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忘れる為の物語 一枚目 汚れた革靴

 もし

 あなたが

 暇を持て余していたいたり

 日々つまんないと感じていたら

 探してみるのもいいかもね



 この時期には珍しい抜けるような空の日。つい先日までこの時期特有のむせ返るような湿気にうんざりしていた彼女は、今日は出かけようと決めた。晴れていると気分がいいし、この時期には紫水蕣(ハーフェンメロア)の花が咲く。採っておけば秋に使えるだろう。


 静かな農村に一軒だけの宿屋兼飲み屋に彼女はいた。王都キュベスから遠く離れているため教会も粗末なもので、女神聖教徒だと言い張れば無料で泊れはするが、辛気臭くてとてもそんな気にはなれなかった。完全自給自足の人口百人足らずの小さな村。その割には冒険者たちや行商人はよく来る。


 この地方で採れるものは都市では高く売れた。味が良い胡桃や珍しい野草などが彼らの目当てだ。特に葡萄は良い味がすると評価も高い。それ故に良い季節になると結構な往来がある。


 彼女はこの村を訪れるのは何度目か正確には覚えていない。長い生涯の中で唯一、度々訪れる場所と言えた。彼女はこの大陸の端から端までをただ旅している。渡り鳥のように季節毎に居場所を変えているのだ。彼女のような長寿の種族にとって、その生活は珍しい事ではなかった。


 二階の角部屋で、訳あって二日も寝痩けた彼女はベッドの上で伸びた。ほぼ裸同然で、傍らにある手帳をぴらぴらと捲った。丁寧とは言えないメモ書きを指でなぞった。確かにこの時期だ。間違いない。


 あの花が咲く頃だ。


 紫水蕣(ハーフェンメロア)の花。初夏の晴れ間に一斉に咲き、数日で花を落としてしまう水棲植物。葉自体が甘い香りがし実際に甘い。しかし麻痺の薬の原料として知られている。うっかり口にしてしまうとしばらくは呂律が回らなくなってしまう。


 彼女「ルーチェ」はこの花が好きだ。


 花こそ高価だが葉に関しては薬売りなら大抵持っている汎用性が高い薬草で、乾燥させ燃せば御香になり、煙草として使用されている地域もある。調合次第で鎮痛効果も得られ、眠れない日には薄くお茶にしたりもする。長寿の翡翠眼(エルフ)は薬草をよく使う。最近では錬金術で鉱物を溶かした脂から生み出される薬もよく見かけるが、あまり使わない。それらの薬は確かに効果は強いがその分副作用も大きい。生きる時間が長い翡翠眼(エルフ)は苦しむ時間も長い。強い薬は後に長く響くことが多く、それを好まない。




 彼女(ルーチェ)はごく最近まで、「長寿性不眠症」に悩まされていた。眠れない。眠ろうとすると様々な事が脳裏に浮かんで、うっかりそれを意識してしまうと朝まで一睡もできないこともしばしばあった。長寿族でよく言われる【枕呪】だ。長い時間蓄積されている記憶を処理しきれなくなった脳が夜な夜な記憶整理を行おうとする。結果その整理の過程で思い出すことになり、引っ張り出して本棚の仕舞わず読み耽ってしまう。そういった日々が続く。


 睡眠が取れない事の辛さはどんな種族も同じであろうが、特に長寿の種族は深刻だ。ただ思い出すだけなのだが、長く生きていれば良い思い出ばかりではない。死にかけた事などを思い出してしまうと明け方まで苦しむ事になる。


 宿に泊まると全快する、なんてのはヒトだけ


 彼女(ルーチェ)は何十年か前に、古い友人に紫水蕣(ハーフェンメロア)のお茶を飲むと眠れる事を教わった。

 病に苦しみ酒に溺れる翡翠眼(エルフ)も多いというが、彼女(ルーチェ)は酒は苦手だった。別に弱いわけではないのだが。その苦手意識もいつの経験から生まれたものか、本人もよくわからない。乾燥させた紫水蕣(ハーフェンメロア)の葉を一枚だけ入れて、あとは自由に茶葉を組み合わせる。そんな薬湯を最近よく飲むようになった。あまり多用するのも身体に悪いが、眠れないという辛さよりは良い。


 この方法にも限界がある。そろそろ「あの儀式」が必要なのだ。


 二日前。雨が降るこの時期、村に続く道が抜かるみ足を取られた。ぐちゃぐちゃとした場所を通り抜けるが至極面倒だった為、立て続けに「水上歩行」の魔法を使い続けた。そのせいで村に着いた頃にはどっぷりと疲れ果ててしまった。宿に飛び込み宿主人に「無理」とだけ話し「わかります」と返事をされた。それ以降はあまり覚えていない。  


 確か昨日、せめて着替えてくれと部屋に入って来られた気がする程度だ。まともなものを口に入れていない事に気付き急に空腹を覚えた。雨に濡れた服を乱雑に脱ぎ捨ててほぼ裸で寝たせいで、二日経った服はまだ生乾きだ。この村では目立ち過ぎる白に蒼のラインの法術衣(ローブ)。着ているうちに渇くだろう、と袖を通した。


 結局、疲れれば寝るのか。


 眠れないのは精神性、というよりも生理現象のようなものだ。それに対して今回は体力が先に底を尽いた、というだけの話だ。


 寝る前に走ればいいのかな?


