古都 オラディアの空は露草色 その1
「なにもないところだが、いいところだろう?」
「ですね。ストレス社会の荒波に揉まれ、荒れてやせ細った心を癒すのにぴったりだと思います」
「ん? 君はまだ学生だろう?」
「えっと、ちょっとカッコつけてみたくて言っただけです……」
「フッ、若いな」
そう言って真淵さんは僕のおでこをツンと突いた。
小高い丘の木の下、緑地の地面に敷いたレジャーシートに僕たちは座り、ぼんやりと流れる雲と、時折そよぐ心地良い風に身を任せていた。
丘の下には古い街並みがあってこれから行く予定。
「そういえばお二人さん、お花を摘みに行ってそこそこの時間になるが、なにかあったのだろうか?」
「お花摘み? あぁトイレのことですね」
「そうだ。お花摘みだ」
「たしかに少し遅い気もしますね……」
「なにかあったら大声を上げるように言ってあるし、ヘタに様子を見に行くとセクハラになるからもう少し様子をみようか」
「そうですね、それが一番かとー」
僕たちの後ろには浅い森があって、その中に二人は用事を済ましに行っている最中。
数日前に僕は一日中、桃乃さんの養分になり、そのときは気合いと根性で自力でトイレに行った。
床を這ってトイレに行く僕の邪魔をしてきた桃乃さんは「えぇぃ~、はよ漏らせぇ」と言って馬乗りになってギュッと抱きついてきた。
あれは、ご褒美なのかそれとも拷問なのかと考えると――拷問と思いたいです。
「この絵画の作者は不詳と言っていましたが、なにかわかっていることはあるのですか?」
「そうだな……。わかっていることといえば、男性が描いたということだけだ」
「絵の具の塗り方とか筆の運び方、線の太さ、そんな感じのもので男性って判明したのですか?」
「いや、違う。単純に言ってしまえばこの時代、男性画家に対して圧倒的に女性画家は少ないのだよ」
以外な答えに僕は再度聞き直した。
それが理由なのかと。
それに対し真淵さんはこう返答した。
ルネサンス様式以前の現存する作品群のなかに、女性の画家は数人しか確認されていない。
また、この時代は絵画よりもタペストリーや装飾写本の作成に携わっていた。
僕は食い下ってみた。
もしや、その少ない女性画家の一人ではと。
「この作者不詳の風景画を男性が描いたと断言できるのは、世界中でも私だけだ。なぜだかわかるかね?」
「まったく……」
「私はこの絵画に入るのは五度目と言ったね。それが理由」
「理由?」
「眼下に広がる古い街並みの酒場でトイレに入ったさい、男性用はしっかりとあったが、女性用はどこかぼんやりしていてね、それで判断したのだよ。男性が描いたと」
「おー」
真淵さんは以前言っていた。
描いた画家の考え、知識、想いが反映されるため、どうでもいいことはぼんやりする傾向があり、興味があること、主張したいこと、身近にあるものは正確に存在すると。
また『描き手』との相性が良いとサクッと絵画の中に入れると言っていた。
ヨハンさんやツゥルペティアーノさんたちの世界は時代、時間、描き手の想像など、背景に難があるから手軽に入ることはできないけど、なんでもこの風景画は真淵さんいち押しの入りやすさがあると。
僕は手を上げ質問をした。
「ちなみに、この絵画の価値はどのくらいでしょうか?」
「ざっくり言ってしまえば価値は低い。描いた人物が判明していないため付加価値はほぼない。あるのは、ルネサンス様式以前に描かれたという歴史的価値のみと評価」
僕はさらに尋ねた。
お買い得品で安いのかと。
それに対して「安いぞ、一千万に届かない程度だ」
「届かない程度ですか……」
「まっ、私にとっては数十億の価値がある。絵画のなかに入れる数少ない逸品だから」
絵なら、なんでもかんでもお邪魔できるものではなく、ごく限られた絵のみなかに入れると。
仮にもし、どんな絵画でもなかに入れるとすれば、地獄絵巻きや荒波の描かれた難破船の船上、はたまた見渡す限りの地平線広がる砂漠らに誤って入ってしまったなら危険すぎる。
「おまたせだぉ~」
背後から桃乃さんの声。
「お帰り。村上君と心配していたところだ。少し遅い気がしてね」
真淵さんは立ち上がり声をかけ、僕も立ち上がって「お帰り」と声をかけた。
「もぅ水野お姉ちゃん、こぉ~んなおっきなのをするもんだから埋めるのに大変だったんだよぉ~」
桃乃さんはそう言うと両手でソフトボールサイズの円を作った。
「してませんっ!!」
「大変だったね」
「村上君っ! なにが大変だったと言うの?」
「あっと、つい適当なことを言ってしまってっっっ」
「もうっ」
水野さんはぷぅっと膨れ顔、かわえぇ。
てか、桃乃さんの両手で作ったソフトボールサイズの円が妙にリアル感があって、危うく言葉に出そうになったのは秘密です。
「まぁ成長期だしその程度はするだろう?」
僕の斜め後ろからの真淵さんのひと言に、カッと見開いたキッツイ視線を浴びせる水野さん。
「うわー、真淵ちゃんさいてぇー。女子になんてことを言うのー」
腕を組み、ジトーと蔑んだ視線を真淵さんに送る桃乃さん。
てかてか、事の発端は貴女でしょうに。
「まぁまぁ、みなさん。みんな人間だもの。トイレには行きますよ」
「村上君っ。きれいにまとめようとしているけど、私はしていませんからねっっっ」
