いたことはあったが、想像を絶した。緑色であるはずの植物が紅い。空が橙色に見え、動物たちは逃げたようだ。
「あなたは私の娘だから、大丈夫」
大丈夫、とはどう言う意味か?
逆に、娘でなければどうなっていたのか?
奈落化の中心に、オルがいた。
「ミエか、来たのか、娘も一緒か?」
オルの声は何人もの声が混ざっているように聞こえた。
「えぇ…、終わったの?」
「儀式自体はな…。だが、急いだせいでいろいろまたまずい事になってしまった」
「…この分だと…、三十年は消えなさそうね」
「儀式の際、掘り起こした技術があってな。今それを試すところだ」
オルは、ヒトの背丈ほどもある真っ黒な石柱に手を翳していた。手から発した光が石柱に文字を刻んでいる。細かい術式をびっしりと。
石柱の四面に文字が刻まれると、即座に術式が発動した。真っ黒い石は急激に結晶化を起こし、青い半透明になった。中には白い炎のようなものが小さく揺らめく。
「よし、稼働させる。少し眩しいかもしれん。音もするだろう。注意してくれ」
オルが気合を入れると、石柱が一瞬眩く輝き、高いピーンとした音を出した。そして、中のゆらめく白い炎が中心に向かって光を集め始めた。
すると周囲の「空間の歪み」が薄らいでいく。靄がかかったような状態が急速に回復していく。
「成功だ。これで二日もあれば元に戻るだろう」
オルは顔色も良く、にこやかに説明してくれた。
儀式、はね。体内の魔力全てを放出する必要があるんだ。魔力は記憶や意識そのものだ。それを、一度体の外に出す。そして必要なもののみをもう一度入れるのだ。その儀式には、擬似的にもう一人の自分を作らなくてはならなくなる。自分の意識の複製を作り、それの記憶の振り分けをさせるわけだ。だがその複製はいわゆる、純粋な魔力の塊でできていてね、通常の大気下では霧散してしまう。なので儀式部屋として何日もかけて準備し、魔力が外に漏れ出さないように『器』を準備した上で行うんだ。だが今回、あまりその時間はなかった。意識が参ってしまいそうだったからね。だから、かなり乱暴に周囲の魔力濃度を上げた。幸いこの集落跡には何者も住んでいないからね。加減をしたつもりだったが、この村の地下には水晶鉱脈が走っているのをすっかり忘れてしまっていた。儀式自体は済んだが、周囲の奈落化を回復させる必要があった。
この石柱はね、本来魔力の蓄積放出を目的としている魔導器。膨大な魔力を蓄積できる。以前、神都スタヴィジオンの奈落化を回復させる為に使われていた技術だ。この程度の奈落化なら、すぐに吸収する。
ところで、キミは平気なんだね。流石ミエの娘だ。その体質を引き継いでいるのだろう。
おや、もしかして話していないのかい?
そうか。隠している理由があったのか?
あぁ、そう言う事か。ならば、いい機会と思うがどうかな?
キミは、ミエと同じくとても特異な体質でね。高濃度の魔力で満たされた空間、まぁ要するに『奈落』だが、その中でも身体の変化が起きにくい、ヒトでは珍しい体質なんだ。奈落の中で平然としていられるのは、その体質のお陰だ。普通のヒトならば、あっという間に身体から羽毛が生えたり、骨が異常発達したりして人としての形状を保っていられない。私は時折、無意識に高魔力を出してしまうことがあってね。一瞬だからどうと言う事は無いが、昔仲良くしていたヒトを魔化させてしまった事があるらしいのだ。故に、数百年ヒトとは付き合うことを避けていた時期があった。ところがそれが続いて、私の孤独感が性格を歪めてしまってね。真剣に魔力耐性があるヒトを生み出そうと研究していた事があったらしい。それは成功しなかったらしいが、その頃に子供の頃のミエと会い、私は救われた。ミエは私の命の恩人と言ってもいい。
私は儀式を繰り返したせいで、断片的にしか記憶が無い。自分に都合が悪い記憶を排除してきた恐れがある。私という個体が何者であるか、見知ってくれている者がいる、とはとても幸せな事なのだ。しかも、寿命が短いヒトが、というのはとても稀な事だ。私にとって、ミエは、世界を統べる力を持つ宝玉よりも価値がある。それを、怪我させてしまった事は、本当に済まなかったと思っている。
「キミの名前をまだ聞いていなかったと思うが、私は忘れているだけだろうか?」
「私は、メティです」
「メティ、願わくば、私と契りを交わせないだろうか?」
「え?」
