過去<いままで>:9
普段、カーナビの代わりに使っていた携帯電話のサービスは、圏外の文字と共に停止していた。電源を切って、黒い画面を大きな背負い鞄のなかに放り込んだ。
背負い鞄の中は、使い慣れた生活用品でいっぱいだった。足りないものは道すがらに調達できそうだった。寝袋やテントも用意はしたけれど、アウトドアが趣味ではない私は、ちゃんと広げられるか心配だった。
時間を気にする旅ではないけれど、時間に迷うことも無い。枕元の置時計も、置き去りにするのは気が咎めて連れてきていた。バイクと共に旅する彼は、もう置時計ではない。だから何だと言われも困るけれど、持ち運ばれる彼は、もう置時計ではない。
空は灰色、曇天という言葉が似合っていた。北海道へと向かう私たちの門出を祝っているかのようだった。季節はもう夏の盛りだった。フルフェイスのヘルメット、本革製のライダースーツ、グローブにブーツ、肘や膝にはプロテクターという完全レース仕様の私は、バイクで走っていなければ焼け死んでしまうマグロのような生き物だった。日差しが少ないに越したことは無い。
GSX―R1000、レーシングマシンの彼は、風通しのよい涼しげな表情を浮かべていた。DTA1・4サイクル直列4気筒エンジン、3軸6方向連動モーショントラックブレーキングシステム、デュアルステージインテーク、高輝度LEDヘッドランプ、スピードメーター、タコメーター、オドメーター、他多数のメーターに、ラップタイムを計る機能まで装備されている。高速道を走るためのETCだって標準装備だ。サーキットを走行するための全てを備えた超高性能の彼には、エアコンだけが付いていなかった。
夏を生き抜くために、一番大事な要素だけが抜けていた。
冬を生き抜くために、一番大事な要素だけが抜けていた。
雪が降るか降らないかの季節、原付バイクに乗った私の頬を、肌を切るような冷たく乾いた風がなぞった。実際に、切れていた。頬からタラリと大量の血を流し、それの固まったものを付けて登校した私は、すぐに保健室へと運ばれた。暴行事件と思われた。バイク通学のことを口にできない私は、しどろもどろの国会議員のような答弁を保健の先生に向かって繰り返した。担任の先生は、助け舟を出してはくれなかった。
想い出を懐かしみながら、速度を上げた。
ライダースーツには、保冷剤を仕込むための余裕があるのだけれど、肝心の保冷材が無かった。冬用の使い捨てカイロならあったのだけど、私は焼け死にたくはなかった。時速40kmなら時速40kmの扇風機が、時速60kmなら時速60kmの扇風機が、私の身体を冷やしてくれる。夏の盛りに涼をもとめて、ついついアクセルを全開にすると、あっという間に時速100kmの世界を超えて、三途の川へ飛び込みそうになった。
北へと続く道路は、幸運なことに比較的、空いていた。
意外なことに、高速道の方が込み合っていた。荷物を積んだ大きなトラックが、そのまま側面の壁に激突し、散らばった荷物や車体の破片は、二つのタイヤしかないバイクにとって致命的な障害物となっていた。私は下道を走ることにした。
高速道の次は幹線道だった。やはりそこでもトラックたちが横転し、転がり落ちた荷物の数々が、私と彼の行く手を遮った。
高速道を降り、幹線道を避け、生活道を走っていると、私は迷子になった。
紙の地図を広げても、今がどこかだかわからないから、この先どちらに向かえば良いのかもわからなかった。私は考えた。結果、方位磁針を用意した。北海道は北にある。とりあえず、北向きに走り続ければ近づける。私は私を天才だと思った。
世界の終末は、明け方にやってきた。だから、車の数は少なくて、私は道路を走ることができている。これが出勤ラッシュや帰宅ラッシュの時間なら、全ての道には放置された自動車が立ち塞がり、私は徒歩か自転車で、北海道を目指すことになったのだろう。
「ついてた」と私は思わず口にした。
世界の終わりに立ち会いながら、いったい私の何処がついているのか。口にしてから後悔した。私の顔は、口元だけが笑顔のかたちを作って固まっていた。
きっと、優しい世界の終わり方だった。世界の終わりは明日です、明後日です、一年後です、こんな予告がされてしまったなら、その日が来るまでを誰もが思い悩み続けなければならない。きっと感動のドラマが生まれただろう。きっと凄惨な事件が発生しただろう。そして予定日、全ては無意味になっただろう。
そんな終わり方に比べれば、きっと、この唐突な終わり方はとても優しい。なにかの手違いで、私だけを取りこぼした一件を除けば優しい。
道を走り、道に迷い、木陰で休んでいた。
「便利な時代、だったんだ」と私の口が呟いた。
公園の脇の電柱には、ゆめみ東野三丁目と住所表示が巻きつけてあった。何県の、何市の、何町の、ゆめみ東野三丁目なのかはわからない。紙の地図を広げて探してみても、私の目は、検索エンジンほど素早くもなければ正確でもない。
紙の地図だって、ちょっと縮尺が大きすぎた。
地球儀を片手に、世界一周旅行へとヨットで船出したようなものだった。
車が乗り入れてはいけない公園と芝生に、彼と一緒に乗り込んで、いまは木陰で休んでいた。
広く枝を伸ばした大木は、まだ、生きているようにも見えた。生きているときから、死んでいるように見えていた、とも言えた。樹木の専門家ではない私には、葉っぱのない樹の生き死には、わからなかった。あと何年か、何十年か、巨大な台風でもやってこなければ、大木の死骸は、ずっと生き生きと立ち尽くしているのだろう。
公園の大木は、ただ、立っていた。枝を広げていた。日差しを遮る木陰が出来ていた。木陰で休む私には、ありがたかった。
「ついてた」と私はもう一度、口にした。
日曜だったら、祝日だったら、若奥様たちが井戸端会議に忙しい時間だったら、子供たちが公園で走り回る時間だったら、私は、きっと。
朝方には厚く曇っていた空が、いまは忌々しいほどの青空を見せ、太陽がその天辺で輝かしい笑顔を浮かべていた。夏のいまは憎らしい。冬のあいだは愛おしい。人間は結構、浮気性だ。
「見ろ、人がゴミのようだ」と父はこっそり呟いた。アニメの台詞だった。東京タワーの展望台でのことだった。私は、父が見せたそんな一面に、気恥ずかしさを覚えていた。聞こえないふりをして身もだえをした。
「お父さん、目が良いのね」と聞こえていたらしい母が言った。
母の言葉に父は顔を赤くして、私は私で、150mの高みから地上を眺めた。
車は見えた。人はゴミのようにも見えなかった。砂粒のようだった。
遥か高みの太陽からは、人が生きているとか死んでいるとか、そんな些細なことは見えないのかもしれない。顕微鏡か望遠鏡か、覗き込まなければわからないのかもしれない。だからあんなに燦燦と輝き続けられるのかもしれない。地上の現在を知れば、彼も少しは顔を曇らせるかもしれない。知らないというのは、幸せなことだ。不幸を知らずに済むというのは、幸せなことだ。
「ほんと、幸せだね」と私は言った。
世界の終末をまったく知らない世界に向かって、私は言った。
青空は忌々しいほどに青く、そして広かった。大きな雲が空にひさしを掛ける様子も無かった。私は私で諦めた。さいごに、気温と同じ水温のコーラを一口、ぐいっと飲み干して、ヘルメットをかぶり直し、私は公園を後にした。
戻ってきた。コーラの空き缶をゴミ箱に捨てた。私は彼にまたがって、公園を後にした。