「はっはいっ、すみませんっっっっっ」
「君たちといると退屈しなくて楽しいよ。ただ、話しがなかなか進まないのが難点だがね」
イヤイヤ、あなたがそれを言いますか。
桃乃さんはドヤ顔しながら「トイレの話しでこんなに盛り上がるなんて、みんな子供だね」って、桃乃さんあなたがそれを言いますか。
「桃乃ちゃん、最初に言い出したのは誰かなぁ? お姉さんに言ってごらん?」
水野さんはそう言うと桃乃さんのほっぺたをキューっとつねって上下に揺すった。
「ごっごめんなさいっ。お姉さまぁ~~~」
「ふっ、わかればよろしい」
パンッと手を叩く音が聞こえた。
それは真淵さん。
「そろそろ本題をいいかね?」
そう言ってみんなの視線を集めた。
「まずはいま一度全員で情報の確認と共有。そして今後の行動を伝える。とりあえず座ろうか」
緑地に敷かれたレジャーシートに座るよう促した。
僕たちが座ると真淵さんは、革製の手さげ袋から水筒を取り出しカップを配り、温かい紅茶をみんなのカップに注ぎながら言った。
1)ここはルネサンス様式以前に書かれた風景画。
2)地域は現在の東欧あたりの地方都市を描いたと推測。
3)ここにいられるのは三~五日。
4)私たちは、商人へ憧れる農民という設定。
5)とくに目的はない。
6)たまにはのんびりもいいだろうと。
最後の『たまにはのんびりも――』すごくわかります。
絵画に入るたびにいろいろとあるので……。
「ここまででなにか質問はあるかね?」
「はいっ先生!」
ビシッと手を上げる桃乃さん。
「この服、ゴワゴワして痛いよぅ」
「それはしかたない。こちらの世界に合わせて作ったものだから。これでもこの世界からすると上等なほうなんだぞ」
「えーこれで?」
「そうだ」
僕たちの出で立ちは映画に登場するような衣装で、僕と真淵さんはベージュ色の長袖シャツに茶色く擦り切れたズボン。
女子二人も同じ色合いの女性用長袖シャツに、紺色した長いスカート。
みんなして麦わら帽を被り、革製の手さげ袋を背負っていた。
「先生、私からも」
「なんだね水野君?」
「こちらの世界に馴染むよう全体的に汚すのはわかりますが、ここまでしなくてはだめですか?」
「そうだ」
水野さんの顔や首筋、両手には土埃や草木の汁が付着していてお世辞なりにも清潔とはいえない見た目で、みんな同じ程度に汚れていた。
もちろんメガネはしていなく、コンタクトレンズ。
真淵さん曰く「白く透き通った肌をしているのは王侯貴族くらい。目立つことはできるだけ避ける」とのこと。
「水野君は歴史や美術に詳しいからこれ以上は言わなくてもわかると思うが、絵画に描かれている人物たちは、その当時の『憧れ的』なもの」
真淵さんは紅茶を一気飲み干しさらに続けた。
この時代、実際には背が低かったり、見た目も日に焼け小麦色で肌もカサカサ。髪の毛だってゴワゴワで、油で梳かすことができたのは貴族か裕福な商人くらい。
そんななか、白い肌にサラサラして整った髪の毛、そして身なりの整った容姿、風貌の私たちの存在が、いかにこの世界に合わないか理解できるだろう?
それに対し水野さんは「理解しています」と告げそれでも「ただ……」と言って僕のほうに視線を向けた。
はい?
「ちなみにお風呂はない。お湯で身体を拭くのでもここでは富みの象徴とされる」
「「えー」」
女子二人から盛大なブーイングが上がり、それには僕も賛同かな。
「夏なら川で水浴び。それ以外なら水で身体を拭くか、拭かないか」
「「「えぇー」」」
つい僕も。
「真淵ちゃん、ここに五日間はきついぞー」
「そう言うと思って考えてある」
「えっ、お風呂に入れるの?」
「いや、宿先でお湯を溜めた桶で身体を拭き拭きだ。それでもこちらの人たちからすると贅沢で、そう簡単にできることじゃない」
その言葉に二の次が出ない桃乃さん。
「桃乃ちゃんが生きていた時代より若干不衛生なくらいだよ」
「そう言われるとそうだけど、いまの生活に慣れるとぉー、毎日温かいお風呂に入りたいなぁーって」
桃乃さんの横でウンウンとうなずく水野さん。
その気持ち、僕もわかります。
ふいに僕の頭に疑問が浮かび声に出した。
「ヨハンさんやツゥルペティアーノさんたちの世界ではここまでなかったのに、なぜです?」
その問いに女子二人も、アッという顔をした。
「それは絵画に入る前に伝えたように『描いた画家の考え、知識、想いが反映される』ためなんだ。この世界ではこれが普通。あちらの世界ではあれが普通だった。そういうことだ」
僕はなおも質問した。
「もし、ドラゴンが描かれた世界にいったらドラゴンに会えるのですか?」
ジッと僕の瞳を見ながら真淵さんは短く言った。
「そうだ」
「じゃっじゃあ、ものすごい世界にいったらものすごいことになるのですか!」
「君の言う『ものすごい世界』とやらがどういったものなのか計り知れないが、そういうことになるだろう」
つい興奮してしまった僕に鋭い視線が刺さっているような気がして振り向くと、女子二人が微笑ましく睨んでいた。
「水野お姉ちゃん、この人からえっちぃなオーラを感じるぞぅ」
「あら奇遇ね、私もよ。この人からふしだらで淫らなオーラを感じますわー」
えっと、お二人さん、エスパーですか。