「契りと言っても、別に私の子を成せと言っているわけでは無い。無論、主従関係を結びたいわけでも無い。だが、その…、ミエと同じく、私の友になってもらいたいのだ。知っての通り、私はまだまだ生きる。キミよりも何倍も生きる。故に、私の事を知っている者は極限られる。さらに、長寿の者は儀式によって記憶を整理するから、長く生きるからと言って覚えていられるわけでは無いのだ」
「お友達に?」
「メティは、ただ、私と話をし、共に茶を啜り、悩みを聞き、慰め、諌め、褒め、時に泣き、笑い、歌えばいいのだ。私の力が役に立つならば友として喜んで使おう。力の使い道を間違えた時は、叱ろう。そう、そういう、友、でいて欲しいのだ」
ずいぶん硬い言い回しだ、と思った。自分より何倍も年上なのに。いやむしろあまりにも歳が離れている故に、そうなるのか。
「ああ、済まない、一方的に話してしまうのは、私の悪い癖だ。ヒトで言う老化に近い」
「若返る?」
母が笑いながら言った。オルは至って真面目で、考え込んだ。
「経験と知識を残しつつ、精神年齢だけを下げる儀式か…、ミエは、受け入れてくれるだろうか…」
「子供みたいになるんでしょ?」
「そのようだ。どうなってしまうかは…、わからない」
「オルは幸い、身長が低いんだし、子供みたいな話し方の方が合ってるわ」
「ミエはすっかり大人じゃ無いか」
「メティには、きっと合うわ」
「メティはどう思う?」
どう思うって言われても、お母さんのお友達、だし。
「なるほど、メティと友になる為には、若くあったほうがいいか」
「そうよ」
「…私は、ミエの事を、オバさんと呼ぶかもしれんぞ」
「…引っ叩くわ」
「それはいいな。叩かれた事など、六百年は無い」
「…驚いた。何でこんな蟹がいるの…」
「大丈夫? メティ」
「うん。ちょっと砂被った程度」
「これは間違いない。あの石のせいだと思う」
「あの石?」
「前の私が奈落化を吸収した、と言ってた石だよ。もうとっくに正常に戻って稼働は止まっているけど、蓄積された魔力はそのまんま。擬態樹をここまで大繁栄させちゃって、それらが吸い上げた水で地中の水が減っちゃったんだろうね。単純に魔力に惹かれて地下から出てきたのかもしれない。あの石、あのまま放置しとくわけにはいかないね」
「どこかに運ぶの?」
「難しいよ。運ぶ事自体は簡単だけど、何処に? って事になる。特に今は大戦中。あんなもん人に知れたら、絶対武器に使われちゃう。神都の二の舞になっちゃうよ」
「じゃ、どうするの?」
「封じるしか無いかなぁ…」
「封じる…?」
「メティ、私は今日からここで寝泊まりするよ。此処で、昔の私の記憶を掘り起こしてみる。確かね、あるんだよね、いい方法が」
「オルー? 見つかった?」
「おぉー、来てくれたの、聞いて、見つけたよ。『魔力を隠す魔法』、やっぱりあったよ」
「『魔力を隠す魔法?』」
「おかしいよね。矛盾してる。魔力を隠すのが魔法だなんてね。でも実際あった。穴を掘ってあの石を埋めて、半永久的に稼働する術式を使えば、魔力に惹かれる魔物は出ない」
「そうなんだ!」
「問題が一つ残ってて…、術式を何に描くか、って事なんだけど、石のように頑丈で、そう簡単に動かせない、ある程度の大きさのものって、無いかな…」
「この場所に鍵をかける事にしたよ。誰が来ると言うわけでも無いけど、この前のようにならず者にこられると厄介だし。メティには鍵の開け方を教えておくよ。私が好きな花。そう、ロシュラリーの花。この花のモチーフの模様を鍵にする事にした。これを、私とメティだけの秘密の鍵にしよう」
「いくの? オル」
「うん、とりあえず、此処はしばらくは大丈夫だから」
「あの、村の入り口に建てた石は何?」
「あぁ、あれね。あれはね…、そうか、メティは特殊体質だったね。普通のヒトには見えない…、ってわけでも無いけど、気付けない。そういうものだよ。あれは、『忘れる魔法』を長く散布するもの」
「忘れる?」
「そう。あの集落の存在をね」
「へー、そんな事ができるんだ!」
「しばらくすると、あの集落跡の事を憶えているのは、メティだけになる」
「そうなんだ」
「数年に一度は来るよ。ガラテアの実が欲しいしね」
「うん、待ってる」
「しばらく、これないかしれない」
「それでも行くの?」
「うん。もう決めたんだ。自分が蒔いた種だよ。自分で何とかしなきゃ」
「そう…l
「帰ってきたら、必ず会いに来るよ」
「…できるだけ早くね」
「そ、そうだね。ところでシャルネは?」
「こんな時間よ。サマルに預けてきた」
「そうか…、友達になりたかったのに…」
「まだ四歳よ?」
「そうだよね…l」
「メティが、死んだ…?」
「二年前でした。オルティナさんの事は母から伺っております。大事な友人だったと…」