 ヤダな


 もう走るのはたくさんだ。


「おはようございます。もう二日寝てましたよ」

 良い匂いがしている。二階から降りた先の食堂で主人が鍋の中身を味見していた。彼女ルーチェにとっては不慣れなパンの焼ける匂いが、空の胃を刺激する。


「おなかすいた」

「でしょうね。何か食べますか?」


 丁寧に書き込まれた黒板には、二種類の料理が書かれていた。肉の煮込みか、野菜と豆のサラダか。彼女(ルーチェ)は肉の煮込みの方を指差す。


「これを」

「ルーさん、…これ肉ですけど…いいですか?」

「…?」

「あ、いえ、すぐに準備しますね」


 あ、耳を見てそう思ったのか、と彼女(ルーチェ)はくすりと笑った。菜食主義翡翠眼(グリーンエルフ)も昔々のお話にしか居ないだろうに、と。


 自分以外の客はもう出かけたのか、それとも最初からいなかったのか、食堂はガランとしていた。村の規模にしてはしっかりとした宿だ。良い季節には多くの商人や冒険者が来るのだろう。


「ご主人、旅人用の装備の店って、ある?」


「装備…ですか? すぐそこの、荷台がある家のライルって人を訪ねて下さい。店は今はやってませんが、夏の間だけ店をやるんです」


 そういって鍋を揺らす。


「お出かけですか?」

「うん。この辺りで紫水蕣(ハーフェンメロア)が生えてる場所、知らない?」


 宿主人がぴたりと一瞬手を止めた。


「?」

「…そういう事だったんですか…」

「え?」


 宿主人は意味ありげに溜息をついて、鍋揺らしを再開した。


「確かに今日は咲いてるかもしれませんね。この村を出て王都の方に巡礼線を行くと途中道が分かれていまして、巡礼線を外れて進むと森に繋がります。今は無人の森ですが、うっすらと道が残っています。それを暫く進むと、沢があります。そこで花が咲くらしいですね」

「ん」

「あ、でも気を付けて下さい。この時期、森に大きな蜂が出ましてね。鹿なんかも襲う巨大蜂(でっかいヤツ)なんで、冒険者も何人かヤられてますよ」


 出された食事をあっという間に平らげた彼女(ルーチェ)はお金を払おうとしたが、宿主人は何故か頑なにそれを受取ろうとしなかった。「既にお代は充分に頂きました」と言われ、はて、何の事だろうと首を傾げた。


 昨日、払ったかな私。


 こういうことに慣れている彼女(ルーチェ)は、そういえば主人がごく自然に自分を「ルーさん」と呼んだことに気付いた。そもそも何度もこの村には来ているわけで、宿主人がいう「お代」も前払いしていたかも知れない。あまり深く考えないようにしよう。そう自分を宥め、食堂を出た。


「蜂か…」


 ライルの家は本当に目の前だった。それなりに丈夫な服は無いかと持ち掛けたら快く去年の夏の売れ残りの服を売ってくれた。こんな小さな村にしてはだいぶ質の良い服だ。さぞ良い職人が居るのだろう。大げさな装飾の割には大して水も火も弾かない法術衣(ローブ)をずっと着てきたせいか、だいぶ身軽になった気分だ。


「それと、それ、それください」

 壁に掛けられている農作業用の藁縄を指さした。

「え? (ロープ)ならもっといいのありますよ、出しましょうか?」

「いえ、それがいいです。ください」

「こんなの、すぐ切れちゃいますよ?」


 こんなんで良ければあげますよ、と言うので貰い受けた。藁で出来た縄は軽い。腰にでも括り付けておけばいいだろう。

 日が高くなってきた。紫水蕣(ハーフェンメロア)の花が咲く森へはそう遠くはない。日帰りで充分だ。一旦宿に戻り、リュックの中身を全部床に放り出して空にし、弓と小杖と、麻袋を持った。宿主人に桶を借り、水に青鷹菊(ロシュエノク)精油(オイル)を垂らし縄を浸した。東方の国で覚えた「染みを取る魔法」を逆転させ、縄はすっかり吸った。


 村の門をくぐった。


 小鳥が囀っている。良い風が吹いている。正真正銘の田舎の田園。青い空にまばらな雲。絵に描いたような景色だ。植生された低木はまだ豆粒大の葡萄を揺らしていた。麦も青々としている。風が吹くとサラサラという耳障りのよい和音を渡らせる。見晴らしがいい農道で、村の住人とも何度かすれ違った。牛が車を牽きそれを子供が追い掛ける。


 この風景は凄いなぁ。


 急激な都市化が進む王都周辺の街に長い事滞在していた彼女(ルーチェ)は、むしろ斬新な景色に見えた。時代の変化に取り残されているのか、それとも流されず守っているのか。なかなか感慨深い眺めだ。


 確かに自分は翡翠眼(エルフ)だし、多くの人が行き交う都市での生活は向いていないのかもしれないな。


 そもそも多くのヒトと関わる生き方は、長寿の彼女(ルーチェ)は疲れてしまう。最近は魔導器の開発が急激に進み、書物との組み合わせで蓄積した経験を頭の外に出し、必要な時だけ戻す、という外部記憶媒体(メモリクリスタル)が登場した。政治に深く関わる長寿族の記憶症や鬱をそれらの魔導器が抑制する、という話も珍しく無くなってきて、目まぐるしく街の様子は変わる。たった数十年で地図が役に立たなくなってしまうのだ。ヒトと同じ尺度で生きるのは大変だ。


 何年も何十年も変わらない風景。ヒトの多くはそれが詰まらない、というが、それは人生が短いからだ。変わらないものの方が価値が高いのに、と思う。今自分が見ている風景は、おそらく何百年も変わっていない。その大切さを、ヒトは理解できないのかもしれないな…。


『見た目と違って、随分年寄りみたいなものの考え方だな?』


 年寄りみたい、っていうけど、実際歳とってるからね


『そういえばそうか』


 気にする?


