見上げた視線の先に映るものは その5
「今日、いろいろあったんだ――」
「はむぅ?」
テレビを見ながらの夕食時、僕はひと呼吸をして、とつとつと切り出した。
今日あった出来事を。
学校での音楽の先生の話から、帰りに寄った本屋さんで倒れたこと、そして駅構内での出来事などを、要点を絞り話した。
もちろん、あちらの世界のツゥルペティアーノさんのことについても話した。
「そんなこんなで今日は疲れました」
「倒れた原因は、友達のしょーもない妄想に!? それとも自分に嫌気が差して!?」
「もちろん後者かな……」
桃乃さんは茶々を入れることなく最後まで聞いてくれた。
いつだって桃乃さんは、最後まで話を聞いてくれる。
そんなところに大人!? の対応を感じる。
「僕って、何なんだろう……」
「むぅ、難しい質問だぞぅ」
「いや、いまのは独り言。ごめん」
「むかーし、本で読んだことがあるの。人って、生活や仕事、身の回りの生活様式がガラッと変わると以前のことを忘れがちになるんだって。なんでも自己防衛反応とかいうものが働いて、いまの生活に心と身体を馴染ませるんだって」
「ほー」
桃乃さんはカットされたパイナップルを箸でつまむと、僕の口元に持ってきて言った。
「だから今回のこと、忘れていたことは変じゃないと思うよ。あたしだってあの体験が、どこか遠い世界の物語のように思ってしまうところがあるの」
「どこか遠い世界の――たしかにその通りだね」
「だね」
「はい、あーんして」
僕はパクリと頂いた。
うん、美味しい。
今日あった出来事の話はそれで終わり、その後は二人して旅番組を見ながら夕食を食べた。
なんとなく、そうなんなく、桃乃さんに話したら少し荷が降りた感じ。
それでも心の奥底で、ツゥルペティアーノさんに(ごめんっ!)と謝る。
何度も何度も。
その後お風呂。
いつも僕が先。
男尊女卑とかじゃなくて、桃乃さんの後に入るとなんというか……想像たくましいというか、健全な男子というか、いろいろとね……。
◆◇◆◇◆
桃乃さんはマンガ本の途中に栞をはさみ床に置くと、枕元にある読書灯の明りを切り、横になった。
「ん~、おやすみだぉ~」
「おやすみ桃乃さん」
僕は壁にある照明スイッチを押し、寝床に入る。
天井で仄かに光るオレンジ色の常夜灯が、ぼんやり僕たちを照らしはじめた。
僕と桃乃さんの寝間着はスポーツメーカーのジャージで、寝床はリビングの床に仲良く並んでいて、それはベッドが苦手な桃乃さんに配慮してのこと。
二人の寝床のあいだにはマンガ本や雑誌が積まれ、テッシュ箱、目覚まし時計、スマホの充電器、そして読書灯が無造作に置かれ、小さな壁を作っていた。
乱雑としていて良くない見た目だけど、僕はあえてその無造作に置かれた物たちを片づけなかった。
理由は単純。
物たちの壁を片づけると、僕と桃乃さんとのお布団の間に仕切るものが無くなるから。
それは僕にとって大きな意味を持っている。
そう、心理的に。
「桃乃さん、寝た?」
天井でぼんやり光る常夜灯を見つめながら、声をかける僕。
「ん~、眠いぞぅ」
ほゃほゃした返答の桃乃さんの声を耳に入れながら僕は『取り留めない話をするね』と前置きをして口を開いた。
マンガやアニメの主人公みたいなセリフかもしれなけど、僕はなんのために生きているのか、わからなくなるときがある。
苦しくてとか悩み事があってとかじゃなくて、様々な経験をするたびに、生きている実感が薄れてしまうことがあると。
その先の、自ら命を絶つつもりはもちろんないし、いまを生きたいと思っている。
けど、どこか希薄になる。
生きていることに。
ハッとなって僕は強い口調で言った。
「幽霊の君を興味本位で見ているつもりはないし、見下してもまったくいない」
「大丈夫だよ~。そんなこと考えてるなんて微塵も思ってないから」
「信頼くれて、ありがと」
「というかぁーあたしに相談すること自体、忘れていたでしょ。あたしが幽霊だってこと」
「はい、すっかり忘れていました」
ご飯を食べたり、寝坊したり、お風呂にトイレ、ゲームで徹夜、まったく幽霊要素がない生活っぷりに、人ならざるものという事実をすっかり忘れていた。
「あたしは思うの『生きていくぞっ!』って考えながら日々の生活を過ごすんじゃなくて、ただ惰性みたいなもの!?で、生きていくんじゃないかなーって」
