忘れる為の物語 四枚目 巨蟹月の幻 九日
「一人で行く、とか言わないでしょうね?」
早朝、ヒト並みの時間に朝食をとっていた翡翠眼に、黒髪巨乳が突っかかった。
「何、藪から棒に」
「私達も連れて行きなさいよ」
「今日は行かないよ」
「じゃ何で早く起きたの」
「たっぷり寝たからだよ。昨日帰ってきてからすぐ寝たんだから。流石の私も起きるよ」
黒髪巨乳は。座った目でジトッと翡翠眼を見下ろした。
「抜け駆けは許さないから」
「へ?」
「アイツ。アイツをやっつける」
「アイツって、ニーズヘッグの事?」
メアリーは大きくうなづく。
ニーズヘッグは二級危険魔性生体。王都の規則に従うのであれば接触した場合速やかに逃げる事を推奨している。何匹もの蛇が絡み合ったような身体で、実際そのような組織を持つ。それぞれが個体の蛇ではあるが、体から細い管状の触腕が出ていて、それを挿入する穴も持つ。性器であるとも言われるが実の所良く分かっていない。両性具有の蛇が身体の一部を共有する事で蛇玉を作り、皮膚から魔力や呪いを吸い上げる。近付いただけで精神を汚染し、対象者の記憶を瞬時に組み替えて幻惑する。目視する事をも可能な「念手」と呼ばれる魔力の牙が身体に刺さると魔力を吸い上げられた上に思念の毒を送り込まれる。
この宿「花の咲く場所」も冒険者たちの宿なので、魔物図鑑はある。メアリーはその図鑑を読んだのだった。あんな幻覚を送り込んで来た事が許せない。子供のように泣いてジルに迷惑をかけた事が許せない。思い出すだけで寒気がする記憶を、悪夢として処理するには余りにもリアルだった、脳裏にこびりついたジルとルーチェの心無い言葉を作り出したアイツがどうしても許せない。
「やっつける」
硬く拳を握るメアリーに、苦笑いのルーチェだった。
「まぁ、危険なヤツだから、排除した方がいいだろうけど、ね」
「アイツ、氷に弱いらしいじゃない」
「ん、そうだよ」
「かちんこちんにしてやるわ」
淫魔に限らず、魔族系統の魔導士は冷気の魔法を得意とする、という。ヒトでも冷気系魔法は使えるが、威力の成長に差ができる。メアリー本人は勿論気付いていないが、まぁ、あんたの冷気は冷たいだろうね、と翡翠眼はニヤリとする。
「涙出るのは治ったの?」
「治った」
「さっき、エスズにブガワ草を買ってきて貰うように頼んだ所だよ。この村には無いらしいんで。今日の夜には帰ってくるそうだから、明日以降だね」
それを聞いたメアリーは、少し気が抜けた様子で椅子に座った。
「良かったよ。ブガワ草無しでやっつける、とか言わない子で」
「…自分の限界くらい、わかってるよ…」
「偉い偉い」
少し拗ねたような顔で、大人しくルーチェに撫でられるメアリーだった。昨日のニーズヘッグとの戦いで、ルーチェとの実力の差を感じたのだった。二級の魔物に対して真正面から戦えるのは、冒険者や戦士の中でもほんの一握りしかいない。睨みつけて攻撃を跳ね返しつつ、仲間を逃す、という離れ技をやってのけたルーチェは、その一握りの中でも一際階級が上の翡翠眼魔導師である事は間違いなかった。仮にも師範を目指していたメアリー。ルーチェの強さはわかる。
「居場所が分かってれば、準備していけるから、次は大丈夫だよ」
「あそこに、アイツを仕掛けていったヤツがいるって事よね?」
「うん」
「何の為に?」
「そりゃもちろんあの場所を死守する為だよ。記憶結晶はかなりの大きさだった。千年保つくらいのね。それを守る目的でしょう」
