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過去<いままで>:3


「病院は嫌だ」と子供の我がままのようなことを祖父が言った。

 医師から余命半年を告げられた祖父の口癖だった。実際には、その半分の三か月で逝った。癌だった。医者が藪医者だったのか、祖父に根性が足りなかったのか、そこのところはわからない。あまりにも急なことで、すでに東京の街に住んで居た私は、一度しか見舞いに行くことができなかった。

 一度の見舞いで、「病院は嫌だ」と三度聞いた。


 初めて耳にした私は大きく動揺したけれど、祖父の口癖を聞きなれていた父と母は、日々の挨拶のようにして聞き流していた。慣れとは、そういうものらしい。恐ろしいことだけれども、そういうものらしい。

 どうにか自宅へと連れ帰れないか、孫の身の上で考えた。

 在宅医療に掛かる費用の〇の桁を目にして、無理だと悟った。

 私は、私ひとりを食べさせるだけで精いっぱいの時期だった。


 一度しか見舞いに行かなかったことは、不義理だと思う。ただ、祖父には七人の孫が居た。だから責任は七等分で、孫よりももっと可愛い曾孫も誕生していたから、責任はもっと希釈される気がした。

 けれども祖父は、「病院は嫌だ」と三度言った。


 私の瞳は、枕元の置時計に夢中だった。

 置時計は、一秒ごとに、チッ、チッ、チッと舌打ちする。そんなに嫌われるようなことを私はしたのだろうか。置時計の秒針は、常に不機嫌そうだった。

 短針ばかり見つめていることが、気に入らないのかもしれない。

 けれど、時計の秒針の出番なんて、カップラーメンを作るとき以外にあるのだろうか。私には、彼が主役となる状況が思いつかなかった。

 チッ、彼の舌打ちが聞こえた。


 窓ガラスの向こう側には空があった。空は青い色をしていた。黒い色をしていた。雲に覆われ灰色のときもあれば、夕暮れには西日と共に茜色に染まるときもある。その日の気分次第で、空は様々な色に染まった。


 太陽は明るく、空の天辺で輝いていた。

 地上の我々が思っているほど、天上の太陽は、我々のことを気にしていなかったらしい。こんな世界になってしまっても、能天気な彼は眩しいほどに明るく輝いていた。

 中世ヨーロッパ大航海時代の、古い手書きの地図の片隅に描かれた太陽が、いつでもにっこりと笑っていた理由が、わかる気がした。


 私は置時計と一緒になってっていた。

 なにを、なにかを、とりあえず待っていた。


 電気は、まだ生きていた。水道だって、蛇口から出てくる。ガスコンロは、アパートに備え付けのボンベが空になるまでは火が付くだろう。資格は持っていないけれど、隣近所のガスボンベを運んで取り付けることだって、気合を入れればなんとかなる。ダメならダメで、卓上コンロを使えば良かった。

 とりあえず、私には時間があった。

 とりあえず、だから私は、なにかの訪れを待っていた。


 あの日の私は、世界が滅んだのだと思い込んだ。けれど実際は、私の脚が走って回れるだけの、狭く小さな世界を確かめただけだった。私の声が届くだけの、狭く小さな世界が応えなかっただけだった。この現象は、この終末は、この近辺だけの出来事なのかもしれなかった。と、私は考えることにした。

 だから私は、とりあえず待つことにした。

 そのうちに飛行機やヘリコプターなんかが空からやってきて、窓ガラスの外側に、まだ生きている世界があることを教えてくれるかもしれない。

 だから私は、気長に待つことにした。


 祖父は、寂しかったのだろう、と誰もが思っていた。

 だから毎日、誰かが見舞いに向かった。祖母が一番に多く向かった。


 私の実家と、街の病院の間には、地平線まで広がる大草原がある。この話をすると、東京の人間は北海道とアフリカを勘違いする。北海道は寒い。アフリカは暑い。そこのところが大きく違う。あとは一緒だ。


 大草原を貫く一本の道を、祖母は毎日のように、なんとかして渡った。直通のバスのような便利なものも無かったのに、なんとかして渡った。祖父が、余命半年と言われるような歳だった。祖母も、それなりの歳だった。

 特別に仲の良い二人だとは思わなかった。喧嘩をすることは少なかったけれど、口数も少なく、慣れ合うことはもっと少ない二人だった。

 それでも祖母は、毎日のように道を渡った。身体の悪いを隠してまで渡った。

 祖父が連れて行ったのか、祖母がついて行ったのか、私にはわからなかった。父と母は、半分わかっているような、やっぱりわからないような、そんな表情を浮かべ視線を交わし合っていた。


「病院は、やっぱり嫌だね」と、祖母が間際に言った。見舞いに行けたのは、その一度きりだった。


 私の部屋には、もちろんテレビがあった。携帯電話もあった。薄っぺらいパソコンもあった。インターネットにも繋がるだろう。ワールドワイドな世界に繋がるだろう。ただ、電源が入っていなかった。すべての画面は黒だった。

 なんでも後回しにする、私の悪い癖だった。


 ケーブルを掴んだ手でコンセントから引き抜いた。子供の頃、よく母にこれで叱られた。電気の線は、ちゃんとプラグ部分を持って引き抜かないと痛んでしまうものだ。

 先走った衝動で引き抜いてしまったのは、父の悪い癖がうつったのだろう。


 電源ケーブルをコンセントに差し込めば、スイッチ一つでパソコンは動き始めることだろう。アイコンをダブルクリックすれば、ブラウザが起動して、検索エンジンのページを表示するだろう。あとは適切な言葉を入力して、エンターキーを叩けば、いま起こっている全てのことが簡単にわかるかもしれない。

