見上げた視線の先に映るものは その3
この音を聞いてみんなはどう思うかね?
三ヶ月後退職を迎える中村義郎先生はそう言ってピアノの音色を、ひとつふたつ鳴らした。
しかし中村先生の問いかけに誰も答えなかった。
正確には、意味不明すぎて誰も答えられなかった。
それでも中村先生はふたつみっつと鍵盤を沈め、一呼吸を置いてゆったりとショパンの曲を柔らかく弾きはじめた。
西日射す、けだるい午後の音楽室内、ただただピアノの音だけが木霊していた。
四月最初の授業の時、先生は言った。
音楽の授業は受験に関係がない。
だから他の授業ほど身を入れなくて良い。
寝たい者は寝て良いし、他の科目の内職をしても良い。
しかし、おしゃべりだけは駄目だ。
そのひと言にクラス全員、目を丸くして驚いた。
中学校でそんなことを言った先生はいないし、世間でもそんなことは聞かない。
紺のスーツに白いワイシャツ、背筋はピンと伸び、白髪交じりのオールバックがトレードマークの中村先生の授業、クラスのみんなは密かに楽しみにしている。
先生は『寝ても良い。内職も可』と言ったけど実際に実行するものは、ほとんどいない。
それは単純な話。
音楽の授業が楽しいから。
これも正確には音楽の授業内容ではなく、先生の人柄と話術の虜になったからと僕は考える。
だから今回の意味不明な問いかけでさえ誰も茶々を入れず、先生の次の言葉を、誰もが待っていた。
「数十年前、ヨーロッパのとある国で君たちの年齢くらいの子達による犯罪が多発し、政府と学識経験者たちは犯罪と再犯の抑制の一環として、とある実験的プログラムを実施した」
ショパンの音色奏でるなか、先生はさらにこう言った。
そのプログラムとは、犯罪を犯した未成年者の心が穏やかになるよう様々なクラシックを聴かせ、実りある人生を送れるようにと予算を確保し実行した。
すると講じた策が効果を表し、未成年者による犯罪が減ったとある。
それはなぜか、わかるかね?
その問いに誰かが「そんなことで本当に犯罪が減ったのですか?」と。
それに対し先生は言った。
はっきりと数字で表れ、プログラムの対象となった犯罪を犯した未成年者も再犯をしないと言い切ったと、記録にあると。
それを聞いた女子生徒は「いま先生が流しているような穏やかな曲たちを聴かせたのですか?」
「とくに決まりきった曲ばかりを聴かせたのではなく、様々なクラシックを聴かせたと記録にある。なんでもいい、なぜこのような結果になったのか考えてほしい」
室内がざわざわして、みんなしていろいろな意見を出し合いはじめた。
クラシックの良さに気づいた。
曲調が深層心理の奥に響いた。
クラシックを聞くことによって犯罪を犯すことの無意味さに気づいた。
音楽の良さに目覚めた。
自分もなにか楽器で演奏したくなった。
ほかにも様々な意見が飛び交うも決定打は見当たらない。
先生は否定も肯定もすることなく好きなように会話をさせ、ただショパンの音色だけを響かせた。
なぜみんなが中村先生の授業が好きなのか、それはこういうところ。
壇上から一方的に話すのではなく、教師と生徒、生徒と生徒が好きなように発言ができる雰囲気を作ってくれて、内容を問わず先生はその発言を尊重してくれる。
だから寝る者や内職をする者はイレギュラーを除き、ほぼいない。
型破りな授業のせいか、大部分の他の先生から中村先生は好かれていない。
生徒に好かれ『まじめに授業を受けなくても良い』と広言しているにも関わらず、寝る者、内職をする者がいない辺りが、他の先生からすると面白くないのではと僕は考える。
様々な意見が出し切った頃合いなのか先生はピアノのトーンを一段下げ、口を開いた。
「記録によると、クラシックを聴かせることによって再犯率が下がった。なぜこのような結果になったのかそれは、クラシックを聴かされることが嫌だから」
クラス中から「えっ!?」と声が沸き上がった。
「なんてことはない。クラシックをただじっと試聴することが苦痛で、その時間を過ごすことがとても嫌だった。捕まるととても残酷な刑が待っていて強制的に執り行われるとーー」
ざわつく音楽室。
クラシックを聴かせることによって犯罪、再犯率は下がった。
しかしそれは政府と学識者たちが描いた路線ではなく、違った本質によって生まれた成果。
「犯罪を犯した彼らの意見として、
『これは拷問だ』
『なにが面白いのかわからない』
『時間が長く感じ苦痛』
『聴いているとイライラしてくる』
『こんな目には二度と合いたくない』など、発案者たちの思い描いた構想とは間逆の意見が大多数を占めた」
