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過去<いままで>:11


 油断した。

 傘を差しているから大丈夫だと思っていた。地面からの照り返しの光で、私の顔面がヒリヒリしていた。とりあえず、こんな顔でフルフェイスのヘルメットは被りたくなかった。

 民宿と旅館の違いは、よくわからない。旅館とホテルの違いも、よくわからない。たぶんだけれども、温泉がついているかどうかが判断のポイントなのだろう。海沿いの道路脇に見つけた宿は、旅館だった。

 お客様より遅くに眠って、お客様より早くに起きる、宿泊業は大変だと思った。玄関も、勝手口も、駐車場も、人力だけれど開いていた。勝手口から入った先は厨房で、港町でしか食べられない、とれたて新鮮ピチピチな魚の干物がドンと置かれていた。


 いままでも誰かの家のガレージに泊まることはあった。庭先の水道を借りることもあった。そのまま庭にテントを張ることもあった。空の機嫌が悪いときには、なにかの店の倉庫で雨上がりを待った。雨の音が一日中続くときには、置時計の短針を眺め続けて時間を潰した。時間は丸い形をしていた。


 迷わず、一番高そうな部屋を選んだ。

 セルフサービスの布団がまっていた。

 ヘルメットを脱いで、枕に顔を埋めた。身体は布団にポテリと沈み込んで、なかなか浮かび上がらなかった。深い深い海の底に、深い深い沼の底に、どうしようもなく昏い世界に、私の身体は沈んでいった。身体が重たくて、指先一本が重たくて、動かなかった。動けなかった。どちらにしても同じことだった。私は動きたくなかった。


「あー」と小さな声が私の口からこぼれでた。

「あー」と大きな声が私の口からこぼれでた。

「あー」と叫び声が私の口から、喉から、肺の奥から、心の底から飛び出した。続いた言葉は、「疲れた」の小さな呟き声だった。顔を埋めた枕のなかに私の呟きは消えた。


 勝手口から入った先は旅館の厨房だった。厨房では新鮮とれたてな魚の干物が待っていた。その隣には、魚をさばいている途中だったのか、血糊のついた包丁があった。包丁は、何か月かの時間を掛けて、赤錆色に侵されていた。そして包丁の持ち主は、厨房の床に崩れたままの姿で干からびていた。


 私は北へ向かった。方位磁針のN極が指すままに、私は北へ向かった。夏の盛りだというのに、落ち葉が道路一面に広がっていた。落ち葉にタイヤをとられないよう気を付けながらゆっくりと進んだ。やがて、避けようがないほどの落ち葉溜まりにぶつかって、私は空を仰いだ。木々は、枝にあるはずの、すべての葉を落としていた。広葉樹も、針葉樹も、緑色を失った茶色い棒が、道路の両脇にただ立ち尽くしていた。道に倒れたものもあった。倒木を避けながら道を進んで、そして私は、土が向きだしの山道の途中で、どうしようもなくなった。


 街に着くたび、私は人を探した。私は人の気配を探した。誰かが生きている気配を探した。コンビニの扉を強引にこじ開けるたびに、そこに荒らされた形跡が無いかと期待した。レジのなかでは、制服を着た誰かが、ぐちゃり、倒れて、私を待ってくれていた。品ぞろえのよい店々は、きちんと商品が表向きに並べられていて、私の到来を待ってくれていた。


 紙の地図には、赤い×印が増えていった。公園で、コンビニで、駅前で、休憩のなかで、生きた人のいなかった街の名前を探しては×印を紙の地図へと書き加えていった。増えていった。赤い×印の行列は、私と彼が走った距離だけ長くなった。東京の街は、もう真っ赤な色で塗りつぶされていた。ゆめみ、東野、三丁目。赤い×。


 希望、願望、名前ならどちらでもいい。私の気力を支える糸が、ぷつり、いっぽんずつ、ぷつり、確かな音をたてて、ぷつり、確実に、ぷつり、切れていった。ぷつり。

 私の父と母だけは、きっと北海道の大地で元気に、ぷつり。


「疲れた」と私は枕のなかで呟いた。


 私の目の前には黒一面の光景が広がっていた。照明がつかなかったから。まぶたを閉じていたから。顔を枕に埋めていたから。他、諸々の理由で。真っ暗な世界が、私の目の前には広がっていた。


 やがて黒一面の世界に光が差した。

 私の目が覚めた。日は落ちていた。光は月の明かりだった。満月っぽい月だった。ちょっとくらい欠けても増えても、満月なのか、よくわからない。だいたい、おおよそ、八割以上は満月だった。無駄に明るい満月だった。

