忘れる為の物語 四枚目 巨蟹月の幻 十日
もし、此処に私以外の誰かが入ってきても
どうせコレが何だかわからないだろうから、放っといていいよ
ただ、これを壊そうとしたら
やっつけなさい
遥東の空に陽が顔を出す頃、翡翠眼、半淫魔、聖騎士の三人は村の門を通った。しかも栗色少女に見送られて。
本来ウィルの厳しい詮索を巻く為に始めた森の探索は、予想外の展開を見せた。
先日蓄力していた魔石には魔力がまだたっぷり残っている。重力軽減と共に、仮にも魔術師師範級の黒髪巨乳が、あまりの高度さに唖然とした、帰巣錨の改良魔法を使い、ほぼ飛ぶように進んだ。一度行った事がある場所に何かを置いておき、「遺失物探索魔法」で目標点を設けた上で使う魔法だが「障害物があると危険なんだ」と翡翠眼は言う。
「狼の木」まで息をつく間もないような速度だった。牽引魔法との掛け合わせで、半淫魔と聖騎士は、文字通り引っ張りあげられるように猛スピードで森を駆け抜けた。
「…容赦ないな」
「気持ち悪い……吐きそ……うぇ…」
重力軽減と、対物理障壁魔法と、牽引光。一つだけでも高度な魔法なのに、三つ同時にかけられた上、その後猛烈な速度で森をひき連れ回された二人。疲労も痛みも全くないが、遠心力だけはあったため、腹にしっかり収まったはずの朝食と再会しそうなメアリーは、大袈裟に息を吸って吐いてを繰り返した。
翡翠眼が魔法で、空飛ぶ木馬、を作って子供に遊ばせる、という御伽話を思い出したが、実際にそれをやると酔うんだな、と温かい夢が急激に冷めるのを感じるメアリーだった。
「狼の木」から、やっと普通に歩いた。今日に限ってはやたらと鳥が騒いでいる。黒鳥バラバースが群れを成して飛んでいくのを見た。黒鳥バラバースは獣や魔物の死骸を好む鳥。集落跡とは離れた場所に向かっているようだが数が多い。群れの影に時々ヒヤッとさせられた。
石畳が見えてきて、すっかり見慣れた人影の木が乱立している光景が見えた。集落入口に立ったルーチェが、ぴたりと立ち止まった。
「?」
「どうした?」
「うーん…」とルーチェは腕を組む。メアリーは言わないが、そういう仕草が少し老人臭いなぁ、と思う。
「お腹でも痛いの? トイレ?」
「違うよっ、ちゃんとしてきたよ!」と、少し赤くなるルーチェ。
腕組みし、じっと地面を見たり、急に空を見上げたり。
「ジル、確か封印専門だって言ってたよね?」
ルーチェの話の意図が読めないジル。
「聖騎士だからな」
「結界魔法も少しはわかる?」
「わかるが、微妙に専門外だ」
「そか…」
「え?なんだ?」
「誰にも発見されなかった理由を考えてたんだ。二人とも、私と同じ光景が見えているみたいだから、翡翠眼だけに認識できる結界、では無いだろうし、そもそも、結界を全く感じない」
「結界は元々隠されているものだ」
「そう。にしたって、あれだけ肥大化したニーズヘッグの存在を全く認識出来なかったってのも、ちょっとしたショックだったんだよね」
「え? ルーチェも感じなかったの? アイツの魔力」
「やっぱりメアリーもそうか。全く感じなかった。でなきゃあんなヘマはやらないよ」
「アイツのスキルとかじゃないの?」
「ニーズヘッグは魔力隠蔽なんて出来るのかと思って調べてみたんだけど、魔族系の魔法生物だから、習得出来ないっぽいんだよね」
「そうなの?」
「だから、他の何かの力、だよ」
「他の、何か…」
「魔術師ってね、超高度になると、如何に魔力を感じさせないか、になっていくらしいんだ。魔力を感じたら、罠なんて何の役に立たないしね」
「なるほど」
「この翡翠眼集落跡もさ、実は猛烈に高度な結界が敷かれてて、ここだけ外界から切り離してるのかな、とも思ったんだ」
「これだけの規模の村を丸ごと、非認識の魔力でか? しかも百年以上も?」
「それがやれたら、たしかに神様として信仰されるかな、と」
そんな事が可能なのか?という黒髪巨乳の疑問に答える事はできない。この世界には大賢者と呼ばれ崇められる者がいる。魔法使い故に「わからない魔法」を極度に恐れ、罠に陥りやすい。魔力を感じない罠にこそ慎重にならなければならないのだ。
翡翠眼には、疑う根拠がある。この村の噴水側に置いたはずの目印石が役に立たなかったのだ。帰巣錨を使えなかった。
集落跡の中央に歩く際、魔法探知を使ってみたものの、何も検知しなかった。噴水の前にはルーチェが置いた目印石がちゃんとあった。試しに帰巣錨を発動してみたが、ちゃんと発動した。
おかしい
今朝方、何故反応しなかったのだろう?
