とある子爵の時祷書 その18
右腕になにか違和感がある気がして目を覚ますと、水野さんが僕の右腕を枕にうつ伏せに寝ていて、窓の外から差し込む月の光がぼんやりと僕たちを照らしていた。
右腕に直に水野さんの額が当たっていて僕より体温が高く、冷静に考えるとすごい状況かも。
束ねた後ろ髪も右腕に当たっていてちょっとくすぐったい。
白い長袖シャツの胸元のボタンが外れていて、数ミリ見える。
下着が。
見たいけど、それ以上に……。
ふぅーむ……。
うむ……。
これってもしや、気づかれずに上半身を起こせばチュウができそう。
チュウは無理でもいたずらくらいはできそうな感じ。
「水野さ~ん、おはようでござるよー」
起きない。
「いたずらしますよー」
起きない。
「安全確認、ヨシッ!」
「作業前確認……ヨシッ!」
安全確認、作業前確認ともに無事済んだので、ちょっとくらい、いいですよね。
月の光と壁に掛けられたロウソクの灯だけでは鮮明に見えないけど、プルプルした唇が数十センチのところにあって、左腕を伸ばしてツンツンしようとしたら目を覚ました。
チッ。
「むむ、おはよう……村上君」
目元をこすりながらあくびを一つ。
さらに「ムニャムニャ……」と小声を発して身体を起こし、その可愛い仕種に心がキュンとなる。
「おっおはよう水野さん……。もしかして、見守っていてくれたの?」
「看病、するって言ったから。と、おはようじゃなくて、コンバンハかな」
ニコッと笑みを見せながら立ち上がると、テーブルの上に置いてあるパンとミルクを持ってきてくれた。
「お腹、空いているでしょ?」
「あれだけ吸われたので、腹ぺこデス」
僕はおどけるようにお腹を押し「グゥグゥ~」と声を発して小笑いを誘ったところ水野さんは、にぱぁ~と笑みを見せ、僕たちの間に、甘い雰囲気が流れた。
「バター塗ってあげるね。ミルクには野イチゴが入っているから甘酸っぱくて美味しいよ」
僕はお礼を言いながら起き上がるとベッドに腰掛け、ミルク入りカップをもらい、一気に胃に流し込んだ。
くはー。
喉が乾いているせいか無茶苦茶美味しく感じ、まさに『胃に染みわたる美味しさ』とはこのこと。
水野さんはなにもいわず二杯目を注いでくれ、小さく千切ったバターパンも手渡してくれた。
「心遣いがあってきっと、いいお嫁さんになるよ!」
そう言ってパクリと一口で食べる僕。
「ああっと、あり……ありがと……」
照れる水野さん、可愛い。
癒されるわー。
わー。
「あっと、村上君。白いシャツの襟元にミルクが垂れたみたい。なにか拭くものもらってくるね」
それだけ言うとパタパタと小走りで部屋の外に行った。
真淵さんが以前、言っていたことを思い出した。
気遣いとは、気を使うため疲れる。
心遣いとは、心を使いもてなすこと。
そんな風なことを言っていた。
はい、水野さんの心遣い、身に沁みます。
で、その心遣いに便乗というか、乗っかるわけじゃないけど、このタイミングなら聞けそう……。
昨日、街の散策から帰宅し、真淵さん発案『美術館に行けなくなって凹んでいる水野さんへ癒し』作戦の『ギュッと抱きしめて癒し』は成功したと思う。
でで、いい感じになったのまでは覚えているんだけどその後の記憶がスパッとなくて、もしやなにか失礼なことをしてしまったのか不安になるも、今日の僕への接し方を見るかぎり失礼なことはしていなかったと思う。
てか、そう思いたい。
だって、ギュッとやったとき、半身が元気になってツンツンしないように腰を引いたけどたぶん気付いているだろうし、もしかしたら、当たっちゃっていたかもしれなくて、そんなのイヤだよね。
でもでも、今日の僕への接し方を見るかぎり、見るかぎり……それはないとおー思います。
ので、さりげなく聞いてみよう。
まずは練習。
「昨日は街で恣意的子爵御一行に出会ってそしたら美術館にいけなくなっちゃったけど真淵さん提案の癒しはどうだった?」
息継ぎしろ、自分。
どこぞのなろう小説のタイトルですよ。
「水野さぁん~昨日の夜のことなんだけどぉー、なにか僕、やっちゃいましたぁ~」
ないわー。
却下。
「昨日、君の体臭に僕の心は奪われ、脳が麻痺したみたい。だから何も覚えていないんだ……」
自分で言っていてアレなんだけど、最高にキモイ。
確実に鳥肌モノですよ。
コケッコーって。
「水野さん、昨日は途中になっちゃったね。……続き、しよっか――」
おっと、心の声が漏れた。
でも悪くない。
イケメンが言ったらきっと絵になると思う。
でも、どこかしら『欲にまみれた感』があるのは否めなくて、なんの続きなんでしょうね……。
そこを突っ込まれたらなんて答えよう。
これもやっぱりダメだ。
「いいよ……」
えっ!?