「またあそこに来るって事?」
「どうだろ。本人忘れてるかもね」
「はぁ?」
「(魔物が)あんなに大きくなってたわけだしね。結構あるんだよ。記憶結晶に記憶を移したはいいけど、新しい記憶の方が大事になって、価値が無くなっちゃうんだ。それで、二度と開封される事なく、そのまま何百年も保存されてる、ってのが」
「なんて迷惑な話なの」
「もちろん、封じた当時はとても大切に思ってるから、誰にも触れられないように防衛線を張る。でも、百年もするといくら長寿族でもいろいろ新しい記憶が出来るし、ま、いいか、って…」
「まいいか、であんな目にあってたまるかっ!」
メアリーが乱暴にテーブルを叩いた。ガチャン、とカップが音を立てた。
「まぁそう怒らないで。いい事もあるんだよ」
「いい事?」
「まず、記憶結晶そのものが貴重だよ。アレは魔力の結晶だからね。魔術師ならまず持ってて損は無い。今じゃ精製できる錬金術師も減ったからね」
特に貴女みたいな半魔族には、本来なら危険過ぎて渡せないものだねー、とは言えない。
「長寿族が何年もかけて蓄積した知識や経験が格納されている可能性が高いからね。失われた魔法、術式、薬、そんなものの記憶が封じられている場合が殆どで、冒険者が躍起になって探すのは、それが高価で取引されるからなんだ。それに、気の遠くなるような術式連結を結合させて封印している場合も多いし、複製禁止が掛かってると、その記憶結晶そのものが唯一の触媒になってる場合もある。魔導器の多くは、発掘された記憶結晶が元になってる事が多いんだよ」
聞き慣れない言葉が沢山出てくる。黒髪巨乳は、ポカンとした顔で聞いていた。
「そんなの初めて聞いた」
「そうだろうね。今じゃ滅多に出ないし、危険だしね。発掘される物によっては、世界情勢をガラリと変えてしまうようなものもある。現在は英雄階級じゃないと知らされていないのかもね」
「え、じゃ、あれはかなりのお宝?」
「そうだよ。中身次第だけど、例えあれの中身が空っぽでもあの大きさなら、王都で売ればちょっとしたお金持ちになれる」
「ほんと?」
「複製禁止とかがなければ、中身を見たらあげるよ。売ればいい。この辺りで売ると安く買い叩かれるから、王都まで行くといいね」
黒髪巨乳は守銭奴では無いつもりだが、それでもお金はある程度あった方が良い。宿代も嵩むし、美味しいものには目がないからだ。美味しいものは高い。
「いずれにしても、アイツをやっつけてから、だね」
「そうだね」
翡翠眼はそっけなく言い、苦茶を啜った。何気なく窓の外をみると、見慣れた人影が食堂に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよウィル」
「おはようございます」
メアリーも気怠く手を振った。
「本当早いですね。珍しい。起こそうかと思ってたのに」
「今日は偶々(たまたま)だよ。昨日八時に寝たしね」
ウィルは、何冊かの本を脇に抱えていた。見るからに古そうな茶色に変色した紙。今時見かけない、羊の皮を使った誂えだ。
「調べましたよ。ユーヴィー様の事」
「成果あったの?」
「伝承っていい加減なんですね。初めて知る事が多かったです」
「その本が正しいとも限らない、けどね」
頬杖の黒髪巨乳が素気なく言うと、ウィルは見えてムッとした。
あれ?
ウィルはどうして半淫魔に魅了されないのだろうか?