考えられる事は一つ。何者か、何かしらの力が妨害した、という事。
帰巣錨は比較的妨害されやすい魔法である。神力などで満ちた聖域などでも正常に発動しない。この村もそうなのだろうか?
翡翠眼は魔力には極めて長けているが、神力には疎い。神力は聖騎士たるジルが専門のはずだが、そのジルはそれほど極めているわけでもなかった。
何かに、あるいは誰かに妨害された、となると…
「あの蛇玉野郎の他にも、何かがいるって事?」
「そう言う事だろうね」
巨蟹が穴を塞ぐ光景は相変わらず奇妙で、動き出すわけもないのだが、三人は足音を立てないように側を歩いた。抉られた家の地下に通じる階段から、少しだけ奥を覗いてみる。
いるはず。ニーズヘッグがいるはずなのだ。
しかし、翡翠眼にはそれが察知できない。
何故あれ程の巨大な魔物の気配が感じれないのか?
「ちょっと、ルーチェ大丈夫なの?」
「様子見てくる、二人はここに居て」
そっと階段を降りると、確かに闇に蛇玉が蠢いている。休眠状態なのか動きがゆっくりだ。
(何故感知できない……? あ、そうか、ヤツも…)
翡翠眼は気付いた。ニーズヘッグも、我々を感知できないのだ、と。
(魔力感知妨害? そんな結界魔法、聞いた事が無い)
ゆっくりとリュックから棒状の紙筒を取り出した。昨夜作ったブガワ草の煙草だ。ついっと指を動かし、火を着けた。独特の甘い香りがする。ヒトや翡翠眼が吸っても何も害は無いが、蛇には効く。
ぽいっとニーズヘッグのそばに放り投げ、階段を戻った。
「いた?」
「いたよ。やっぱりメアリーも感知できないんだね」
「うん、全く」
「メアリー、私の魔力、わかる?」
「え?」
「メアリーも、魔力見せてみて」
「魔力の無意味な発露なんて、学生以来だね…」
魔法使いは常に、魔力を出来るだけ見せないようにする事が習慣付いている。それでも漏れ出てしまうもの、なのだが。
半淫魔は、少し伏し目がちになると、その濃い紫の瞳が光を帯び、黒い髪がゆらっと舞う。本人にとっては僅かだが、魔力の発露で髪が舞い上がるのは並大抵の濃度ではない。翡翠眼も、内心、やるじゃん、と思う。
「これで良い?」
(…やっぱりそうか)
「感じない」
「え? あ!」
「私のも、見える?」
翡翠眼の魔力の発露は、魔力保持者ではなくてもハッキリと目視できる、ルーチェの身体に薄い透明な膜が見え、空間そのものが歪んでいるのがわかる。僅かに発光していて、光の魔法ではなく、空間の密度の断層が光を反射しているのだ。ルーチェの魔力濃度は髪が舞い上がる程度では無い。断層によって軽い気流が生まれて小さな渦を作る。
それでも、魔力を感じない。メアリーは、自分がおかしくなったのかと思う。
「どうなってるのコレ」
「この村自体、魔力検知を妨害する結界内なんだろうね」
「魔力探知妨害? 何それ、魔術師殺しもいいところでしょ」
「魔術師は全てそれに頼るからね」
魔蛇も魔法検知が出来ないのだろう。ルーチェがそっと近づいて気づかれることはなかった。
「そろそろ、かな?」
「え?」
魔蛇はすっかり眠っていた。魔力探知もされないので、小声であればまず気付かれることはない。
ルーチェは、魔蛇が絡まっている記憶結晶を素手で解き、取り出した。大きい。人の頭より一回り大きい。記憶結晶は見た目よりもずっと軽いのが特徴である。片手で持てた。
「さぁ、メアリー、どうぞ」
「えぇ? 宜しいですかぁ?」
黒髪巨乳は揉み手をしながら腰をクネクネとさせた。
その仕草、ヒトの間で流行ってるのかな?