「中村先生、その後……プログラムはどうなったのですか?」
「打ち切りになった」
「結果を出したのに打ち切りですか……」
「そうだ。成果をあげた。しかしそれはプログラムを発案した者たちの、考えに沿った結果でないから。それに、音楽に携わる者たちからの、いぶかしむ意見があったと補足に書いてあった」
ざわつく音楽室、先生は話をやめるよう言うこともなく視線をピアノの鍵盤に向けたまま、弾き続けた。
「この実験的プログラムに参加した研究員の一人がこのような一文を残した『私たちの瞳に映る景色、耳に入る音、舌で感じる旨み、それらは誰しもが普遍的に盲目的に、いつでもどこでも誰にでも同じように当てはまるものではない。私たちはもっとも重要な事柄に、気づかなかった。その一点がプログラムの最大の過ちであり、成果でもあった』なんとも滑稽ではないか」
ピアノの音色だけが響く音楽室内、先生はさらに言った。
「一方的に『これはこうだ!』と決めつけるのは簡単なことであり楽でもある。それでも良いが、物事は見る角度によって様々に変化する。そのことを、覚えておいてほしい」
◆◇◆◇◆
音楽の授業が終わり、その後のクラスの雰囲気はなんともいえない空気が漂っていた。
音楽の授業の後はこうなることが多く、そのせいか一ヶ月も過ぎないうちに音楽と数学の授業が入れ替わり、音楽の授業が最後になった。
数学の先生からすると相当迷惑だったようだ。
「むらやん、今日の音楽の授業、どう思う?」
数少ない友達の山田宗斗は僕の机に腰を下ろしながら、感想を求めてきた。
「僕的にはすごく良かった。山田っちはどう思う?」
「どう思うって、もちろんいい感じ。とくに最後の『このネタを使う絶好のタイミングは、将来、飲み屋に行ってお姉ちゃんを口説く際に使えるから、大事に温めておくように』はエクセレント!」
「ああ、それが無かったら完璧だったのにね!」
「むらやんはわかってないなー。この話は絶対に使えるで~。まっ同級生には使えんけど」
「まぁ、そうなるね」
授業の最後、中村先生はお茶らけで言ったその発言に女子生徒からブーイングが上がるも大事にはならなかった。
それはきっと、先生のキャラであり人望の賜物だと思う。
もちろん男子からはとても受けがいい〆のひと言で、誰かが『この実験的プログラムの話はいつも授業で話すのですか?』に、男子全員が反応した。
「さっき中村先生の授業を取っている別クラスのヤツに聞いてきたんだけど、そのクラスではこのネタは話していなかったと言っていたぜお」
「山田っち、将来使う気アリアリだね!」
「いやいや、もしかしたら使う機会があるかもしれないから、一応ね。一応」
「ふーん」
僕のジトーとした視線から顔をプイッと逸らす山田っち、わかりやすいぞと。
「二人してなんの話?」
僕と山田っちに声をかけてきた水野さん。
ふいに窓から入る小風にスカートの裾がピラッと揺れて手で抑える仕種に僕たちの視線は釘付けになって、慌てて必死に誤魔化そうとして僕たちはあさっての方向へ視線が泳いだ。
「おっおう、むらやんと今日の音楽授業について熱い議論をぶつけていたところぜお」
「うっうん、そんなところかな」
「むらやんは『自分なりに改変して使うタイミングを見極める』だって。キモイね水野さん」
「え~と、身長百八十五センチのおかげでバスケやバレー、剣道!?からスカウトされるも、ゆっくりアニメが見れなくなるのと、同人イベントにいけなくなるのがイヤで帰宅部を選んだ生粋のオタク友にもきっと春がくるよ~」
「いやいや、その紹介くだりはいらんやろー」
プッと笑う水野さん。
「二人して面白い。二人とも将来、飲み屋に行ってお姉ちゃんに話すのでしょ?」
「……」
「……」
「否定、しないんだ……」
「ちっ違うぜお!」
「そうそう、山田っちの言う通り!」
「どう違うの?」
「……」
「……」
「二人も――健全な男子だものね、そういうのに興味があってもおかしくないよ」
「そっそうだよ! むらやんもそう思うよね!」
「うっうんそうだね!」
なんだろう、この自爆感の強い会話は……。
「水野さんはこれから部活に行くんでしょ? 遅れるでー」
会話ぶった切りな山田っちのセリフに僕はちょっと感動。
僕もこういう男子になりたい。
「ーん、今日は少し用事があってこのまま帰るの」
「そうなんだー」
「そうなの」
「僕たちでお見送り、しようか?」
「山田君、遠慮させて頂くわ。それより、下は体育着の裾を折り返して履いているから見られても安心なんだ」
