過去<いままで>:1
社会人にもなって部屋に時計のひとつも置いて無いのはどうなんだ、と父は言った。私の部屋まで観光ついでに北海道から上京してきた父が言った。せっかくだから、と銀座の高級百貨店にまで出向いて〇の桁を一つ間違えたような置時計を買った。アンティーク調の古めかしい、昭和や平成よりも、明治や大正といった元号がお似合いの洒落た置時計だった。
もちろん私は、話の流れからして父が財布をだすものだろうと期待していたのだけれども、もちろん父は、お前ももう立派な社会人だな、と言い切った。
納得のいかない顔の私だったけれど、せっかくだから、と〇の桁を二つ間違えたような洋服を手にした母の姿と、渋々、嫌々、顔のひきつった締まり具合と反比例するように財布のひもを緩めた父を前にして、ようやく納得がいった。
その日の主役は母だった。子供のような顔をした母だった。私という子供を育て切った母だった。その日、祝われたのは、私の母だった。
銀座のデパートのきらびやかな雰囲気に浮かされた母がいた。本来なら、私が財布をとりだすべき場面だったのだろう。ただ、私の経済事情を知っている父は、そこまでの無茶を言わなかった。
母も母で、私の薄給を理解してくれていた。だから、控えめに一つだけ、桁を一つ間違えただけの髪留め一つで我慢してくれた。
初任給で贈り物などしなかったし、できなかったし、今年のボーナスでさえ雀の涙であった私からの、三年遅れの贈り物に母は顔を綻ばせ、笑顔を見せてくれた。子供。小学生だった小さな私を褒めるときの笑顔に、よく似ていた。
面白くない、と子供のような拗ねた顔を見せたのは父だった。二つ桁を間違えた洋服よりも、一つ桁を間違えた髪留めに大きく喜ぶ母の笑顔に拗ねたのは父だった。満足だった。
ついでのように、お父さんもありがとうね、と本当についでのように母の口からこぼれるものだから、父も機嫌を直すしかなかったことを憶えている。
大学の四年間に、社会人として三年間を東京の街で過ごしながら、東京タワーに上ったのは、父と母と東京観光して歩いた、その日が初めてのことだった。
私自身への東京土産となった置時計は、現在、枕元で11時を指していた。
置時計の短針が、8を指していたときから、私は見つめていた。
一時間で一周する長針は、忙しなくていけない。
一分間で一周する秒針は、もっといけない。
半日をかけて、なかなか景色の変わらない遊覧船のようにゆっくりと文字盤を一周してみせる短針の速度が、いまの私には似合いだった。
やがて置時計の短針は8から9に、10を過ぎて、11を指す頃に、私のお腹がキュルリと可愛い音を発てた。ただ時計を見つめているだけでも、人間のお腹は減るものらしい。不思議なことだ。非効率なことだ。時計は電池ひとつで半年や一年を簡単に過ごすというのに、私のお腹ときたら目覚めて三時間でもう空腹を訴える。燃費の悪い自分の身体を、少しだけ恨んだ。
トーストからは焼けた小麦の香り、熱々のパンの上で蕩け広がるマーガリン、黄身が半熟とろりの目玉焼きに、塩と脂の利いたカリカリのベーコン。の、味と香りを思い出せない私が、袋から取り出しただけの生の食パンを齧る。
唾液を奪われてパサパサになった口の中に牛乳を流し込む。牛乳のついでに食パンも喉の奥へと流し込む。胃袋のあたりにまで牛乳の冷たさが染み込むのを感じた。食パンの欠片が胃袋の中に納まるのを感じた。
胃袋がいっぱいだと悲鳴を上げるまで、私は咀嚼と嚥下を繰り返す。食パンと牛乳を交互に、ときには同時に、口のなかをリスのようにして、胃袋へと流し込んだ。
やがて満腹を感じるころ、倒れこむようにして寝台に身体を預けた。枕元の置時計は変わらず、11を指したまま私を待ってくれていた。
11の次は12だ。12の次は1だ。360度の文字盤を、短針は12時間かけて一周する。1日をかけて二周する。
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。と言ったのは方丈記だっただろうか。川は流れる。同じような顔をして絶えず流れ続ける。けれどそこに同じ水は一滴もない。じつにそれは、忙しいことだと思う。
ゆく針の流れは絶えずして、しかももとの針にある。文字盤の上をくるくると回り続ける。短針も、長針も、秒針も、すべて同じ針が戻ってくる。
文字盤の12を過ぎた短針は、ほんとうに1を目指しているのだろうか。あるいは、もう一度、12の数字へと戻りたがっているのではないだろうか。置時計の時間を示す針たちは、文字盤の上の丸い世界で、いったいどこを目指して進み続けているのだろうか。あるいは、戻り続けているのだろうか。
文字盤の上の丸い世界では、時計の針が進み続けていた。
文字盤の上の丸い世界では、時計の針が戻り続けていた。
私は、時間が進み、時間が戻る、置時計の世界を、ただじっと眺めていた。日が昇っても、月が沈んでも、置時計の短針を、私はただじっと眺めていた。