五月下旬、怒濤(ドトウ)の一週間
ロンドンへ家族全員で移り住む考えでいた母の野望を、崩すのに一週間かかった。
月曜日の朝にロンドン行きの話しをされ、火曜日にそれとなく日本へ残りたいと告げ、水曜日は考える時間の期限で「日本に残る!」と強い口調で言ったら、メリットの多いロンドン生活だから三人で行きましょうと様々な角度から説得。
交渉は平行線のまま木曜日に突入し、県外にいる姉と、船上にいる父の双方が電話口から参戦してきて収拾がつかなくなった。
金曜日は冷却タイムとして一日その話題には触れず、土曜日は最後の追い込みとばかりに、夕方に姉が県外から説得に来ることになり、それだけはどうしても避けたい。
姉には霊感がある。
幼少の頃、幽霊をよく見たと言っていた。
交通事故の多い交差点や、病院、学校でよく見たと。
自宅でも何度か不思議な現象にもあったことがある。
中学、高校へ進学するにつれ、その能力は弱まったと本人は言っていたけど、あきらかに桃乃さんは別格すぎる存在だから、気づかれて当然だろう。
姉が帰宅しているあいだ、どこか外に身を隠していても『幽霊が住んでいる雰囲気』を、必ずや当ててくるに違いない。
『佑凛、幽霊に取り憑かれていない? それも女の子の霊に!』
姉の発する言葉が目に浮かぶ。
土曜日の朝、起きるやいなや母の目の前で土下座をして日本に残りたいと告げ、その理由を言うも軽くあしらわれ、僕はある手段に出ることにした。
母の足元、床に転がりまくりながら、わめき泣きじゃくり、鼻水を垂らしながらどうしても行きたくないと、理不尽で意味不明な理由と訳を言ってひたすらロンドンは嫌だと言い続けた。
『もう小学生じゃないんだから、地団駄を踏んで、そんなみっともないことをしない!』と、怒られるもプライドをすっぱり捨てた僕にとってその言葉は心に通じない。
ただ、これが僕にできる精一杯の抵抗であり、強い意志の表れ。
姉が帰ってくる前に決着をつけなくちゃいけない。
それが僕を強くしてくれる。
母の顔をのぞくと呆れ顔をしている。
もう少し。
これだけはやりたくないけど、最後の手段に打って出るしかない。
たぶん、母はトラウマになるかもしれない。
でもやらないとだめかな・・・・・・。
そう、家出。
『ママンのバカァー、なんでわかってくれないのぉ』と、捨てセリフを吐いて、数時間の家出。
プチだけど。
最終兵器投入段階にでようとしたとき、母は折れた。
僕は勝利を勝ち取った。
プチ家出は免れたけど、なにか大切なモノを失った気分でもある。
お小遣いを減らされても一切文句を言いません、お母様!
母はそのまま父と姉に連絡をとってくれた。
父は息子が強い意志で拒むのなら、それも仕方ないと了承してくれた。
姉は、かなり不満みたいだったけど、こちらも最後は折れてくれた。
それに姉の強襲も回避できた。
まぁ、なにはともあれ土曜日の午前中、ロンドンへ行かなくていい確約をとりつけた。
そんな家族のやりとりを、彼女は静かに見守ってくれた。
彼女にとってこの一週間は、どれほど長い時間だったか容易に想像できる。
実際のところ見守るというより、話しに参加できる立場ではないことを、誰よりも理解していた。
「もし、ロンドンへ行くなら、ついて行きたいし、あっちに行けると思う。でも……」
それ以上、言わなくてもわかる。
向こうへ行ったら彼女の居場所は、なくなるということ。
今までのように、誰にも見つからず、のんびり気ままに過ごせる環境を整えることは不可能。
元富豪のお屋敷を丸々一件借りれるのなら、可能性としてはあるけど、現実的にそれはない。
夜、押し入れの中に作った専用のベッドの中から彼女は小さな声で言った。
「パンツ買って……」
いきなり意味のわからない、それも今回の件とまったく関係のない求めに身をのり出す僕。
「男物の下着は擦れて痛いの……」
ああ、自分が情けない。
生活に困らないよう衣服一式は揃えたけど、下着類は買ってあげなかった。
半月くらい一緒に生活していて、なぜ気がつかなかったのか。
こんなにも簡単なこと、誰だって気づくはずなのに……。
僕は、彼女に甘えていた。
陰キャで駄目な、こんな僕に、やさしく接してくれる彼女。
僕は彼女に、ほとんどなにも与えていなかった。
与えているとすれば、生きていくのに必要な栄養分だけ。
高校生になっても僕はまったく成長していない。
桃乃さん、本当にごめん……。
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