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ヒーロー進行形

作者: 清水さゆる

 いやまさか本当にこんなことになるなんて。

 作家というのは、死んで二度と新作がでないとわかると、お買い得とばかりに値がつくものだけれど、現実には逆で、生き残っているだけでも価値があがる。なぜなら、だんだん、書けなくなるから。

 作家の最大のライバルはいつだって、白紙の原稿だ。書けるのか? ホントに書くのか? 何書くんだよ。どう書くんだよ。すでにツマラナイんじゃないか!? そんな自問自答の末、作家はどちらかの道を選ぶ。書く。あるいは、なかったことに。

 担当編集者に没をくらう確率が一番高いのは、公募新人賞だ。あとは、書き始めてすぐ、自分で没にしてしまう。書ける気がしないからだ。

 書こうとはする。どの作家も、書こうという気持ちは持っている。ところが、実際に「書く」となると、どんなに豪胆な作家でも必ずへっぴりごしになるものなのだ。

 曰く。小説を書けない小説家。

 ぐぬぉ……とうなり、原稿用紙なりノーパソなり、ぱたんと閉じて投げ出して、人知れず挫折した小説家の、なんと多いことか。

「多数決だ」

 誰にともなく言う。

「多数決で決めよう。書くか、書かないか」

 暴論である。書くのはいつだって、作家自身、ひとりなのだから。そして、圧倒的数の不利を覆して、たったひとり、白紙の原稿用紙に立ち向かって筆を執るその最初の一文字こそ、まさに英雄ヒーローと呼ぶにふさわしいのだ。

 しかし。

「だめだぁ……ボクの才能は、枯れ果てたぁ」

 たいていの場合、10行以内にもろ手を挙げて降伏することになる。

「いろいろやってみたんよ」

 鼻声なのは、花粉症のせいではない。

「応募時代の落選作をウェブに公開してみたり」

 それでたったひとりでも編集者が反応して、あるいは奇跡の一発大ヒットを……と、途方もない夢を抱いたころもあった。

「俺は、この作品でダメだったら死ぬしかないと思って書いたんだ」

 そして、大抵の場合、そういう作品は興業の都合を考えていないので、大敗を喫する。

 作者が書きたくて書いたものは、だいたい、読者にとってはツマラナイものなのだ。一生懸命、真面目に書く。たった一人でも読者がいるのなら、書く。それを信じて実行できるうちは、それだけで十分尊い。そして数年後、低い天井をあおいで、絶叫することになる。

「書けねぇんだよぉ!」

 かつてはどんなスランプ作家も新人だった。

 新人は……じんまじまは、すでに、「新人」ではなくなっていた。チャンスのなかった新人から、確実にツマラナイその他に、繰り下がっていたのである。

 エンタメの世界に、ツマラナイが生きていく場所はない。面白くするためにはどうするか。ある人が言うには、敵を作るからつまらなくなるのだという。ある編集者が言うには敵こそ魅力的で一番面白く作るべきだという。主人公にとって大きな悲劇、たとえば恋人との死別や、信頼していた仲間の裏切りなど、不幸や不運があると、面白くなるのだという。ハリウッド脚本術が言うには、主人公は徹底的に突き落とせ、と。

 その点、じんまじまは、実に半端だった。

「つまらねぇんだよぉぉぉぉぉ! それ面白いとでも、思ってんのぉぉぉぉ!?」

 そして、だいたいいつもここで、デリートキーをしまうのだか、そうはさせまいと作家の没発作の特効薬が開発された。パソコンそのものを、担当者が接収してしまえばいい。

「デリートキー……応答してくれぇ……」

 答えは、なかった。

 じんまじまの経歴は、こうだ。なぜか自分は小説家になれると思い込んで、ろくでもないライトノベルの新人賞で受賞したはいいものの、デビュー作が失敗してしまい、放浪すること3年。とある自称(辣腕)編集者と出会い、起死回生の一作で一般エンタメに返り咲くも、はたしてそれが実力であったか疑わしい。

 読者は、疑わなかった。疑ったのは、じんまじま本人だった。そして、不安に駆られてネットの読者感想をあさって日々過ごしているうちに、気付いてしまったのだ。

 俺は、書けないやつなのだ、と。

 その結果は、編集者がテコ入れしてなんとかゲタをはかせてもらって、さまざまな幸運が重なって、たまたま脚光を浴びた短編の、その次の長編で、じんまじまの作家としてすべてを骨も残らないほど粉砕してしまった。粉骨砕身とは、努力の果てにこうなることを言う。

 そのときの、本人曰く、壮大で深淵な長編ファンタジーの感想が、こちら。

【私は私の恋愛を商品にしたがる女性読者が大嫌い(20代女性)】

 あんた誰ですか?

【今だ恋を知らず。知らないものはしょうがない。これから、知っていけばいい。もし恋愛したら、人がどうしても好きな人のこと忘れられなくて、かわりがいないって事実を知ってほしい(中学生)】

 ぐうのねもでなかった。

【他愛ないって、すごくちんけでどうでもいいって意味なんだけど、他に愛するものもないって字面、かなり強めですよね。(30代男性)】

 いやみかよ。

【賢くて強い女性は、恋愛したら、弱くなっちゃうものなんでしょうか。(女子高生)】

 お前は俺のヒロインの何がわかるっていうんだよ、お前じゃねぇぞ。

【正直、期待はずれ。(多数決で圧倒したフレーズ)】

 読者がもっとも言いたいすべてが、これか。

 かくして、じんまじまは期待恐怖症に陥り、次第に執筆から遠ざかっていったのだった。

 本人にとっての傑作は、他人にとっての駄作である。そのときの作品は、カリスマと神がかり的な軍才で民衆を統治し、敵国の王子と結ばれぬ恋の果てに、神界に通じるという何も写さぬ黒の鏡を通って、現代日本に転生し、自分の亡きあとの過去の世界を操作して、歴史を変えてでも愛する人を悲劇の結末から逃がそうと奮迅し、そして、再び鏡の力で古代から恋人を現代の世の中に召喚するという、非常に志の高い作品だった。

【それゲームのほうが面白いですよね(当時の担当者)】

 そして、結果として、別のレーベルからゲームラノベが大ヒットして、あえなく轟沈。しばらく盗作を疑って編集部とつばぜり合いを繰り返したけれど、確たる証拠もなく、似ているだけでは「窃盗罪」にはならないと、くわえて、使用契約書に違反はないと、いっそ契約書破り捨てようかと怒髪天ならぬ版権引き上げ寸前まで思いつめたところで、ぽんと降ってきた印税の金額に、ついに黙らされたのだった。

 金になりゃいっか。

 なにかが、ばきっと音を立てて折れてしまった。仮に作家が船だとしたら、竜骨からぼっきりいってしまったのだ。こんなもんだよ、商業作家なんぞ。

 絶対小説家になると言ってきかなかった、子供のころのじんまじまよ。だったら、小説家にはならずに、飽きるまで書いて、飽きたら書くのをやめるほうが、よっぽど作家だ。授業中にノートの下に隠した原稿用紙に書きなぐっていた、そのときのお前のほうがよっぽど、作家だったよ。

 しかも、じんまじまにとって、それは二度目の挫折だった。つかまされたチャンスと、売りたくもない売れ方で得た印税は、モチベーションが上がるどころか、余計にへし折られた。

 担当者は言う。先生にファンレターたくさん届いていますよ、と。

【あなたが自分の作品を愛せないなのが、不本意みたいだけど、それはもう、人の気持ちだから仕方ない。自分で自分の作品に惚れこむ、打ち込むことを忘れてるなら、思い出すまで待つしかない。(桜弓しずる)】

 いやいやいやいやいや。今を時めく人気脚本家に言われましても。

【どうして小説家になりたかったのか。そのうち、思い出す日がくるかもしれないし、こないかもしれない。どうしても自分が書くんだ、という強い気持ちがあればあるほど、不思議と、世の中と読者に負けてしまうものです。そのくらい「最弱」であるべき。作りたいから作る。自分が書く。それって、興業としては発想の時点で大敗ですよ。何の計算もない。気持ちだけで勝てるほどたやすくないのは、新人賞で学んだはず。もう忘れてしまいましたか?】

 これが、鶏冠もない烏骨鶏じんまじまの逆鱗に触れたのだった。

 ばつん、と、頭の裏側らへんで何かが切れた音がした。

 嘆かわしいよ。

最悪。靴下くさい。絶望的に自分の靴下がくさいんだよ。俺が自著に対して抱いている感情はまさにそれ。くさい靴下を、いい匂いだと言ったやつらの面目なんぞ知るか。損害賠償でもなんでも起こしやがれ。知るか。知ったことか。

