古都 オラディアの空は露草色 その17
「はふぅ~もうお腹いっぱい。しあわせだよぅ」
「しあわせだね~。後は残しておこうか」
「そうだね。日持ちしない分は食べたから残りは木箱にしまいましょー」
フルールはランドセルサイズの木箱のフタを開け、パンや小麦粉を練って焼いた食べ物をしまい代わりに鉛筆サイズの生木を二本取り出し、二人してそのまま外に出た。
この生木歯ブラシもこれで四~六回目。
フルールほどうまくいかないけど、だいぶさまになってきた。
今夜も月夜がきれいでうっすらと街並みを照らしていて、たまに吹く夜風が気持ちいい。
そんななか、二人して橋の袂に腰を下ろしガシガシと生木を噛み歯を磨く。
たまに橋の上を通行する人がいるけど誰も気にしなくて、これがここの日常なんだと気付かされる。
二人並んで歯を磨いていたらドブ川の上流からたくさんの花びらが流れてきて、フルールが言うにはなにか祝い事があって流れてきたんだと言い、こういうときはおこぼれが流れてくることもあるからこの場に留まろうと言った。
待つこと数十分、男性用の長袖シャツ一枚とテーブルクロスが流れてきて木の棒に絡め回収し、水気を絞り橋の柱に引っかけた。
たぶん、酒に酔った人が誤って流したものだと。
橋の下の砂利に腰を下ろし待つも、その後はとくに使えそうなものは流れてこなかった。
「お家に入る?」
「もうちょっと。もうちょっとこうしてよ」
そう言ってフルールは僕の左肩にもたれかかってきた。
フルールの髪の毛を肩に感じながら視線を川の向こう岸に向けると、月明かりに照らされた男女の姿がぼんやり見え、貧しいながらも治安が良いことにあらためて驚く。
フルールや子供たちが一人で生活できているのだからそれが証拠と言えよう。
「ユウリ……お兄ちゃん……」
「ん?」
「んん……。なんでもない」
「ほむ」
「んとね……、ユウリお兄ちゃんは……どこから来たの?」
「そうだね……。とても遠いところ……かな」
「とても遠いところ?」
「そそ、とても遠いところ」
「旅してきたの?」
「ん~。そんなところかな?」
「そうなんだ……」
フルール、なにか言いたそうになるも唾を飲み込み言葉を区切った。
「お月さまがとてもきれい」
「だね」
「ここは、雲がなくて星やお月さまが夜空にあるときはみんな安心するの」
「なぜです?」
「ここでロウソクとか暖炉があるお家は少ないから、少しでも明るいと助かるの」
「なるほど」
「だから満月の前後はみんな、起きていることが多いの」
「それで周りの道に人通りがあるんだ」
「そうなの。でね、橋も人通りがあるからつい寝不足になっちゃうの」
「こればかりはしかたないね……」
「うん……」
ふいにはじまった会話はストンと切れ、二人して対岸に視線を向けた。
フルールがいま、どう思っているのかなんとなくわかる。
僕たちは偽物の兄妹。
そしてはじまりもあやふやなもので、いまの関係がいつ終わってもおかしくなくて、逆に続いているほうがおかしい。
ドブ川にかかる橋の下で一人、生きている現実を考えればフルールはこのままずっと、僕と一緒にいたいと思っている。
それはきっと、生活が楽になるからとか安心できるとかじゃなくて、誰かと一緒に暮らしたいと願っている――。
じゃあ僕は、このあとどうする?
『事』が終わったらマーテルさんに保護してもらう!?
それともヨーゼルト子爵に相談!?
『事』が終わっても少しだけ一緒に暮らす!?
それとも――元の世界に帰るときに連れて行く!?