「いい勉強になりました。まだ四分の一程度しか読んでませんけど」
ウィルは、綺麗とは言えない自筆のノートを拡げた。
「ユーヴィー様には、娘がいたらしいです」
「え?」
「その娘の名前は、ティオルナ」
「ティオルナ?」
驚きで叫びに近い声を張り上げたのはメアリーだった。
「え?」
「知ってるの?」
「え?ティオルナって言ったら、大賢者ヴァスバンデル・ティオルナーレのことじゃないの?」
「確かに、ルナーレと呼んでいたそうですが…有名人ですか?」
翡翠眼と栗色少女は知らない。
「有名人、ってわけじゃないけど、え、ルーチェは知らないの? 異世界移動を安定化させた…」
「あ!」
ヴァスバンデル・ティオルナーレ
この世界に「結界魔法」という概念を生んだ魔法使いにして、大賢者。
「え、ティオルナーレの、母親ぁ? ここの、翡翠眼がぁ?」
魔導師の師範資格を取るために魔法史の知識がある黒髪巨乳には驚きである。確かに、大賢者にも両親はいるはずである。しかし、それがこんな僻地の出であるとは、この世界でいったい何人が知っているのか。ティルナーレは死が確認されていない。生存している可能性がある。しかしもし生きているとすると、二千歳は超えているはずである。いくら長寿の翡翠眼でも記憶と精神と意識が剥離し、正常な人格を維持できない。記憶分離を繰り返しているはず。とすると、自分が何者であるかすら忘却している為、だれも本人であると証明出来ないのである。
翡翠眼や深紫眼、魔族にも、本人が何者であるかを忘れている事はよくある事だ。かく言うルーチェもそのうちの一人と言える。自分が何者であるか、を把握する材料は自分が書き記した手帳に委ねられている。その手帳が正確である保証は何処にもない。
「その、ティオルナが暮らしていたらしいです。森の中で」
「…って事は…って、ちょっと、何処行くの、何処行くのルーチェ、おーい、ルーチェさーん?」
ルーチェはごく自然に、よいしょ、とリュックを背負って店を出ようとした。
「何処行くんだよ魔術収集癖原石翡翠眼!」
「え、きまってるでしょ」
「だから、一人で行くなって言ってんでしょ! どっちみち誰も行かない場所なんだから」
「結界魔法の神様みたいな翡翠眼よ? それが残した記憶結晶なんて、今すぐにでも回収して中身を…」
「だから! 待てっつーの! 翡翠眼のくせになんでせっかちなの!」
「大丈夫、ニーズヘッグ程度なら」
「だから! 落ち着きなさいよっ! ほら、ウィルも止めて!」
「う、うん」
「何ワクワクしてんのあんたもっ!」
翡翠眼は長寿が故に、新しい事に飢えている。大賢者が残したかもしれない記憶結晶など、退屈な長い時間の中で最高の娯楽である。
「あのね、行くなって言ってんじゃないの。明日まで待てって言ってるの」
「ぬうう」
恨めしそうに黒髪巨乳を見る翡翠眼。
「ルーチェって、箱蠍だってわかってて箱開けるでしょ?」
「うん」
「うん、じゃないよ、大人気ない」
「どうせ身体は子供だよ」
「そういうところが大人気ないっての!」
大賢者があの森の集落に住んでいた、というウィルの話には妙な説得力があった。今時珍しい目を見張るほど大きな記憶結晶と、百年以上経って集落全体に根ざした彫妻の木、そして巨大な蟹とニーズヘッグ。桁外れな人物がいた事を匂わせる。
「ユーヴィーは、娘ルナーレと数人のご先祖様?を連れてこの村に来たと書いてあります」
「ご先祖様?」
「すみません、私の解読がおかしいんだと思うんですけど」
はて、ご先祖様、どこかで聞いたような気がする。
翡翠眼はハッと気づいた。そうだ。あの森には管理者がいる。半神半獣がいる。それだけで既に、何かしらの特異な事がある証拠なのだ。管理者がいる森では、世界の根幹に関わるような秘密が守られている、という噂が立つ事がある。あの集落跡に入った時には管理者は姿を現さなかったところを見ると、その集落跡そのものが秘密ではない。何か他の秘密があるのだ。
「今のところ、ここまでです、解読できたのは」
「上出来だよ!」
「少なくとも、やる気が全くない翡翠眼をここまでやる気にさせた功績は大きい」
「でも、どうして今まで手付かずだったんでしょう?」
ウィルのその疑問に、二人は顔を見合わせる。季節になると冒険者の往来が多いこのユビ村の歴史は、少なくとも百二十年以上はある事は古文書の存在から見てとれる。だがその間、宿に地図がありながら、あの村の存在を誰も確認しなかったのはどういうわけか?
ニーズヘッグに全てが殺された、とは考えづらい。あれ程極端な様子の集落跡だ。調査隊が組まれてもおかしくない。
「偶然?」
「あるいは、遠ざける伝説とかが残ってるとか?」
「そんな話、聞いたことありませんね」
「ユーヴィの伝説そのものが、ってことかな」
「でも、地図があるって事は、誰かが行ったことがあるって事だよね」
三人とも首を傾げて唸った。あの集落跡が冒険者たちに発見されずに手付かずで残っている理由が出てこなかった。集落跡がある、と地図にはあるが、その事は村人は知っているのだろうか?