「メティ…、メティ…、どうして、どうしてヒトは…」
「え?」
「どうしてヒトは、こんなに早く死んじゃうんだ………」
「オルティナさん…」
「こんな事なら、もっと、もっと一緒にいればよかった……」
「オルティナさん、どうか泣かないで。母は、オルを泣かせてはいけないと、いつも私に言っていました。貴女は泣くと体に悪いのだ、と。私も小さい頃にうっすらと貴女を覚えているんです。母からは毎日のように貴女の話を聞きました。だから、いつも一緒にいたんです。母と貴女は、いつも一緒に」
「シャルネ…」
「その証拠に、私、ほら、この実のなる場所も、干し方も、お酒の作り方だってちゃんと、知ってます。今日から、私を友達だと思ってください。そして、私の弟にも、夫にも、子供たちにも、ちゃんと伝えます。貴女のことを。だから、泣かないで下さい」
「お母さんはね、貴女のせいで、貴女の為にあんな場所まで行ったせいで、死んだのよっ。返して、お母さんを返してっ! すごい魔法使いなんでしょ? 何百年も生きてるんでしょ? 賢者とか呼ばれてるんでしょ? じゃあ、すごい魔法でお母さんを生き返らせなさいよっ! 何よこんなもの! こんな不味いものの為に、どうして、どうして……」
「レノ、やめろ!」
「返して…お母さんを…、返して……」
「死者に意識を植え付ける魔法は使えても、死者を生き返らせる事はできない…、それが、魔法に限界なのか。魂は、伝承のみの存在だと言うのか。いや、きっとある。魂の存在があるならば、器さえあれば会話は出来る。肉体は滅んでも、魂さえあれば…」
「お前は、儀式の意味を無視した。賢者や英雄と慕われたお前がどうしてこれ程までに歪んだか、何故こんな危険な研究に没頭したのか。それは過去に固執したからだ。その固執を取り払う為に儀式があると言うのに」
「忘却の礎に横わる生…そう言いたいのか? ヒトは短命ゆえに、記憶は塵と消えるから、と。では、我のこの心の慟哭はどうなる? この鬱々とした、決して晴れぬ葛藤はどうなる? 消えればいい、と? この闇は、無価値だと? この想いは、無用だと言うか。この永き寿命は何の為だ? 独りで背負えぬ記憶を棄て軽くなって、それで生き永らえて、無垢な赤子気取りか。孤独がどれほど精神を蝕むか、それを軽視し過ぎた結果が、この私だ。忘れたく無いという想いは何処へいけばいい? 赦されぬ罪を、果たせぬ約束を、脳裏に生きる声を、全て忘れて、生きていると言えるのか? 誰が答えを出せると言うんだ? 自分すら失ったお前らに、我を斃せるか、やれるものならやってみろ!」
「泣かないで…、オル…」
「ルーチェ…、ルーチェ、泣かないでルーチェ…」
「え?」
メアリーは静かに、ルーチェの頬を撫でた。泣かないでと言ったメアリーも、そしてルーチェも泣いていた。
「貴女は、オルティナではないんだから」
「…私も、きっと同じだよ…、寂しいんだ…」
「…泣いちゃダメだよ」
「ルーチェは、ヒトのお友達は自分よりも確実に先に死ぬ。関わるのが、怖くなるよね…」
「哀しいのは、もうイヤ」
「うん、そうだよね」
「寂しいのはもうイヤ!」
「うん、そうだよね」
「でも…」
「…でも?」
忘れるのは、もっとイヤ
「イニシエノハナ」によって解かれた封印の部屋。乱雑に置かれた見覚えのない機械のガラクタと、膨大な量の書物。それを掻き分けるように床板を貫いて地面に突き刺さる、黒色の石柱。この石柱は地脈から僅かに魔力を吸い上げ、石柱に施された術式を半永久的に稼働し続ける為のもの。それは、長寿のルーチェや、魔術士のメアリーも知らない術式だった。
「これが、おそらく魔力検知妨害の術式だね。見た事ない。あの蟹の甲羅の裏側に描いた術式と連動させてるんだろう」
「ルーチェ…、大丈夫?」
「ありがとう。メアリーは…、優しいね」
先程まで見ていたのは、この部屋に充満する魔力素子が持つ記憶。それが魔力に長けた二人に、記憶として再生されたものだ。まるで自分が持っている経験であるかのように。魔力検知妨害が無ければ、この部屋は奈落化に近い濃度の魔力があるのだろう。メアリーにとっては、あまり長く居ていい場所ではない。
「メアリーは、奈落の中歩いた事ある?」
「無いよ、って言いたいところだけど、一度だけある。防御してるけど、いつまで保つか…」
「私らは、オルティナが此処に置いてった「忘れたく無い記憶」を覗き見したんだ。術式を書き写したら、すぐに出よう。巨蟹に施されている術式は単に発動させる場所を指定したもの。あの下に、膨大な魔力を蓄積した、っていう石柱があるんだろうね」