「なる」
「だからね『目的を持って、覚悟を持って、生きていくぞー』だと結局のところ疲れちゃう気がするし、長続きしないと思うの。大学受験とか、いい会社に入りたいとか、そういう目的じゃなくて、上手く言葉にできないけど、いまのままで良いと思うぞぅ」
「ありがと、桃乃さん」
桃乃さんは天井を見つめながら、さらに言った。
幽霊になって大正、昭和の時代を過ごしてきたあたしにとって、その時代で活躍した日本人の偉人さんたちのほとんどは、死後評価されてるだけ。
その人たちが生きていた頃はなんのことはない、ただの凡人で、結果として歴史家が『すごい!』と言っているだけ。
寝床から身体を起こし、顔を僕のほうに向け桃乃さんは「その偉人たちの大部分はこう思うわ『死んだあとに後世に残る偉業として表彰されるより、生きていたときに少しでもいいから援助なり評価をしてほしかった』と、きっとみんなそう考えていた」
僕は返す言葉がなかった。
いや、正確には見つからなかった。
「偉人さんたちは『偉人になろう~』ってがんばったんじゃなくて、生前、その時の一瞬一瞬を、ひたすら精一杯に生きた結果が偉人になっただけ。だから、いまこの時を、精一杯生きていくだけでいいと思う」
「……深いです」
桃乃さんの放った言葉に僕はそれしか返答できなかった。
「悠久の時を流れてきたあたしに、ほかに質問はあるかぇ?」
鈍く光るオレンジ色の明かりの下、ドヤ顔をする桃乃さんの顔が想像できた。
ので、僕はさらに質問した。
『精一杯生きていくだけでいい』とは具体的にどんな感じかなと。
「むぅ、そんなこと簡単だぉ」
「簡単?」
「そそ、簡単」
桃乃さんはそう言うと僕たちの寝床の間にある物たちの壁をまたぎ、僕の寝床にもぐり込んできた。
そしてギュッと抱きついてきた。
「佑凛お兄ちゃんは何才ですか?」
僕の胸元でそう尋ねてきた。
いきなりのことなのでシドロモドロになりながら「16才です」と言うと「佑凛お兄ちゃんは成人ですか?」とさらに聞いてきた。
「さっきも言ったように僕は16才で、まだ20才にはなっていないよ」
「ちーがーうぅよー。その成人じゃなくて、聖人君子とかの聖人だよっ」
「あー、そっちの聖人ですか」
僕の胸元で、ぷぅっと顔を膨らませる桃乃さん。
かわえぇ。
「僕は、聖人ではないですね。ただの凡人ですね」
「なら、普通の健全な男の子だよね?」
「そうなりますね」
「なら……16才の男の子のお布団のなかに女の子が入ってきたら、どう思う?」
「どう思うって、ちょっとびっくりして緊張……しました」
「それだけ?」
「……そうですね、男と違って柔らかい感じがしますね」
「ほかに?」
「男と違って華奢ですね」
「ほかに?」
「……体温も違う気がします。って、幽霊なのに変ですね」
「ほかに?」
「ほかには……いい匂いもします……」
「ほかに……」
「もう少し、こうしていたいかなーと……」
「……」
ギュッと抱きつく両手に力が入ってきた。
僕もそれに答えるように、桃乃さんの小さくて華奢な身体に両腕を回して抱きしめた。
「あたしに、手を出せば、精一杯生きている証拠に、なると思うの」
なんとも無茶苦茶な理論。
だけど『それは違う!』と言えない。
「佑凛お兄ちゃん、好きに――してもいいよぅ……」
「……」
「健全な普通の16才の男の子。なら、こうしたいよね……」
「……えっと……まぁ……そのぉ……一応、僕もおとこだし……でも……」
「でも?」
少しの間を置き、僕はこう伝えた。
いま、君に手を出すということは、いま、僕たちの間に流れるほんわかした関係というか、温かい空気みたいなものが無くなってしまうような気がする。
それは僕とって、失いたくないもの――と。
「もし僕が桃乃さんを、好きなようにしてしまったなら、明日から僕たちは変わってしまうし、君を、僕はそういう風に見てしまう気がする……」
「そういう風?」
「ハレンチな子とか、そういう意味じゃなくて、桃乃さんの胸やお尻、唇を見ただけでなんというかそのぉ……。君を、汚したくない――」
「して――汚して……いぃよぅ――」
目元をうるうるさせ僕を見つめる桃乃さん。
唇から熱い吐息が僕のほっぺたをくすぐり、それはいつものカプッと噛みつかれ養分にされるときのそれとは、違うものだった。