 そしてわかったことが、ひとつだけあった。

 ライダースーツは、寝間着には向いていなかった。暑くて、蒸して、悪夢を見る。


 旅館のなかを懐中電灯を片手に、私は露天風呂を探した。

 仲居さん、若女将、若旦那、誰も露天風呂の場所は知らないと無言で語った。サービスの悪い旅館だった。宮沢賢治に教えてやりたい。あとで☆1つの評価をつけてやろう。ここでも私は、お客様扱いされなかった。

 館内案内の看板を見つけた。彼だけは、無銭飲食上等の私にも優しくしてくれた。


 露天風呂に先客が居ないか、どきどきした。裸で混浴するには、ちょっと勇気がいる。私はお風呂に入りたいのであって、じっくり煮込まれたスープに入りたいわけではなかった。

 露天風呂には、幸い、誰もいなかった。

 念のため、水中にも、居なかった。


 電気が来ていないからか、お湯の出元は熱湯のように熱くて、私は距離をとりながら適温の湯に浸かった。

 乳白色のお湯は、温泉、という気分にさせてくれた。ふんわりとした柔らかなお湯だった。ごつごつした硬いお湯に出会ったことは無い。肩まで、首まで、下唇までお湯に浸かって、私は疲れていたんだなと自覚した。心も、体も、疲れ切っていた。だいたい、街中を乗り回すのに197馬力の彼は向いていなかった。いまさらだけれど、後悔した。本当にいまさらになるのだけれど、彼を選んだことを後悔した。


 もう、いいか。思った。

 もう、ここに住んでしまおうか。思った。

 なにがなくともお風呂がある。それで良いと思った。


「もういっそ、ここに住んじゃダメかな」

 私は、駐車場に停めてきた遠くの彼に尋ねた。

 彼は、「腐食する」とにべなく断った。


 温泉の効能書きには、肝臓病、呼吸疾患、慢性疲労、美肌、それから金属類の腐食と書かれていた。人類と機械が、ともに暮らせる幸福の大地はどこにあるのだろう。海もダメ、山もダメ、温泉もダメ、鉄の塊のくせに、彼は本当に虚弱体質だった。

 きっと、北海道の雪もダメだと言うのだろう。


 満月が主役の夜空、脇役の星たちが輝いていた。三つ並んだ星のベルト、あれがオリオン座。あとは知らない。父が教えてくれなかった。そもそも父も知らなかった。オリオンというよりも砂時計の形をしていたけれど、あれはオリオン座だった。

 なんで、私は尋ねた。

 たぶん、そう前置きをしてから、「砂時計が出来る前に、もっと昔の人が名前を付けちゃったんだよ」と父は言った。


 お湯をチャプチャプかき分けながら、月と星の輝く空を眺めていた。日本の夏は、太平洋高気圧が、なんとか。だから太平洋側の夏は晴れの日が多い。忌々しいことに晴れの日が多い。雨が降っても困るのだけれど、雲が無くても暑くて困る。そう、小学校の社会の時間に習った。


 身体を洗うためのシャワーは、冷たくて驚いた。水道水だった。温泉の水が使われていなかった。けれど、夏の盛りの水道管からは生ぬるい水が流れた。我慢できないほどの冷たさでもなかった。夏の温泉、火照った体には、涼しいくらいの水温だった。


 電気が止まると、街の全てが止まるものだと思っていた。

 けれど、温泉のお湯は沸いて出るし、水道からは水が出た。いつから続いているのかわからない工事現場では、日中に太陽光パネルが電気を溜めて、夜にはピカピカと道路を走る誰かに危険を知らせている。

 いずれ、すべてが止まるのだろうけど、いまはまだ、ちゃんと動いていた。

 私も彼も、温泉も水道も、まだ、ちゃんと動いていた。


 浴衣を着るのは何年ぶりになるのだろうか。

 一番上の浴衣には埃が溜まっていたから、コンビニで雑誌を買うときの要領で、下からスポッと引き抜いた。牛乳パックも、賞味期限の遠い、後ろの方からとっていた私だ。母は、気にしない人だった。冷蔵庫の中の賞味期限も気にしない人だった。胃腸の強い人だった。


 老舗の旅館。ゆったりとした広い和室。携帯コンロでお湯を沸かして3分待ったカップラーメン。旅館の売店には、こんなところでも食べたくなる人が居るのか、カップラーメンが売られていた。もちろん温泉饅頭や、何に使うものなのかわからないペナントも一緒に売られていた。鍋敷きとか、コースターとか、そういう風に、使うものなのだろうか。


 せっかくだからご当地の味を楽しもうと、仙台辛味噌ラーメンを選んだ。麺は硬めだった。最近は、そういう流行もあるものだと思って、私はご当地の味を楽しんだ。ラーメンの味に満足して、一休みして、ゴミを捨てようと剥がしたフタを拾ってみると、熱湯4分と書いてあった。

 私は、寝た。



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