グイィンと振り向くと水野さん、扉の前に立ってる。
「いっ、いつからそこに……」
「……」
持ってきてくれたハンドタオルで顔を隠すも隙間から覗く表情は真っ赤になっていて、伏目がちに視線も泳いでいて足をモジモジさせている。
「ごっごめん……」
「……大丈夫だよ、私は」
大丈夫!?
私は!?
えっと、なんて返せば――。
「そそっ、そうだ! リラックスする香りの香水を持っているの。嗅いで……みる?」
あたふたしながらチェック柄のスカートのポケットから小瓶を取り出し、キュッとフタを開けた。
アレ!?
なんだろう!?
なにか……。
デジャブ!?
嗅いじゃいけない――ような気がする――。
なにか心に引っかかる。
根拠はない。
けど、なにかが……。
「ありがとう、水野さん。僕はもう大丈夫だから香水はしまっていいよ」
「なにが大丈夫なの? それよりもちょっと嗅いでみて。いい匂いだよ」
笑みを浮かべながら水野さんは自ら嗅いでみせて「うん、いい香りー」と言って、僕の顔近くに小瓶を近づけてきた。
「香水とかよくわからないし――」
「ふーん、香水はよくわからなくても、体臭はわかるんだ……」
「!」
グハッ。
えっと……。
とてつもなく気まずい……。
どうしよう…………。
「そそそっそう、リラリラッ、リラックスしたいなぁーって、思ってるんだ!」
苦し紛れにそう口にして奪うように香水の入った小瓶を貸してもらい、男らしくグィッと嗅ぐ。
「ダメ! 吸いすぎ!」
「大丈夫、いい匂いだよ。甘い匂いの中にツンとした酸味!?もあってとてもいい匂ィィィ~だおぉぉ~」
ぐわんぐわん目が回りだして小さい頃に遊園地でぇ~回転木馬に乗って酔ったときの感じが襲ってきてぇ、そのままベッドに倒れて、考えが――まとまら……ないぞぉぉぉ。
「もう、即効性だから少しでいいのに」
はぃ!?
「昨日はなんとか容器に入れられたけど、これだとオムツが必要かも。昨日、はじめてだったんだよ。男の人のもの。責任、ちゃんととってね」
はぃぃぃ!?
頭が回って身体がねじれて整理がおいつかなひぃ。
「そうそう、人としてそれはどうかと思うわ。あなたはこの人の所有物なんでしょ? 旦那様の危機をまた、見過ごすの? それとも、私たちの行為を肴に一人気持ちいいことしておしまい? いっておくけど、真淵さんはヨハンさんたちと会議でこの棟にはいない。桃乃ちゃんはいっぱい養分を吸って明日の朝まで起きないし、この棟にもいない」
それだけ言うと水野さんは扉に手をかけ開けた。
鈍くぼやける視界に映ったのは、床にペタッと座り込むツゥルペティアーノさん。
両手をスカートの中に入れ苦しそう。
「こんばんは、可愛い可愛い奴隷――さん」