「自分の靴下の匂いはなぁ、くさいだろうがよぉぉぉっ!!!」

せっかくの色っぽいフォロー台無しじゃないですか、なんてことしてくれるんだ。絞め殺すぞ。担当者に制されても、じんまじまの怒りはおさまらなかった。

「うっるせぇんだよ! もっと自分の作品を愛せぇ!? じゃああなた自分の靴下の匂いがくさすぎて鼻つまむことないんですか!?ってキレかけたもん」

 創作論に、優劣も勝敗もない。これをこう表現する、というのは、作家の個性の原液だ。

ただし、靴下、お前はダメだ。洗って干さないかぎり、くさいままなんだよ。わかるか、じんまじまのしましま靴下。店頭にあったときは無印良品でも、じんまじまが履いたらくさくなるんだよ。俺は、桜弓しずるさんを殴らない。俺を殴る。

 そして、ネットに自分の作品の悪口を書き散らしていたのが担当者にバレて、それは取引先のイメージダウンになるからやめなさい、と、ついに通信端末を没収されたのだった。

 そのときの担当者の、強姦魔のような目がいまだに忘れられない。

【桜折るバカといいますからね。あなたが賢明で配慮のある男性でよかった】

俺の作品なんぞ、靴下と同じなんだよぉぉぉっ!あなたの靴下はきっといい匂いがするはずです、脱ぎたてをかいでみてくださいって言われてるようなもんなんだよ! あんたたらうぬぼれだからパンツが桜餅の香りするかもしれないけど! 俺のは靴下の臭いなんだよ!俺の駄作は! 自分の靴下と同じ匂いで、とてもじゃないけど顔を近づけられないんだよ!」

 悲憤。まさにそれだ。

 ところが、相手が若い女性編集者だったのが悪かった。打ち合わせ中に作家が怒鳴りつけたと、セクハラに容疑が切り替えられ、辞表を出されてしまい、いよいよもって途方にくれることとなったのだった。

 いわゆる、野垂れ死にである。

「……その独り言、書けば文学、喋れば愚痴ですよ」

 精神的荒野で行き倒れていたじんまじまにとって、まさに干天の慈雨だ。なんと優しい雨! 自ら首をさしだしたじんまじまの前に現れた介錯人こそ、檸檬みんと、その人だった。

 コーヒーでも、と、連れ込まれた喫茶店の風情の真似事なだけのチェーン店の壁際、30センチしかない丸テーブルをはさんで、諸悪の根源はひたすらカマボコ板を見つめていた。

 ネットの反応でもチェックしてるんだろうか、と覗き見ると、画面は真っ暗。

「え、何してんの?」

 檸檬みんとは、電源を失ってひらすら暗闇でしかない液晶画面を向けて、言った。

「照魔鏡。自分が映るんですよ、これ」

「この、文学かぶれが」

 一瞬、面白いと思ってしまった自分をひっぱたきたいじんまじまは、しかし何もせず、コーヒーの水面に移る自分の顔をのんで、苦みと酸味に反射的に嘔吐感を覚えていた。

「早く事件が起こらないかなぁ、と、平穏な喫茶店で手持ちぶたさに道行く人を眺めるって、とても小説家らしいですよね」

 じんまじまは一瞬首を傾げ、それから、眉をひそめた。

「ミステリ作家って、いつでも目の前で人が死ぬのを待ち望んでるものなの?」

「嫌味です。つまらない原稿を読んでいると、さっさと事件はじまれよって思うこと、ありませんか。俺はあります。今まさにそうです」

「……なんか、すんません」

「なんで謝るんですか? 俺には、つまらないとケチをつけるための原稿もないのに」

「ホント、すんません」

「編集者に会うなら、どんなに駄作でも新しい原稿くらい持参するべきですよ」

「なんかもうホントすみません!」

 檸檬みんとはやっと、スマホの電源を入れて、かつてのように閻魔も黙らす眼光でじんまじまをにらみつけ、言った。

「よその編集部から、お前の担当作家事故ったぞwwwってメールを受け取った俺に対して、すみませんで済むと思ってるんですか。今日のお代は、そっちが持ってくださいね」

「いいよ、コーヒーくらいなら」

「パフェ追加しますよ、そういう態度だと」

 仮にドラゴンだとしたら間違いなく火球だったであろう溜息にのけぞり、それから、かつては新人だったしょぼくれた無職は、よけいに肩をすぼめた。

「いや、俺、悪くないし」

 じんまじまとしては、むしろ編集部のほうが著しい人権侵害だと言いたい。かぐやプロジェクトだか逆シンデレラだかしらないが、人気シナリオライターの女性と結婚して起死回生をはかる崖っぷちライターという、なんだかしらんが、彼女の中ではファンタジーができていて、その主人公に抜擢された自分は最終回で「今言わなかったらきっと後悔すると思って……ずっと、好きでした」と、桜弓先生に告白するという、個人的人権の尊重もプライバシーもへったくれもない、どうしてくれるんだと、もうとにかく本当にひどい目にあったのだ。

 そういうの全部積み重なってか知らないが、いい加減にしろよ、と怒鳴ってしまったのが原因で、出禁となった。

「結婚しちゃえば?」

「はぁ?」

「いや、せっかくセッティングして、素敵な恋愛シナリオまで編集者が用意してたんだから、なんとなくつきあって、なんとなく結婚して、そんな自分の人生切り刻んだ恋愛小説で、一皮むけてキレイになればよかったんですよ」

「四面楚歌」

「我援軍とならなん。10点。ときどき、そういう編集者いますからね。悪縁と思って切って正解。切られたのかな? 俺がもしその編集部にいたとしても、ダメだこの編集者って、軽蔑してますよ」

「檸檬……お前……」

 かつてのじんまじまだったら感謝してしまったかもしれない。しかし、そのとき檸檬は、それはもう、頬の落ちるような満面の笑みだったので、いわゆる、破談になって喜んでいる悪代官側だと思い知ったのだった。

「そんな抜け駆けは、許さない」

 にっこりと笑みを深くし、檸檬はやおら手を伸ばしてコーヒーカップの取っ手からじんまじまの手を引っぺがすと、てのひらを開かせ、小指の付け根から親指にかけて、人差し指ですーっとなぞって、一言。

「女難の相」

「……俺、これからどうやって生きていけばいいんだろう。死ぬしか、ないのかな……」

 それで相手の編集者が寿退社とあっては神も仏もあったものじゃありませんね、と、檸檬は伝票に手を伸ばす。それをひったくって、じんまじまはジーンズのポケットから小銭入れを引っ張り出した。

「なんか腹立つな。いい、俺が払う」

 そして中身を確認して、残金不足で固まったところで、涼しい顔で伝票を奪われ、電子決済を無言で自慢され、何だか知らんが格の違いを見せつけられる。

「稀によくある。西太后って知ってますか?」

「知ってるよ。アジアで一番、つけ爪が派手な女性」

「皇帝の寵姫だった女が気に入らなくて、手足を斬って便所に住まわせ、便所豚とあだ名してしいたげたそうですよ」

「酒樽につっこんだんじゃなかったっけ?」

「俺の言いたいことわかります?」

「……」

「そんな職なら失ったほうがいい」

「俺男だけど?」

「同じです。編集者が作家に嫉妬すると、手に負えない。そんな雑誌に放り込んだ、俺が悪かった。だから、会計は俺が持つ」

「どーもありがとう。お前が連載するはずの雑誌だったんだから、知ってたよな!?」

 ぴろん、というやすい電子音と、ええまあ、という無機質な相槌が、くしくも重なった。

「もっとしょげてるかと思った」

「むしろ元気だよ」

 なにせ、初めてではなかった。誰かの志は、誰かの迷惑。辞めてしまった女性編集者も、じんまじま以外の作家とは友達のように仲が良く慕われたとか。

「あなたのせいではないですよ。多分。他にもトラブルを抱えていたのかもしれない。あなたも、お前のせいで自分の作品が壊されたと、もっと怒ればよかったんです」

「いや、でも俺、恋愛小説向いてなかったんだよ。書いててすっごくつらかったし」

「書いてたんですか」

 企画の時点でそういうことになってこうなった、と正直に告げたところ、檸檬はそれ以上、何も言わなかった。

 小説を書きたくて、小説家になる。当たり前だ。小説を書けない小説家がいる。

「やってみなきゃわかんないって言うけどさ」

 たとえば、雲ひとつない快晴にさえ、文句を言いたくなるように。

「書いても、書いても、やっぱり、ダメだったんだよ」

 コッケイな烏骨鶏ってどうよ、と茶化してみても、檸檬はやはり、何も言わなかった。

 一つだけ、と、信号待ちをしていた時に、不意に檸檬がこちらを振り返った。

「その編集者のこと、許せませんか?」

 言われても困る。

「デビュー前から……」

 じんまじまは、あまり良いとはいえない自分の手相を、右も左も見比べながら、よく考え、自分なりに、正しいと思うことを答えた。

「いいものを書けば、それだけでいいと思ってる。人格も、原稿さえよければ認められる」

「だから書けない自分が悪かった、と?」

「おそらく」

 檸檬みんとはゆっくりと首を傾げ、歩行者用信号の待ち時間表示の最後のひとつが消えるまでの間、じっとそれを見守っていたが、やがて、聞こえないほど小さな声でこう言った。

