過去<いままで>:12
窓が小雨に叩かれていた。障子越しに透ける光を昏く感じた。月明かりに似た昏い明かりに照らされて、眠りすぎたのかと思った。枕元に置かれた置時計は10を差していた。私は夜だと思った。それにしては明るいと思った。1から12の間を回る置時計の世界には、昼と夜の違いが無かった。
和室の障子戸を開けると、小雨に濡れたガラス越しに、黒灰色の空が見えた。とても厚い雲が空を覆っていた。次に来る大雨を予感した。
夏には二つの雲がある。大きく背を伸ばした入道雲と、一つ目をしたグルグル巻きの台風だ。今年の私が初めて出会った台風だった。だからこれの名前は、台風一号だった。
東京での大学生活一年目、真面目な台風に出会ったのはそのときが初めてだった。北海道まで北上する頃、たいていの台風はやる気をなくしているものだった。台風と聞いてもナヨナヨした姿しか頭には浮かばなかった。真面目な顔した台風が暴れる姿は、ゴジラが東京湾に上陸した景色と同じだった。
あわわ、電話した先の友人は、「こんなもんだよ」と軽く言った。
地震の時も、揺れた、と部屋を見回す私を見て、友人は、「ゴキブリでも居たの」と恐ろしいことを言った。
大学生活も三年目に入るころには、平衡感覚がどうにかしてしまったのか、地面が揺れたことに気が付かなくなっていた。台風も、部屋の外に出られない不便さと、今日の講義が休講になるという喜びしか感じないようになっていた。
私にとって台風は、窓ガラスの外の出来事だった。
私はタダで宿泊させてもらっている身の上なので、戸締りを担当した。旅館のなかを歩いて回って、木製の雨戸を閉めて、窓ガラスを締めて、鍵を閉めて、部屋の数だけこれをこなして、私の息が上がるころには小雨は大雨に変わっていた。風がごうごう鳴いていた。
私にとっての台風はゴジラの上陸だ。
窓ガラスの向こう側に広がる、大スペクタルなシネマ劇場だ。
テレビの画面からゴジラが出てこないように、窓ガラスの向こうから台風が入ってくることもない。雨に濡れたガラス越しに、ごうごう唸る風の音に耳を澄ませた。ガサガサという音がして、白いビニール袋が物凄い勢いで空の彼方へ飛んでいく。真っ白な光が先にきて、耳を澄ませていた私はビクッとなって、1、2、3、落雷までの距離を測ったあとにピシャリとゴロゴロの音がした。光と音が3秒差だから、1キロ離れた先の落雷だった。
私は旅館のなかで一番に高そうな部屋を選んだ。その部屋は海が望めるオーシャンビューで、高潮がざぶざぶと浜辺を洗っていた。海岸線に並んでいた天然物のカツオ節たちも、波に浚われて海へと帰っていった。そのうちまた、やってくるのかもしれない。
たぶん、お金を払っていたなら、休日が無駄になったと、とても残念な気持ちになっていたことだろう。でも今日の私は、窓ガラスの向こう側で荒れ狂う台風の姿を優雅な気持ちで眺められていた。
台風の暴れ回る姿に、私のこころを重ねていた。
本当は、なんの目的もなく、金属バットを片手に街中のガラスを破壊して回りたかった。そんな衝動が、私のなかにはあった。同じだけか、もうちょっとだけ大きい自制心が、私の暴力を一歩手前で食い止めていた。
どうしてそんなことを望むのか、感情を言葉にはできなかった。
なにかを壊すとスッキリする。たぶん、そんな原始的な衝動だった。
北海道への旅は、思っていた以上に、上手くいかないことだらけだった。
高速道路で一直線。は、無理だった。大きな国道を通って一直線。は、無理だった。住宅街を蜘蛛の巣のように走る生活道路は、すぐに突き当りにぶつかって、迷子になった。ぐるぐる回っても、一本先の小さな川向こうの道に辿り着けなかった。そのたびにガソリンは減っていって、嫌なのに、嫌いなのに、口とゴムホースを使って給油して、そのたびに口のなかが馬鹿になって、鼻の奥が馬鹿になって、涙目になって、ムシャクシャして、「もう嫌だ」と暴れたくなった。