『いや、どちらかといえば、お前のその感覚、好きなんだ』


 降りてきたシーン。はて、誰との会話だったかな?

 既にすっかり忘れているはずの記憶が頭に浮かんでは消える。過去の出来事を正確に思い出せない、ということを気にしていたら生き辛い。そもそも、その会話をしたヒトも、もうこの世には居ないのだろうから。


 田園風景が途切れ、森が見えた。二股の道に朽ち掛けた酷く乱暴な立て看板があった。


 片方には「森」と書かれていて、もう片方には「王都」と書いてある。あまりにも雑過ぎる。ここから王都は馬でも二ヵ月はかかる。独り言で「ざっつ…」と声に出たがそれが妙に滑稽(シュール)で可笑しく、しばらく含み笑いをしていた。


 森に続く道を歩いた。森といってもいろいろあるが、冬は雪深いこの地域らしい針葉樹の森だ。比較的大きな猛禽類がいるので気を付けなければならない。蜂がいる、というのも頷ける。森の奥まで道があった。獣道ではない。ヒトの気配がする。案の定建物が見えた。森の奥にあるのが不自然な【屋敷】とも呼べそうなそんな建造物。灯りも煙も洩れていない。だいぶ前に遺棄されたもののようだ。


 炭焼き小屋…、にしては随分しっかりした門構え。


 この地方に来る前、森と言えば奥に歩を進めると決まって大戦の痕跡が見られた。遺棄された武器や大砲。動物やヒトの白骨などもよく見かけた。都市部周辺ではそれらを撤去する市民運動により美しい森が戻りつつあるが、少し離れると途端に戦争の疵痕が目についた。魔導器が市民の生活に根付いて久しいこの時代に、森に現れる幽霊が話題となり教会が公的に声明を公表するなど、森には未だ殺伐とした空気があるのだ。


 この森は戦場になったことが無いのだろう。美しい森だ。

 途中鹿の群れと遭遇した。おおー鹿だーと眺めていたら、懐かれた。こんなに翡翠眼(エルフ)懐っこい鹿も最近では珍しい。誰かが餌付けでもしたのだろうか?


 鹿の餌付けは難しいはずだが、ここまで警戒心が無いと、簡単にヒトに狩られるだろう。朝食べた肉も鹿だ。流石に懐いた鹿を捉えて宿に差し入れする気にはなれない。先程見た小屋の住人が餌付けしたのか、もしくは自分と同じ翡翠眼(エルフ)が住んでいるのか。これらの鹿達は懐かしい臭いに惹かれただけだったのかもしれない。


 道が無くなり、倒木などが増えた。木々の密度が濃くなり鬱蒼としてきた。鹿達は附いてくる者もいた。小鳥が肩にとまろうとしてきた。


 あはは、そういえば私、森林適応亜人種(エルフ)だった。


 すっかり忘れてたよ、と彼女(ルーチェ)は笑った。そういえばここ数年、都市と山岳地ばかりを行き来していた。山岳地にも森はあるが、動物たちの気配は薄い。豊かな森は久しぶりだった。


 ふと、森に光が差した。少し拓けた場所がある。彼女の目的地はここだ。紫水蕣(ハーフェンメロア)の花。森の奥からだとそこだけ赤紫の絨毯が敷き詰められているようで違和感がある。


 凄い、今日一斉に咲いたのか


 緑の風景をずっと歩いてきた彼女にはより鮮やかな赤紫に見えた。陽が差し込む、泉が沸く場所。硬度が高い水を好む水生植物、紫水蕣(ハーフェンメロア)。一年に数日のみ、水から顔を出し赤紫の花を付ける。甘い香りとは裏腹に毒があるため多くの動物は近寄らない。それ故に美しい場所で咲くのだ。


 頬を伝う涙に気付き、拭こうかと思ったが手が汚れていたのでやめた。


 美しいものを見ると、何故泣くんだろうな


 彼女(ルーチェ)は慣れていた。何かを見ると急に涙が出ることがある。この風景もそうだった。記憶症の一種らしいが、一人でいる時は困るものでもない。胸が詰まるわけでもなく、ただすっと涙が出るだけだ。


 さて、と麻袋と手袋を取り出して、躊躇無く靴と靴下を放り投げ、スカートを脱いだ。この泉は硬度が高い。蛭や寄生虫は居ない事が分かっている。水は冷たいが、少しの間ならなんて事はない。下半身が下着が露わになるのは心許ないが、まぁ、誰が見ているというわけでも無い、と。