宿主人は、その事については知らない、と答えた。宿の四代目。その主人が知らないのだから、村人達も知っている者は少ないか、あるいは全く知られていないか、だろう。
地図にのみ記された集落跡。誰もが見れるように額に飾ってあった古い地図だが、百年以上誰も気付かなかったという事なのだろうか?
この地図を意識したのは、翡翠眼が「花の咲く場所」を聞いて、それがきっかけで手紙を読んだからだ。誰が、誰宛に買いたのかもわからない手紙と一緒に地図が同封されていた。その地図は、宿の二階へ行く階段の踊り場の額に入れて飾ってあったものとほぼ同一で、泊り客らは誰でも見たはずだ。これ程わかりやすい『宝の地図』は、どうして長年無視されてきたのだろう?
「狼の木、は知ってます。冒険者が良く話していましたし」
スターナがコーフィの“おかわり”を持ってきて言った。
「あそこまで行って、あの集落跡まで行ってないって事?」
「それは無いわ…」
「そんなに近いんですか?」
「いや確かにだいぶ歩くけどね。石畳が所々残ってるし、普通に見つかるよね」
「私たちはあっさり見つけたしね」
話を聞いていたスターナも混ざり、四人で首を傾げるのだった。冒険者達があの集落跡を見逃した理由がわからない。スターナの話だと、春先にはかなりの数の冒険者達がくるという。森には、先日騒ぎがあった巨猪ニーグロドレーズを始め、巨鳥スファルメン、銀狼リンドフェンリル、森山猫サーバメッドもいる。狩りには事欠かない。森に入った冒険者達が、あの痕跡を逃すはずはないのだが。
「考えてもしょうがない。事実は事実。遺されていた事は有難いよ」
鼠臭鬼の時もそうだったが、事実は事実。理由がわからなくても、それだけは変わらない。およびつかない理由があるだけだ。
翡翠眼は、考え込んではいけない。ただそこにある真実を受け入れるだけで良いのだ。
エスズが隣街との定期便で帰ってきたのは、陽が落ちてからだった。ブガワ草もしっかり手に入れてきたところを見ると、仕事はする男らしい、と翡翠眼は感心していた。「手に入れてきたよ」と持ってきてから気付いた。はて。報酬をすっかり失念していた。もともとこの宿も無料での宿泊と食事が出来ていて、すっかり馴染んでしまった。先日猪の肉が売れたお金がある事に気付いて、幾ら払えば良い?と聞いた所、いろんなついでだったからお金はいいよ、と言われて、モヤモヤしたが、とりあえず無料で手に入れることが出来た。
そんなんじゃダメだよ、と黒髪巨乳に諭された。尤もだ。せめて村のためになる事をやらなければならない。
頑なにお金を受け取ろうとしないこの宿も変だが、村人が翡翠眼に対してお金を一切受け取らない姿勢というのもとても奇妙だ。肉を売ったお金で何かを買いたいが、そもそも売ってる店も少ない。翡翠眼に今更解毒の薬草や傷薬などが必要にはならない。
魔法書なら喜んで買うのになー
出発は早朝。黒髪巨乳と聖騎士にそう伝えて、翡翠眼は早々に部屋に戻った。手帳に一日のことを書き記すと、幸いにも眠気がやってきたため、まだ寝るには早いが抵抗せずに襲われる事にした。
『まだ、気付かないの?』
『相変わらず、詰めが甘いねエルシーは』
そういうのを、大人気ない、っていうんだよ
『随分肩入れするんだね』
『前から聞こうと思ってたんだけど、なんで?』
何でって
なんでだろ
可愛いからじゃない?
『可愛い?』
必死な割に、すぐ死んじゃうしさ
見てて、飽きないよ
『変わった趣味だね』
私の事言えんの?
そんな姿になっちゃってさ
『あはは、違いない』
『今新しいのを作ってもらってるから、マシになると思う』
どうせ、暇なんだしさ
変な趣味でも持たないと、面白く無いよ
『そう、ね』