暗闇の中で初めて建てたテントは斜めになっていて、そのなかで眠っていると、風が吹いて、ぐちゃりと潰れて、こんなことならブルーシートで十分だった。引き千切ろうと手で掴んで、化学繊維の最新生地は私の握力なんかよりもずっと強力で、全然、まったく、破れなくって、それが無性に腹が立って、悔しくて悔しくて涙が出た。
空はずっと青空ばかりで、能天気な太陽が空の上から見下して、私の背中をジリジリ焼いて、ライダースーツのなかは蒸し暑くて、ヘルメットのなかはサウナ状態で、休憩しようと休んだところで飲んだコーラは生ぬるくて、生ぬるいコーラは美味しくなくて、生ぬるい牛乳はもっと美味しくなくて、コンビニのなかのチョコレートは全部溶けていて、飴玉だって溶けていて、銀紙に全部張り付いて、指先がベタベタになって、アイスクリームはジュースになってて、全然、まったく、美味しいものなんかなくって、昨日の仙台辛味噌ラーメンなんか、お湯を入れて3分待ったのに4分だった。
「あー」と、台風に負けない勢いで私のこころと喉が叫んでいた。
窓ガラスの向こう側では、私のこころに負けない勢いで台風が暴れていた。
枕元の置時計を抱き寄せた。彼はいつだってマイペースだ。秒針は一分間で一回転。長針は一時間で一回転。短針は半日で一回転。一日かけて二回転。どうしてこんな世界で、置時計の彼は、こんなにもマイペースで居られるのだろう。
マイペースの秘訣が知りたくて、彼の短針を眺め続けた。
白い光、1、2、3、4、5、雷鳴の轟き。秒針でキッチリはかった5秒間だから、落雷からここまで1.5kmも離れていた。そういえば、くすり、私は笑った。秒針の彼が、いまちょっとだけ、文字盤の上で主役していた。
風は唸る。雨は殴りつける。海は荒れる。雲は流れる。雷は光る。雷鳴は轟く。私の部屋の、窓ガラスの向こうに広がるオーシャンビューの景色は、まさしく台風だった。台風以外のなにものでもなかった。
人は居ない。動物も居ない。魚は干物。植物も枯れた。もう誰も居ない。誰も困らない。なのに台風は、地上のことが見えてないのか、観客席が無人の舞台で踊り狂う。私以外の誰も見ていないのに、それでも台風は、地上の人々を驚かせようと荒れ狂う。じつはね、誰も台風のこと見ていないんだよと教えてあげると、しょんぼり肩を落とした台風が、すねていじける姿を想像した。
だから私だけは、暴れん坊な台風のことをしっかりと見てあげていた。
風速、ビニール袋が空の彼方。雨量、窓ガラスがびしょ濡れ。高波高潮、浜辺に並んだ魚の干物を掃除してくれた。落雷、注意したところで落ちるときには落ちると思う。私のなかの気象庁が、台風の勢力を発表した。
父は、雷注意報が出ると、家電製品のコンセントを抜き始める几帳面な人だった。母は、そんなコンセントを差し込んで電子レンジを使う人だった。ずっと昔、一度だけ、家の周囲に雷が落ちて、家電製品がパンと一斉に全滅した。私が生まれる前の話だ。
祖父母と父と兄弟は、とても困ったらしい。
父と兄弟たちは、ファミコンが壊れたとか、そんな理由で。セーブデータが消えたとか、そんな理由で。見たいアニメが見られないとか、そんな理由で。とても困ったらしい。父の口癖の、「いざというとき、機械はあてにならない」は、そんな理由で口癖になったのだと思う。
電気が止まった今なら、どれだけ雷が落ちても困らない。火事にはなるかもしれない。でも、殴りつけの雨が降っていた。消防車が走るまでもなく、中途半端な火災では、雨に殴られ消えるだろう。それくらい、台風の雨脚は強かった。
風にあおられて、横向きになった雨が窓ガラスを叩いて、池の表面のような波紋が広がる。それは摺りガラスのでこぼこに似て、ガラスの向こう側がよく見えないくらいだった。
雨も風も、これからが祭りの本番だと、気合を入れなおしていた。