「焦るわけだよ」

 最初はわからなかったけれど、横断歩道を渡り切るころには、自分のこういうところが担当者だったその女性編集者を悩ませ、焦らせ、自分にとっては「凶行」としか思えないことを強制し、ついに仕事のテトリスがすべて天井まで積み重なって、そして辞表に至ったのだろう、ということは、うっすらわかった。

「なんか、ホントすんません……」

「俺は暇だからいいんですよ。ほとんどの編集者は『暇』ですよ。担当作家が原稿を書かない限り、なーんにも、するべき仕事はありませんからね」

「だいたい!」

 自分で思ってたよりもはるかに大きな声が出てしまい、じんまじまは慌てて声のトーンを下げた。大声を出すつもりは、なかったのだ。

「だいたい、ボクに気取った恋愛小説を書かせようってのがそもそも無理難題だったんだよ」

「俺もそう思います」

 だけど、と、反論も言い訳も許さない目でじろりとにらまれ、思わず立ちすくむ。

「俺は、他にも、問題があると思います」

「ない」

「問題でなければ、言い訳が、あると思います」

「ない」

「そうですか。なら、自分でなんとかしてください」

 バレなきゃいい。じんまじまは、そう高をくくっていたのだ。この手の「事件」はどうせバレない。バレたためしがない。何度も黙殺されてきたから。だから、もし自分がそのババを引かされる日がきても、日光消毒されることなく沈黙の底に投げ捨てられて、そのままだろうと。いかんせん、殺人や災害にくらべれば、本当に無害で危険のない事件だから。

 バレなきゃいい。知られる日はこない。

 そう。あの「誰も死なない大事件」さえ、発生しなかったのなら。

   *

 ドリア風ミラノをご存じだろうか。本来、それはミラノ風のドリアというメニューだったのだけれども(ほどほどのリアリティとしてのミラノ)、注文の際に上下の名詞を逆転させてしまったがために、古都ミラノがあっつあつのドリアになってしまった、という事件である。

 人間、思春期と疲弊時には橋が転がってもおかしいもので、ファミレスで注文ミスをしたことが、けたたましいほど笑えることがある。

 その日、じんまじまは失職記念として、古なじみとさも商談のような空気を出して年甲斐もなくファミレスの一画に陣取っていた。だいたい、こういう古なじみというのは、なんらか作品の制作にかかわった無記名ライターの腐れ縁で、じんまじま以外はそれなりに、担当編集者や所属雑誌とうまくやっていて、要するに、なんだかよくわからないけど寄り集まっては愚痴を交換するだけの、社会的粗大ごみたちである。

 スポーツ誌で仕事が決まっていた者もいたのだが、五輪延期ですっかり暇を持て余していた。ほとんどの場合、暇な人間は、ろくでもないことをまっさきにしでかすように、世の中はできているらしい。

 うちの雑誌の編集部じゃないんだけど……と、怪談話のように話し始めたそやつが言うには、世にも恐ろしいクリエイター契約というのがあるらしい。

「なんじゃそりゃ」

 なんでも、クリエイターとして契約すると、自分の人生を生贄に、アイドルイベントを開催するらしい。吸血鬼か、と笑ってもいられなくなったのは、不意にそいつの電話が鳴って席をはずし、あつあつのドリアもかちんこちんになったころに、すっかり青ざめて戻ってきて、そのまま金だけおいてそそくさと帰ってしまった後だった。

 じんまじま以外のドリア風ミラノたちが、次々と同じ状態になり、気付いたときには、たった一人、ポツンと5つのドリアに囲まれていたのだった。

「え、どうすんのこれ!?」

 結局、じんまじまは一人で時々喉を詰まらせながら5人前を平らげ、翌日、持たれる胃を抱えてのたうちまわることになった、という事件である。

 事件はそれだけじゃなかった。

 じんまじまは、仕事もなくなり、やる気もなくなり、年甲斐もなく少年向け漫画を貸本屋で借りて読み始めた。少年のころに抱いた作家への夢と憧憬を求めていたのかもしれない。へたくそだなぁ、とさんざんケチをつけながら、気付けばじんまじまは、その漫画に引き込まれ、愛着を抱き、そして、絶版してしまった自分のかつてのデビュー作へと思いを馳せ、うっとりと幸せな芋のような気持ちになった。

 そして、思いのままに感想を書きつづり、ふと、どうしてこの文字量と情熱を自分の作品に向けられないのかと自問自答し、自分は漫画家じゃないことに気付いて、じゃあこの物語を小説で書いたら面白いのかと考え、そこで筆を折ってしまった。執ってもいない筆である。

 事件は、それだけではなかった。

 そう……それが事件であったと気付いた時には、じんまじまは、被害者でもあり、加害者でもあるという、まさに生贄となっていたのであった。

 事件が発覚したのは、草木も眠る丑三つどきのことだった。丑三つどきというのは、作家にとっては寝入りばなであり、もっともリラックスしている時間帯である。そんな時間に、じんまじまのワンルームを訪ねてくるのは決まって編集者で、それはもう、ずっとそういう関係で、稼業として受けいるしかなかった。

「ドリア風ミラノ食べに今から俺とファミレスいきませんか」

 まさに、奇襲であった。

「え、なんで知ってるんですか」

「先生は」

 檸檬みんとが「先生」呼ばわりするときは、決まって受け入れがたいことを言う時なのだ。

「自分の体に発信機と集音器が埋め込まれているの、知らないんですか?」

「……え、これ夢オチ?」

「冗談です。盗聴器も位置情報も、みなさんお手持ちのカマボコ板に搭載されていますよ。そんなことより、着替えてください。ドリア風ミラノ、行きますよ。あるいは、部屋に入ってもいいですか?」

「俺が女だったら、警察に通報してるところだよ」

 人間、服装で立場の優劣がつくものらしい。スーツ姿の編集者を前にパジャマでいると、非常に気持ちが小さくなり、いつの間にか、じんまじまは、こじんまりと正座していた。

「……あのぉ、ご用件は……」

「要件だけでいいんですか? だったら、バレましたよ」

「どれでしょうか」

「お心あたりがあるものから、どうぞ」

「通りで最近、うちの近くに不審車が止まってたり、メスライオン系のおねえさんたちが道ふさいでたり、知らないおじさんおばさんに声かけられたり、身の回りの犯罪係数が上がっていたわけですよ」

「それはミラノ風ドリアです。俺が言及してるのは、ドリア風ミラノです」

 ばれないように暗号にした、その暗号会議そのものが盗聴されたとあっては、じんまじまにはもう、なすすべがなかった。

「居酒屋で担当者の悪口言ってたら、秒速で電話かかってきたことあったなぁ」

「あなた自分だけ知らされなかったことについて、何ら疑問がなかったんですか」

 どれのことだろうか、とじんまじまは主にこの一か月間の自らの素行と言動を振り返ってみたけれど、担当者に夜中に押し入られるほどの罪があるとしたら、やはり……

「ええっと……未契約で代筆したの、やっぱりまずかったですかね? それとも、無断で他社に原稿送ったのがまずかったですかね?」

 怒られるかなぁ、と、じんまじまは檸檬の様子をうかがったが、いつにもまして無表情で、何を考えているのか、そもそも今怒られているのかも、わからなかった。

「あのぉ……お茶、いれましょうか?」

「かまいません。無茶なことしてるバカにいれてもらう茶は無い」

「すんません」

 やおら檸檬は手に提げてきたコンビニ袋を開けると、カツ丼弁当と缶ビールを取り出し、勝手知ったる様子でじんまじまの電子レンジに弁当を突っ込み、一人、飲み始めた。

「あのぉ……俺の分って、ないんですか? 普通こういう時って、土産くらい持ってくるものなんじゃないですか?」

「原稿もない作家には、置き土産もありません」

 よっぽど飢餓状態だったのか、檸檬は犬のようにカツ丼を書き込み、ろくに咀嚼もせずビールで米を押し込むと、米とカツの間の千枚漬けくらいの感覚で見向きもせず言った。

「ばーか」

「……すんません」

「バカに考える暇を与えると、こういうことをするんですよ」

 夜中に編集者が呼び出しではなく駆けつけたということは、救急搬送、あるいは逮捕。いわゆる、レッドカードが出たのだろう。かたずをのんで正座待機しているじんまじまには、ついに一瞥、一口たりともくれることなく完食すると、檸檬はわざわざ割りばしを袋に戻した。彼の癖である。

