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過去<いままで>:10


 海沿いの道では、潮の香りが待っていた。

 彼は、「錆びる」と不満げな顔を見せていた。

 北へ、北へ、方位磁針のN極が示す先へと私は走った。山があった。道があった。すこしづつ、細くなっていった。アスファルトが砂利に変わった。砂利道がむき出しの土に変わった。遭難した。私は私を馬鹿だと思った。

 森の夜、慣れない手つきでテントを広げ、暗がりの中から獣が飛び出してこないかと怯えながら眠った。真夏の夜に、寝袋のジッパーを一番上まで引き上げて。森の朝、慣れない手つきでテントを畳む私の姿を、夜露に濡れた彼が見下した目で眺めていた。


 太平洋を右手側にして走り続ければ、やがて青森にまでは着くだろう。私のなけなしの知性は、ようやくそのことに気が付いた。潮の香り、あるいは、磯臭さ、どちらに感じるかは人それぞれだった。

 どちらかといえば海と疎遠な、北海道の内地に育った私の鼻は、潮の香りを気に入ってくれないようだった。チーズは好きだ。納豆は苦手だ。漂う海藻や、プランクトンの死骸が、紫外線に分解されて空気中に発散される香りは、あまり好きになれそうになかった。

 鼻が慣れるまでの辛抱だと私は我慢した。

 けれども、その辺の自動車からガソリンを給油したとき、そんなことは気にならなくなった。ガソリンは揮発性の高い油で、ハッカ飴のように鼻腔にまで香りが侵入してくる。私はすぐに、磯の香りが大好きになった。


 自動車のガラスを割るのは気が咎めた。ガラスが割れる甲高い悲鳴を耳にするたび、なんだか自分が悪い人間になった気がした。とくに、なかに誰かが居るときには、とくに。自分が悪いことをしている気分になった。

「ごめんなさい」と口にしても、空いてしまったガラスの穴は塞がらない。雨や風が吹き込んで、ゆっくりと中にあるものを腐食してしまうのだろう。濡れて、乾いて、繰り返して、やがては、ぐずぐずに形を失ってしまうのだろう。

 けれども私には、ガソリンが必要だった。彼にも、ガソリンが必要だった。だから、ごめんなさい。


 なにかがおかしい、気が付いたのは東京を遠く離れた後だった。

 高校時代の原付バイクは、ガソリンをあんまり食べない小食な子だった。1リットルも父の自動車から給油すれば、40、50は走ってくれた。けれども彼は、バイクなのに、自動二輪車なのに、車よりずっと小さくて軽いのに、燃料タンクも小さいのに、1リットルあたり20kmも走ってくれなかった。たぶん、その辺のエコロジーに目覚めたハイブリッドカーよりも走ってくれない。

 私は彼に給油するため、ホースを使って何度も何度もガソリンをチュルリと涙目で吸い上げた。私は、私が苦手とするピーマンよりも嫌いな飲み物を見つけた。それを強要する彼を、父よりも憎んだ。


 ガソリンを給油するたびに口直しとして、私のこころを癒す必要があった。ピーマンを口にした後の、ご褒美のジュースと同じだ。海沿いの道路、低めの防波堤の向こうには、白い砂浜が広がっていた。私は自然のうちに誘われて、砂浜にライダーブーツの足跡を刻んでいた。

 ヘルメットを脱いだ私の顔に、容赦なく太陽の光がつき刺さった。


 波打ち際には流木と、それから魚が打ち上げられていた。たくさん。

 海の塩水を被って、太陽の光に炙られて、天然物の干物が打ち上げられていた。波打ち際では、たくさんの干物が海岸線をなぞるようにして打ち上げられていた。天の恵みだ、と、喜ぶ気にはなれなかった。焼いて食べる気にもなれなかった。

 大きなニボシ、に似ていた。

 大きな魚が居た。小さな魚も居た。エビや、カニや、貝は、殻の部分が重たかったのか、浜辺に打ち上げられてはいなかった。きっと海の底、砂の底に埋もれているのだろう。

 浜辺の風景は、あんまり、気が休まる情景ではなかった。むしろ、カツオ節の行列に気が滅入った。私の求めていた海の風景は、これじゃない。


 北海道の夏は短い。

 8月の18日に小学校の夏休みが終わるくらいに短い。

 東京の子供たちが31日まで休みなのを聞いて、羨ましいと思った。その分、北海道では冬休みが長いのだからバランスはとれている。なんて、すまし顔で言われても、全然、まったく、不公平だと私は思った。

 夏休みには太陽がある。冬休みには雪がある。自分の背丈よりも高い雪に囲まれてしまうと、子供はコタツで丸くなる。友達の家へ遊びに行くのも一苦労だ。ゲームをしていると雪かきを手伝えとか親に言われる。ファンヒーターの灯油が切れるたびに、給油のための寒い思いをする。トイレに行くのがつらくなる。トイレに長い間とじこもっていると、お腹が冷えて痛くなる。全然、まったく、不公平だと私は思った。

 東京生まれの友人は、私の心の底からの不平不満を、笑った。笑い事ではないというのにだ。


 本格的な夏を知ったのは、東京に出てきてからだった。

 大学の夏休み、お盆だからと帰った実家で、「まだ東京に帰らないの」と頭の上に疑問符を浮かべた母に言われた。東京の大学の夏休みは、31日まであることを伝えると、そうなんだという顔をした。それから、お客様あつかいが終わって、お手伝いさんあつかいが始まって、私は逃げるように東京へ帰った。

 東京の夏は暑くて、プールの水の中は涼しかった。


 泳ごうか、思った。干物だらけの海岸線は、ロマンチックとは程遠い顔をしていた。私は、やっぱり背を向けた。

 波の音だけは、空の色だけは、去年の夏と同じだった。

 道路脇の防波堤に背中を預けて、雨の日用の日傘を広げて、ビーチパラソルの影に入った気分になって、目を閉じて、耳を傾けて、首も傾けて、頬を肩に寄せて、波が来て、波が去って、浜辺の音だけが、ずっと続いた。海鳥カモメは、鳴かなかった。



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