「どうぞどうぞ、思いっきり。なんなら魔石もあるし」
「すみませんねぇ、美味しいところだけいただいちゃうみたいで」
黒髪巨乳と原石翡翠眼の、イヤラシイやり取りに聖騎士のため息が聞こえた。
「では、遠慮なく」
翡翠眼は、メアリーが本格的な魔法を使うのを見たことはなかったが、魔力探知できない今の状況でも、目視だけで十分に判別出来る。メアリーはやはり間違い無く魔族の血を引いている。魔法の発動時に一瞬だけだが瞳の色が紫から真紅に染まるのだ。
魔力検知できない影響で、どれ程の魔力濃度か感じれないが、無音。集中しているのがわかる。魔法の発動は本来、仲間に知らせる目的でわざわざ音を発したり、光や色を出したりするが、この場合にはその必要もない。静かに腕を伸ばし、魔蛇に向けると、魔法の蛇は軽くパリパリと音を立てて動きが止まり、白い冷気を帯びて凍った。動かない相手に対してだったので、内部からの凍結ができたため、表面だけで無く完全に凍った。
「お見事」
高度な凍結魔法。しかも、周囲に冷気を撒き散らさないように集中した内部凍結。部屋の温度が下がらない。目標だけを凍結させるのはとても難易度が高い。
緩急精緻な身体とは正反対な、実に生真面目な優等生的な魔法。それが翡翠眼の印象だった。
蛇玉から抜き出した記憶結晶の中には何の記憶が入っているのか。本来なら持ち帰ってじっくりと調べたい翡翠眼だが、これ自体が罠の可能性もある。
「これをねー、村に持ち帰って開いてみたら、魔物が湧いた、って話はよく聞くのよ」
「魔物が湧く?」
「魔物を誘引する魔法とかが入ってて、接続すると自動的に発動する。一種の罠ね。嫌がらせ。世間から嫌われて死んだ魔術師とかがよく遺すよ」
「そりゃヒドイ」
「これだけ大きいと、マトモな神級召喚連結とか入っててもおかしくないからね。なにせ。コイツに抱かせてたわけだし」
「え、じゃ中身見れないってこと?」
「大丈夫。防壁張れば。早速始めるよ」
翡翠眼が両手をワキワキと動かして、顔から笑みが消える。それを見てちょっと待った、と手を伸ばした半淫魔。
「魔力検知できない此処で、大丈夫?」
「むしろ、その原因がこいつかもしれないからね」
「なるほど」
「まず、自動発動を解除するね」
コレ程の大きい記憶水晶だから、全検索に数時間かかるだろうと予測していたルーチェは、次の瞬間に「えっ」と声を挙げた。
「え?何?」
「…、光学映像手紙、のみしか入ってない…」
「え?」
「しかも……、短い…、四十秒くらい…」
「はぁ?」
「投影できるか?」
「うん…」
『はぁい、元気にしてた?
これを見てるって事は、やっぱり忘れちゃったんでしょ?
その扉を開けるには『イニシエノハナ』をその瞳に翳せばいいのよ。
それじゃ!』
若い容姿。実年齢が若いとは限らないが、ヒトであるならば二十代前後。少し紫が掛かった紺色の髪。水着のような露出が高い服に大げさなマントを羽織っている。人懐こい仕草で来訪者達に挨拶がてら謎の伝言を告げた。
「これだけか?」
「うん」
「…」
これは、恐らく、『自分』に当てた伝言だ。この紺髪の女が、長期間この場所を離れる際に、この奥に大事な物を封じたのだろう。だが、再び訪れたとき、自分は自分では無くなっている可能性がある。長寿族は数年で別人になる事もある。何も覚えていない時のために、扉の入り口で、自分に為に伝言を残したのだ。
「これ、扉だったんだ。これが『瞳』かな」
ただの壁だと思っていた部屋の奥には、確かに瞳のモチーフがあり、水晶が埋め込まれている。魔法探知ができないので確信はないが…
「魔導器だね」
「なるほど、魔導器って、どう隠しても魔法で動くから魔力検知からは隠せないんだよ。周辺を丸ごと魔力検知を無効化したのか。確かに全く気づかなかった」
「(罠は)魔蛇だけじゃ足らないか?」
「魔蛇は時間が経って大きくなっただけで、罠として設置してたんじゃ無いかもしれないね」
「さっき、なんと言っていた? イニシエの…花?」
ルーチェは近くに転がっていた木箱に座り、脚を組んだ。そして、もう一度投影する。
『はぁい、元気にしてた?