 凄い群生だ。売る程ある。ところ変わればとは言うが、天然モノは都市部ではとても高い。旅商人に売れば当座の資金にはなりそうだ。水面から顔を出している花を摘み麻袋に入るだけ入れた。足が冷えたので、ちょうどぽっかりと口を開けている洞窟の入り口で火を熾した。湧き出た水が削った洞窟で奥は然程深くない。危険な事も無さそうだ。


 宿を出る時、どこかで食べて下さい、と宿主人に渡された包みを開いた。丁寧に形を切り揃えたパンに乳脂と胡桃のペーストがサンドされている。また、燻した塩漬けの鹿肉が挟まったものもある。思わず声が出た。なんと細やかな仕事だろう。僻地の村宿とは思えない味だ。泉の水は硬過ぎてあまり飲まないほうがいいが、氷の魔法くらいは使える。湿度たっぷりの森の中だからわけは無い。粉のお茶を淹れて飲んだ。


 腹が膨れ温まったら眠くなってきた。まさかこの森の奥で甘い物が食べれるとは思わなかった。ふっと緊張が解れた。少し寝ようか。この場所は危険がない。蜂の話を思い出したが、火を焚いているし、何せ麻痺性の植物の群生地の傍だ。少しくらい休んでも問題無いだろう。


 遠くで鹿が啼くのを聴いた。警戒の声ではない。常に流れる水の音は心地いい。


『今のうちに寝ておけ、明日は早い』


 そうだね


『…なぁ、ルーチェ』


 何?


『コレが終わったら、やっぱり何処か行っちまうのか?』


 どういう意味?


『オレと…一緒に暮らさないか?」


 …残酷だよ、それ…


『そうか、そうだよな…』


 でも…まぁ、いいよ…


「あの」


 急に声がして飛び起きた。思わず身構えたが声の主が見えない。


「そんなに驚かないでくれよ。驚いたのは…こっちの方なんだからさ」


 陽が沈みかけていた。薄暗い。だいぶ寝てしまったようだ。にしても、この声の主は何処にいるのか。直ぐ傍にいるように聞こえるが見渡しても居ない。


「こっちだよ」


 のそっと、洞窟の方から動く人影が見えた。暗い奥から姿を見せたのは世捨て人のような、浮浪者じみた姿だった。それほど奥が無い洞窟だったはずだが、と彼女(ルーチェ)は警戒した。調べた際には何も無かったはず。ましてや、ヒトの気配などしなかった。


「君、ユビ(村)から来たのかい?」

「…そうだけど」

「ごめんね、驚かせたみたいだ。俺はずっと此処に居るんだよ」


 声からして男のようだが、洞窟を背にしているからか、声が目の前から聞こえるような感覚がある。夕暮れで暗いせいもあるが顔がよく見えないが、目が大きく窪んでいるように見える。しかも光が届く場所まで出てこようとしない。


「ごめんなさい、いるとは思わなかった」

「いや、いいんだ。…その…いいものも、…見させてもらったしね」


 この男が何の事を言っているのか、一瞬わからなかったが、つい先刻の自分の姿を思い出して納得した。今はスカートを履いているが、この男、どうやら自分が此処に来てからの一部始終を見ていたらしい。


「最初から見てたのね?」

「あ、あぁ…そうだ…ごめんよ」

「別に謝る事ないよ」


 不自然だ。

 こんな森の奥でヒトがいるとは。


 男はボロボロの服を着ている。一部は崩れかけていて、元の色か、苔かすら判別出来ない緑がかった灰色。腹部から下半身にかけて、液体を被った跡のような模様がある。ボトムスは限り無く黒に近い紺色。足首は露出していておよそヒトの皮膚とは思えない緑がかった色で蝋人形のようだ。そしてすっかり艶が失せた頑強な革靴。

 彼は消えかけている焚火の傍に音もなく座った。夕暮れ時、光が届いているのは靴だけで、それ以外が不自然に暗く見えた。陽が落ちみるみる辺りは暗くなる。顔が相変わらず見えない。


「君、急いで村に帰った方がいい。今ならまだ間に合う」

「え?」


 彼女(ルーチェ)は正直驚いた。此処に留まれ、と言われると思ったのだ。吸血鬼化した者や、魔化した翡翠眼(エルフ)などはヒトを喰うこともある。女の翡翠眼(エルフ)の肉は美味い、という笑えない冗談もよく聞く話だ。


「道なりにこの森に来たんだね?」

 右手をすっと上げ、指差した。村とはほぼ逆の方向。

「この方角に森を突っ切るとすぐに巡礼線に出るんだ。その道に出さえすればあとは迷わず村まで帰れる」

「そうなの?」

 冷静を装うが、明らかにこの男の様子はおかしい。罠の可能性もある。納得したふりをして荷物をまとめた。


「貴方は? 村に帰らないの?」

 その言葉に、男は妙にビクリと肩が動いた。

「…帰れないよ…」

「…」


 陽が傾いて半身がはっきり見えた。陽が当たっても平然としているところを見ると、吸血鬼では無いらしい。彼女(ルーチェ)はハッとして全てを悟った。


 ちょっとした沈黙の後に、男はぼそりと言った。


「…俺さ、服が、汚れてるんだ。こんな格好で村に行ったら…驚かれちゃうだろ? これでもさ、『服を作る家』に生まれたんだ」


 服を作る家…?