そのひと言に僕たちは二の次がでるはずもなく、ただ黙って下を俯いた。
二十分後、水野さんからスマホのSNSに連絡があって『村上君になら、見せてもいぃよぅ (〃艸〃*)キャー』って、絶対に山田っちには見せられない。
本気にしてしまいますよ、水野さん。
◆◇◆◇◆
「そういえば以前、むらやんと行った住宅街にある古本屋、来月から改装するとかで一ヶ月閉店するって張り紙があったぜお」
「改装で閉店なんだ。良かった」
「一時期、店を閉めるって噂があったから残念に思ってたけど、営業を続けるって知ったときはうれしかったぜお」
僕たちはいま、取り留めない話をしながら駅前の商業施設に向かっていた。
目的は本屋と家電量販店。
山田っちは新刊の漫画をチェックしたいと言い、僕は家電量販店で炊飯器と購入予定のノートパソコンを触ってみてみたいと。
僕も桃乃さんもパンよりお米派のためいまの炊飯器だと少し小さく、使い勝手が悪い。
ノートパソコンは、桃乃さんにいつまでも僕のお古を使わせているのが申し訳なく、こっそり購入してサプライズをしようかと検討中。
二つとも買うとけっこうな金額になるけど、両親が貯めてくれた家電量販店のポイントがそこそこあるので少額のお金で買える。
ポイント有効期限があと一ヶ月くらいだからそれまでに使わないと。
「まずは一階の本屋で新刊チェックやでー」
「了解ですわー山田っち」
「なぜに『ですわー』?」
「あ、うん。とくに意味はないよ」
「意味はなくてもむらやんは絶対に『男の娘』が似合うぜお」
「はあああっ!?」
そこそこ人通りのある商店街の道端で、芸人みたいな動きで驚く僕を見て山田っちはひと言。
「美少年というより男の娘カラーが強いから今度のイベントでデビュー、しよっか」
「えっ!?」
「いや、冗談ぜお」
「っと、え~と、山田さん。どれが冗談なの――かなーってね……」
うまく言葉にならない僕の質問に山田っちは「まぁ冗談は置いといて……」と前置き!?
1)小柄で華奢で色白でgood!
2)アイドルばりに細い顔だちに目がクリクリしていてFantastic!
3)性格もAmazing!
4)そしてなにより、若くてピッチってるしExcellent!
「えっと、なにが言いたいのですかっ。山田さん!!」
「顔をうっすら隠してユーチューブデビューしてみない?」
「……。それが目的なのね」
「目的っちゃー目的だけど、アイドルばりにいけると思うんだけどねー」
「なぜにアイドルばり!?」
「いや~、プロデューサーになってアイドルを育ててみたいなーってね」
「いま、いま山田っちがどんなゲームにハマっているか、よーくわかったよっ」
そう言って僕は山田っちのお腹にグーでパンチを二度三度入れるもなぜか悦に浸っていて、両腕を広げて「もっと打ち込めぇ」と言うのでさらに数発お見舞いしたら、空に片腕を上げ「我が一生に悔いなしっ」と言って歌を歌いはじめたから全力で止めた。
「さて、ひと通り終わったから本屋に行くぜお」
「おぉぅ」
道端を歩く人たちから少し引かれ気味な視線を浴びつつ歩きだす僕たち。
その後も山田っちは男の娘の良さをつらつらと語り続け、本屋に着くころには、なぜこうも男の娘を推すのか理解できた気がする。
あくまで――気がする――。
ようは人間って、自分にはないものを求めたり追求したり、欲したりするところがあるから、それの一種でいまハマっているのかなと、僕は思った。
女物が似合う――。
それは幼いころから家族に言われたし、姉と二人で近くの駄菓子屋さんに行ったら姉妹に間違われたこともあるし、否定はしない。
それらを面と向かって『嫌っ』て気分にならないのは、幼いころから言われ続けたせいかとも思う。
ふいに音楽の授業での中村先生の言葉が脳裏をかすめる。
『物事は見る角度によって様々に変化――』
うーん……。
かすめておいてアレなんだけど、中村先生の考えるものとちょっと違う気がする――。
山田っちはいきなり立ち止まると先のほうをジーっと凝視して「む!? むらやん、二つ先の信号機の下に立っているのは水野さん?」
「うーん、ここからだと遠くて本人かもしれないし別人かもしれないし、わからない」
視線の先、同じ学校の制服姿の子が一人。
「近くに行ってみる?」
山田っちの言葉に対し僕は、なんとなく会いづらいことを伝えた。
「なんで?」
「だってほら、学校でねぇ……スカートのなかを覗いたように捉えられたし……」
「あ、うん……」
お互い気まずい空気が流れてこの話しは終わった。