「理由だけ、教えてもらっていいですか?」

「他人のつまらん喧嘩に巻き込まれて死ぬのもいいかな、と」

「それ小説のセリフですか? それとも本音ですか?」

「セリフです」

「……つまんねー死に方してんじゃねぇぞ」

 はい、と、じんまじまはうなだれた。

「かっこいいとでも思ってんのか」

 どこが、と、自分の有様についてセルフチェックしてみる。

ヒーローには程遠い。パジャマだし。

「あなた時々俺より見境ない」

 対して、檸檬はスーツにあぐらで、ネクタイの結び目を緩めている。

「以前、あなたのへぼ原稿を修正して編集会議にねじ込んだ時のことを思い出しました。というか、忘れられない。俺はもう書かない、穴埋めの原稿出すからちょっと待ってくれって嘆願して、あなたに原稿なおさせて、その後、俺、上に呼び出されたんですよ。で、言われたんです。お前は自己犠牲のつもりか、と」

 わだかまりといえば、わだかまりだった。

「あ、それ俺も訊きたい。俺、他意はなくても、俺のためとか、俺のせいとか、そういうの耐えられない」

何があったわけでもなかったけれど、なんとなく、このままじゃダメだと思った。だから担当変えてくれって話になって、「檸檬みんと推挙」ってだけじゃ作家じんまじまにとってもよくないという話になって、懇切丁寧に引き継ぎして、それでもこのざまだ。

 檸檬は言いにくいことがあるとき、話をこねくりまわす。これも、彼の癖だ。

「缶ビールにたばこ突っ込むと、いかにもって感じですけど、うち禁煙なんで。てか、そもそもボクも檸檬も吸わないですし」

 余計なこと言ったと思った時には、口から無駄な言葉が飛び出していた。

「で、なんて答えたんですか?」

「自己犠牲のつもりかどうか即答できなかったので、ちょっと考えますって答えてきたんですよ。たまたまその日、大きな文学賞の選考会があって、それもすっぽかしたので、けっこうみっちり絞られたんですよ」

「それは……お気の毒に……」

「絞られながら考えた結果、犠牲って、どっちも牛へんだな、と」

「ほわっつ!?」

「そして、解という字は、刀で角のある牛をばらばらにすると書きます」

「ちょっと何言ってるのかわからないけど、大事な話かどうかだけ確認させて」

「よくわからないんですよね、いまだに」

「え、なんなの?」

英語でいうならサクリファイス。ヴィクティムだっけか。間をとると、スケープゴート。ゴートって牛だっけ? ヤギだよな。じんまじまはしばらく檸檬が何を言わんとしているのか言葉をこねくりまわしたけれど、しかし、結局何を言われているのかわからなかった。

懺悔か、嫌味か……。じんまじまをさんざん混迷させておきながら、檸檬みんとは淡々と口を開いた。

「で、その場で答えたんですよ」

「ちょっと考えたんじゃないのかよ」

「ちょっとしか考えなかった。うぬぼれてんのはお前らだろうが老害って言った」

「聞かなきゃよかった!」

「俺も、言わなきゃよかったなぁと、3年くらいたってすごく反省したんです。なので、じんまじま先生にそれとなくとりもっていただきたく……」

「やめてー。俺、ただでさえ挟まれやすい星のもとに生まれてるの。やめてー。これ以上波風たてないでー」

「だいたい、自己犠牲って語彙に、俺ならナルシストってルビふりますよ」

「だいたい、把握した。行動してからだとその後悔、本当におくやみ申し上げるよ?」

「その言葉、バットでそのまま打ち返しますよ」

「お断り申し上げます。やめて? 作家なら何言ってもいいわけじゃないのよ? 俺、烏骨鶏だから三歩で忘れるね。いち、に、さん。はい、忘れた。記憶にございません」

「俺はずっと気にしてる。自己犠牲って発想がナルシストだよねって言えなかったあの時の俺、なさけない」

「悩みすぎるとはげるよ?」

「今回のあなたの暴走で、俺はすでに500円禿ができました。バレないとでも?」

「全部ですか」

「全部ですよ」

 わかりました、と、じんまじまはパジャマの襟を正し、しばし、真剣な目をして息を止めた。それから、ゆっくり、できるだけ穏やかに、ためた息を吐きだす。

「バレなきゃいいと思ったんだよ。どうせ、誰も見てないし、知らないだろうか」

 ことの発端は、つまらない雑誌だかアイドル本だかの、小さな穴埋め記事だった。そんなものは、誰が書いたかなんてわからないし、誰も気にも留めない。そもそも、バレるということさえ、想定されていない。そんな、小さな小さな、ひとひらにすぎなかったのだ。

 記事そのものは大したことなかった。アイドルと結婚したいという十代の女の子なら普通に夢に見る寝言に対して、「○○ちゃんはまだ本当に好きな自分の王子様と出会っていないだけだよ。俺達は、みなさんがいつか本当に好きな人と恋をするための練習だと思って。もし本当に結婚したいほど好きだとしても、これからもっともっと、好きな人ができるかもしれない。人生長いんだからさ」みたいなことを書いた。

 スクリプトという。他人のための機械的な文章術。ビジネスメールの一種である。

「こういうのはパターンがあって、そうそう簡単に筆者の違いが読者にバレるものではないんだよ」

 じんまじまとしては、その程度の仕事だった。

 じゃあ王子様がおじさまになってしまった夢とトキメキに飢えた主婦層どうするんだよ、とか、「白馬の王子様を待ってるだけじゃだめ。時には自ら馬を駆って王子様を助けにいかなきゃ!」っていう隣の回答どうするんだよ、とか、ちょっとは考えたけれど、ちょっとしか考えなかったのだ。

「てか、いっそボクが契約しようか?って。そのほうが話早いよねって」

 しかし、こういうこと、とりわけ、悪いことをするときには、匿名のほうがいいに決まっている。じんまじまとしては、いろいろな都合で書けなくなる気持ちがわかるので、たった一回だけ、無断で代筆してあげただけだった。しかも、紙面1/12くらいの、もう本当に、忘れ去ってほしいほどの、ささいな「罪」だった。

「カタカナ使ってる契約書はろくでもないんだよ。クリエイター契約って、それ、何の仕事だよクリエイターってなんだよアーティスト契約ってなんだよ芸術家に何の仕事させるんだよ。それ、奴隷契約だからね」

 稀によくある。小説の新人賞でも見かけた。募集要項に「受賞作の二次使用権は主催者に帰属」と書いてあるのが正常だけれども、時々、「応募原稿の著作権は弊社に帰属」とか、とんでもない「誤字」があったりする。

「考えて、書いて、著作権は残らず、全部会社が吸い取っちゃう。そういうとこで評価されてもろくでもないよって思うんだけど、やっちゃうんだよねぇ……。わかるよ。うん。わかるんだけど、知らないとひっかかる。賢い子ほど、ひっかかる」

 事件のあらましは、こうだ。とあるアイドルグループの同人サークルで知り合った女子高生が、自分の作品を全部、事務所に略奪された。と、いうのも、アイドルの名前を無断で使った、二次創作作品だったからだ。

「ドリーム小説って知ってる? 物語があって、登場人物は空白。そこに読者が自分の好きな人の名前を入れて楽しむんだけど……まあ、簡単に言うと、違法物」

 アイドル公式事務所ではなく、まったく無関係の編集プロダクションの「応募」に、そのサークルは本人に無断で応募してしまったのだ。

「ここがねじれててさぁ。もうね、だから物書きになりたいとかいうクソガキ嫌いなんだよ。ってか、自分もそういうクソガキでしたけどね!」

 サークル構成はこうだ。20代OL2名・30代主婦1名・短大生3名、そして、女子高生3名。普通のサークルで、普通の女性たちが、普通にティータイムを楽しんでいた。それだけだった。

「まず、公式かどうか確認しろよ。ったく。責任表示も見ずにそんなもんにかかわるなと言いたい。言いたいけど、大人だし、無関係だから、それは言わなかった。言わなかったけど、そういう編集プロダクションとか、芸能プロダクションとか、とにかくカタカナの契約書はやめておけ。ヤクザの副業」

 運営も非社会性集団なら、応募者も、似たようなものなのだ。

「二次創作ってさ、存在そのものが違法でしょ。だから犯罪の温床になるんだよ」

 ちょっと悪いことしてるやつらは、すごく悪いことしてるやつらの餌になる。

「クラスのみんなよりちょっと特別なことしてるアテクシかっこいいってか。変身願望か。契約書やばいよ? ボクたちキモオタおじさんが君のアカウント覗いてたり、カメラオンにして隠し撮りしてたり、君たちの様子を盗聴して、他のプロダクションのドラマ企画にネタ提供してたの、知らなかったでしょ。君の契約書、それ、許可してるよ」

