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エピローグ:現在<いま>


 目的はあった。

 目的地はなかった。

 これはもう、そういう旅だった。


 空は忌々しいほどに青かった。太陽は天辺に輝いていた。青空の下には枯葉色かれはいろの草原が広がっていた。

 雪が降りだす直前の景色だ。秋の終わり、冬の半歩前、葉緑素の抜け落ちた草花からは鮮やかな彩りが逃げ去り、西部劇の荒野を思わせる枯葉色が大地を覆いつくしていた。雪の銀白で世界が覆われてしまう前の、枯れた色の景色だった。


 枯れた草原に一本、定規で引いたような真っ直ぐなアスファルトの道があった。タンクのガソリンを空にして、道端に立ち尽くしたバイクがあった。そのついでに、頭を抱えた私の姿があった。


 SUZUKI、GSX―R1000。乾燥重量203kg。総排気量999センチ立方。最高速280km/h。サーキットを走るために設計されたレーシングマシンの自動二輪車も、燃料がなければ自転車よりも走らない乗り物になれる。


 彼の背中には、日用雑貨やキャンプ用品の山がある。レーシングマシンとして生まれた彼にとって、不本意も極まりない無様な姿だ。それでも嫌々、不格好を受け入れた彼は、「荷物の山のなかにガソリン携行缶の一つも積んでないのはどういうことか」と憤っていた。

 無口で、無表情で、無愛想な彼ではあったが、その六角形のヘッドライトが、私のことを睨みつけているようでもあった。


「そういえば、ガソリン入れるの忘れてたね」

 彼の鋭い視線に耐え兼ねて、つい、誰に聞かせるでもない言い訳がこぼれる。


 じつのところ、「忘れた」は正確な表現ではなかった。

 本当のところ、「怠けた」が正確な表現であった。


 人間、嫌なことは後回しにしたいものだ。人生、後回しのツケがめぐってくるものだ。そのツケは、多くの場合、最悪のタイミングでやってくるものだ。つまり、いまの私のことだった。つまり、道路のかたわらに立ち尽くした彼と、その傍らに立ち尽くした私の現状だった。

 簡潔にまとめたなら、枯草色した大草原の真っただ中、ガス欠で立ち往生していた。


 ガソリンという液体は、嫌な味がする飲み物だ。香りもひどい。私が苦手とするピーマンよりもひどい。ガソリンを飲むくらいなら、私はピーマンを食べる。それくらいにひどい。


 路上に放置された自動車の給油口をこじ開けて、ゴムホースをストロー代わりに差し込んで、グラスに赤いハイビスカスとフルーツが添えられたプールサイドのトロピカルジュースを想像して、思い切り吸い上げれば、口のなかいっぱいに機械油の味と香りが広がる。


 いつまでも慣れない味だった。

 これからも慣れない味だった。

 そんな私のガソリン嫌いが、ついつい給油を後回しにさせた。食べ物の好き嫌いはダメだと父は言った。悔しいことに、その通りだった。サラダ油とか、ごま油とか、オリーブオイルとか、そういったものでも燃料にして走ってくれれば良いのに、レーシングマシンの彼は、ガソリン以外は嫌だという。食事にうるさい彼には困ったものだ。


 紙の地図を広げ、方位磁針で東西南北を見定めて、地図上の風景と山の稜線を見比べた。カーナビほど正確ではないが、おおよその現在位置がわかる。肝腎の携帯電話なカーナビは、ガソリンを切らした彼と一緒になって、真っ暗に拗ねていた。


 次の街まで歩いて半日というところだった。

 行きで半日、帰りで半日、もう一生歩きたくないと街でゴロゴロすること三日、途中で雨なんかが降ると、「今日はやめにしよう」ということで延長。行って戻って、おおよそ一週間というところだった。

 これで雪なんかが降ると、「来年まで待とう」になるかもしれなかった。


 どうしたものやら、さて、私は相談するように機械仕掛けの彼を振り返った。

 どうやら彼にも名案はないらしい。涼しげな、風通しの良い、エアロダイナミズムな表情を浮かべるばかりだ。


「結局、頼りになるのは自分の足だけか」

 口ではボヤキ、背筋を伸ばし、最初からひとつしかなかった結論に辿り着く。路上で悩んでいたところで、空からガソリンの雨が降ってくるわけでもない。仮にガソリンが降ってきたとして、その光景はゾッとしないものがある。なにせ、ピーマンよりもガソリンが苦手な私だ。

 必要最小限の荷物を背負い、次の街まで自分の足で歩き、ガソリンを見つけて帰ってくる。これ以上なくシンプルな結論だった。長々と、道端で悩んでいるフリを続けていたのは、半日を歩きとおすための覚悟が決まらなかったからだ。

 足にはマメが出来るだろう。マメは潰れて血が出るだろう。血は流れて靴を汚すだろう。バイク乗りのライダーブーツというやつは、歩くためには無駄に重い。無駄に硬い。半日も歩けば足の裏の皮がベロリと剥けて、行って帰って一週間でも足りるだろうか、じつは怪しいところだった。


 目を閉じて、溜め息をひとつ。

 頭を軽く横に振って、私は覚悟を決めて目を大きく開いた。

 荷物を背負う。右足を進める。左足を進める。前を向いて一歩ずつ歩き出す。


 50歩ほど歩いた頃だろうか、背中に視線を感じて立ち止まった。

 彼のヘッドライトが私を見ていた。「こんな道端にオレを置いていくのか」と憤りを訴えているかのような瞳をしていた。だが、機械の身体の彼は、一週間を路上で過ごしたところで問題が起きることもない。人間の私は、一週間を路上で過ごせば身体を悪くするというのに、頑丈で、結構で、羨ましいことだ。


 だから、ついつい悪態が口をついた。

「サラダ油でも走ってくれたら良いのに。まったく」

 彼の恨みがましい視線へ、ついつい責任転嫁の言葉を返し、私はまた歩き出す。


 100歩ほど歩いた頃だろうか、また、背中に視線を感じて立ち止まった。

 彼のヘッドライトが私を見つめていた。「こんな道端にオレを捨てていくのか」と不安を訴えているかのような瞳をしていた。ちょうど、ダンボールに箱詰めされた子犬のような瞳をしていた。

 50歩ぶんだけ遠くなった彼の姿は小さくて、機械の、鉄の塊の身体だというのに、ずいぶん頼りげなく見えた。

 枯葉色の草原が、あまりに広すぎたからかもしれない。草原に隠れてしまいそうな彼の姿は、とても小さく見えた。


 私は空を仰いだ。雨の予感がしないくらいに空は青かった。空は高く、澄み切っていた。だからというわけではないのだけれど、私は彼のもとまで戻り、一緒に歩いていくことにした。いつもは彼が私を運んでくれるのだから、たまには今日くらい、私が彼を運んだっていいはずだ。そう、思ったからだった。

 そうして私は、総重量200kg超の、無駄に豪奢な荷車となった彼を押しながら一緒に歩き出した。半日は続く、定規で引かれたような真っ直ぐな道を、彼と二人で歩き出す。


 こんなところで独りぼっちにされなかった彼は、少しだけ、嬉しそうだった。

 もっとも、30分後、いや、さっそく5分後には汗だくになって、私は壮絶な後悔を始めていたのだけれども。



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