モテなくて本当に良かった
どっかの課の課長が不倫がバレて修羅場っているという噂を聞いた。そういう話を聞く度に僕は思う。モテなくて本当に良かった。“短所は長所”って言うけど、僕の場合はモテないのが当にそれだな、と。
……その昔、江戸時代辺りは、次男に生まれたらそれだけで結婚が難しかったらしい。財産を引き継げないので、家族を支えられるだけの収入を得られなかったからだ。
今という時代はその逆で、長男に生まれたら結婚し難いのかもしれない。
まぁ、僕の家が特殊なだけかもしれないけど。
弟はとっくの昔に結婚をした。だけど、僕は未だに結婚をしていない。かなり早い段階で諦めてしまった。
家の父親は家庭内暴力を振るう。しかも、男尊女卑傾向があり、大酒も飲む。そんな親がいる家に嫁いでくれる女性はかなり稀だろう。
なら、さっさと家を出ろって?
それができたら苦労はしない。母親は僕が小さな頃から父親の暴力の被害に遭っていて、加齢と共にマシになって来たとはいえ、僕が出て行ったらどうなるか分からないんだ。
だから、僕はモテなくて本当に良かったと思っているんだ。もし、結婚したい相手…… 結婚できるような相手ができてしまったなら、間違いなく泥沼状態に陥る。
親を見捨てて逃げても、同居を強行しても。
そんな悲劇的な展開は、ドラマの中だけで充分だろう。現実にはいらない。
僕はそう思っていた。
思っていたのだけど。
「深田さんって、本当に凄いですね」
そう言われた。
屈託のない笑顔で。
彼女は霧島さんといい、今年で二年目の同じ会社の女の子で、けっこー可愛くて性格も良い。
「いやー、これくらい長くやっていれば、誰でもできるようになるよ」
僕は恐らくこの上ないくらいに思いっ切り照れまくってそう返した。女の子から褒められるなんて滅多にない経験だから、免疫がないんだよ。
もちろん、それがリップサービスだってのは分かっていたのだけど。
「いや、あれは本心だわね」
ところが、そう言ってみると、隣の席の麻倉さんからそう言われた。「何を根拠に?」と訊くと、「勘よ。私の女心を見抜く的中率は30%よ!」とそう答える。
……けっこー外しているじゃないですか。
ただ、何にせよ、僕はそれで少しばかり浮かれてしまったのだった。結婚できるような立場じゃないけれど、少しくらいは喜んだって良いじゃないか。例えそれが有り得ない前提であったとしても。
そんなある日、僕は彼女、霧島さんから相談を受けた。
僕は彼女の仕事の先輩で、一応、面倒を見る立場になっている。だから、彼女が僕に相談するのも自然なことだ。
「実は困っている事があるんですよ。わたしの実力では難しくって、仕事が進められないんです」
どんな仕事なのか内容を教えてもらうと、確かに新人には難しそうだった。どうやら上司から無茶振りされたらしい。
「分かった。一緒にやろう」
と、それで僕はそれに返した。
「ありがとうございます!」
そう彼女はお礼を言って来た。
都合良く利用されているのかもしれないとは思ったけれど、仮にそうならそうで構わないと思ったんだ。
そしてそうして一緒に仕事をやった結果、彼女は残業もせずに帰る事ができた。僕が手伝う前は休日出勤すら覚悟していたようで、年休も取れないかもしれないと心配していたらしい。この調子なら、予定通りに彼女は年休が取れそうだった……
「本当にありがとうございました! 深田さんってなんだか安心できるから、ついつい甘えちゃうんですよ」
そして、僕のお陰で目出度く年休を取れた彼女は、お礼のつもりか、その年休を利用して行った旅行のお土産を、そう言って僕にだけ一品多く買って来てくれたのだった。女の子からプレゼントを貰うなんて、何年ぶりの事だろう? 僕は感激していた。もちろん、それが社交辞令だとは分かっていたのだけれど。
「いや、あれは本心だわね」
ところが、そう言ってみると、やっぱり隣の席の麻倉さんからそう言われた。的中率30%の女の勘で。
そのうちにこんな噂を聞くようになった。
霧島さんには好きな相手がいるって。
いや、まさか、と僕は思う。
麻倉さんが言った。
「いや、本当だわね。彼女は誰かに恋をしている」
的中率30%の女の勘で。
僕は霧島さんに僕の家庭の事情を話している。だから結婚は諦めているって事も。それを知った上で、彼女が僕を好きになってくれたのなら。そうであるのなら……
僕は父親をどうにかする事を本気で考え始めた。
もし結婚できたとしても、あの家庭内暴力をなんとかしないと幸せな結婚生活なんて送れるはずがないんだ。
でも、どんな解決方法がある?
やっぱり、家を出て行くか?
母親を見捨てて?
いや、それよりも……
僕の中に不吉で邪な考えが首をもたげて来た。
「皆さん、お世話になりました。この度、わたし、結婚する事になりました!」
そんなある日、霧島さんが皆の前でそう発表した。
僕は目が点になっていた。
なんでも彼女にはずっと付き合っていた男の人がいたらしい。僕の協力によって仕事を終わらせて取った年休の日も、その彼とデートに出かけていたらしい。
「深田さんもありがとうございました。彼との関係が上手くいったのも、深田さんが仕事を手伝ってくれたお陰です。
ほら、深田さんって家庭の事情で結婚は諦めているって言っていたじゃないですか。だから、勘違いさせずに安心して仕事を頼めるなって思っていたんですよ」
僕は霧島さんからそう言われて、麻倉さんを見た。
“何よ。私の勘は当たっていたじゃない!”
と、麻倉さんはそんな視線で返して来る。
いや、確かに外れてはいなかったけど、あんな思わせぶりな事を言って……
僕は僕の中の不吉で邪な考えが、何処かに畳まれて消えていくのを感じていた。
……まぁ、多分、これで良かったんだと思う。
モテなくて本当に良かった。“短所は長所”って言うけど、僕の場合はモテないのが当にそれだ。心の底からそう思う。いや、本当に。