これを見てるって事は、やっぱり忘れちゃったんでしょ?
その扉を開けるには『イニシエノハナ』をその瞳に翳せばいいのよ。
それじゃ!』
「いにしえの花…、古代種の花って事かな…、これ、年代特定できないかなぁ。この服…、戦争前の、半翼蛇族の服に近いなぁ。でも、肌は白いし。髪も紺色だから違うし…、仮にそうだとして、もう六百年も前に亡くなった国だし、てことはこれはそれ以前の伝言? この大きさの記憶結晶を、容量じゃなく、維持の為にコレ程大きいのを使ったって事? いやでも、この靴、五十年くらい前に王都で流行った型だなぁ。いにしえの花、っていうくらいだから、古代種の花か…」
「あ、あの、さ…l
「古代種の花、というと、代表格はロセの花。でもこんな寒い地方で咲く花じゃ無いし、あ、でも、その辺に咲いていたら鍵にならないか…。わざわざロセをここまで持ってきて解錠するって事? そんなめんどくさい事自分に課すかなぁ…」
「あのさルーチェ」
ずっと黙っていたメアリーが、何故か恥ずかしそうにモジモジしていた。
「? おしっこしたいの?」
「違うわよっ! その、イニシエノハナ、っての、知ってるのよ」
「え?」
「うーん、多分、あれのことだと思う」
えーと、昨日、服が出来たって連絡が入って、取りに行ったの。ほら、あのライルって人のお婆ちゃんね。まさか、覚えてるよね?
出来上がった服が、帽子から靴まで、上から下まで一式揃ってて、びっくりしたよ。下着まで作ってて。着てみたんだけど、そりゃぁもう凄くて、なんていうか、お伽噺の勇者御一行の魔法使いみたいな、そんな強そうで妖艶で、でも清潔感がある感じ? ごめん、あれは体言化するのが難しい。とにかく、きっちりとした正装な感じの服だった。
正直、お代どうするんだろうって心配したくらい。
その服にはね、とても綺麗で、ちょっと古代的な刺繍がされてて、凄く良いデザインで、褒めたんだ。とても可愛い、って。そしたら、教えてくれたんだ。
「この模様はね、この村にずっと前からある、『イニシエノハナ』っていうモチーフなのよ」って。
それだ。
「その服は?」
「汚れるのが嫌だったから、宿に置いてきた」
「なるほど。じゃ、取りに戻ればいいね」
「…」
「…?」
メアリーは、ちらっとジルを見た。そして、急に赤くなる。
「あの、ね、その…」
翡翠眼の怪訝な顔。
「何? 何なの?」
「えーと、その、し、下着だけは、その、履いてきた…の」
ルーチェはススっとメアリーに近付いて、なんの躊躇もなく魔法衣の裾を豪快に捲った。憐れな半淫魔の声にならない悲鳴が部屋に響く。
「何すんのよっ!ちょ、ちょっとやめなさい」
「ちゃんと見えないじゃん、じっとしてて」
「いやー! やめ、やめえぇ」
半淫魔はバタバタと暴れて息を上げながらジルの元まで逃げた。顔を真っ赤にしながら眉を吊り上げる。
「信じらんないこの翡翠眼」
「女同士なんだから別に恥ずかしくないじゃん」
「女同士だっていきなり捲られたら恥ずかしいよ!ジルだって見てるのに!」
思春期かな?