台風の陽気にあてられて、私のなかの悪戯心が騒いだ。
仲居さん、若女将、若旦那、みんな揃って私を止めた。
台風と露天風呂、この組み合わせがなんだか素敵に思えた。
下は大火事、上は大雨、これなーんだ。このクイズの答えはお風呂だと言うけど、納得のいかない私は父に強く反論した。いまどきのお風呂は給湯器だ。追い炊きするにしても火元が真下に来ることはない。「そんなお風呂、見たことない」と私は断固として父の答えを認めなかった。
私が意固地になるタイプなら、父も意固地になる人だ。
どこかからか転がしてきたドラム缶を使って、ゴエモン風呂を作ってみせた。星空の下でパチパチと音を発て薪が燃えていた。ドラム缶に張られた水はやがてお湯になり、父と一緒に原始的なお風呂に入った。
すぐ冷めて、すぐ熱くなって、火加減の難しいお風呂だった。
空は一面の星だった。三つ並んだ星のベルトを見つけて、「あれがオリオン座」と父が私に教えてくれた。私の目には、砂時計の形に見えた。でも、オリオン座だった。
湯上り、野ざらしなドラム缶のお風呂では、夜風ですぐに身体が冷えてしまった。
でも、私と父は大満足の笑顔だった。
それから得意げな顔をして、私は母にクイズを出した。
「下は大火事、上は大雨、これなーんだ」と私が出した問題に、母は、「お鍋」と答えを返した。思わず私は、納得した。父も、とても納得の顔をしていた。ガスコンロの上で、くつくつと音を発てる豚肉と白菜のお鍋は、とても美味しそうだった。夜風に冷えた身体に、煮えた白菜の温かさがポン酢の味で染み渡った。
私は今でも、母の回答を支持する。
雨は容赦なく私の全身を打ちのめした。乳白色のお湯が、ぽかぽかと心地よかった。下は大火事、上は大雨、今日の答えは、現在の私だ。台風の下、露天風呂に浮かぶ私の姿だ。
風が、湯の表面を波立たせ、暖かな海のなかで揺れる海藻の気持ちを味わった。南国の海辺でも、ここまで暖かな海はないだろう。自分の力とは関係なく揺れる身体のリズムが心地よかった。
雨に打たれ、風に揺られ、湯に温められて、今までの人生になかった感覚に溺れて、私は笑った。大声で笑った。風が掻き消しても、それでも笑った。口の中に雨が入り込んでも、それでも笑った。私は、大声で笑った。
私の笑い声に苛立ちでもしたのか、空が光った。1、2、3、4、ピシャリとゴロゴロ、空が鳴いた。だから私は、もっと大きな声で台風のことを笑ってやった。
空が光った。連続して光った。もう、秒数をはかるだけの余裕もなく光り続けた。風が唸った。吠えた。メリメリと何かが裂ける音がして、それが枯れた街路樹の悲鳴だと気付いた。均等ではない半分に裂かれた樹は、雨と風に連れられて、ずる、ずる、道路の上を引きずられていく。雨はもう、滝と見分けがつかなかった。私の笑い声はもう、台風の声と区別がつかなかった。そう、私はもう、巨大なひとつの台風と一つになっていた。
星が見えた。
雲の上は、いつのまにか夜になっていた。綺麗な星だった。綺麗な夜空だった。空に浮かぶすべてを台風の風が吹き飛ばしていた。残ったものは、黒い夜と、輝く星だけ。犬のように吠え続けた風さえも、いまは夜の空に目を奪われて静まり返っていた。
私がお湯の表面でちゃぷちゃぷと揺れる、その音だけが響いていた。
夜は黒、星は光、私はちゃぷちゃぷ、台風はその目で、澄んだ夜空を見つめていた。微かな音もたてることなく、澄んだ夜空を見つめていた。星が輝いていた。私は台風と一緒になって、星が輝く夜空を、ただ見つめていた。
台風のやつは荒々しい顔をして、これで、あんがい、ロマンチストなのかもしれない。私は、台風のやつの恥ずかしい秘密を知った気がした。
やがて台風の目が去ると、空には雲と小雨がやってきた。
一緒になって、あの夜空を見つめた仲間として、第二ラウンドに突入するのは野暮な気がした。雨脚が強くなる前に、私は部屋へと戻った。




