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過去<いままで>:8


 彼と出会ったその日、私はそのまま北へ向かうつもりだった。無謀だった。5分で無理だと諦めた。50ccの原付バイクの世界と、999ccのレーシングバイクの世界は、とても簡単に言ってしまえば、20倍速差の世界だった。

 アスファルトに噛みついた二輪のタイヤは、一切の空転を許さず、加速という言葉よりも発射という言葉が似合う速度で飛び出した。原付バイクのつもりで上半身を起こしていた私は、空気の壁に殴り飛ばされ真後ろへと転げ落ちそうになった。

 体勢を低くして、格好だけはレーサーを真似て彼の身体にしがみ付くと、そこに広がる景色は、まるで別世界だった。フルフェイスのヘルメット、バイクの前方についた風防のシールド、二枚の透明なフィルターを通して見える景色はとても窮屈で、速度をあげるたび、さらに狭くなった。


 30や40なら、まだ普通に見える。60や80になると、視界の左右の半分が消える。100を超える、120を数える。もうこれは、望遠鏡の世界だ。顕微鏡の世界だ。目まぐるしく色を変える万華鏡の世界だ。針の穴のように小さかった黒い粒が、その数秒後には、自動車に変わり危険な障害物として立ちはだかる。


 ハンドルがついていた。ブレーキがついていた。タイヤは二つだった。原付バイクと彼の類似点といったら、それくらいのものだった。


 北海道の実家よりも、あの世の方が近そうだった。三途の川の向こう側で、祖父と祖母が、仲良く手招きをしていた。あるいは、あっちへ行けと手を振っていた。


 暴れ馬の彼と仲良くなるために、私は東京の街を縦横無尽に走った。せっかくだから、最後だから、私は七年間を過ごした東京の街を観光して廻った。雷門の提灯は、テレビではよく見かけたけれど、実物に出会うとその大きさに驚かされた。表側には雷門。裏側には風雷神門。下側には松下電器パナソニック。目を疑ったが、確かにそう書かれていた。


 浅草土産の雷おこしは、最初から乾燥しているお菓子だからと油断していた。時間が経ちすぎた雷おこしは、湿気った煎餅の味がした。乾いた煎餅も濡れた煎餅も美味しいのに、湿気った煎餅だけが美味しくないのは、なにごとも中途半端は良くないということなのだろう。


 御所、皇宮、皇居。こんなときでもなければ、中に入ることはできないだろうと思った。西に位置する半蔵門を前にして、忍び込むには絶好の名前だとも思った。もしかしたら、それを狙っての名前なのかもしれない。ゴキブリホイホイ、的な。泥棒が忍び込むなら、まずこの門になるのだろう。

 迷った。やめた。観光地だけど、他人のお家だ。


 皇居から国会議事堂まではすぐだった。歩道、車道、対向車線を走らせた。ここまで東京の中心部に近づくと、たとえ世界の終末が明け方でも車の数は多かった。辿り着いた先の国会議事堂は、なんとなくホワイトハウスに似た顔の国会議事堂だった。大きな会議室がたくさんあった。テレビ中継で見かける議事堂には、一段高いところに議長席があった。座った。でも、総理大臣の席はわからなかった。座れなかった。


 国会議事堂から西向きに走ると、原宿に着く。竹下通りだ。表参道だ。200mも離れていないこの二本の道なのに、街の色合いは全然違う。竹下通りには俗っぽさがあって、表参道には上品さがある。父に言わせるなら、「一緒だ」になるのだろうけど。自分が街の空気に似合わないことを自覚してか、広い肩を狭くして歩いていた。


 国会議事堂から東向きに走ると、皇居を挟んで東京駅に着く。すでに始発は走っていて、シャッターは開いていた。自動改札は閉まっていた。山手線の電車がホームに止まっていた。東京駅のホームが彼の終着駅だ。その辺の、日暮里なんかの駅よりは、満足して電車としての人生を終えることができるだろう。


 南へ向かえば、銀座だ。我が家の置時計の故郷だ。朝だというのに込み合っていた。朝だからこそ込み合っていたのかもしれない。お店の数だけ入荷があって、入荷の数だけ運び入れの車がある。毎日訪れる何万人のお客様のために、何十万の商品を毎日運び込んでいたのだろう。私の置時計も、母の髪留めも、父が肝を冷やした洋服も、そのうちの一つだった。何十万のうちの、たった一つだった。


 銀座から東京タワーまでは2kmもない。ちょっと健康な足なら、歩いて30分と掛からない。バイクなら、信号無視で3分と掛からない。高さは333メートル。本当は332.6メートル。0.4メートルは四捨五入。途中にある展望台は150メートルの高さにある。健康な足なら10分ちょっとで登れる高さだ。私は一時間かかった。


 私の足が展望台に辿り着いたとき、もうすでに、日はすっかりと落ちていた。夜の展望台から見える景色は期待通りの期待外れだった。空に星明かり、地に夜の闇。光は遠くまで届く。音よりもずっと遠くまで届く。地平線の向こう側に建つ実家の明かりは、道を走り出す前から見えていた。誰かが、どこかで、生きているなら、私の手が握る懐中電灯の明かりを見つけるだろう。誰かが、どこかで、生きているなら、私の目は誰かがかざす光を見つけるだろう。空に星明かり、地に夜の闇、人工の光は私の手の内側にあるばかりだった。夜が明けるまで、ずっとだった。


 これでもう、東京の街に残る意味は無くなった。けれど、北海道へ向かおうとする私の足取りは重かった。電気が止まっていた。エレベーターが使えなかった。150メートル600段を昨日は上った。今日は、150メートル600段の下り階段から一日が始まる。健康的で素晴らしいことだ。北海道へと向かう私の足取りは、とても重たかった。



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