「僕は――」
「えっとぉそのぉ……。言っている事と、やっている事、違うよぅ……。あたしのお腹に……当たっているぅ……」
その言葉にハッとなって気づくももう遅い。
元気に……。
「熱い……」
「ごっごめん!!」
そう言って腰を引く僕。
逃げる僕の腰に桃乃さんは、自ら身体を密着させてきた。
あぁ、女の子にここまでさせておいて逃げる僕はヘタレで不甲斐ない男。
覚悟、覚悟を決める時かも――。
桃乃さん、聞いて。
僕は君を、目茶苦茶にして汚してみたいと――思っちゃている。
元気になった半身とともに君に好き放題やってみたいと思っちゃっている。
けど、でも、それを――実行しちゃうと、もう、後戻りできなくなっちゃう気がする。
だから――。
僕はそう告げて、ただギュッと桃乃さんを抱きしめることだけに専念した。
ツンと桃乃さんの濃い臭いが鼻に付く。
ジャージ越し、汗ばみ火照った身体の桃乃さん。
僕も汗ばんでいるからきっと桃乃さんの鼻に、僕の体臭が届いているかも。
なんてことを考えていたら、ますます元気になっていく――。
「ずるいよぅ、こんなの――」
「ごめん……」
それを言うのが精一杯。
僕は心を鬼にして、いますべきこと。
それは桃乃さんの火照った心を癒すこと。
僕は身体を少しずらし桃乃さんの顔先に首筋を持っていて「これで許して」と伝えた。
ぐぎゅぅっと声にならない言葉を発し、そのまま僕の首筋に思いっきり噛みつくと、いつもの甘噛みの様相はまったくなく、鈍痛が首筋から肩に広がりあまりの痛さに僕の意識は飛んだ。
◆◇◆◇◆
朝、お腹の上になにか重いものが乗っている気がして目を覚ますと、桃乃さんの両足が乗っていて死んだように眠っていて、汗でぐっしょりになった僕のTシャツからほんのり香る臭いは桃乃さんの体臭で、鼻先で楽しむ僕。
桃乃さんの臭い、嫌いじゃない。
むしろ好き。
静かに桃乃さんの両足を横にずらして起き上がるも、すぐに立ち眩みがしてそのまま布団に倒れ込んでしまい桃乃さんを起こしてしまった。
眠そうに目をこすり起き上がる桃乃さん。
そして言った。
とても美味しゅうございました――と。
布団に倒れたままの僕を見下ろしながら言った。
精魂気持ちよく頂きましたと。
「あのね、昨日の夜、発見したの。悶々とした身体のときにカプッてすると、いつもと違う甘さのある美味しい味になるの。だからつい、うっかり吸い過ぎちゃったのぅ」
意識が少しづつはっきりしてきたせいかその言葉の意味が、身体全身を通して理解できた。
身体の節々にぬめっとしたモヤモヤ感が広がり、力が入らない。
「そのまま寝てていいよ。スマホを取ってくるからー」
「大丈夫だよ、救急車を呼ぶほどじゃないから」
「ううん、違うよぅ。ガッコに連絡しよっ。休みのー」
「えっ」
壁に掛けられた時計を見ると八時を回ろうとしていた。
「んとね、今日一日。あたしに好き勝手させて」
「それはどういう意味……」
「だって言ったぢゃん『君に好き放題やってみたいと思っちゃって――』って、だからあたしもするのー」
「いやっ、あれはそのなんだ……ほら、あれだよっっっ」
桃乃さんは僕の言葉を無視するように柔らかい笑みを見せ、倒れ込む僕に馬乗りになって言った。
もう一度、元気になろうね。
そしたら首筋にカプッてするから。
それだけ言うと抱きついてきて耳元で囁いた。
おっきいのは無理だけど、小さいのならあたしが世話してあげると。
「えっと……それはどういう意味……です……」
「んー、これの上をカットすれば入るよね?」
そう言って500mlのペットボトルを手にとった。
「はぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
「尿瓶がないから代用品でぇー」
「イヤイヤイヤイヤイイイヤヤヤイヤイヤッ無い無い無い無い無い無い無い無い無い無い無理無理無理無理無理無理無理だからっっっ!!!」
「それだとぉー、漏らしちゃうよ?」
「大丈夫!!」
そう言って上半身を起こそうとするも力が入らず布団の上を転がった。
「ほらー、無理しちゃだめだよぅ」
ニヤニヤしながら桃乃さんはそう言うとギュッと抱きついてきた。
その日は一日中、養分となった。