絶対にないのは、このままここでお別れ。
彼女にとってもっとも良い未来と選択肢それは、マーテルさんに保護してもらうこと。
もちろんそれが彼女のためと理解しているし、そうなってほしい。
じゃあ、スパッと彼女との関係を切れるかというと、僕もフルールも、簡単に切れないような気がして、それは単なる僕のエゴであり、わがままかもしれないけど……そう思いたい、願いたいと考える自分がいる。
もし彼女に、力強く抱きつかれ、外聞もなくワンワン泣かれ、心の内に溜まるすべての感情を一切合切さらけ出して引き止められたら――。
そのとき僕は、きちんと言えるだろうか――。
それはできないと――。
あぅ……。
僕の心は揺れる。
泣き叫ぶ彼女を残して元の世界、現世に帰ったらきっと後悔すると思う。
じゃあ、このままここに残ってもいいのか――。
ハッと、頭をよぎった。
ネット上『賭け事をしても、人生を賭けるな』
その言葉を見たとき、お馬さんや自転車、バイク、玉遊戯らのギャンブルのことを指していると思った。
いま、僕は言える。
それは誤った認識であり間違いだったと。
僕はいま、人生を賭けようとしている。
彼女が抱きつき、懇願してきたらどうするのか――。
僕はフルールの肩に手を当て抱き寄せる。
「えっと、ユウリお兄ちゃん?」
「とくに意味はないよ……」
「そうなんだ……」
「フルールはかわいいね……」
「っと、いきなりなによぅ……ありがと……」
「いえいえ、どういたまして」
「どういたまして?」
「ミス」
「プッ」
ああ、そうか。
勝ち負けとか、利益とか不利益とか、正しいとか間違いとか、そんなことはどうでもいいんだ。
人生を賭けるって言葉自体、つまらない、みみっちぃことなんだ。
ケセラセラ――。
なるようになる。
自分の強い意志で選択しなくてもいいかもしれない。
時の流れに、感情の流れに、水面に浮かぶ一枚の枯れ葉のように、川の流れに身をまかすことも選択肢のひとつなんだ。
この世界に来てずっと疑問に思っていたことがある。
政治、宗教は複雑に絡み合い、戦争は唐突に起きて、日々の日常は病気怪我に怯え、理不尽で知識も娯楽も少ないこの世界をなぜ、マーテルさんは選んだのか。
まったくわからないし、理解しようとも思わなかった。
この瞬間まで――。
鳥――。
青い鳥――。
青い鳥って、こんなにも身近にいたんだ――。
「フルールはここにどのくらい住んでいるの?」
「なによぅ、唐突に」
「なんとなく、なんとなく聞いてみただけ」
「ーんとね、忘れちゃった」
「……そうなんだ。と、このあたりのお家って、どのくらいで買え――」
「あっ!」
「どうしたの?」
「なにかこっちに来る!」
「川向こう?」
フルールは僕の手を引っ張り、長いスカートの先を揺らし急いで橋の下に向かい隠れる。
松明の明りらしきものと、ガチャガチャと金属の擦れる音が徐々に近づいてきてたぶん兵士たち。
それも身なりの良い階級の高い兵士。
きっと鎧やカブト、金属製の足元をまとっているからガチャガチャと音がしている。
数人の兵士たちは橋の袂で立ち止まった。
「ここで別隊を待つ」
「了解しました」
僕の耳元でフルールは小声で言った。
こんな時間にそれも近衛兵数名が訪れることはかなり珍しく、さらに鎧の擦れる音と松明の明りでこの一帯の住民たちに緊張が走っていると付け加えた。
こういうときにぴったりの諺がある。
『雉も鳴かずば撃たれまい――』
僕たちは身動きひとつせず、兵士たちが過ぎるのを待つ。
ドブ川を挟んだ向こう側からもガチャガチャ音がしてきて、ユラユラと揺れる松明の明りが三つ四つ見え、なぜ彼らがここにいるのか考えるまでもなく、僕が目当て。
それ以外に答えはない。
「そっちはどうだ?」
「こちら副隊長側にはいませんでした」
「そうか」
「しかし本当にいるんですかね、対象者は?」
「そんなの知らん。我々はただ黙って職務を全うするのみ」
「そうですね、これも給料の内ですからね」
「そういうことだ。ではこれから川沿いに進むぞ」
「了解しました」
合流した兵士たちは六~七人で、そのまま川沿いの小道を北上しはじめ、どうやら危機は去った。
「ふぅ、ユウリお兄ちゃん良かったね」
「だね」
僕は「こういうときは『雉も鳴かすば撃たれまい』っていうんだよ」とドヤ顔で言ってみた。
「それってどんな意味なの?」
「それはね――」
諺を説明しようとしたら松明の明りがこっちを向いた気がしてもう遅かった。
「おい、おまえたち。そこでなにしている?」
「どうした?」
「橋の下に誰かいます」
「貧民街のヤツらか。一応調べるぞ、そこの二人、土手を上がってこい」
「どうした早くこっちに上がってこい、命令だ」
僕のシャツの裾をギュッと握りしめフルールは小声で言った。
いったら終わり、誤魔化せない。
「なにをしている早くしろ!」
兵士たちとの間には車にして約五~六台分の開きがあり、僕はフルールを小脇に抱えるとなんの躊躇いもなく川沿いを一気に南下した。
後ろで怒鳴る兵士たちの声を耳に入れながら全力で走った。
星々の明りだけを頼りに。
走る途中、フルールはぼそっとつぶやいた。
あたしのお家……。
胸の奥がズキズキ痛み張り裂ける。
その後兵士たちは、闇夜に紛れた僕たちの行方を見つけることはできなかった。