翡翠眼の私には遥か昔過ぎてわからないよその感覚。
「今のは、お前が悪い」
「ジルもそう思うでしょ? 酷いよ。アンタだっていきなりやられたらイヤでしょ」
ん、まぁ、イヤか、嫌かもね。
「わかったわかった、悪かった。御免なさい。どうにも、『知りたい』って事に対して最短距離を直進しちゃうんだよね」
「長寿の癖になんでそうせっかちなの!」
「…形式ばった手順が面倒なだけだよ…」
「形式ばって! もう少し、型式ばってよ! まったくもう! 何事も順序とか準備とかあるでしょう!」
とはいえ、この扉を前にして「イニシエニハナ」の刺繍がされた服を村まで取ってくるのは至極面倒臭い。それは黒髪巨乳も理解はしている。幸か不幸か、今履いている下着にもその刺繍がされている事は知っているのだから、結局は扉に向かって裾を捲り上げる事になる。それを想像した時、端ないし、情け無い事この上ない。
普段無口なジルだが、小刻みに震えている。
「あ、ジル!笑った」
「笑ってない」
「絶対笑った!」
「笑ってない」
「酷い、信じてたのにっ」
「笑ってない」
「いいから、はやくやってよメアリー」
「がむがむがむむ……」
奇妙な光景だ。流石の聖騎士も笑いを堪えるのに必死である。
扉に向かって、仁王立ちした黒髪巨乳が止まっている。申し訳ないとは思いながらも、可笑しくて笑いが込み上げてくる。翡翠眼が真顔でそれを眺めているのもまた滑稽で、こんな面白い見せ物、見た事がない。
「はやく」
「待ってよ、結構、勇気いるよ」
「こっちからは見えてないってば」
「わかってるよそんな事。でも、でもなんかこんなさ、大きい瞳の模様だからさ、見られてる感アリアリで…」
なんでこんな恥ずかしいことをこの歳でしなきゃならないの?
スカート捲り、されたなぁ。昔。
思い出したら段々腹立ってきた。
こういうものは、思い切りが大事だ。どうせ、誰も見てないのだから。
えいっ、と捲った、壁の瞳のモチーフに見つめられているようでとても恥ずかしいが、その姿を背後から見ている聖騎士にとっては拷問だ。こんな光景、笑わずにいられない。しかし、メアリーに悟られてはいけない。傷付けてしまう。
「…、反応してないなぁ…」
「え?」
「もう少し近くで必要かな、ちゃんと瞳の水晶に映り込むように」
「近くでって言ったって、この高さだと、え、浮けって事?」
目の高さに瞳のモチーフがあるため、ただ捲っただけでは映り込まない。聖騎士が思わず想像してしまい、吹き出しそうになった。浮遊術で浮いた上で裾を捲り上げる姫の姿を。
「ジル、笑わないでよおお、ひどおい」
「笑ってない」
「いや、むしろこれは、笑った方が、メアリーも楽じゃない?」
「そう、そうかも」
「笑ってない」
「ジルも案外大人気ないんだね」
ただ捲り上げるのにもヒトとしての尊厳を著しく削ったメアリーには、浮遊術で少しだけ浮いて、魔法衣を捲り上げる、と言う醜態を晒すのはもはや『お嫁に行けない』。ただでさえ赤面症持ちで、破廉恥な事が大嫌いな半淫魔は、ついには半分泣きながら嫌だと訴えた。
面倒だが、村まで戻れば良い話。ジルにとってこれ以上、姫を辱めるわけにはいかない。
面倒だなぁ…
あ
「脱いじゃえばいい」
「うえ?」
「大事なのは模様でしょう? ここで脱いで、これに翳せばいいでしょ」
「ここで? 脱ぐの? 下着を?」
「履いたまま、の方が恥ずかしいでしょうよ」
あのなぁ翡翠眼、これ以上姫を辱めるな、と言おうとしたジルだが、
「…それなら、大丈夫かも」
「え」
「脱ぐのはいいんだ?」
「いいのか」
「履いたまま捲るよりは…」
基準がイマイチ捉えかねる二人を他所に、御免、ちょっとあっち向いてて、と言い、あっさりと脱いだ。
あ、そうか、この二人、同室で寝てるんだっけ。着替えくらいはするよね。