「あの村の生まれなの?」

「そう、そうさ。帰ってきたんだ」

 男の声は少し明るくなった。

「村の人に伝えようか?」

「いやいや、言わないでくれ!」


 急に大声をあげたので驚いた。それを見て男は「ああ、ごめん」と続けた。


「…服をさ、服を買ってきてくれないか? 今金無いけど、いずれ払うからさ。何でもいいんだ。汚れてなければ古着でもいいからさ…」


 彼女(ルーチェ)は男に言われた通りに、既に暗い森を急ぎ足で歩いた。その男が作った道なのか、それとも泉に最短距離で行くために過去に作られたまま遺棄された道なのか、獣道よりもマシ、程度の道だったが、迷わずに歩けた。程なくして視界が開けた。完全な闇に閉ざされる前に森を出れたのだった。王都の女神聖教大聖堂に続く巡礼線。この道ならあとは暗視魔法でどうにでもなる。


 村の門をくぐったのはそれから二時間後だった。家々にはまだ灯りがある。大きな麻袋を担いできたルーチェを宿主人は嬉しそうに迎えた。「遅いので心配しましたよ」と。ルーチェは今日起こったことを言わなかった。



 次の日の、朝とは言えない昼近く。ルーチェは起きた。幸いな事に夢に悩まされることは無かった。森で良い空気をたっぷり吸ったおかげかもしれない。眠い目をこすりつつ、食堂まで下りた。

「おはようございます」

「おはようー」

「昨日の荷物、あれ凄い量の花ですな。今裏で乾かしてます」

 昨日寝る前に宿主人に頼んでいたのだ。風に当てないと腐ってしまうからだ。

「いろいろお世話になってるね。後で代金払うから」

 宿主人はかぶりを振った。

「昨日も言いましたが、お世話なった方から代金は取れませんよ」


 はて、自分はこの宿主人にどんな「お世話」をしたのだろうか? 首を傾げるルーチェに宿主人は何の含みもない笑顔を向けていた。

 軽く食事を済ませたルーチェは、ライルの家に向かった。ライルは歳にして三十代後半だろうか? ヒトは老いがあるので年齢の予想が付きやすい。

「あれ、昨日の…」

「ちょっと聞きたいことがあるの。この村で、服を作る家、って何件くらいある?」

 妙な質問だな、とルーチェ本人も思ったが、ライルはにっこりと笑う。

「そりゃ、ウチの事ですよ」

「あ、やっぱりそうなんだ」

「ええ、私の祖母がやってた店の名前が『服を作る家』っていうんです」


 祖母


「その人は、いる?」

 一瞬間抜けな顔をしたライルはぱっと明るい顔になった。

「あんた、オルティナさんか?」

「え?」

 私はそんな名前じゃない。少なくともここ最近は。

「違うよ」

「ああ、そうか。済んませんね。祖母が昔世話になった翡翠眼(エルフ)の話をよくするんですよ」


 また、翡翠眼(エルフ)にお世話になった話?


 ライルは家の奥まで案内してくれた。思ったより広く、工房があった。どうやら本当に服を作る店だったらしい。柔らかい日差しが当たる庭先で、昨日貰った藁の縄を老婆が器用に編んでいた。話があるんだとよ、とライルが言うと手を止めた。

「まぁま、お客様。お茶でも淹れましょう」

「あ、あの…」

「さぁ、そこに座って」

 老婆の有無を言わせない空気に思わず怯んだ。ヒトは老いるとどうしてこう、押しが強くなるのだろうか。自分の方が遥かに年上のはずなのだが。翡翠眼(エルフ)は「老い」に本能的に憧れる、と聞かされた事があった。実際長寿族は老いた姿を見ることは殆ど無い。大体その姿になる前に人前から姿を消してしまう。森の奥で一人で住むか、老いる前に精神がやられて自死するかのどちらかだ。たった五十年足らずで劇的にその容姿を変えるヒトに対して、若干だけ羨ましい感覚はある。ヒトにこれを言うと嫌がられるが、男の翡翠眼(エルフ)はヒトの老婆を好む事が多い。


 お茶が注がれた。

「私にお客さんなんて、久しぶりね」

「そうなんだ」

「最近は、服直しする人もめっきり減っちゃったしね」

 勘違いしているなぁ…

「あのね、服直しに来たんじゃないんだ」

「まぁ?じゃ、仕事以外で会いに来てくれたの?」

「え、あ、まぁ、ちょっと聞きたいことがあるの」

「なあに?」

 ルーチェは大きくため息をついた。

「森の奥でね。男の人と会ったんだ。その人がね。服を買ってきてくれ、というのよ」

「まぁ、どんな服を?」

「うん…、その人ね。『服を作る家』の生まれだって言ってたんだ」

 老婆のお茶を啜る手が一瞬止まった。


「『服を作る家』の?」

「帰りたいけど、服が汚れて帰れない、と言ってる」


 長い沈黙があった。老婆は俯き手に持ったお茶の揺れる水面を見ていた。

「会うことは…出来る?」

「…」

 ルーチェは返答に困った。

「ごめんなさい、そうね、そうよね、そういう事よね」

 老婆は急に立ち上がり、ちょっと待ってて、と言って家の奥に消えた。

「…」


 ルーチェは家の中を覗いてみた。工房には古い糸車があった。立派な機織り機もあった。もう長い間使われていないであろう編み棒なども見えた。この辺境の村では珍しい高価な織機。今でも都会で使用されている古いタイプだ。こんな小さな村には明らかに場違いな代物。糸さえあれば良質な服を量産できたはずだ。ルーチェが今自分で着ている服も質は良い。絵柄のパターンか、もしくは服の型紙だろうか。沢山の厚紙が乱雑に積み上がっていた。しばらく動かしていないのだろう。埃を被っている。