 便利な時代になったものだ、と言ったのは父だ。

 私は生まれたときから便利な時代だった。

 不便な時代があったと言われても、よくわからなかった。頭のなかで想像したのは、なぜだか原始時代だった。マンモスの毛皮をかぶって、手には石斧を持っていた。

 なにかの罰で、携帯電話とインターネットを禁止されたときの感じだ、と父に説明されて、少しだけわかった気がした。たしかにあれは、不便だと感じた。

 不思議なことに、いまは、不便を感じていなかった。テレビも、携帯電話も、パソコンも、電源ケーブルを引き抜いたままだというのに、いまの私は不便を感じていなかった。


 何度か、電源ケーブルを差し込んだ。

 何度も、電源ケーブルを引き抜いた。

 衝動的になって、画面を壊してしまいそうになったことも、何度かあった。

 テレビの画面をつけたとき、そこに何が映るのかはわからなかったけれど、何も映らなかったときに、私がどうなってしまうのか、わからなかった。

 いま、テレビの画面は、ちょっと暗めの鏡をしている。


 世界の終わりは朝の早くに起きたらしい。

 スーパーで働くジャーキーさんたちが、朝の準備をしているときに起きたらしい。

 それは、新聞配達のバイクが配り終わらないような、早朝だったらしい。

 道に、人は居なかった。原付バイクが一台、水曜日の新聞と一緒に転がったままだった。そばにあるものを、私は何と呼べばいいのか、いまだに迷っている。雨に打たれてはふやけ、日に干されては乾く、だから、ジャーキーさんとはまた別の、誰かだ。

 雨は皮膚を柔らかくして、太陽が皮膚に亀裂を入れて、繰り返し、繰り返し、そのうちに体の表面が表面であることをやめて、体の内側に納まっていた臓器が、内臓という言葉を忘れたらしく、外へと半分、自己主張を始めていた。肉の色をしていた。

 あまり、良い、あだ名が、思いつかない。あまり、じっくり、見ても、いない。


 高校時代、私は原付をらったったーと乗り回していた。年式は違っていたけれど、道に転がっていた原付バイクは、同じ車種だった。

 校則にはしっかりと、バイクは禁止だと書かれていたのだけれど、私の家と私の高校の間には、地平線まで広がる立派な緑の草原があって、交通手段は無かった。自転車で、三時間ほどかけて登校しろというのなら、私は喜んで学校を辞めていた。

 それは暗黙の了解で、暗黙の了解だからこそ、他のところでは優等生な私が居た。教師に弱みを握られていた、とも言える。


 東京の大学に入って一番に驚いたのは、雪が降らない冬があるということだった。二番目に驚いたのは、雪国自慢ではないのだけれど、5センチとか、10センチとか、そんな雪で動かなくなる電車だった。自動車だった。帰宅難民というやつだった。

 私も、社会人になってから経験した。

 その頃には、ずいぶんと東京という街に慣れていた。北海道という土地と疎遠になっていた。外出先で雪が降ったとき、北海道ではどうしていただろうか。思い出すのに時間がかかった。父か母が、車で迎えに来てくれていた。そうだった。


 四輪の自動車とは、縁が無かった。

 あれば便利だとは思うのだけれど、無くても不便ではないのが東京という街だった。大学生の、時間のあるうちに免許くらいはとっておけと父が言ったので、自動車の免許は持っている。ただ、運転しないままに更新日が来て、運転しないままに優良ドライバーの証明書、ゴールド免許へ更新した。

 確かに、運転しなければ事故を起こす心配などないのだから、一番に優良だ。

 更新のたびにお金を落としていってくれる、一番の優良顧客だ。


 東京での私の暮らしは、徒歩と電車だった。ときおりバスだ。

 北海道に居た頃よりも、もしかすると、ずっと歩いているのかもしれない。

 都会の道は、地平線まで続いていたりはしない。地平線まで続く道は、歩きたくもない。くねくねと曲がったり、すぐに突き当たりにぶつかる道に、上京したての頃は戸惑いもしたけれど、いまでは地平線まで続く真っ直ぐな道の方がおかしいと思うようになっていた。


 鳥が居た。

 電線に止まる鳥たちが居た。

 カラスにスズメ、電車の駅にはハトが居た。

 いまではみんな、道路に落ちた羽の毛玉だ。

 雨に打たれ、風に吹かれ、日に干され、ゆっくりと、ぐずぐずに、溶けていく。

 玄関先につながれた犬も、散歩中だった猫も、やがてぐずぐずに、溶けていく。

 あの日、あのとき、屋根の下になかったものは、いまは毛玉だ。雨に溶けた、ぐずぐずの毛玉だ。肉がはみ出した、骨が突き破った、内臓が桃色の、太い血管が管虫くだむしのように地面に枝を伸ばした、ただの毛玉だ。


 窓ガラスの向こう側には、空が広がっていた。青い色をしていた。

 私の部屋はアパートの二階だから、地面の側は、あんまり見えない。部屋の外に出ようとか、馬鹿なことを考えなければ、地面の側は、あんまり見えない。


「外は、嫌だな」と私は言った。

 自分の死に場所が選べるのなら、屋根の下が良いと、私は思った。



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