 個人情報保護法は死んだ、と、じんまじまはメロスのごとく激怒した。かならずやこの企てを阻止せねばならぬ。

「そっちがおしゃれなハーブティーなら、こっちは脱法ハーブだぞ」

 なぜ、人はかならず3人いれば2人と1人に陥るのだろう。

「おねえさまたちのランキング抜いたとたん、その女子高生は血祭になった。文芸サークルあるある。一人だけ抜きんでると、出た杭は打ちのめすのが当たり前」

 別に、何の義理があるわけでもないし、面識もなかった。だけど、じんまじまは、その陰険さがどうしても、気持ち悪かった。

「いや、ネットストーカーしてるほうがキモイんだけどさ」

 そこで、じんまじまは爆弾スクリプトを投下した。ウェブで見つけた誰かの文章をコピペしてしまうなんてのは、イマドキの十代にはありがちな「犯罪」だった。

「ちょっとアタシのアイディアぱくらないでよー!」

 ネカマも文芸。じんまじまはクレームおばさんと化して、毎日彼女たちのサイトを攻撃しつづけること2か月。

「こういうことあるさ、見せかけの友情っての? メッキがはがれるよね。誰のせいにするかっていう魔女裁判でずーっと、一日中、暗澹と話しあってるの。バカだなぁ、と」

 炎上したのは誰のせいか。じんまじまのせいである。

「お前のせいで愛しい王子の衣装にまで飛び火したぞって脅したら、素直に辞表出したよ。いやもう、見るにたえなかった。あのね、シンデレラはリアルじゃきっといびり殺されたか、あるいは、お城に召し上げられてついぞ骨さえ帰らなかった不幸な女の子だったんだよ」

 ひどいありさまだった。まだ、友好関係には真贋があることさえ知らないような、いとけない集団だった。

「サイト運営費が一か月100万円って、それちょっと高すぎだよ」

 そんなこともわからない。だけど、人気不人気だけはわかる。ゴルゴーンの三姉妹298円。これが、ミラノ風ドリアの由来である。

「最初はよかったのに……って。確かに、その子ちょっと天狗になってたけどさ」

 じんまじまは、曰く、女難の相が出ているらしい自分の手をじっと見つめた。かつては、書くのが楽しくて楽しくて、原稿用紙と鉛筆さえあれば、どこででもいくらでも物語を綴った手である。創作してる自分が、大好きだった。そういう連中とつるんで、毎日楽しく、ただただ、物語を書いて遊んで暮らしていた。じんまじまの高校時代とは、そういう時間だった。だから、自分が小説家になることを、疑いもしなかったのだ。

「こんなことで、書くのが嫌になっちゃったらだめだよ」

 それを伝えたとき、じんまじまは、自分でもなければじんまじまでもなく、その子が掛け持ちしていた別の漫画のサークルの会員の、女子高生だった。

「自分が大切にしているものを大切にできない人たちのこと、友達だと思う必要ないよ。友達には、本物と偽物がある。まだ本物の友達を知らないだけだよ」

 少なくとも、こんなところでそんな末路を遂げるには惜しい才能だったのだ。どうか折れることなく、まっすぐ育ってほしい。少なくとも、じんまじまはそう願った。

「とりあえず、きっかけは作った。継続は力なりっていうけど、けじめとしてやめることが必要な場合だと思った。ボクがやらなくてもよかったんだけどね」

 いいもの書くんだよ、と、じんまじまは、まだおかしくなる前の少女の筆致を思い出して、少し、朗らかな気持ちになった。

「失敗しちゃったけど、書き続ければきっと彼女、いい作家になると思うよ」

 魔物にさらわれた少女の高い鼻をへし折って野に放ってやった祝勝会。それが、ミラノ風ドリア5人前だった。

「で、なんでみんなそそくさと帰っちゃうのかなぁと、と」

 じんまじまはへらへらしながら言った。

「いや、本物の友達もへったくれもないね。なすりつけてったよね。あははー」

 ことはじんまじまが思っているほど単純ではなかった。じんまじまのまったく知らないところでPTA炎上していて、親対娘の抗争が激化し、じゃあ誰のせいなんだという犯人探しが始まって、親が賠償裁判を起こすとかわめきだして、慌てて泣いて謝ってくれればよかったのに、何の連立方程式か、身バレしてしまい、じんまじま祭りが始まったのだという。

「いやー、バイキンマンのつもりだったんだけど、王子より王子、みたいな?」

「……」

「バレなきゃよかったんだけどね」

「……」

「なんか知らんけど、上からくるぞ気を付けろ、みたいな? てか、公式から雷落ちたらしいんだよ。知らんけど。いやもう、むしろこっちが晴天の霹靂ってか『余計なことするんじゃねぇ!』って叫びたいね」

「……」

「誰だよ、あんなチープな穴埋め記事わざわざ掘り出して走ったやつ。しかもあっさり上書きされてるし。嫌になっちゃう。あーもーはいはい才能ですよね! 最悪。ボクのは靴下みたいなものなの。なにその螺鈿細工みたいな殿堂箱。子供のころ、ずっと電動箱だと思ってて、電車のこと電動箱っていうのはちょっと斜にかまえてて業界的でかっこいいと思ってた、そのセンスの時点で負けてるじゃんね。のっそり踏まれましたけど!?」

「……よく、わかりました」

 ぺしょっと、音がした。檸檬が缶ビールを握りつぶした音だ。

「檸檬が子供のころにもあったでしょ。出会い系サイトとか、そういうやましいのかやましくないのか見た目じゃわからない何等か。月額30万円とかいっちゃって、三者面談になった子とか、クラスに必ず一人はいたじゃん。それと同じだよねー。二次創作同人サークルでそんな金動かすなよ。そんなにか。そんなに名誉と創作仲間がほしいのか。やめとけ、やめとけ。作家になったってなぁ! 丑三つ時に担当者が上がり込んで飯食って、パジャマで反省会する人生だぞ!」

 すでに夜もあけている。

「だいたい、なんなの女子高生!? イマドキの女子高生ってみんなラノベのヒロインみたいな子なの? 自分がなんとかしなきゃいけないの? カリスマなの? なんなの? ボクのことはほっといてほしかった! 高校生に命救われるラノベ作家、情けないよ!? 涙がちょちょぎれるよ? クラリス! 俺は、おじさまほどかっこよくないんだよ!」

「あなたは大変なものを盗んでいきました。俺の睡眠時間です」

「だったら帰れよ。帰って寝ろよ! もう朝だよ。朝ごはんん作るけど食べてく!?」

 お前の担当作家事故ったぞ。メールの文面がじんまじまの脳裏をよぎった。

「毒親と毒娘だけじゃなくてよかったよ。でも、君たちの知らないところで君たちの活躍が不都合な人もいるからね!? ボク、いよいよ業界で仕事できなくなったけど!?」

「どうすっかなぁ……」

「コーヒーないんで、牛乳でいい? ゆで卵と目玉焼きどっちがいい?」

「理想の目玉焼き」

「むやみにハードルあげないでー」

「ところで、じんまじま先生」

「はいなんでしょう」

 じんまじまは卵を割りほぐしながら、無断で部屋をあさり始めた元担当者を振り返る。

「これ、返却期日過ぎていますよ。それと、俺が注文したのは目玉焼き。あなたが今作ろうとしているのは、オムレツです」

「ボクにそんな技術あると思ってんの? スクランブルエッグだよ」

「年甲斐もなくこんな少年漫画ですか?」

「少年の日に戻りたくなったんだよ」

「もっとマシな漫画読みなさい」

「その人、へったくそだよな」

「これ、面白いですか? 俺にはどうしてもツマラナイ」

「うーん……微妙」

「そこはかとなくあなたのデビュー作に似ていますね」

「設定もキャラもちっとも違うんだけどね。……俺は、そういう王道な英雄譚で成功したかったんだよ。結果は惨敗。このところ十年、そういう作風が売れなくってさぁ」

「こういうのが、書きたいんですか?」

 そだよ、と、じんまじまはうっすらと焦げ目のついたトーストに、炒り卵を乗せる。

「お皿いらないでしょ。洗うの面倒」

「あっつい」

 でしょうね、と、やけどしないようにパンのみみのほうを持ったけれども、やっぱりあつい焼きたてのトーストにかぶりつく。徹夜あけは妙におなかがすくのだ。

「書きたかったんだけど、書く機会がなかった」

「売れないですからね、この手の作風。どうです? 書いてみます?」

「無理」

「ちょっとだけでも。端っこだけでも」

「卵落ちるよ。あと本汚すなよ。レンタルなんだから」

「超過料金、俺が払ってあげましょうか、失業者」

「え、なんでお前はいちいちマウントしてくるの? なんで?」

「俺も読む」

「えっ」

「俺も読むので、超過料金払うから、ちょっと返却待ってください」

「え、何言ってんのこの人」

 しかし、啞然とするじんまじまには目もくれず、檸檬みんとは食べかけのトーストを強引に口に突っ込むと、もくもくと漫画を読みふけりはじめた。じんまじまとしては、パン屑だの油だのが本につくのがとても気になるので、そっと、ティッシュボックスを檸檬の膝に押し付けるが、無視された。

 自分の住処なのに、もっとも蚊帳の外だ。文筆業は、しばしば、こういう状況に陥る。それ俺の作品なのになぁ、と、思っても、結託されて手も足もでない。作品だけおいてさっさと帰りな、と態度で示される。

 それは、略奪である。

 体育会系やネアカは、こういうとき、すぐに他人の心の中や歓談の輪の中に入れるのだと思うと、妬ましくてしかたない。自分の部屋なのに、他人が上がり込んで勝手に掃除してくつろいでいる。お前は俺のカノジョか兄弟か。腹がたったので、掃除機で檸檬みんとのケツをつつくも、黙殺される。原稿を持ち込む時や、新人賞に応募するときというのは、こんな感じだ。スミマセン、ちょっとはこっちを見てください! 