脱いだ下着を、手で広げてみた。確かに印象的な花の模様が刺繍してある。光沢のある糸。高級感がある。気品がある。状況が状況なだけに予想外だが、ルーチェもメアリーも、変な気分にはならなかった。
「綺麗だねそれ、私も欲しい」
「そうでしょ? 綺麗だよね。思わず履いてきちゃったんだ」
「あの子、ほんと才能あるなぁ」
「あの子? あぁ、そうか、『あの子』か」
奇妙ではあるが、「履いたまま浮いて捲る」という、悲劇は回避され、手で広げた下着の模様を水晶に映し込んだ。数秒、翳してみたが何の反応も見せなかったので拍子抜けし、メアリーが派手なため息をついた。
「何よ、違うの? ここまでやっといて」
「パンツじゃだめなのかな」
「これじゃ、脱ぎ損じゃないの」
「ぶっ」
あっちを向いていろと言われていたジルが、ついに噴いた。激しく肩を揺らす。
「わらったなー?」
さすがのメアリーもこれで笑うなとは言わない。
「笑うだろ」
「ジルもまともな感情を持っててホッとしたよ。というか、履きなよ。やっぱり村に戻って、あの子に話を聞こう」
「そうだね」
イソイソとパンツを履いたメアリーは、律儀に向こうを向くジルにごめんごめんもういいよ、と肩に触れた。ニヤニヤしながら横から眺める翡翠眼。
ふと何気なく凍った魔蛇に目をやると、記憶水晶が置かれていた台座から、天井を伝い、扉に一本の溝があることに気づいた。
「あ!」
「?」
「メアリー、もう一度脱いで!」
「はえ?」
「これ、この扉、記憶水晶の魔力を動力にしてる!」
「え?」
「ほら、導線がある」
記憶結晶は、古代の技術で生成された人工の水晶。与えた魔力を高濃度に蓄積できる。それを動力として用いるのはルーチェも初めて見たが、話には聞いたことがあり、理屈もわかる。人の頭より大きな水晶に、ほんの僅かしか記憶が入っていなかったところを見ると、どちらかというと、動力としての役割の方が大きかったのか。魔蛇が居座っていた場所は記憶結晶が安置されていた場所。そこから取ってしまったので、扉の瞳の魔導器に動力が伝わっていなかったのか。
凍った魔蛇が邪魔なので、乱暴に蹴る。何本かの蛇がポキリと折れ、床に転がった。蛇玉は大きいので退かすのには一苦労だ。芯まで凍っているので体液も出ないがその分硬い。
『金剛破砕』
「あ、ルーチェちょっとっ」
硬いものを砕くための魔法。比重の重い翡翠を破壊でき、対象物が硬ければ硬いほどその威力を発揮する魔法。長い生涯の翡翠眼も、凍った蛇玉に使うのは初めてだ。放った本人が驚く程大きな音がし、極めて細かい白煙が立った。急激に部屋の空気が冷却されてゾワッとした。
近くにいた翡翠眼と黒髪巨乳はゲホゲホと激しく咳き込んだ。
「どれだけ気合い入れたのよ。過冷却もいいとこだよ。まだ中で燻ってたでしょコレ」
「いきなり破砕魔法なんて使ったら、気圧縮が起こっちゃうよ」
「それを早く言いなよ、ゲホゲホ」
「吸っちゃダメだよ、これ、魔蛇の体液も混ざってる」
「もう遅いよ、だいぶ吸った」
白煙が落ち着くと、真っ白い粉のように砕け散った魔蛇の残骸が床に散乱していた。まだ溶けない。記憶結晶の台座が露わになった。魔蛇だけが綺麗に砕け散ったところを見ると、この台座はただの岩石では無いらしい。
ルーチェは台座に記憶結晶を戻した。すると直ぐに反応があり、扉の瞳のモチーフの水晶体がほんの僅かの発光した。
「メアリー、さ、脱いで」
一度脱いで履いたものを、もう一度脱ぐ、というのに抵抗を感じ口を尖らせたメアリーだった。脱いだパンツをルーチェに渡す。温もりがある。
「イニシエノハナ」のモチーフの刺繍部分を水晶体に翳すと、前とは明らかに違う反応だった。水晶体は一瞬グリッと動き、僅かな地響きと共に扉のに埋まっていくそして扉の瞳モチーフの縁が発光し、左右に開いていった。
「開いた…!」