過去<いままで>:2
「お前には、なんでも後回しにする悪い癖がある」と言ったのは父だった。
「父さんには、なんでも先走る悪い癖がある」と言い返したのは私だった。
判定を下す立場にある母は、どっちもどっちだという顔をしてテレビのリモコンを弄っていた。それから一言、「ドラマが始まるから、二人とも声を抑えてちょうだい」と、いきり立つ私たちに向かって優しい声で言った。
喧嘩の原因は、なんでもないことだった。
喧嘩の結末も、なんでもないことだった。
私と父にとっては互いに譲れない宗教戦争も、第三者の顔をした母にとっては、きっと、なんでもないことだった。
部屋の外へ買い出しに出るのは、おそらく二週間ぶりのことだった。
枕元の置時計は、時間には厳しい顔をするけれど、日付と曜日にはまるで関心がなかった。すこし、母に似ていた。朝ごはんと晩ごはんの時間にはとても厳しい顔をした。家族が食事の時間までに揃っていないと、とたんに機嫌を悪くした。ここだけを切り取ると、母がとても気難しい人に見えたりもするのだけれど、そうでもなかった。
日付とか、曜日とか、国民の休日とか、今年が平成の何年なのかとか、そういったことには興味がなくて、「今日って何曜日」と聞いてきては、私と父をカレンダーの代わりに使った。
母と喧嘩した日、テレビドラマの曜日であることを教えないでいると、見逃して、とても怒った。レコーダーに録画してあると言うと、機嫌は直った。
当時、日付を忘れる母のことを、悪意無く馬鹿だと思っていた。
いまは、少しだけ、母のことがわかる。
部屋のなか、家のなかで大事なものは時間だけだった。日付も、曜日も、国民の休日も、それが大事であるのは、外の世界だけの話だった。母は、専業主婦として暮らすうちに外の世界への関心が薄れ、やがて日付と曜日の感覚を失くしていったのだろう。私は私で、外の世界を失って、そして日付と曜日の感覚を失いつつあるのだろう。
アパートの玄関、丸いドアノブは薄っすらと埃をかぶっていた。私の手が以前に触れたときから、二週間の日付が過ぎていた。あまりにも馬鹿げた光景に、軽くて苦い笑みがこぼれた。
埃をかぶった丸いドアノブを捻り、扉を開けると、窓ガラス越しではない太陽の光が、部屋モグラの青白い皮膚を焼いた。チリチリと感じる光の熱に、夏が近いことを感じた。
ポケットから部屋の鍵を取り出して、鍵穴へと差し込もうとして、もう一度、私の顔は笑うことになった。
近所のスーパーまでは、歩いて10分の距離だった。雪解けの春先まではそうだった。近頃は、遠くなった気がした。寝床とトイレを行き来するだけの私の脚は、とても細くなったくせに、とても重たくなっていた。
近所だったはずのスーパーが、とても遠くへと引っ越した。
いまでは15分か20分の距離まで遠くへ引っ越していた。
24時間営業のスーパーは、昼夜の別なく扉を開けて、私を自動的に歓迎してくれる。
入口すぐの青果コーナーでは、朝摘み新鮮を売りにした萎びた野菜を店員のジャーキーさんが品出し中だった。私はジャーキーさんに軽く会釈して、買い物かごを一つ手に取りショッピングカートに乗せた。
一度の買い出しは、買い物かごに一つまでと決めていた。
その理由は、なんとなく、だった。
私の感覚は、まだ、以前の世界とつながっていた。まだ、捨てる気は無かった。父に言わせたなら、「後回しにする悪い癖」になるのだろう。けれど私は、もう少しだけ、以前の私のままで居たかった。
もう少しの期間が、どれくらいの年月にまで後回しにされるのかは、私自身も知らない。
仕事帰りの火曜の夜、寝床についた。金曜の朝、目が覚めた。途中に挟んだ水曜と木曜のあいだに世界は終わっていた。水曜と木曜の二日間に、どんな世界の終末があったのか、私はなにも知らない。そのとき私は、死んだようにぐっすりと眠っていた。
金曜の朝の目覚めは最悪だった。
世界が終わったような頭痛で目が覚めた。喉は干からびたように乾いていた。身体中の関節という関節が、一本の骨になってしまったように固まり軋みをあげた。その日の目覚めが、人生で最悪の目覚めだったことだけは確かだ。
這いずるようにして台所まで辿り着き、蛇口からあふれる水道水に舌を伸ばした。
一口、二口、三口、喉の渇きが求めるままに水を飲みこんだ。水道水の潤いが、口のなかに広がり通り、喉元に広がり、食道から胃袋までを湿らせる。冷たさが広がる。突然、水を注がれた胃袋が、幾千本の針で刺されたような痛みを訴えた。
喉は渇きを、胃袋は痛みを、それぞれの臓器が勝手な意見を訴えて、板挟みの私は台所の床を転げまわった。一本だった骨格が、関節の数までポキポキと折れるような音を発てて、骨折の数だけ私は身体を痙攣させて、台所の床の上で、私は転げまわる人体楽器となった。