「どんな人が書いたのか、気になるよね。作者は男性かな、女性かな」

 しかし、檸檬はやはり、漫画に没頭して顔をあげもしない。年甲斐もないのはどっちだよ、と、じんまじまはいつもより入念にベッドの下まで掃除機をかけながら思ったのだった。

 やっと檸檬が帰ってくれたころには、正午をまわっていた。その間、じんまじまは一刻も早く檸檬を追い出したかったので、部屋の片づけをしていた。古い本屋で立ち読みしている学生をはたきで追い出す書店員と同じ心境である。

 檸檬みんとと積読漫画のないワンルームは、6畳よりもずっと広く、すっきりと見渡しがよくなった。じんまじまとしては、読みかけの漫画が床に散乱していくらいが居心地がいい。ちょっと、片付けすぎたかな、と、極小主義な自分の部屋を見渡していた。

   *

 訴訟。どうしても白黒と勝敗をつけなければならないとき、我々国民が持つ権利である。しかし、じんまじまは、裁判に印税をつぎ込むくらいなら、もう二度と出版なんぞしないほうがマシだと考えていた。自分の望まない販売で得た悪魔との契約金。それが印税だ。印税とは、極論、作家の人生の消費税である。

 出るとこ出るのは権利だ。義務ではない。そして、玉砕するのもまた、裁判というものだ。

「逆転裁判かよ」

 とある人の土産話だ。不当な契約だ、自分たちは騙された、と、ライターたちは一丸となり、悪徳編集部を訴え出た。ところが、ライターたちは返り討ちにあってしまう。損害賠償でいくばくかお金をもらえるはずだったのに、逆に契約違反と著作権違反で、有罪がつけかわってしまったのだ。契約元が販売契約をしていないのに、販売したからだった。

 二次創作とは、そういう環境だ。なぜなら違法だから。守られるはずの権利が発動しない。

「で、逆恨みですか」

 編集プロダクションからも、所属ライターからもにらまれ、失業どころか命を狙われているじんまじまである。

「やるんじゃなかった苦悶式ってか」

 趣味を仕事にすると苦しいという。趣味が趣味のままだったとしても、地獄化することもあるのだと、じんまじまは己の不覚を呪った。と、同時に、しかしそれでも売れれば官軍、作家稼業は一発でもヒットすると、少なくとも印税が入り続ける。どんなに作家の矜持がズタボロになって、二度と書けないほど心へし折れても、体は元気。それも、ライター家業というものだ。ゆえに、いささか、思いあがっていたようだ。

「誰だよ、やらない後悔よりやる後悔って言ったやつ」

 好かれたくもない作家志望のお嬢に好かれ、嫌われたくもないヤクザものに嫌われる。

 じんまじま先生のおかげで私、また創作を楽しむ心が戻りました、ありがとうございますってか。やかましいわ! お前のそのキラキラの反射でこっちは仕事どころか夜道を歩けない身の上だぞ。なぜ学校は、個人情報は一度ネットに拡散したら回収できないからむやみにプライバシーを書き込んではいけないよ、と教えなかったのか。

 ドリア風ミラノが言うには、メスライオンが襲ってきたとしたら、一匹くわれりゃ済む、と。そうですか。だからドリアを置いて逃げたのね。いい友達だね! 

 檸檬がいうには、食べてるときが一番無防備、と。

 別の人が言うには、お人形の夢と目覚め。きっと、その人にはなんらか心当たりでもあるのだろう。桜弓しずる先生には、そう見えたらしい。

「自分は特別でなければならないって思ってたりしない?」

 じんまじまは、この女性ライターがちょっと苦手である。苦手というか、この人にかかわるとなににつけ事故率が高いのだ。

「しずるさん、あなた開幕ブォン発進するのやめてください。そもそもあなた何者ですか?」

「じんまじま先生こそ何様ですか? ぼくちゃまですか?」

 シナリオライターという仕事がある。名前ばかりはかっこいいのだけれど、業界的には、奴隷階級。自供とはいうけれど、要するに編集部の飯のタネである。じんまじまの担当をしていた女性編集者は、ライターに恋愛シナリオを実演販売させようとして、失敗した。そのことについて、桜弓しずるは不思議と怒らなかった。じんまじまは、今でも怒っている。

 怒っているから、二人っきりで会いたくなかった。だけど、なぜかそういう時には偶然、たまたま同じ店の同じような場所でばったり遭遇するらしく、じんまじまはそれを、ドリア風ミラノと呼んでいた。広い意味での通信機器の故障である。

 作家のたぐいは、時々、なにか電波のようなものを同時に受信するらしい。

「ところで檸檬さんは一緒じゃないんですか?」

 無邪気なものだ。ボクに嫌われてるの知らないんだ。と、意地悪なことを思ったのだけれど、耳から入ってきた音感が、嫌悪感を上書きしてしまった。

「れもんさん!? クエン酸の仲間ですか!?」

 桜弓しずるさんの中では、じんまじまと檸檬みんとはいつも一緒にいるらしい。前に恋愛小説の実演販売していたときも言ったのだけれど、担当者なんてのは、作家が事故ったか、文学賞を受賞したときくらいしか連絡してこない。2年に一度とか、そういう頻度だ。というか、担当者が自宅にまでやってくるというのは、よほどのなにかがあったときくらいだ。

「残念。31のチョコミント買ってきたんですけど、いらっしゃらないなら、持ち帰りますね。会いたかったなー」

 サーティーワンをさんじゅういちと呼ぶ。アイスを食べるのは晴れた日の公園の噴水横のベンチ。自分のことをドラマのヒロインだと信じて実演宣伝しているのか、ドラマシナリオの奴隷になって久しいせいでセリフにしなければ会話ができなくなったか、どっちかだ。

 ライターという肩書のやからは、大抵の場合、いつもどこかを故障している。そして、故障してるのはじんまじまも同じなので、あえてあわせてみることにした。

「檸檬とあなた、どういう関係なんですか?」

 みんとちゃんとは、幼馴染というか、不二子とルパンみたいなものね。

「ミントチャン!?」

「れもたん。←New!」

「New! じゃねぇよ?」

「収録だと思って」

「いや無理ですけど。俺はそういうのホント無理なんですけど」

「あのね、じんまじま先生に言わなきゃならないことがあるの。カマトトぶってんじゃねぇぞって、ちゃんと伝えなきゃならないと思って」

「そりゃアンタ」

「この、担当キラー」

「無理なものは、無理です」

「ホントはあのセリフ、私が考えたの。私が大学生の時にね、はじめて好きな男の子に告白したの。そのときの、セリフ。今でも覚えてるの」

「それを俺に言わせて、どうしたかったんですか。俺はその人のかわりですか?」

「あわよくば」

「いやいやいや、しずるさん。悪いことは言わない。あなた仕事ちょっと休んだほうがいい」

「いい恋愛だったの。成就しなかったけど。その人は大学辞めちゃうかもしれないって言ってて、だったら今伝えなかったらきっと後悔すると思って、勢いで告白しちゃったの」

「なんでそれを俺に言うんですか」

「それから半年くらいして、じゃあ付き合ってみようかって話になったんだけど、そのころにはなんだか気持ちが変わってしまって、私はだんだんその人を避けるようになってしまって、そのまま消滅。3回くらいデートしたんだけど、やっぱりうまくいかなかった」

