過去<いままで>:4
「いつまでもあると思うな親と金」と言ったのは母だった。
「お金なら、最初からないでしょ」と言ったのは私だった。
なんとも言えない、複雑な表情を浮かべたのは父だった。
祖父と祖母が、二人して、コタツでくすくすと笑っていた。
私が大学への進学で、東京の街に引っ越す、その前夜のことだった。
原始の宗教は、きっと、夜の闇の中で生まれた。人工の灯りを失った街は、黒塗りの森のように深く静かだ。けれど、夜空は無数の星に輝いていた。大地を塗りつぶした夜の向こう側には、恐ろしいものが潜んでいるように思えた。天空を飾り立てる星の向こうには、尊いものがあるように思えた。空と大地と、星と暗闇が、きっと、私たちの祖先である原始の人々に宗教を与えた。
街が、機械仕掛けの明かりを失った街が、私にそっと教えてくれた。
指を折りながら数えた。
結局、よくわからなかった。
予想はしていた。覚悟はしていなかった。燃料を注ぐ人間が居なければ、発電所はやがて止まる。変電所の機械の不具合かもしれない。どこかの家で起きた火災が、大切な電線を焼き切ってしまったのかもしれない。もっと間の抜けた理由かもしれない。銀行からの電気料金引き落としがうまくいかなくて、電気料金滞納で一斉に止められたのかもしれない。原因は、わからない。結果は、わかる。街中の電気が一斉に停止した。
今日という日が、あの日から何日目になるのか、結局、よくわからなかった。
こんなものなのかもしれない、と私は思った。
原因は、わからない。結果は、わかる。どこかで何かが起きて、世界中の生命活動が、一斉に停止した。眼鏡で白衣で博識の博士なら、何かがわかったのかもしれない。けれども私は、そんなに偉くて賢くて、ノーベル賞が貰えそうな人間ではなかった。社会の歯車、それもあんまり重要ではないところの歯車な私だ。
偉くも賢くもない、そんな私は、いまアイスクリームを食べていた。
夜の暗闇のなか、懐中電灯の明かりを頼りに、アイスクリームを食べていた。
ハーゲンダッツは様々な種類の味があって、すべてがハーゲンダッツの味だった。バニラ、ストロベリー、チョコ、ひとつひとつの味は違うのに、やっぱりハーゲンダッツだと思わせるような味だった。美味しかった。
ジャーキーさんのお店で、買い物をしている途中のことだった。
蝋燭の炎のように、蛍光灯の電気が揺らめいた。無意識の動きで私が顔をあげ、蛍光灯を見つめたとき、一斉にパッと消えた。停電、と思った。つぎに、何時まで、と思った。それから、何処まで、と思った。その答えは、何時までも何処までも、だった。
アパートに帰っても、電気はつかなかった。
電池で動く置時計は、素知らぬ顔をしたままだった。
配電盤のブレーカーを確かめて、落ちていないことを確かめて、アパートのブレーカーなんかよりも、もっと大事なところが落ちてしまったことを知った。
どうしよう、私なりに、賢くないなりに、真面目に考えた。
そしていま、私はアイスクリームを食べていた。
今日、電気が止まった。明日には、溶けているだろう。だから今日の私はアイスを食べる。真面目に考えた結果がこれなのだから、考えるだけ無駄だったのかもしれない。
パピコはどうして二つなの。二人で仲良く食べられるからよ。ひとりの時はどうすればいいの。二倍食べられてお徳でしょ。こんな駆け引きで母に半分奪われ喜んだ、幼稚園児の私はとても可愛いかったと思う。
今日は、分け合う相手が居ないから、ひとりで二つとも食べられた。それはすごく、喜ばしいことだった。
昨日までの街には、街灯があった。電気が付けっぱなしになった部屋があった。車のいない交差点で信号機が規則的に色を変えていた。真夜中には、チカチカと点滅していた。スーパーのドアは自動的に開いた。冷蔵庫は冷めたい空気に満ちていた。冷凍庫はもっと冷めたい空気に凍えていた。アイスクリームは、凍ったままだった。
人工の明かりを失った街は、本当の夜の顔を見せていた。
家や、街は、最初から生きているわけではなかったけれど、いまは、死んでいるように思えた。すべての住人が去てしまった、廃屋や、廃村の夜は、こんなふうに静かなものなのだろうか。廃墟マニアという人たちが居たけれど、少しだけ、その気持ちがわかる気がした。とても静かだった。自分の心臓の音が聞こえるほどに、滅んだ街の夜は静かだった。
いまは、アズキバーを齧っていた。相変わらずの硬さに、安心する、ホッとする、涙が出る。これが最後だ。これで最後なんだ。頬を濡らしながらアイスクリームを食べるのは、生涯、初めてのことだった。人生、最後のことだった。悔しいくらいに美味しかった。
笑った。泣いた。食べた。