 老婆が家の奥から戻ってきた。緑色がかかった服を大事そうに抱えている。

「この服を、その人に届けてほしいの」

「結構いい服じゃないの?」

「いいのよ」

 手渡されたその服は相当古い服だ。少しだけ虫よけ臭い。だが、大事にされてきたことだけは分かった。誰も袖を通した事がない服ではなかろうか?

「その服はね…」


 ルーチェはその日の午後、ロバを借りた。だいぶくたびれたロバだったが、ルーチェを見ると妙に目を輝かせた。飼い主に「現金なやつだな」と罵られたが、毎日重い荷物で酷使されているためか、今日の荷物は翡翠眼(エルフ)一人分だとわかって嬉しそうに瞬きをしていた。ロバは元気で力強く歩き、目的地まではすぐに着いた。あの男が教えてくれた道。王都側への分かれ道を少し行ったところにある脇道だ。そこの木にロバを繋いだ。


 少し歩いただけで泉に着いた。勾配のせいか道からは泉は見えないが、本当に目と鼻の先だ。紫水蕣(ハーフェンメロア)の花はまだ満開に近い。昨日ルーチェ本人が刈り取った部分を除いてはまだ見事に咲いていた。此処まで来て、しまった麻袋を持ってくればよかったと後悔した。周辺から薪を集め、昨日と同じ場所に火を熾した。


 夕方までにまだ時間があった。紫水蕣(ハーフェンメロア)の香りのせいか、妙な眠気が襲ってきた。普段この香りを嗅いで寝ることが多いのでただの条件反射かもしれないが、洞窟の入り口でもたれ掛かってうとうととした。


 ま、こうした方が『あいつ』も現れやすいかな…


『おい見ろ、あれじゃないのか?』


 あんな所?


『飛翔術を使えば』


 みんなの分なんて無理だよ


『オル、お前が先に行ってロープを垂らせ』


 それならなんとかなるかも


「やあ」


 また突然だ。気配には気付きやすい方なつもりなのだが、全く感じず驚いて飛び起きた。昨日よりも暗い。時間は然程経っていないはずだった。

「ああ、そんなに驚かなくてもいいだろう?」

 ルーチェは確信した。この男、気配が無いのだ。

「今日は…その…」

「え?」

「花積みはしないんだね」

 ルーチェはその言葉の意味を一瞬捉え損ねたが、えへへと笑う男に、少し呆れた。

「今日は脱がなかったね、って言いたいの?」

「…まぁ、そうだね」

「…持ってきたよ、服」

 男は驚いた様子だった。リュックから差し出された服を、恐る恐る手に取って、じっと見つめた。


「今度はあなたが脱ぐ番よ」


 男はただじっと服を見ていた。曇っているせいかとても暗くなるのが早い。夜闇はすぐ前に迫っていた。

 男は服を広げてみてハッとした。匂いを嗅ぎ、手が震え、一歩後退りした。


「なぁ…」


「ん?」


「…この服、作った人は…、元気にしてたか?」


 大国同士の衝突は、当時小さな集落を形成していたに過ぎなかった僻地の農村にまで影響を及ぼした。戦争の事の発端は、魔導器の平和利用の協定上の監査要人が視察の日程期間中に船上で暗殺されたことから始まった。もともと魔導開発において優勢だったキュベス国が譲歩という形で締結された安全保障は、神学側と魔科学側の泥沼の闘争の最中に結ばれたもので、言ってみればただの張りぼてであった。


 過去にも大戦はあった。威力の大きい魔法を使いこなす翡翠眼(エルフ)を始めとする魔力保持種族同士の衝突は、どちらも護る事に対しても長けており、最終的にはけん制しあって長期化し、和平を結ぶ、というパターンの繰り返しだった。しかし、今より四十年前に終結した大戦はそうならなかった、歴史上類を見ない大惨劇となった。


 魔導器の開発により、魔力に乏しい「ヒト」にも威力の大きい魔法を与えたに等しい事になり、より破滅的な戦争へと発展した。威力が重視された魔導兵器は、防御の点を考慮せず、敵を殲滅するまで続いた。戦闘においての生存率は極端に低く、また、蘇生による兵数回復を防ぐ為に反魂阻害の呪いまで持ち出した。軍は極端な兵士不足を招く事となり、挙句の果てには国の維持に不可欠であるはずの農耕地の若者にまで募集をかけた。


 兵士には農村では生涯かけても足らないほどの賃金が支払われた為、つい数日前までは鍬を握っていた若者たちは、数週間後には魔導兵士として戦場に立っている、ということが日常の出来事としてまかり通った異常な状態がしばらく続いた。