叫び声をあげ、大声に裂けた喉の粘膜から血を流し、のたうち回る面白い人体楽器となった私は、その激痛に世界が終わったような気さえした。
乾いた眼球から、一滴も流れない涙を流して、立派な大人の私が、痛みのあまり子供のように泣いていた。
買い物かごを乗せたショッピングカートを押しながら、なにを買うでもなく、店内をうろつき回っていた。
24時間営業のスーパーでも早朝の開店準備というものがあるのか、それぞれのコーナーでは担当のジャーキーさんたちが品出しの仕事に精を出していた。
今日は牛肉の特売日らしい。
二週間前も特売日だった気がした。二週間後も特売日だった気がする。
パック詰めされた牛肉たちは、値札シールの貼られた透明なラップの向こう側で、ゆっくりと干し肉に近づきつつあった。
無菌室に放りっぱなしにされた牛肉は、腐敗することもなく、やがて塩気の足りないビーフジャーキーになるものだ。
あの日、世界は滅んだ。動物も、植物も、もっと微細な微生物たちも、すべてが仲良く死に絶えた。私だけが、なにかの偶然か、なにかの奇跡か、なにかの手違いで、金曜の朝に目覚めてしまった。
水曜と木曜の二日間を死んだように眠っていたのか、死んでいたのか、目覚めた金曜の朝は人生で一番に最悪の朝だった。
初めて出会ったとき、ジャーキーさんたちは、まだ新鮮だった。ただ眠っているように見えた。ただ倒れているように見えた。その両方を合わせた、とても大変なことになっているようにも見えた。
「大丈夫ですか」と、大丈夫ではない金曜日の私が尋ねたくらいだ。
返事は無かった。
人間の死体を目にしたのは、それが初めてだった。棺に納まった遺体は、親戚の通夜や葬式の場で何度か見ていた。だから、わかった。遺体と死体は似ていながらも、まったく別物なのだとわかった。
棺のなかで眠る遺体は、まぶたを閉じ、手を組み、安らかな表情で、自身の死を受け入れているかのように見えた。葬儀屋が手を尽くしたものであれ、棺のなかで眠る祖父と祖母の姿は、そう、見えた。
視線は虚ろだった。まぶたが開いていた。開いた口から舌の肉がこぼれていた。筋肉が身体の支えを放棄していた。身体は、骨格と関節が許す限りの角度で自由に折れ曲がっていた。ただ重力に任せて崩れ落ちた人体は、ぐちゃり、スーパーの床の上に広がる。子供の粘土細工のような、自由な恰好をして、重力に潰れ広がっていた。
私が初めて目にした死体は、入り口のそば、青果コーナーの彼だった。
コレは、ダメだ。金曜の朝の、私のぼんやりとした頭でさえ、わかった。もう手遅れだった。身体のなかにあるはずの、命とかいうものが、すっかりと何処かに消え去っているのを感じた。
一瞬で諦めがつくほどに、彼は完全に死体の姿をしていた。
もっと、驚くべきだったのだろう。けれども、あの日の私には、驚くための元気さえなかった。だから、冷静とも違う、半分、ジャーキーさんたちの仲間入りした虚ろな感情で、スーパーでの買い物を無事に済ませられた。
買ったのは、胃と喉に優しいゼリー飲料だった。
レジカウンターの内側では中年女性のジャーキーさんが、ぐちゃり、していたので、数枚の千円札を置いて、私は帰った。
あのときの千円札は、いまもレジカウンターの上に置かれたままだ。
土曜日は熱にうなされそれどころではなくて、寒くもないのに奥歯を震わせカチカチと鳴らしたのは日曜日のことだった。
これも父に言わせるなら、「なんでも後回しにする悪い癖」なのだろう。
スーパーの店内には、食料品が所狭しと並んでいる。
私ひとりだけなら、一生分とは言わないが、十年は食べていけるだけの量があるだろう。塩や、砂糖や、ソースや、醤油や、調味料に限ったなら一生分があるのだろう。私の余命があと五十年として、あと五件のスーパーがあれば、人生設計には事足りる計算だった。
我ながら、それはあまりにも狭い世界だな、と思えた。
カチカチと奥歯を鳴らしつづける私を布団のなかから引きずり出したのは、ある種の恐怖だった。スーパーで目にした恐怖よりも、もっと大きな恐怖だった。小さな恐怖は、より大きな恐怖には勝てないものらしい。
月曜か、火曜か、曜日はハッキリしない。
私は、言葉にならない大きな恐怖に突き動かされ、街中の玄関の扉を叩いて回った。誰か居ないか、生きてる人が、求めて叩いた。叫んだ。声が枯れ、喉奥の傷が裂けるまで大声で叫び続けた。けれど、誰一人たりとも、私の求めに応じることはなかった。
冷静になって考えてみれば、その日の私は完全な不審者で、私の部屋の玄関が激しく叩かれたとしても、きっと私は居留守を決め込んだに違いなかった。
音だった。
あまりにも静かすぎた。