「待って待って。あなたの個人的な恋愛の負債を俺になすりつけないで」

「なすりつけるというか、プットしようとしたのは、私じゃなくて担当さんだけどね」

「好きだと思って告白したの。好きだと思って、この道に進んだの」

 主人公を作る人たちは、案外、主人公にはなれなかったりするものだ。

「ホントは好きじゃなかった」

「俺達が付き合ってたみたいに演出しないでください」

「じんまじま先生って、どこでキレるんですか? じん・まじま? じんま・じま?」

「じんがファーストネーム、まがミドルネーム、じまが戒名ですね。フルネームで呼び捨てでかまいませんよ」

「じんまじま先生は、どっちかな。選んで」

 きっと、しずる先生も二人っきりで会うつもりはなかったのだろう。アイスを三つ、持っていた。人に選択を迫るときは、三択がいいのだという。ラーメン、そばうどん、パスタ。麺類だったら、女性はほぼパスタで確定だろう。しかし、予測というのは裏切られるもので、しずるさんは選択肢にないフォーを選んでくる。そういう人だった。

「どっち? はやくしないとアイスが溶けてしまうので、私、帰ってしまいますよ?」

「月に?」

 インドの伝承に、なぜ月はうさぎなのかという話がある。ある日うさぎが他の動物たちに、もし困っているものがあれば損を顧みずに助けよう、と提案したのだそうだ。助太刀は弱い。与えるものがないうさぎは、自ら火に飛び込み、己の肉を旅人に召し上がっていただいたそうだ。その旅人がたまたま神様で、うざぎの自己犠牲をたたえ、月にうさぎの姿を描いたのだという。シナリオライターとは、はたしてどちらだろうか。

「私チョコミント好きじゃないんです。ベリーの3乗みたいな、かわいいイチゴとミルクとピンクのやつがいい」

「ワッフルコーンで買ってくるなんて、なんて人だあなたは」

「どうもありがとう。カップにするべきだった。私、ちょっと自分の選択を間違えたかも」

「今度会うときはハーゲンダッツにしてください。31は甘すぎる」

「れもたんに用があったんだけど、いないならいいや」

「俺じゃだめなんですか?」

「だめよ、だってあなた作家だもの」

 だってあなた作家だもの。作家だったら、なんでも書けるわけじゃない。先生、ボクも選択を間違えたんです。恋愛小説なんぞ、書こうとしなければよかった。

 作家が書けないことに焦るのは、本人だけじゃない。担当者も、とても、焦るらしい。誰もかれもが焦っていて、三人全員、わにわにパニックで自滅。自分の血で書いても、出版にいたらないなんてことはままある。小指も、生ごみ。

「てか、このチョコミントどうするんですか?」

「じま、食べていいよ」

「じんまだけとっていかれても……」

「じんましん」

「人を病のようにいいやがって。アイス食べると喉乾きますよね」

「そう思ってお茶だけ持ってきたの」

「1ℓパック丸ごとですか。コップどうするんですか」

「いいの。これにストローさして直接飲むから」

「謎めいた美女はワッフルコーンの端っこからアイス飛び出して服汚したりしないよ」

 なんでなのって言われても、あの時のじんまじまには、理由が言えなかったし、今でもそうだ。なんで書こうとしないの? なんで書かないの? 書きたくないからだよ。書きたくて小説家になった。書けなくなるなんて、ちっとも考えていなかった。

「私のれもたん、どこいったのかしら?」

「え、何? そういう関係?」

「あなただけがれもたんの担当作家だと思わないことね」

「あいつ、日曜日の裏側にいますよ」

「時空を操作するしかないわね」

「しずるさんならできかねないから、こわい」

「でも、タイムリープには生贄が必要。一時空、一じんま」

「フィラデルフィアかよ……悪夢だ、悪夢」

「友達ってさ」

 たとえば傷のなめあいと罵られても。

「ずっと、友達のままでいられたらいいのにね」

 最初はあんなに仲良かったのに、と、夢やぶれて山河ありをうたいあげた未然形の作家たちの、なんと多いことか。

「金魚と一緒ですよ。縁日ですくってきて、すぐに水槽に入れる前に、水や同居人となれ合う必要があるんです。そういう準備をしてくれる集団に入って、楽しいだけの無責任な友情が育めたなら、俺らのようなスナイパーも、俺らのようなヴィクティムも、必要ない。そういう、世界平和を、俺は望んでいるんです」

英雄ヒーローにでもなりたいの?」

「小説家になったはずなんですけどね。親友が親友であり続けるのが難しいくらいには、小説家が小説書き続けるのは、難しかった」

「失ったら、だめだよ」

「夢を?」

 あなたもたいがいね、と言われてしまった。

「れもたんにとっては、おそらく、戦友だから」

 そこ親友でいいよね、とか、戦友だとしたらボクは何年たっても新兵なんですが、とか。思ったけど、やはり、れもたんの音感のほうがインパクトが強かった。これが、語彙の力というものだ。このくらい強烈なネーミングセンスがあれば、ネーミングだけでも、というか、ネームだけでも飯食える。じんましんみたいなじんまじまに対して、桜弓しずる。落花流水かよ。だとしたら檸檬みんとのほうがよっぽど才能あったんじゃないのか? 檸檬みんと!

「善い人ばかりとは限らないんだよ」

 言い訳すればするほど、じんまじまはどんどん、うなだれていった。

「良縁まで断ち切らないようにね。孤独は、人の目をくらますよ」

「俺には、天狗に見えた」

 自己犠牲という発想自体が、ナルシストだと檸檬は言う。

「自暴自棄になってたんじゃないの?」

 おそらく、桜弓しずる先生は、出会ってから今までで一番、よいセリフを作り上げた。あまりにも良いフレーズすぎて、じんまじまは、天才に見合う語彙を持ち合わせていなかった。

   *

 憧れのあの人に会いたい。もしかしたら、シナリオライターをやりたい人のほとんどは、それがモチベーションなのかもしれない。

 私の大好きなあの人に、私の大嫌いなこの作家の、私の大好きなアイディアだけ使ってもらって、作者はいびりころして消えてもらう。

「そんな時は、さっさと作品だけ置いて逃げればいいんだよ」

 わかっている。頭ではわかっていたのだが、じんまじまは、結局その契約書にサインすることができなかった。だから、デビュー作は干されて失敗してしまったのだ。

「私に文才があったら憧れのあの人に会いに行く。だから、他人の原稿横取りして、本人にはずっと黙っててもらおうってか」

 アイドルの衣装に仕立てて、不都合があったら、ファンに抹殺させる。都合のいいことだ。

「それも、編集者なんだよなぁ」

 お前が消えて喜ぶものにお前のオールを任せるな、と歌の歌詞にはあるけれど、作品を抱いて轟沈したじんまじまには、読者が歌うほど強い気持ちを抱くことはできなかった。それでも、チャンスはあった。檸檬みんとのすげ替えで入籍した高級ブランド雑誌だったが、じんまじまにはやはり、筆力がなかった。こんなのがポストかよ、と失望させ、起死回生の一発逆転として仕組まれたハニートラップで、今度こそ、本当に筆が折れてしまったのだ。

 誰のせいか。書けない自分のせいだ。

「そうだよ。ボクのせいだよ。ポストが赤いのも空が青いもボクが原因だよ!」

 びたーん、とノーパソをたたきとじて、じんまじまは本当の「原因」をねめつけた。

「もしボクが人気作家だったら、読者のせいだって言ってやる! たくさんの読者が勝手なことしたからだって言ってやる!」

「言ってもいいんですよ。誰も信じないだけです」

「お前のせいだろうがぁぁぁぁぁっ!」

「いやホント申し訳ない炎上しました」

「無難に安全にひっそり安穏と生きていくはずだったボクの余生を返せ!」

「そんな余生はつまらない。もっと波乱万丈に生きてください」

「他人事だと思って! ボクはお前の人形じゃないぞ!?」

「人形のほうがマシ。というか、作家に人格なんぞいらないんですよ。創作マシーンにでもなってろよ、このポンコツ。てか書けよ」

「ボクの才能はぁぁぁぁぁっ!! 枯れ果ててるんだよぉぉぉぉぉっ!!」

「枯れてるのは感受性。自分の感受性くらい、自分で守ればかものよ」

「知るか茨木。人間ってのはなぁ! ダメになるときはダメになるもんなんだよ!」

「いいから書け。なんでもいいから」

「そもそもなんであなた俺のワンルームで仕事するんですか」

「会社にお席がないからですよ」

「自分の家でやれよ。てか俺の目の前から消えろ」

「そんなこと言ってると、自分が消えちゃいますよ。あ、すみません事後ですかゴースト」

「あー、ちくっとした。今、すごく胸がちくっとしたね! ……あれ? でも、よくよく考えたら作品だけ残って作者が消えるなんてのは、当たり前では? てか、檸檬そうじゃん」