 本来、戦場で先頭を切っていたはずの魔力保持者は、魔導兵器を生産製造する側に回り、戦えない、ほぼ身を守る手段を持たない「ヒト」の多くが戦争の犠牲となった。さらにその状況を悪化させたのは、魔導兵器への対抗手段を講じていた神学側が用いた「不死化」の術式だ。戦況が膠着状態となると、魔導兵器の多くは物理的な破壊よりも、兵士の生命を効率的に奪う『死の魔法』が多く用いられた。火や氷などの魔導兵器と異なり、環境に対しての損害を最小限に抑えた兵器で、生命だけが失われる戦場となった。通常の装備では防ぐことが難しく、また旧式の破壊力重視の兵器と併用されると全滅を余儀なくされた。


 それに対抗するために神学側が取ったのが、らしからぬ「不死」の概念だった。予め生命活動を止めた兵士、即ち「死者」に意識と目的だけを植え付け、身体に防腐を施した、「不死人軍」が登場したのだ。しかも戦況が究極の状態を迎えていたため、兵士本人たちの了承を得ずに「不死人」にさせられた者も少なくない。


 四十年経った今も、各地で見つかる元不死兵士の話題は事欠かない。不死といっても、身体を維持できる限界などとうの昔に過ぎており、空腹は感じても食事はできず、痛みは感じても回復はしない。完全に焼却しなければ死なない身体。今では不死人軍創設の責任を追及し裁判やら弁明やらのなすりつけ合い。本人たちは完全に蚊帳の外の外交カードとして用いられている。


 女神聖教側が不死人救済の為に動いてはいるが、救済といっても「完全な死を与える」だけだ。


 戦争が招いた、ヒトの歴史としてあってはならない禁忌。平和が訪れて四十年経った今も、戦争が終われない者が数多く存在している。


 私の弟、エレクはね


 私と十歳も離れているの


 もう…、四十年以上も前に


 国の為に戦う、といって


 この村に


 私に、楽をさせるんだと言って


 都に旅立っていったのよ


 その頃、私はうちの人と結婚して


 親も早くに亡くしていたから


 エレクにはきっと


 はやく、自立したい、っていう焦りがあったのね


 一年して、とても大きな機織り機が届いたのよ


 あれがそうよ


 手紙にはあと数年したら、この村に戻って服を作るんだ。


 その為の織機だ。それまで、使っていいよ姉さん、って…


 戦争が終わったのに


 あの子は帰ってこなかった


 この服はね


 この織機で、初めて作った服なのよ


 とびきり豪華な糸を使ったから


 ほら、四十年も経ったのに


 全然傷んでいないでしょう?


 あの子が帰ってきたら


 この服をあげるつもりでずっと持っていたけど…


 その人に届けてあげて


「…いいの? 大事なものなんじゃないの?」

「いいのよ。どうしてかわからないけど、その人に…とても…あげたいの」

「…そう…」


 わかってる


 わかってるでしょう?


 ごめんなさいね


 あなたを傷つけている事はわかっている


 私には昔なじみの翡翠眼(エルフ)の友達がいたから


 私が生きている限り、彼女は、たぶん、とても辛いのね。


 私を思い出せない自分が、許せないんだと思う。


 たとえ、会っていなくても


 今後、二度と会えなくても


 生きている、というだけで


 忘れる事が許せない事ってあるものね


 ごめんなさいね…



「あなた、エレクって言うんだってね」

 服をじっと見つめていた男は見えない顔で狼狽した。

「あなたのお姉さん、生きてるよ。元気だよ」

 男の身体が震えた。小刻みに。

「この服はね。そのエレクっていう弟が帰ってきた時に着てもらおうと思って作ったものなんだって。もう四十年も前の事らしいけど」


 わかってる


 わかってるでしょう?


「四十年…、四十年か…」

「あっという間よ」

「そう…そうだな、あっという間だよな…」

「会いに、行かないの?」


 男は吠えた


「行けるか!こんな、こんな姿で!

 見ろ、この血の跡を

 この血は、俺の血じゃない

 返り血だ

 俺が殺したやつの

 着なきゃ良かったんだ この服

 知らなかったんだ、俺は…

 こんな片田舎で育って

 夢を見てたんだ

 戦場に立って

 いきなり、武器を持たされて…

 挙句の果てに

 こんな身体にさせられて…」


 男は力無く膝をついた。


「この服は俺が十六の誕生日に

 姉が編んでくれた服だ!