奥歯がカチカチ鳴る音と、心臓が不正確に脈打つ音の他に、鼓膜をくすぐる音が無かった。いくら窓を閉め切っていても、外の世界からは何かの音が飛び込んでくる。無かった。外から飛び込んでくるはずの、なにかの気配が無かった。無い、ということに気付くまで時間がかかった。無い、ということに気付いてしまえば、言葉にならない大きな恐怖が私を外へと引きずり出した。走らせた。街中の玄関という玄関をノックさせた。手の皮が裂け、血が流れ出た。
車の走らない大きな交差点に、私は立っていた。
私は、この広い世界に、独りだけ取り残されていた。
耳鳴りがするほどに静かな街中で、掻き消すように私の喉が叫んでいた。
掻き消そうとしたものが、静寂か、恐怖か、その両方か、私は知らない。
満腹のときでなければ動こうという気にはなれない私だが、満腹のときというのは食べ物の買い出しには向いていないときだった。
ショッピングカートを連れまわしながら店内を歩くのだけれども、食料品の山を目の前にしながら、なにかを買おうという気にならない。商品に向かって指先が伸びない。食欲が働かないと、どんなご飯も美味しそうに見えないものだった。困った私は、ついつい、いつものように食パンの袋を掴んでいた。
店内で忙しく働くジャーキーさんたちは、日々、乾いていった。ジャーキーに近づいていった。不思議と、ジャーキーさんたちが人間離れしていくごとに、ジャーキーさんたちへの嫌悪感は薄れていった。
今では、一方的な挨拶を交わすくらいの仲にもなった。
確かに私は、お客様ではなくて、窃盗犯なのだから、あまり良い顔をされなくても仕方がない。ジャーキーさんたちが、揃って無愛想であるのも仕方がないことだった。
乾いていった。腐りはしなかった。顕微鏡を使って調べたわけではないけれど、ジャーキーさんたちが日々、ジャーキーに近づいていくということは、肉を腐らせる細菌までもが死滅しているのだろうと予想がついた。
なんでも除菌したがる潔癖症の人間にとっては、きっと、この世は天国だ。
だから、食中毒の心配もない。
だから、賞味期限をとっくの昔に過ぎ去った牛乳パックにも、少しだけ躊躇することで手を伸ばすことができた。理性と感覚は、別のものだった。
スーパーの青果コーナーは全滅だった。
品出し中のジャーキーさんも口惜しそうな顔をしている。
キュウリ、ナス、大根、揃って水気を無くし、なににも漬けていないのに、漬物のように萎びていた。ホウレンソウや小松菜の菜っ葉ものは、もっと悲惨だ。ドライフラワーと見分けがつかない顔をしている。
イチゴやバナナの果物の類は、ドライフルーツを自称している。
そんな青果コーナーで、シイタケだけが、我知らずといった顔をしていた。
水に漬けておけば、そこそこ戻る。
海産物コーナーの惨状もひどいものだ。
ニボシや干物を水に浸しておいたところで、刺身に戻ったりはしない。アサリやハマグリは、砂を吐いてもくれないだろうし、口を開けてもくれないだろう。
ワカメが、乾燥ワカメだけが、増えて戻りたがっていた。
気が付いたのは、ずっと、後になってからのことだった。
父がよく口にする、「なんでも後回しにする悪い癖」が出た。
金曜日の朝、私は目が覚めた。どうしてかはわからないけれど、目が覚めた。あの日に戻れたならと思う日が、人生のなかには何日かあるものだ。そのうちの一日が、金曜日のあの日の朝だった。
電気を流すとか、心臓マッサージをするとか、人工呼吸をしてみるとか、色々と試してみることなら、その日にはあった。金曜日のその日にはあった。どうして目覚めさせたんだと、あとから恨まれることになったとしても、あの日の私にはその機会があった。
けれど、私は、なにもしなかった。
いまさら、ジャーキーさんをお風呂に入れたとしても、もう、遅いだろう。
精肉コーナーは、干し肉だらけだった。
煮ても、焼いても、元の味に戻ることは、もう無い。
買い物かごは、自然と、食パンや、シリアルや、酒のつまみの豆菓子などの、手の掛からない食品でいっぱいになっていった。
いずれはもっとちゃんとした食べ物が必要になるのだろうけど、いまは、この簡単が良かった。
ショッピングカートを押して、いまはもう常連となったレジカウンターで清算を済ませる。カウンターの内側では女性のジャーキーさんが、乾燥肌に悩んで俯いていた。カウンターに置かれたままの千円札は、まだ、そのままだった。
行きは手ぶらで、帰りはショッピングカートを押しながら、そうするとアパートの入り口にはカートがどんどん溜まっていくのだけれど、そのうち返しに行かなければならないのだろう。そのうち。
食料品の詰まった買い物かごを手に持って、アパートの金属階段をカンカンとのぼり、玄関の扉の前、ポケットから鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで、鍵を掛けずに家を出たことを思い出して、私は肩を震わせ笑った。