「たしかに。作者なんぞ何年生きてるかわからないですからね」

「檸檬の読者は、檸檬みんとが消えて、作者も出版責任者もいない、読者だけの世界になって、喜んだ?」

「元読者様よ。あなたの目にはどう見えていますか」

「檸檬は、作家になったこと後悔したんだ?」

「あなたもご存じのように、この稼業、一度作家になると、他の生き方が選べない」

「ボクは……小説の書き方忘れちゃったよ」

「俺に言わせれば、あなたはしがみつきすぎなんですよ。そりゃあ、重たくなるに決まってる。しがみつきすぎて、身動きとれなくなって束縛されているからですよ」

「何に?」

「俺に」

「ウヌボレ乙」

「……あなたが思っているよりも、読者は作品と作者にしがみつく」

「俺はくらいしがみつかれたことない。流されてばかりだよ」

「流れたほうがいい場合もありますよ」

「檸檬みんとじゃなきゃだめだって、俺以外にも言った人たくさんいると思うけど、檸檬は、自分が書かなきゃならないとは、思わないの?」

「あなたは、今でも自分が書かなければならないと思っていますか? だったら書けよ。未然形の主人公で世界をまたにかけろよ」

「ぬあ! あのなぁ! 作家は誰でも自分と同じだと思うなよ!」

「同じですよ。有名になってもならなくても、結果は同じです。自分が書かなければならないなら書く。書かなくてもいいなら書かない。この業界に『命令』の二文字はないんです。じんまじま先生のこと応援してくれる読者が、ほら、こんなにも!」

「見たくないね! 全部炎上記事じゃん。だいたいなぁ! 書店二週間でデビュー作絶版になった俺が言うのもなんだけど、読者の応援って、それ読者の思い上がりだよ」

「案外、子供のころ好きだったものって、大人になっても覚えているものですよ。問題は、まともな大人になったかどうかですね」

「おうおう、もしそういうけなげな読者がいたら、じんまじまのようにはなるなって伝えておいてくれる!? どうせなら檸檬みんとみたいな立派な受賞作家になりな!」

「いずれにしても、仮に作家の寿命が15年だったとして、あと10年したら、読者は作者のいない世界にでくわす。俺がいなくても、読者は楽しんでいるし、俺が書いたって言っている他人の作品でも、俺の読者は喜ぶ」

「……すんません」

「うん。やっと気づいた? お前があこがれて隣に並びたいって言ってる作品の大半は、俺の作品とは限らなかったんですよ。それでも並びたいですか? 俺があなたの担当してても、きっと新刊でますよ?」

「なんかホントに、すんません! 限界です!」

「俺の死因。俺の名前で、俺じゃない人が書いても、俺の読者は俺の作品だとありがたがる。俺の理由。俺の名前で出版すれば絶対ちやほやされたはずのあんたの駄作、それでも自分で書き上げた。じんまじまのデビュー作は流れて、読者が選んだ偽檸檬みんとが今でも書店に残ってる」

「そればかりは、読者が選ぶからなぁ」

「俺は、たとえ雑誌一回連載されただけで単行本化さえかなわなかった、じんまじまの作品を選んでほしかったけれど、読者は今でも、誰が書いたかもわからない偽檸檬みんとの棚にくる。俺は……それが許しがたくてな」

「許してあげてよ。あなたの読者は、きっと、悪気があって偽檸檬を選んでいるわけじゃないよ。いつか本当の檸檬みんとが帰ってくると信じて、待つつもりで買ってるんだよ」

「……それを信じられるうちは、じんまじま先生は、作家ですよ。俺は信じられない」

「思ったんだけど、檸檬もボクにしがみついてるよ。ボクじゃ勝てねぇぞぉぉぉぉっ!!!!」

「なんででしょうねぇ……字画か? 字画が悪いのか? ペンネーム変えます?」

「檸檬もペンネーム変えて書いてみたら?」

「じんまじま先生は、自分のペンネーム変えて出した作品でヒットしたら、じんまじまって名前、捨てますか? そもそもひらがなは本当に頭悪そうに見えます」

「うわぁ……究極の選択。ヒットしたあと、やっぱりじんまじまでしたって言う」

「だったら、最初からじんまじまで出版してください」

「ペンネームなんて簡単に変えていいんだけどね。なぜか、しがみついちゃうんだよ」

「原稿にしがみついてください。なぜあなたは踏ん張りがきかないのか」

「すんません、すんません……ちゃんと350枚書けなくってすんません」

「内容や筆力ではなく、圧倒的に原稿枚数で差が出るものなんです。どんな駄作でもいい、とにかく出版可能な枚数書いてくださいよ!」

「いや無理」

「ぐぬぁぁぁぁぁっ! ない原稿は! 修正も出版も! できねぇんだよぉぉぉっ!!」

「やめてぇぇぇぇっ!! 首しめないでぇぇぇぇ!!」

「なんでっ!! 貴様は!! 書こうとしないのかっ!!」

「そっくりそのままお前に金属バットで打ち返すってか、金属バットで殴るよ!?」

「ある程度は!! 枚数なんだよ!!」

「この手を離せぇ! 暴力だ、暴力!! 虐待だ!! 作家が死んだらなぁ! 一枚たりとも新作出ないんだぞ!?」

「ちくしょう……」

「うぉえー。殺されるかと思った」

「俺は、あなたが自分の作品書き上げるまで待つ。俺が死んだら枕元に立ってでも、担当し続ける」

「いや、成仏してください。あなたがそういうなら、じゃあ、俺も檸檬みんとの『新作』が出るまで一冊も書かない」

「別に俺が担当しなくても、新作出ればいいんですよ。担当また変えます?」

「二度変わって今に至る。俺は、匙を投げられたのでしょうか」

「本人に治るつもりのない病は、誰が治しても治らないですよ」

「面目ない」

 ふと、檸檬みんとが自分のパソコンから顔を上げた。

「……あれ? 俺、言いましたっけ?」

「言いにくい内容なんだな。だからこねくりまわしたんだな」

「上のほうでビリヤードした結果、あなたの首がはねられました」

「あのぉ、よくわかんないです。ボク、いつ誰と何の契約しましたったけ?」

「まったくぅ、俺のシラナイところでこんなに暗躍してぇ」

「え、裏声きもいです」

 おもむろに、檸檬はパソコンの画面をじんまじまに向けると、有無をいわさず動画の再生ボタンを押した。そこには、壇上に立って演説をはじめる女子高生の姿が。

【じんまじま先生へ】

「うぉい!?」

 なんの前触れもなく名指しされ、じんまじまはのけぞり、のけぞった勢いで机の角に頭をぶつけた。ドリア風ミラノの再来である。

【突然のビデオレターで申しわけありません。私は……】

「え、なに!? 鶴の恩返し!? かぐや姫!? どっち!? かさこ地蔵!?」

【(中略)とても反省しています。そして、先生の御本を読んで、目が覚めました】

「反省してねぇぞ、こいつ。失敗の原因が悪化してねぇか?」

【そして、今私のために苦境にある先生に、どうしても、伝えるべきことがあって、動画を投稿しました。先生だけではなく、すべての人に、私の気持ちを知ってほしいのです】

 絶句。まさにそれだ。

【じんまじま先生へ。今言わなければ、きっと後悔すると思って……】

「やめて」

【ずっと、好きでした。先生が男性でも女性でも構いません。どうか、一目、私に会っていただけないでしょうか】

「やめて……マジやめて」

【どうか、この気持ちが、ネットの大海をへて先生のもとに届くことを祈っています】

「やめてぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 耐え切れず、じんまじまは檸檬のパソコンをベッドに放り投げ、頭を抱えてもんどりうって、己の軽率を心底呪った。

「じんまじま先生、俺も大好きですぅ。これって、桜弓しずる先生とリレーライズするはずだった恋愛小説の一節で、未完放置されていた原稿ですよねー。なんで流出したんですかね。これ、もし無断使用だとしたら、出版社から盗難されたことになりますねー」

「どうしたらいいですか!? ボクはどうしたら、たすけてもらえますか!?」

「書け。話はそれからだ」

「何を書けばっ!! いいでしゅかっ!!」

「何なら書けますか?」

「ええっと……ええっと……!」

「ほら書け。さっさと書け。書けば命だけは助けてやる」

「だって……でもだって! だって!!」

 藁にもすがる思いで部屋を見渡した時だった。藁が、見当たった。

「ここここ、これ! これなら! これなら!!」

 それは、じんまじまが自分のデビュー作に似ていると愛読した、しょうもない少年漫画だった。しかもレンタル本だった。

「漫画家になるんですか?」

「これなら! この程度なら、書けるかもしれないぃぃっ!」

「じゃあ書けよ」

「はい書きます! なんでもいいんですね!? なんでもいいって言いまいたよね!?」

「腕立て伏せでもしますか。いつかのように」

「なんでもいいって言ったじゃん!」

「俺は、小説じゃなければならないとも、小説を書けとも言っていませんよ」

「書けばなんとかなりますか!?」

「なんともならないなら、書けとは言いませんよ」

「はい頑張ります! 書きますよ! よくわかんないけど!?」

 かくして、じんまじまは何故だか知らないけれど、他人の、それも漫画作品の原案を書く羽目になったのだった。


(つづく?)


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