 これを着て

 ずっと

 ずっと

 ずっと戦ってきたんだ

 だけど

 こんなに

 ボロボロに

 汚れて…」


「着替えなよ」


 暗闇に蹲る男に、ルーチェは言った。


「ずっと、ずっと、ずっと、待ってたんだよ、それ」



 男ははっとしてルーチェを見上げた。その時初めてはっきり見えた。男の顔。もはや肌の質感は失われている。自我を保っていられるのが奇跡的な朽ちかけた不死人。


「袖、通してあげなよ」


 ルーチェは、できるだけヒトと関わらないようにして生きている。できるだけ、心が動かないように生きている。だが、長い生涯で、涙腺だけは制御できないでいる。


「時間は、長さじゃないんだよ。私が言うんだ。間違いないよ」


 たった一度でいい。一瞬でいい。


 その服を、あなたが着れば


 それだけで


 少なくとも一人のヒトの心は救えるかもしれない。


 四十年の、想いを


 たった一度だけで。


「…はは…ははは…」


 男は笑った。暗闇の中で。


「似合うかな…」


「似合うよ」


 絶対に


「着替えるから、あっち向いてろよ」


「何よ、私の着替えは見たくせに、自分だけ見せないつもりなの?」


「俺は、こう見えて恥ずかしがり屋なんだよ」


「そんなんだから、四十年もかかったんじゃない」


「そうか、そうかもな…」


 男は、朽ちてボロボロの自分の服を引きちぎった。自分を四十年も支えてきた、不死の自分を保ち続けてきた、その服を。


「どうだ?似合うか?」


 絶対に


「暗くてよく見えないよ」


「嘘でも似合うって言ってくれよ」


「適当な事は言わない主義なんだ」


 ルーチェは光術で辺りを照らした。暗闇に、髪が殆ど無く、艶の無い肌の不死人が、少し小さい服を着ていた。


「それ、少しきつくない?」


「そうだな」


 不死人は恥ずかしいのだろうか?


「ねーちゃん、俺が十六のままだと思ってたのかな」


 顔が歯に噛んだ様に見えた。


「よく似合ってるよ」


 暗い森に、翡翠眼(エルフ)と不死人の笑い声が響いた。



「なあ、あんた」


「ん」


 いやだ


「あんた、エルフなんだろ?」


 いやだ


「うん」


 忘れないと


「魔法、使えるんだろ?」


「うん」


 忘れないと


 暗闇に突然光が差した。雲間から月が顔を出したのだ。男はそれをふと見上げた。その時ルーチェが見たのは不死人の顔では無かった。日焼けした、働き者の農家の若者の顔。田舎者だが人が良さそうな、甘やかされて、悪戯が好きそうな少年の顔。姉想いの、可愛がられて育った弟の顔。


 月の光が起こす、奇跡。少なくともルーチェにはそう見えた。


「すまないけど…頼むよ」


 男はそう言って、そこで静かに手を合わせた。


 何故私が?


「…そうだ、名前、聞かせてくれないか?」


 私?


「…ルーチェ…」


「ルーチェか」


 月の光が雲に遮られ、また闇に閉ざされた。


「ルーチェ、ありがとう…悪いね……」


 ルーチェは小杖を構えた。


「頼み事が…多いよ…」


 次の日、ルーチェはまた昼過ぎまで寝ていた。あれだけの経験をしたのに不思議とよく眠れた気がする。空腹だったが今日は食事よりも前に済ませたい事があった。鬱陶しい霧雨が降りはじめた。宿主人から傘を借りた。

 ライルの家は本当にすぐで、扉を叩くとすぐに出てきた。話をつけてまた奥へ招かれた。

 老婆はルーチェを見るなり、興奮気味だ。

「まぁ、あなた、それからどうなったの? その人はその服、着てくれたの?」

 恋する少女のような目だ。ルーチェは苦笑いした。

「少し、小さかったみたい」

「あらやだ、じゃ、別なちゃんとしたのを作らないと」

「あ、えーと」


 わかってる


 わかってるでしょう?


「その人、あの服を着て、遠くに旅に出るって」


 老婆は優しい目を向けた。ルーチェが目を合わせられない程の、優しい目。


「そうなの?」

「これ…、これを…」

「まぁ…これ、随分汚い靴」

 何年も野晒しにされたような革靴だ。だが、艶は無くとも思いの外しっかりしている。

「ああ、懐かしい。むかーしに兵士に支給されていた革靴ね」

 老婆は、その靴を大事そうに抱えた。汚れる事も厭わずに。

「これを、置いて行ったの」

「そうなの? にしても随分汚いわね…汚いわ…きた…な…」


 老婆と翡翠眼(エルフ)は泣いた。霧雨の音は静かに二人を包み込んだ。



 宿の名前、なんて言うか知ってますか?


 ここ、私で四代目なんです。


 この宿の名前は「花が咲く場所」って言うんです。


 随分とキザな名前でしょう?


 私も子供の頃はそう思っていたんです。



 この宿を創業した、私の曾祖母さんが付けた名前で


 継ぐ時、名前の意味をはじめて知ったんです。


 この宿に、泊まりに来る翡翠眼(エルフ)の人で


 紫水蕣(ハーフェンメロア)が咲く場所について聞いてくる人が居たら


 その人からは、お代は受け取らない事。


 そして、この手紙を渡す事。


 それが、この宿を継ぐ者としての、約束とします。


 ルーさん。


 あなたは翡翠眼(エルフ)だから、『忘れなきゃいけない』


 でも、何を忘れていても


 この手紙だけは、読んでもらいたいんだ。


 そしてその手紙、またウチで預かりますよ。


 また何十年後かに、ウチに来た時に


 また、あなたに読んで貰えるように。


 これは、忘れる為の物語

 忘れる為に、書いている

 忘れなければならない

 でも

 忘れたくない

 私は

 どれだけの物語を忘れればいいだろう

 失くしたくない思いを

 どれだけ喪えば生きられるだろう


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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは。ツイッターでTRPGのお話を聞いた者です。私もルーチェさんの話を書こうとしてますが、まだまだ時間がかかりそうです。 先にこちらを読ませていただいてよかったです。魔導器とか大戦の話…
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