過去<いままで>:13
半分に裂かれた街路樹が、道路の真ん中に横たわっていた。運悪く、地面に接していなかった方の半分だった。引き裂かれた方のもう半分は、痛々しい傷口を晒しながら、道路脇で自身の半身を眺めていた。
風に飛ばされた立て看板が、ガラスの窓を突き破り、店内を荒らしていた。たった一枚のガラスでも、雨の侵入を防いでいた。空いた穴から吹き込んだ雨と風で、なんの店だったのかわからないくらいにかき回されていた。なんの皮肉か、クリーニング店だった。
枝というには太すぎる木片が、横たわっていた。ガラスは割れ、建物の周囲に散乱していた。屋根の上の瓦が、隣家の壁に穴を開けていた。引き剥がされた外壁が大小のコンクリート片になって道路を汚していた。紙か、プラスチックか、木片か、原料のわからないゴミくずが、地面いっぱいに散らばっていた。
台風が通り過ぎた後には、滅びた世界が待っていた。
人類の滅亡に、世界の方がようやく追いついた、そんな光景だった。
街の廃墟、と言ってしまうには少しだけ早かった。台風被害を受けた街、いまはまだ、その程度の状況だった。
このくらいの景色なら、東京の街でも見たことがあった。
外に出たついでに、たまたま目にした。そのくらいの頻度で見たことがあった。
夏が来るたびに台風は来た。東京の街では、本当に毎年だった。初めのうちは怯えながら珍しく思っていた私も、やがて慣れた。台風が過ぎ去ったあとの景色を、テレビのなかで見かけた。テレビのなかでは、特にひどい箇所ばかり映すものだから、いま、私の目の前に広がる景色よりも、ずっとひどい惨状をテレビ越しで目にしたこともある。
けれどその光景も、長続きはしなかった。
私が部屋の布団で惰眠をむさぼっている間に、私が大学で授業を受けている間に、私が会社で仕事をしている間に、見知らぬ誰かが台風の後片付けを済ませていた。台風が通り過ぎた証拠が、夕暮れまでには消えていた。一両日中には元通りだった。それが、彼等の仕事だった。私とは、あまり面識のない彼らの仕事だった。
台風という名前の幼稚園児が、おもちゃ箱をひっくり返す。彼は、お片付けのことなんて知らない乱暴な子だ。ただただ、おもちゃを放り投げては笑って喜ぶだけだ。それを片付ける誰かが居た。それを修理する誰かが居た。去年までは居た。今年の春先までは居た。もう居ない。
大きな十字路の交差点、その中央に私は自動二輪の彼を停めた。私の目の前には、未来の光景が広がっていた。それは、何年も先の光景だった。たった一つの台風が、街を少しだけ壊していった。今年の夏には、いくつの台風がやってくるのだろう。来年の夏には、再来年の夏には、いくつの台風がやってくるのだろう。台風は少しづつ、こうして街の形を削りとっていくのだろう。容赦なく、公平に、すべての人工物を、平らに削りつくしてしまうのだろう。
雨も、風も、雪も、地震も、雷も、太陽も、酸素も、すべてが協力しあって、人間の残した全ての形を平らなスクラップの風景に飲み込んでしまうのだろう。
ビルがあった。ガラス張りの外観だ。昨日の台風では、傷つかなかった。明日の台風では、どうだろう。十年後、このガラス張りのビルには、いったい何枚のガラスが残っているのだろう。しぶとく貼りついた生き残りのガラスは、むしろ生き汚い、見苦しい、滅びを受け入れない廃墟の姿に思えた。
一年を耐えて、二年を堪えて、十年を生き延びて、それが、いったい何になるのだろう。私の問いかけに、ガラス張りのビルは答えなかった。だから、私は背負い袋の中から鋼鉄製のバールを取り出していた。手に持っていた。素振りまでしていた。
玄関、そんな顔したガラスに向かって、尖った先端を思い切りぶつけた。防犯のものではなかったのか、あっさりと砕けた。手ごたえの無さに、不満を感じたくらいだった。だから、もう一枚、もう一枚、もう一枚、もう一枚、甲高い悲鳴と共に、ガラスたちは砕け散った。
フルフェイスのヘルメットを被っていたからだろうか、防風シールド越しの光景は、あまり現実を感じさせてはくれなかった。
空は、忌々しいほどに青かった。台風が通り過ぎたあとの空だった。
思いっきりバールを全力で振り回してみて、わかったことが一つだけあった。
フルフェイスのヘルメットを被りながら運動すると、すぐに息切れを起こす。新鮮な酸素が欲しくて、ヘルメットのシールドを上げた。青空が、さらに青くなった。
それは理屈が通らない話だった。それは道理に合わない感情だった。ビルのガラスを傷つけたのは私だった。傷ついたのは私だった。私は、ビルのガラスにいったい何を期待していたのだろうか。思い切りバールを叩きつけながら、ガラスが弾いてくれることでも期待していたのだろうか。まるでガラスが、ビルが、街が、まだ生きたがっていて、私の暴力に強く抵抗することを望んでいたのだろうか。
まだ、生きたがっているのは、見苦しくも生きたがっているのは、本当は、いったい、誰のことなんだろうか。私が見上げた空は、忌々しい青空だった。
大きな十字路の交差点では、彼が私を見つめていた。私はバールを握りしめ、彼のもとへと歩いていった。涼しげな顔をしていた。空力学的に考えつくされた表情を浮かべていた。
乾燥重量203kg、総排気量999センチ立方、DTA1・水冷4サイクル4気筒エンジン搭載、197馬力、最高速280km/h、タンク容量16リットル、リットルあたり走行距離16.6km、アルミとマグネシウム合金から削り出された超軽量フレーム、レーシングマシンとしての全ての技術をつぎ込まれた彼でも、その顔面は、鋼鉄製のバールより、ずっと脆い。
私が歩くたびにバールの先端がアスファルトを削り、カリカリと甲高い金属音を鳴らした。
私は、彼の目の前に立っていた。
彼は、私の目の前に立っていた。
私の手にはバールがあった。先の尖った鋼鉄製のバールがあった。
私は尋ねた、「どうしたい」。
彼は答えた、「走りたい」。
「エンジンが、焼き付く瞬間まで走りたい。そのために、オレは生まれた」と彼は無言で答えた。全身を使って、そう答えた。彼は、エンジンが壊れる、その瞬間まで走るため生まれてきた。
私はバールをしまって、彼の背に跨った。
「ほんとうに、私で良いのかな」と彼に尋ねてみた。
よろしいわけではない。レーシングドライバーを背中に乗せるため生まれた彼は、不満を隠さずに答えた。東京からの旅で、なかなかに私の運転技術は上達したはずなのだけど、彼にとっては、まだまだヒヨッコの私らしい。




